田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

高倉健 追悼特別展

2017-11-30 22:00:23 | イベント
 あゝ、こういう展覧会の方法があったのか!と得心させてくれる追悼展だった。さすがに映画俳優の展覧会である。会場全体に多数のプロジェクターが配され、高倉健の出演映画のダイジェスト版がいたるところで流されているという展覧会だった。 

                    

 11月29日(水)午前、道立近代美術館において「北海道生涯学習協会賛助会員のつどい」が開催された。
 北海道生涯学習協会の賛助会員とは、公益財団法人である北海道学習協会が団体・個人からの会費や寄付金によって、より多くの充実した事業を行うための会員制度である。いわば北海道生涯学習協会の応援団といったところか。そうした会員のために年に一度のつどいがこの日に開催されたということだ。
 
 今年度は、そのつどいを道立近代美術館で開催中の「高倉健 追悼特別展」に合わせて開催された。
 つどいは、近代美術館の学芸員より特別展の説明をいただいた後、特別展を自由観覧するかたちだった。そして最後には全体で楽しい交流会も実施された。

 学芸員から説明は追悼特別展の開催が東京ステーションギャラリー、北九州市立美術館、道立釧路芸術館、道立帯広美術館、に次いで5館目の開催であるということ、この後には函館での開催が予定されているという説明のほか、高倉健が1955年にデビュー以来205本の映画に出演し、そのうち北海道がロケ舞台になった作品は34本に上ったことなどについての説明があった。

               
               ※ 追悼展はもちろん写真はNGである。追悼展のエントランスは写真可能(?)だった。

 そして追悼特別展の観覧へと移った。
 展示会場に入ると、いきなり映像が流れていた。もちろん、映画ポスターや、使用した脚本、そして高倉健の年譜などが掲示されていたが、何といっても大小のプロジェクターで映像が氾濫(?)しているといった状況がこれまでの展覧会と趣を異にするところだった。
その映像が高倉健の出演した年譜に沿った形で流されていたのだが、初期から中期にかけては東映映画の任侠もの、ヤクザものがほとんど(全て?)といっていいような感じだった。

                    
                    ※ 展示会場の出口に唯一記念写真撮影のための場が用意されていました。

 詳しく調べたわけではないが、おそらく全作品の3/4くらいはそうした作品だったのではないだろうか?何せ映画全盛期ということもあったのだろうが、10年以上にわたって年間10本前後の映画に出演し、そのほとんどがそうした作品だったのだから…。
 そうした作品によって高倉健はスターの座に駆け上った。しかし、一方ではそうした映画に出演し続けることに対して、高倉自身の中に疑問が湧きだしたと何かの本で読んだ記憶があるが、今回の追悼展を見ていて、それは当然の思いだったのではと思われた。

                    
                    ※ 高倉健の代表作の一つ「幸せの黄色いハンカチ」のDVDパッケージです。

 そして高倉は1976年、さまざまな葛藤、軋轢を経ながら独立を果たし、それ以降は高倉自身が納得する作品を選びながら出演するようになっていったようだ。
 高倉健が真の意味で国民的俳優の座を勝ち得たのは、独立を果たした後の映画出演によってではないか、と私は考える。
 私も彼の出演した映画を見だしたのは、独立以降の作品ばかりである。「君よ憤怒の河を渉れ」、「八甲田山」、「幸せの黄色いハンカチ」、「遥かなる山の呼び声」、「動乱」、「駅 STATION」、「居酒屋兆治」、「鉄道員(ぽっぽや)」、「ホタル」、「あなたへ」等々である。

                    
                ※ 美術館売店のところに、これまでの追悼展会場の記念スタンプが置かれていました。

 私にしては珍しく1時間半も展示室内にとどまった。東映時代の映画にはあまり関心ないが、独立以降の作品は懐かしさも手伝い、映像の前に留まって映像に魅入ってしまった。
 高倉健のファンはもちろんのこと、ファンではない方でも一見の価値があるのではと思う。「高倉健 特別追悼展」は来年1月21日まで道立近代美術館で開催されている。




人生を語る

2017-11-29 18:15:02 | 「めだかの学校」関連

 ちょっとオーバーなタイトルかな?とも思うが…。人生60年、70年と生きてきた方々が、自らの人生の中で印象的なことを語る会がスタートした。参加している「めだかの学校」が新しい学びをスタートさせた。

 「めだかの学校」は、今新しい学びを模索している。
 というのも、これまでは「めだかの学校」の会員が企画し、外部に呼び掛けて実施する学習形態が主であった。つまり、映画鑑賞とか、DVDによる世界遺産や日本の近代史を学ぶとか、あるいは市内各所の施設見学などを行ってきた。
 しかし、会員の中から「外へ開くばかりでなく、自分たち自身が学ぶ場があっていいのではないか」という意見が大勢を占めることとなり、今年度後半の下半期は、「古典落語を聴く会」と「自らの人生を語る会」とどちらとも会員限定の学習会を行っている。

 11月27日(月)、その二つの学習会のうちの「自らの人生を語る会」が実施された。下半期ということで、すでに先月も同じものを実施していたが、ブログで公表するのは今回が初めてである。
 この日は、S氏とN氏の発表だった。S氏もN氏も70代後半の方である。
 
 S氏は会社勤めを退職されてすでに16年経過されている方だが、その間実に多くの学びをされていることを発表された。道民カレッジに学ぶだけではなく、通信教育を利用されて、「庭園管理士」、「生涯学習インストラクター」、「生涯学習コーディネーター」、「地域アニメーター」などの資格を次々と習得されている。さらには、地域活動にも積極的に関与され、○○市環境推進員も自ら手を挙げて就任されたり、自治会活動に積極的に参加されたりしていることを語った。
 めだかの学校を通じて、S氏とはすでに3年以上のお付き合いがあるのに、S氏がそうした学びをしていたことを全く知らなかった。大いに刺激を受けたお話だった。

 一方、N氏もS氏と同年代で、やはり会社勤めをされていた方である。
 N氏は、会社員時代に出向の形で3年間にわたって外食チェーン店の事業拡大にかかわった体験を話された。N氏は経営者の片腕となって辣腕をふるったようだ。
 当時N氏は30代後半、安定していた会社員時代に出向した3年間は相当に刺激的な3年間だったようだ。
 外食産業は、今も昔も激しい競争世界である。そこでの体験がN氏には忘れられない日々だったようだ。
 まったくの門外漢である私でも、N氏がはつらつと活躍されていた様子が目に浮かぶようだった。

 前回は、S氏が趣味の「手作りビール」について、F氏が自らの「読書生活」について語った。どちらもこれまでのお付き合いでは見られなかった、それぞれの方の別の一面を伺うことができ有意義だった。

 さて、次回(12月は休みになる)1月は私の発表の番である。
 テーマだけは決めている。「私を培ってくれた欧亜貧乏旅行」と題して、学生時代に体験したのヨーロッパ・中近東・アジア放浪の旅が、その後の私に与えた影響について話してみたいと思っている。内容はまだ煮詰めていない。これからじっくり考えていきたいと思っている。


縄をなう

2017-11-28 19:33:56 | その他
 稲わらで縄をなう、などという経験は今までなかったし、これからもないであろう。そこで「これも一つの体験!」と思い、北海道博物館が主催したワークショップに参加してみた。 

 11月26日(日)午後、北海道博物館が主催する「ちゃれんがワークショップ」(北海道博物館がレンガの壁であること、さらにはそこにチャレンジの意味も掛けてこのような名称になったのではと推察する)で「稲わらで縄をつくって、長なわとびに挑戦!」というイベントがあることを知り、体験してみよう!と思い立った。

 参加者は意外に少なく、20名くらいだった。(定員40名)
 ワークショップは、最初に博物館が所蔵する稲わらを使った各種の生活用具が紹介された。今や博物館や郷土資料館などでしか見られないものばかりだが(ex.ぞうり、わらぐつ、蓑、等々…)、明治初期のころ、北海道で稲作ができなかった頃は、そうした生活用具を作るために稲わらを本州がわざわざ移入していたこともあったという。

               

               

 さて、肝心の「縄をなう」ことへの挑戦である。
 最初に、一人一人に稲わらを一束ずつ渡された。
 その稲わらの、茎の部分を包んでいる鞘葉を取り除く作業があった。後で分かるのだが、この作業を丁寧にやらないと縄の出来上がりに差が出てきてしまう。
 次に、茎全体を柔らかくして、縄をないやすく(編みやすく)するために、木槌でもって叩いて柔らかくする。茎が乾燥している場合は霧吹きなどで水分を加えながら茎を叩き続け柔らかくする。

               

 そしてここからがいよいよ「縄をなう」段階である。
 指導する学芸員の方が、全体を見渡して1/3程度参加していた小中学生に対して「子どもたちは直ぐできます」、「大人の半分くらいはなんとかできるかな?あとの半分はもしかすると難しい」と参加者の挑戦意欲を煽った。
 「縄をなう」方法は言葉では示さなかった。学芸員の方の後ろ側に回って「ともかく、私を見ろ」という指示である。学芸員の縄をなう様子を見ていると難なく編み上げていく。
 その姿を目に焼き付け、見よう見真似でやってみると、理屈は理解できていないのだが、なんとなく様になっていた。それを見た学芸員さんは「ハイ、合格です!」とお墨付きを与えてくれた。

 その方法を文字面(もじづら)で表現することは私にはとてもできない。そこでウェブ上で表現されていたものを拝借して紹介する。
 ◎縄のない方
  ①3本ずつ2組とります。(太い縄を作るには本数を増やす)
  ②2組のわらを手のひらで挟み
  ③手のひらをこすり合わせるように(右腕を前方に出す)して、2組のわらをおなじ方向にねじります。
  ④そのまま前方に出した手で外側のわらを内側に移動させます。
  ⑤ ③と④を繰り返すと縄が出来てきます。

               
               ※ 指導された学芸員の慣れた手つきです。

となるのだが、体験したことのない人は、これだけの説明ではきっと訳が分からないと思われる。

 要領を会得すると、あとはひたすら同じ動作を繰り返すのみである。長い縄を作る場合は、途中でわらを継ぎ足していかねばならないのだが、その方法もなんとか会得した。
 私は継ぎ足しながら、私の身長ほどの長縄を編み、長縄跳び用に供出した。
 そしてまた新たにもう一本編んで自分用とした。

               
               ※ 私が編んだ縄です。わらの継ぎ足しの部分などはまだまだです。

               
               ※ 編んだ縄をアップしてみました。

 さらに、学芸員の方が「玉じめ」(というらしい)のようなものを作っていたので、それを真似たものも作成してみた。

                    
                    ※ 学芸員の真似をして作った「玉じめ」もどきです。

 2時間があっという間に過ぎたように感じた。
 しかし、縄を上手になうためには、中腰で縄の一方を足で押さえて編み続けることが求められる。これが高齢者にはなかなか辛い。体の痛みに耐え、汗をかきながら編み続けた。
 それでも、自ら手足を使って学ぶワークショップは、なかなか楽しいものだと気付いた。
 当初予定にはなかったのだが、2週間後に予定されている「絵馬づくり」にも参加してみようかな?と思い始めている。

               
               ※ ワークショップの最後は、長縄にして縄跳びを楽しみました。


今期のボランティア終了!

2017-11-27 21:32:45 | ボランティア
 今期の道立近代美術館前の歩道の清掃、並びに花壇の維持管理にかんする活動を11月1日をもって終了した。そして11月20日(日)に今期の反省交流会 & 忘年会を行い、8年目を迎えた今期の活動のすべてを終了した。


               
               ※ 私たちが活動する美術館前の歩道は写真のように高い木の葉が覆いかぶさっています。
 
 「近代美術館の前庭の緑に癒され、楽しませてもらっている私たちです。そんな私たちがいわば勝手に美術館周辺の美化に取り組みませんか?」という呼びかけから始まった私たちの活動も今年で8年目を迎えていた。
 今年も春から2週間に1度の割り合いで、早朝6時に集合し、歩道の清掃や花壇の維持管理の活動を続けてきたが、雪が歩道を覆うようになり、今期の活動を終了することとした。その数、今年は計16回に達した。

               
               ※ 初夏にはポプラの木が大量の綿毛を降らせます。それを防ぐためART文字にはネットをかぶせます。

 会員はサポート会員(実際の活動には参加しないが、会費を納入し、会報を読んでくれている方)を含め18戸が加入している。コアメンバーは7人くらいで、一度の活動には7~10人の方々が参加してくれている。
 高齢とはいえ、日常の起床時間はけっして早いといえない私はにとって、活動日の前日は寝坊しないようにと、けっこう緊張している。
 そして、朝早く会員が三々五々集まり交わす挨拶がなにより心地良い。

 私たちが活動している近代美術館前の歩道は、美術館前庭の高い木が歩道を覆うように葉を繁らせている。だから、年中、掃いても掃いても直ぐに枯れ葉や落ち葉が歩道を舞ってしまう。「まったく、やりがいのある歩道ですねぇ」と言いながら、一瞬の美を求めて掃き続けている。

               
               ※ 毎回の活動前の歩道の様子です。

               
               ※ 活動後、写真のように一瞬の清々しい光景に変わります。

 今年は今までやりたいと思っていながらできなかったお酒を伴った交流会を2回も実施することができた。一つは「往く夏を惜しむ会」、そしてもう一つが「反省交流会 & 忘年会」である。全員参加とはいかなかったが、新たな交流の場ができたことは嬉しいことだった。

               
               ※ 今年夏の行った「往く夏を惜しむ会」の様子です。

 私たちの会も課題は、会員の高齢化である。活動に参加される方の数も、体力的な問題もあって徐々に減ってきているのが現状である。
 「いつまで続けられますかねぇ」というのが正直な気持ちである。会員間では「せめて10年目まで頑張りましょう」と話し合っている。
 若い方の参加を待ち望んでいるのだが、思うように参加してはくれないのが現状である。
 私自身は身体の動くかぎり頑張りたいなぁ、と思っている今日このころである…。

               
               ※ 冬間近、雪害から守るためART文字を描くクサツゲの枝を縛ります。

映画 199 不都合な真実 2 ~放置された地球~

2017-11-26 20:44:24 | 映画観賞・感想

 前作から10年を経過しての続編である。前作が地球温暖化による惨状を次々と映し出し、私たちにショックを与えたが、本作ではそれから10年間で地球はどうなったのか。そして地球上の二酸化炭素削減に執念を燃やすアル・ゴア氏(元米国副大統領)の姿を追い続ける構成となっていた。 

                 

 11月23日(木・祝)の午後、ディノスシネマズ札幌で封切なったばかりの「不都合な真実 2」を観た。
 前作「不都合な真実」はドキュメンタリー作品としては異例のヒットを記録し、多くの人々に衝撃を与えた。そしてそれに出演したアル・ゴア氏は地球環境問題における功績によりノーベル平和賞を授与された。(私は前作は2度観たが、そのレポはこちら⇒ 2007/12/8  2008/2/20 )
 そのことで環境問題は改善されていくかに思われたが、状況は悪化の一途を辿っていると映画は告発する。

 アル・ゴア氏は言う。「この10年間は挫折の連続だった」と…。
 まず大統領選挙において、不可解な集計結果もあり、ブッシュ氏に敗北したことで、アメリカの環境問題は後退してしまう。
 さらには、「不都合な真実」で告発した内容は欺瞞や誇張に満ちたものだとのネガティブキャンペーンに晒された。
 その後、オバマ大統領の登場によって状況はやや好転したかに見え、2015年にはゴア氏の舞台裏での懸命な活躍によって110の国々の批准によって「気候変動抑制に関する多国間の国際的な協定」(いわゆるパリ協定)が発効した。
 しかしそれもつかの間、トランプ大統領の登場によってアメリカはパリ協定からの離脱を宣言してしまう。
 というように、ゴア氏は何度も何度も挫折を味わいながらも、その歩みを止めようとしない。

            

 映画では、ゴア氏が世界を飛び回り必死の形相で人々に環境問題を訴え続ける。
 そこまで彼を突き動かすのは何か?ウェブ上で彼が語っていることを転写する。
 「私は、今やっていることが本当に光栄、名誉だと感じています。私にはすべてのエネルギーを注ぎ込むものがあるんです。自分がやるべきことだっていう強い意識を持っているので、疲れを知らないのです。仕事をすれば、するほど、エネルギーが戻ってきて、喜びを感じています。『炎のランナー』の主人公であるランナーは、『走ると神の喜びが与えられる』と言っていましたが、まさに私もそれを毎日感じています」と…。

 今回の映画でも地球温暖化によると思われる豪雨、酷暑、台風、大洪水など例証が数多く映し出されたが、私が最もショックを受けたのはアイスランドの氷河が溶けて崩れ落ちるとき噴煙(水煙?)を各所で上げている光景だった。(いわゆる良く見られる海中に崩れ落ちていく光景ではなく、氷河上の各所で起こっているのだ)

            

 ゴア氏にとってライフワークでもある地球温暖化阻止の闘いは、これからもまだまだ続くのだろう。
 地球温暖化に対してトランプ大統領に代表されるように懐疑的な考え方が存在するのも確かではあるが、多くの科学者が肯定し、しかも統計的にも温暖化が進行していることが明らかなことから、二酸化炭素の排出による温暖化は疑いのない事実だと思われる。
 数々の挫折にもめげず、自らの信念に従い突き進むゴア氏の姿勢に共感するとともに、心からのエールを送りたい。


介助マスターへの道

2017-11-25 21:52:14 | 講演・講義・フォーラム等
 いろいろな講義を受け続けていると、テーマによって自分事として受け止められないテーマのときはどうしても講義の内容が自分の耳に入ってこない場合がある。そうしたことがこれまでもけっこうあったが、今回の場合もその典型のようなものだった…。 

 11月19日(日)、これまでもスケジュールさえ合えば受講していた札幌西円山病院が主催する「地域で暮らす高齢者のための医療公開講座」があった。
 テーマが「介助マスターへの道(その1)~食事動作と排泄動作~」というものだった。
 私の場合、私の両親も、妻の両親もすでに他界していて、当面のところ介助を必要とする人もいないこともあり、「受講しようか、どうしようか?」という思いもあったが、知識として持っておいて損はない、との思いから受講を決めた。(まあ、近い将来私たち自身の問題でもあるし…)

               
               ※ 講師を務められた作業療法士の伊藤隆氏です。とても分かりやすい講義だった。

 講座は予想どおりのものだった。
 つまり、食事動作編においては、障害の程度に応じて介助する方法や認知症の介助の方法などについて、細やかな留意点が示された。
 排泄動作編においても同様であった。排泄の場合は、特に障害の程度によって介助の仕方に違いがあることを学んだが、私にとっては切実感に乏しいものだった。

 そのような講義の中で、「嚥下」のメカニズムについての説明が興味深かった。
 嚥下は実に複雑なメカニズムで行われていることに改めて驚いた。嚥下は「先行期」、「準備期」、「口腔期」、「咽頭期」、「食道期」を経て、飲食物が胃に送られていること知った。
 特に「咽頭期」の段階で「咽頭蓋」の存在が重要であることを知った。しかし、それを私たち人間はコントロールすることはできない。老化によって、「咽頭蓋」が上手く機能しなくなったとき、肺炎などの恐れが出てくる。私たちが嚥下障害に陥らないためには「先行期」、「口腔期」を改善すべしとのことだったが、詳しくは教えていただけなかった。
 敢えて言えば、噛み砕きやすいもの、一口の量をよく考えて、そして良く噛み砕く習慣をつけるということだろうか?

               
               ※ 実習を担当された言語聴覚士の櫻井貴之氏です。

 楽しい実習があった。何というお菓子だったか、その名称は忘れたが、全員が同じ小さなお菓子を何回噛んで飲み下すことができるか、を試された。私は残念ながら平均よりは数多く噛むことでようやく飲み下すことができた。
 また、パン粉が渡され、それを水分無しで飲み下すことができるか、試された。誰一人水分無しで飲み下すことができなかったのは言うまでもない。食物の嚥下には適度な水分が必要なことを改めて教えられた。

               
               ※ 会場には食事の介助を補助するための用具が並べられていました。

 それにしても、札幌西円山病院の講座でいつも思うことだが、講師を務める(今回は作業療法士の伊藤隆氏だった)スタッフの方々の用意周到な準備ぶりには頭が下がる。
 札幌西円山病院の講座では、医師の方々より、今回のように作業療法士とか、理学療法士、薬剤師、社会福祉士など病院スタッフの方々が講師を務める場合が多いようだ。きっと彼らにとっては貴重な研修の場になっているのかもしれない。
 これからもできるかぎりこの病院の講座には参加したいと思っている。

北海道は多文化共生時代になった?

2017-11-24 19:17:21 | 大学公開講座
 講師は「北海道は多文化共生時代に入った」というが、「えっ?そうなの」という思いと、確かにある一面では「そういうことも言える時代になったのかなぁ…」という思いが交錯したひと時だった。 

 11月16日(木)夜、北大観光学高等研究センター(CATS)の公開講座の第2講が開講された。
 この夜は「多文化共生の視点からデスティネーション・マネジメントを考える」と題してバイチャゼ スヴェトラナ助教が講師を務めた。

 バイチャゼ氏はメモができなかったのだが、ロシア系の小国の出身の方と聞いた。氏は、移民の教育やアイデンティテイと言語、多文化共生などを専門領域とする研究者だった。
 氏は最初に、今回の連続講座の共通テーマである「デスティネーション・マネジメント」について、「多様な関係者の連携によって、観光による地域創生」と定義づけたのちに講義に入っていった。

               
               ※ 北大に学ぶ外国からの留学生たちです。

               ※ 本日の写真はウエブ上から拝借しました。

 バイチャゼ氏は、道内における三つの事例を取り上げ、北海道が多文化共生時代に入ったと論じた。その三つとは…。
 一つが、札幌における留学生の急増を挙げた。
 二つ目は、ニセコにおけるオーストラリア人などのニューカマーの人たち。
 そして三つめが、中国・サハリンからの永住帰国者の存在を挙げた。

 バイチャゼ氏によると、札幌市における外国人留学生の数は総数1,450人だそうだ。その8割はアジア地域の出身者で、今後も増えることが予想されるという。
 また、ニセコに居住するオーストラリア人や、仕事目的で来道した外国人労働者も増えつつあるという。氏によると、そうした労働者も含めて北海道に在住する外国人は25,000人だという。
 さらに、中国・サハリンなどからの永住帰国者であるが、これについては具体的数字はあげられなかったが、それほど多い数字だとは私は認識していないのだが…。

               
               ※ まるで外国のスキー場のようですが、外国人向けに英語表記されたニセコのスキー場です。

 確かに一昔前から見ると、外国人の数が確実に増えていることは事実である。しかし、よく言われるように我が国は外国人の移住・移民に関してはハードルが高いと言われている。そういう状況の中でも、確かに本州の一部の地域では多文化共生が課題となっている地域もあると聞く。それらと比べると、北海道の場合はそれほど顕著な事象があるとは思われないのだが…。“備える”という意味においては必要なことだと思うが…。

 さて、氏の現状認識とデスティネーション・マネジメントがどう結び付くのか。その点に興味をもって講義を聞いたのだが…。
 氏はニセコに来るオートストラリア人のうち、働く目的をもって来た人たちは、冬はスキー場で活躍できるが、夏に働く場がなく困っているという。こうした外国人に対して、積極的に援助の手を差し伸べること、このことがデスティネーション・マネジメントの一つではないか、とされた。

 聞いていた私には、ちょっと肩透かしを食ったような思いだったが、地域が変化していく中で、そのことにどう対応し、どのような視点に立って地域づくりをしていくべきか、を問われたときにバイチャゼ氏が提起した課題は、「備えあれば、憂いなし」ということを暗示していたのかもしれない…。
 

映画 198 この世界の片隅に

2017-11-23 21:56:56 | 映画観賞・感想

 映画を観終わったとき、この映画はけっして声高ではなく、静かに観客に反戦を訴える映画だと思った。日本中のどこにでもいるような主人公の浦野すずの日常を描きながら、戦争に翻弄されてしまったすずを通して、戦争のむなしさ、はかなさを静かに訴えた映画だった。 

               

 11月18日(土)午前、札幌プラザ4・5で開催されたチャリティー映画会に参加した。
 この映画そのものは昨年末に公開され、評判になった映画(アニメ)と聞いて観てみようと思い立ったのだった。
 公開後一年が経過したというのに、映画館はほぼ一杯になるほどで関心の高さがうかがえた。

 ストーリーは、「1944年広島。18歳のすずは、顔も見たことのない若者と結婚し、生まれ育った江波から20キロメートル離れた呉へとやって来る。それまで得意な絵を描いてばかりだった彼女は、一転して一家を支える主婦に。創意工夫を凝らしながら食糧難を乗り越え、毎日の食卓を作り出す。やがて戦争は激しくなり、日本海軍の要となっている呉はアメリカ軍によるすさまじい空襲にさらされ、数多くの軍艦が燃え上がり、町並みも破壊されていく。そんな状況でも懸命に生きていくすずだったが、ついに1945年8月を迎える。」
(Yahoo映画のあらすじを拝借)

 リード文でも触れたが、すずは日本中のどこにでもいるごく普通の庶民的な女の子であり、主婦だった。世の中のことにも疎く、貧しいながらも懸命に生きていた。
 しかし、戦争は次第に劣勢となり、すずが暮らす街も戦火にさらされるようになり、身内が亡くなったり、すず自身も右手を失った。そして広島に原爆が落とされ、敗戦。

 それまで正義の戦争と信じていたすずは、戦争というものが市井の人を殺したり、傷つけたりする暴力にすぎなかったことに気づき、怒りと悲しみを爆発させるのだった。
 そのようなつらい体験を経ながらも、すずは戦争で犠牲になった人たちのためにも生き抜くことを決意する。
そして、夫周作とはいろいろあったけれど、この世界の片隅で自分を見つけてくれたことに感謝するすずだった…。

               
               ※ ポスターの前に立つ、すず役の声を担当したのんさんです。

 私はこの作品の良さを十分に感じ取るだけの感性を持ち合わせているとは思っていないが、観終わった後になぜかじわーっとくるものがあった。
 話題の一つとなっていたすずの声を担当したのん(能年)の声もはまり役だったように思えた。


大谷大講座「オペラの楽しみ」

2017-11-22 20:16:12 | 大学公開講座
 オペラなんて、私の柄にはまったく不似合いである。そう自覚しながらも“怖いもの見たさ?”で公開講座を受講してみた。演目はプッチーニ作曲の「ジャンニ・スキッキ」結果? う~ん。やっぱり私にはちょっと合っていないかな? 

 市内の大学は公私立問わずに積極的に公開講座を開講してくれて、私のようなものにとっては嬉しい限りである。
 札幌大谷大学もその例にもれず、数多くの講座を用意してくれている。
 大谷大は私のところから遠く、交通の便も良くないためにあまり触手は動かないのだが、この「オペラの楽しみ」は私には縁遠いものであったことが、かえって私の好奇心に灯を付けた形で受講を決めた。

               
               ※ 公開講座が開講された札幌大谷大の視聴覚室です。

 講座は少し前のことになるのだが、11月11日(土)午後、大谷大の視聴覚室で実施された。オペラはやはり一般人にとっては敷居が高いのだろうか?募集人員80名に対して、受講された方は20名程度だった。
 
 講座はまず大谷大の芸術学部音楽学科の則竹正人教授による解説から始まった。
 紹介によると則竹教授は札幌のオペラ界では知る人ぞ知る存在の方だそうだが、私にとっては初見の人であった。
 プッチーニはオペラ「蝶々夫人」を作曲した人として有名だが、この日の演目「ジャンニ・スキッキ」は、プッチーニの後期に作られたオペラ三部作の一つで、プッチーニが作曲した唯一の喜劇としても知られているオペラだそうだ。

               
               ※ オペラの解説をする大谷大音楽学科の友竹正人教授です。

 この「ジャンニ・スキッキ」を講座の演目として選んだのは、三部作の中では最も人気が高く、喜劇ということで初心者には親しみやすいと考えられて選定したということだった。

 約20分間の則竹教授の解説の後、フイルム(DVD?)が上映された。
 事前にストーリーを解説したものが配布され、画面には日本語訳が表示されていたこともあり、まったくストレスなしに楽しむことができた。
 ストーリーはイタリアのフィレンツェを舞台にした遺産相続をめぐる親類同士の醜い争いを面白可笑しく描いたものであった。

               
               ※ オペラ「ジャンニ・スキッキ」の舞台の一場面。ウェブ上から写真を拝借した。

 約50分間の上映を終え、それなりに楽しめた50分間だったが、「今後も積極的にオペラを楽しみたいか?」と問われたとしたら「?」というのが正直な気持ちだろうか?
 本来、クラシックやオペラに全く素養のない私には、どうしてもその「良さ」を感得することができないのだ。
 まあ、それでも今回のように専門家が解説する形のものであれば、機会があれば参加してもいいかな?と思えた講座だった。

札幌歴史散歩 11 中央区・創成川・鴨々川地区(2)

2017-11-21 16:59:29 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 「鴨々川」は、幌平橋付近の豊平川から分流して流れる創成川の上流ススキノの南7条までの約2.5kmの流路が蛇行している部分を指しているということだが、歓楽街ススキノや中島公園を通っているため歴史的にも興味ある流れだった。 

                    

 最初に掲載した古地図は1881(明治14)年に作成されたものだが、右側に見える豊平川の太い流れから、分流して蛇行しながら直線路の創成川に繋がっている様子が分かる図である。
 その鴨々川を跨ぐように楕円形に描かれているのは、中島遊園地(現 中島公園)にあった競馬場を表している。(古地図中央下部)

 創成川の直線路を遡ってきた川は、「南6条橋」を過ぎると、折れ曲がって住宅街の方へ折れ曲がった。

               
               ※ 「南6条橋」まで真っすぐに伸びてきた創成川は、写真右の南6条橋を過ぎると写真上のほうへ折れ曲がっていた。

 ⑩街区に合わせてできた河道 

               
               ※ いかにも人工川といった趣きの鴨々川は写真の上で直角に左に折れています。
 かつて豊平川から分流して自然に流れていた鴨々川だったが、街として整備するために川は街区に合わせて整備された。その結果、川は鉤十字のように直角に折れ曲がりながら流れるようになったようだ。そのように河道が変えられたのは大正14年頃といわれている。

 ⑪水路の形を残す千両小路 

               
               ※ 「千両小路」の入り口ですが、突き当りから左へ路が曲がっています。

               
               ※ 路を折れ曲がると、今も営業を続ける割烹「川喜」の立派゛な建物がありました。
 南7~8条の西3丁目付近にあるこの小さな小路は、札幌には珍しい“鉤の手”の形に折れ曲がっている。かつてはこの通りに沿って水路が流れていたそうだ。その界隈には水辺を借景として「千両」という割烹をはじめとしてたくさんの店が軒を並べていたそうだ。
 今回、私が訪れた時も由緒ありそうな割烹が営業していた。

 ⑫コイの越冬地 
 
               
 昭和55年頃から鴨々川に架かる「南8条橋」付近の流れの中に錦鯉が放流されるようになったようだ。平成18年に川底を一部掘り下げて「越冬池」を造成したことにより、毎冬に行っていたコイの引っ越しをしなくてもよくなったという。

 ⑬水天宮 

               

               
 私はこれまでこのお宮の存在を知らなかった。それもそのはず、中島公園と鴨々川を挟んで目立たないところに建っている小さな佇まいの神社である。
 この神社は、明治10年、渡道した旧久留米藩士によって、九州久留米水天宮本宮から分霊されたそうだ。1885(明治18)年鴨々川に祀られ、その後現在地に社殿が建立されたとある。
 この神社はその名の通り、「水」に関する神社で、水のパワースポットとして知られているそうだ。

 ⑭水天宮裏の道

               
               ※ 写真の中の車が左方向へ進もうとしているのがお分かりと思います。
 この道は札幌市内では珍しくゆるやかに湾曲した細い道である。昔の川の流れに沿って造られた道のようだ。そのことは明治時代の古地図にも描かれており、札幌の中心街へと通じていたそうだ。

 ⑮中島橋 

               

               
               ※ 「不老松」の横に立っていた副碑と石灯篭です。
 現在では鴨々川に架かる橋は多数あるが、明治時代(明治22年)の古地図を見ると、この中島橋が唯一の橋だったようだ。当時は中島遊園地への正面入り口だったという。
 木製の橋であるところに由緒ある橋の面影を残している。

 ⑯豊平館

                
 こちらは私が語るまでもない札幌の代表的歴史的建造物である。
 中島公園の一角に建つウルトラマリーンブルーが印象的な洋館である。開拓使の“洋造旅館”として1880(明治13)年に創成川沿いの大通西1丁目に建てられたが、1958(昭和33)年に現在地に移築されたそうだ。建物は国の重要文化財に指定されている。

 ⑰不老松 

                    

                    
 中島橋から鴨々川沿いに通っている道路を遡っていくと、一本の大きなクロマツが立っている。かつてこの辺りには料亭「鴨川」と池泉回遊式庭園があったそうだ。その庭園のシンボリックな松だったこともあり「不老松」と命名されたのではと推測される。

 ⑱鴨々川の吐口工 

               
       ※ 鴨々川の「吐口工」は創成川のものと違い水平に置かれていました。この季節は流量が少ないと見え「吐口工」から水は吐き出されていませんでした。
 不老松を過ぎると、鴨々川は中島公園内へと入っていく。そしてちょうど現在の札幌コンサートホール「キタラ」の近くのところに鴨々川の「吐口工」が見える。創成川に設けられていたものと同じ目的で、中島公園内を流れる鴨々川の流れを親水公園とするために流量の調節ができるようにした施設である。

 ⑲競馬場の仮橋跡 

               
 その「吐口工」の近くにある橋が「競馬場の仮橋跡」である。中島遊園地内に競馬場を造成するにあたって、鴨々川の流れの上にコースを造成しなくてはならなくなって、仮橋を造ったということだろう。その痕跡(例えば案内板など)が残っていないかと探したが、残念ながら発見することはできなかった。なお、現在の橋は「白鶴橋」と称され、1996(平成8)年に完成したものだという。

 ⑳ひっそりたたずむ祠

                
 中島公園を離れ、中島庭球場の横を通り、ベーカリーレストランとカフェの駐車場の奥に札幌軟石で造られた小さな祠がある。伏見稲荷の分祠だそうだ。
 この辺り一帯は豊平川の氾濫原を物語るように起伏に富んだ地形がみられる。

 ㉑鴨々川の分水施設

               
               ※ ちょっと見にくいですが、右側の柵のところから水が取り込まれるようです。 
 地下鉄「幌平橋」の近く、豊平川沿いに建つマンションを横目に200mほど進むとこの施設が目に入る。
 先の「吐口工」まで分水して導水管で導き、鴨々川の流量を調節する分水施設である。
 
 ㉒創成川樋門 

               
 分水施設のすぐ近く、豊平川の堤防に建つ樋門である。
 豊平川から取り込んだ水を創成川(鴨々川)へ流すための施設の一つであると説明されている。位置としては鴨々川の最上流部にあり、増水のときはゲートを閉めて水害を防ぐ役目をするという。

 以上、二日間にわたって創成川、鴨々川の歴史的な史跡と現代の施設が混合するルートをレポしてきたが、札幌市の中心部にこのような興味ある散歩道が存在することが嬉しい。
 今回私は創成川から鴨々川の上流部へと遡るコースを取ったが、反対に地下鉄「幌平橋」で降り立ち、川の流れに沿って創成川に下り地下鉄「大通駅」から帰路に就く、というコースもある。

 これまで11回にわたり「札幌歴史散歩」と題してレポしてきたが、その目的は第一義的には私自身が楽しむことであった。しかし、もう一つの目的は「もし、高齢者を案内するとした場合、はたして体力的に無理はないだろうか?」という観点からの下見的要素もあった。そうした意味では収穫の多い「札幌歴史散歩」だった。
 札幌もとうとう雪が降り、冬の季節が到来した。「札幌歴史散歩」は一時お休みし、季節が良くなった再開したいなぁ、と思っている。

 
※ 昨日の投稿は何らかの原因でうまく投稿できなかったようです。本日再投稿しましたので、興味ある方は開いていただけたらと思います。