田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

オヤジたちの修学旅行 〝北の龍馬館"

2016-10-10 21:25:13 | 札幌(圏)探訪
 今回のオヤジたちの修学旅行の主たる目的は、あくまで「日本一終発の早い駅」からの乗車体験をすることだった。しかし、それだけでは味気ない。浦臼町が今なお日本人の心をとらえて離さない坂本龍馬との関わりが深い町であることから、「北の龍馬館」を名乗っている浦臼町郷土資料館を、途中下車して訪れることにした。 

                    
               ※ 資料館を訪れたところ、写真のようなポスターが貼ってあり、特別展開催中だったのは幸運だった。

 「浦臼町郷土資料館」はJR浦臼駅から徒歩5分程度のところに、浦臼小学校に隣接するようにして建っていた。ちょっとした体育館のような建物の前には「北の龍馬館」と記した幟が数本風にはためいていた。
 入館料は無料である。館に入ると、入り口に「土佐から浦臼へ 〝北の龍馬″たち展」というポスターが掲示されていた。ちょうど特別展が開催中という幸運に恵まれた。

               
               ※ 浦臼町郷土資料館の外観です。

               
               ※ 管理人手作りの資料館名の表示板だそうです。

 そもそも、浦臼がなぜ坂本龍馬との関わりが深いのかについて、坂本家の家系図をもとにを、私なり理解したことを、誤解を恐れずに龍馬を中心に整理してみることにした。

                    
                       ※ 最も簡素化され、理解しやすい坂本家の家系図ではと思われます。

 坂本龍馬が海援隊を組織していたころ、北海道に渡って理想の国づくりを夢見ていたことはよく知られている。
 結局、龍馬は大政奉還を果たした後に、新政府樹立に奔走する中、志半ばで近江屋事件に巻き込まれ敵の刃に倒れてしまったのだが…。

 坂本龍馬には、妻お龍はいたが子どもはいなかった。しかし、明治新政府誕生の立役者であった龍馬に対して、政府は朝令(綸旨 りんじ と称するようだ)でもって、坂本家に対して坂本龍馬家の存続を命じた。
 そこで、龍馬の姉・千鶴の長男だった太郎を龍馬家の養子として迎え、坂本直と名乗らせた。直は留と結婚し、長男・直衛を設ける。

 一方、坂本本家の方も男性の跡継ぎがなかったために、これも龍馬の姉・千鶴の次男の習吉を坂本直寛と改名して坂本本家の養子としている。(直寛は龍馬の甥にあたることになる)
 この坂本直寛が、龍馬の志を継いで1897(明治30)年に北海道に渡ったのだ。
 直寛は最初は北見の地に開拓に入るのだが、その後浦臼に移住して開墾に努める。そこへ坂本直が亡くなり、未亡人となった留と息子の直衛を連れて、直寛を頼って浦臼に移ってきた。
 その後、直寛はクリスチャンとして旭川に布教活動のため転居するが、留と直衛は浦臼に住み続け、浦臼で亡くなったことで、二人とも浦臼町の墓地に眠っている。留と直衛は龍馬の直系にあたるため、浦臼町の墓地には「坂本龍馬家の墓」という掲示板が立っている。

                    
             ※ 資料館内には坂本直の大きな写真が掲示されていました。(この写真はウェブ上から拝借)

 以上が簡単な概略であるが、そうした経緯から浦臼町郷土資料館は「北の龍馬館」を名乗っているということである。
 
 さて、肝心の資料館の展示であるが、それほど多くの資料が展示されていたわけではない。貴重な資料としては、高知県立坂本龍馬記念館から借り受けたという坂本龍馬直筆の手紙が一通展示されていた。また、複製ではあるが筆まめであった龍馬の長々とした長文も展示されていた。
 その他には、坂本直寛が愛用した「眼鏡」とか、坂本直が使用した「たばこ入れ」などが展示されていた。また壁一面に一家を挙げて浦臼へ移住する坂本家一族の大写しの写真が目を引いた。

 展示品の撮影は禁じられていたため、ここに掲載できないのが残念である。

               
               ※ 最後に管理人の許可を得て、一枚だけ展示室の外の写真を撮らせてもらいました。

 資料館は小さな施設であるためか学芸員もいない施設だが、管理を担当していた方が大変地域の歴史に詳しい方で、いろいろと説明していただき、見学がより豊かになった思いだった。
 龍馬には直接関係なことだが、以前に私が浦臼町内のフットパスで訪れたときに、浦臼町内には札比内、晩生内、於札内、そして浦臼も以前は浦臼内と称していたと聞いた。このように「内」が付く地名が多いことについてお尋ねした。すると「ナイ」とは、アイヌ語で「川のあるところ」と意味するとのことだった。
 浦臼町内には、小さいけれど川がたくさん存在するということだった。

 わずか1時間強の滞在だったが、浦臼町と坂本龍馬との繋がり、あるいは浦臼町の生活史に触れることができた貴重な体験だった。