私はこれまで何度同じ図を見てきたことだろう。各種の講座の度に日本を取り巻くプレートの図を何度も見てきたが、今回の講師の小野名誉教授も提示しながら日本の地盤の脆弱さを指摘した。
北大の公開講座「東日本東北沖地震と北海道」の第2回講座は「福島第一原発事故とこれから ~泊原発を考える~」と題して小野有五名誉教授が講義を担当した。
小野名誉教授は冒頭次のように私たちに語った。
「私は泊原発の廃炉を目ざして活動しています。本講座ではなぜ廃炉を目ざすのかを科学的な側面から説明します。私の主張を押し付けるつもりはありませんが、皆さんがこのことについて考える材料にしていただければと思います」
何度も見せられた地球上のプレート分布図であるが、世界広しといえども4つものプレートが交錯しているのは日本だけである。そしてそのプレートの境目で地震が多発していることがよく分かる。図の中で赤い点は地震の発生回数を表すのだが、日本周辺は点ではなく線というか、帯状になっていて世界でも最も地震の多発地帯であることがよく分かる。
こんな地震多発地帯に日本は50数基もの原発を有しているのである。
※ この図はよく目にされたと思います。これがSPEEDIが予測した放射性物質の飛散状況の図です。
そして小野氏は日本の政府・企業の隠ぺい体質を非難した。
勉強不足の私は初耳だったが、震災前から文科省にはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)という放射能物質の拡散状況を予測するシステムが存在し、実際に予測していたという。ところが政府はその予測を公表しなかったために、多くの住民が放射能物質の飛散方向に避難してしまったという事態が起こったという。
また、現在においても収束の見通しさえ立たない福島原発事故についても、東京電力は都合の悪い情報を次々と隠し、隠しきれなくなると渋々公表に踏み切るということを繰り返していると小野氏は指摘します。
そして泊原発についてだが、泊原発が位置する日本海東縁は北アメリカプレートとユーラシアプレートがぶつかり合う境界である。この南北に延びる一帯は地質学的な歪みが集中している地帯だという。この線上では、新潟県沖から北海道西方沖までマグニチュード7規模の地震が線上に発生していて、泊原発のある日本海でいつマグニチュード7規模の地震が起きてもおかしくないという。だから小野氏はそんな危険なところにある泊原発は廃炉にすべきだと主張します。
私はこの問題について、当初は未知なこともあって態度を鮮明にできないでいたが、いろいろな方のお話を聴いたり、報道を耳にし、深くは理解できないながらも「再稼働や新規増設は有り得ない」とブログ上でも表明した。また、それが日本の全体的な空気だとも思っていた。
ところがここにきて、泊原発をはじめ各地の原発の再稼働が話題となり、国内の空気もそれを容認するような雰囲気になってきているようだ。その根底にあるのは経済大国日本の再生のためということのようなのだが…。
私たちは今回の福島原発事故から学んだのではなかったろうか? 私たち人間にとって制御不可能な原子力からは遠ざかるべきではないか、と…。
今日聴いたジャーナリストの大谷昭宏氏言葉が耳に残る。「ヒトから水と空気を奪う災害は他にはない」…。
※ 話題の振れ幅が大きくて申し訳ありません。しかし、これが田舎おじさんの現実です。
バレーボールに格別の関心があるわけではないが、札幌で世界の強豪たちの試合を生で観戦できるとあって「北海きたえーる」(北海道立総合体育センター)に赴いた。
二日目の日本は五輪チャンピオンのブラジル相手ということで勝利の可能性は小さかったのだが、私のスケジュールがこの日しか空いていないこともあり観戦を決めた。
※ 日本 VS ブラジル戦の模様です。中央の2階席に空席が目立ちますが貴賓席のようでした。
試合は私の予想どおり0対3の完敗だった。日本は善戦したものの、ブラジルのパワーバレーに圧倒されたという印象だった。
その試合を観戦していて不思議に思ったことがあった。
ブラジルが2セットを連取した後、選手たちがコートを後にしたのである。つまり試合の途中でインターバルを取ったのだ。
※ ひと際大きくて目立ったセルビアのブラコチェビッチ選手、196cmだそうです。
私は「えっ?」と思った。
というのは、第1試合のアメリカ VS セルビア戦も、第2試合のイタリア VS 中国戦もそうしたインターバルを取ることなく試合を終えていたのだ。
「いったいこれはどうして?」という疑問が残った。会場内への説明も一切なかった。
※ 日本チーム主将の木村沙織選手がサーブを打とうとしている瞬間です。
腑に落ちない思いを抱きながら一夜明けたのだが、どうしてもその謎に私はこだわった。
そうして今日、私は「日本バレーボール協会」に直接問い合わせの電話を入れた。すると窓口の女性が「試合では2セットを終えた後にインターバルを入れることになっている」という回答だった。「えーっ、ということは私の記憶違いということか?」
回答の女性が自信をもってそう言い切るのを聞いて、納得できなかったが電話を切った。
※ 日本チームのホープ、セッターの宮下遥選手がトスを上げる瞬間です。
「どうも納得できない」そう思った私は、今度は会場の「北海きたえーる」に電話した。お門違いかとも思われたのだが、電話に出た男性職員が「関係者に問い合わせて、回答する」という親切な対応を取ってくれた。
10数分後、かかつてきた電話によると、「日本戦の場合はテレビ放送の時間との関係でインターバルを取ったそうです」との回答だった。
※ 試合中に濡れたコートを試合を止めることなく素早く拭き終える補助員の動きは特筆ものです。
私の記憶に違いがなかったことにホッとしながらも、「えーっ、そんなことありなの?」というのが率直な感想である。スポーツにおいては全ての参加者(チーム)が同一のルールの上で行う、と私は理解していた。この場合、直接の対戦者同士である日本とブラジルの間に取扱いの差はないが、他の4チームとの間には明確な違いがある。
そうせざるを得なかったのはテレビ局の事情という要素が加わったことによるものということなのだが、そんなものなのかなあ??
近年は放映権料の問題もあり、スポーツ大会におけるテレビの影響力のことが取りざたされ、オリンピックの競技開始時刻もテレビ側の都合で決められるというようなことを耳にしていたが、今回もテレビ側の事情がそうさせたようだ。
おそらく、大会の特別規定のような形で処理されたのだと思われるが、なんだかスポーツの本質が歪められているような気がしてしまうのだが、どうなのだろうか?
※ 日本チームの試合中、ずーっと声を出しっぱなしで場内の応援をリードし続けた熱烈応援席です。
話題変わって、3試合を観戦していて面白いことに気付いた。
それは中国チームの郎平(ろうへい)監督のことである。
郎平といえば、1980年代の中国女子バレーを強力なスパイクを武器に牽引し黄金時代を創った人物として知られている。(オリンピック、世界選手権、ワールドカップと全てを総なめにした)
その後指導者に転じて、1996年のアトランタ五輪において中国代表監督として銀メダルに、さらには2008年の北京五輪ではアメリカ代表監督として銀メダルに導き、指導者としても超一流の監督である。低迷する中国女子バレーのために今年4月に再度中国代表監督に就任した人物である。
※ 椅子に座ったまま鋭い眼光で試合を凝視続ける郎平監督です。
その郎平監督のベンチワークが他国の監督とは明らかに違っていたのだ。
他国の監督は、日本の眞鍋監督も含めて全てが試合中はコーチングライン(? コートの横に線が引いてある)のところに立って指揮をしている。中には選手と共に闘うという姿勢を見せているかのように大きな動きをする監督もいる。
※ 日本チームの眞鍋監督はいつものようにコートサイドに立って指揮しました。
ところが、郎平監督一人だけはベンチの椅子にどっかりと座ったままけっして動かないのだ。表情もずっと観察していたが、中国チームの得失点にもまったく表情を変えない。「動かざること山の如し」といった感である。
もちろんタイムアウトのときには選手の輪の中に入り指示を発していたし、試合も後半に入ると座ったままで選手に指示を出していたようだが…。その態度はあくまで堂々としていたように私には映った。
※ タイムアウトの際に選手に指示する郎平監督です。
このような郎平監督の一見落ち着いた采配ぶりはチームにどのような影響を及ぼすのだろうか? 1日目、2日目と苦しみながらもセルビア、イタリアと撃破した中国チームは今大会でブラジルと優勝を競い合う存在としてクローズアップされてきたように思われる。
※ 満員ではなかったですが、ご覧のようにたくさんの観衆が詰めかけていました。
遊水公園なのに水がない!? 水がなくて遊水公園などと呼称できるのか? 不思議に思った私は管理人室のドアを叩いた…。それにしても暑い日だった。
「妹背牛町カーリングホール」の横手に大きな公園が造られている。「遊水公園うらら」という。ひろびろとした公園は遊水公園というだけあって、公園の中を水路が縦横に走り、一角にはプールなどに見られる水が流れる滑り台も見られる。
ところが!! そこに水が一滴も見られないではないか! これはどうしたことか!? 遊水公園の名が泣くではないか!
不思議に思った私は公園の一角にあった管理棟のドアを叩いた。そして「なぜ遊水公園と言いながら水がないのか」と訊いた。するとそこにいた係の人が「9時30分になったら水が出ますよ。節電に努めています」という答えだった。
つまりこの公園の水はポンプで水路に水を巡らしているということのようだ。時計を見ると9時15分だった。私はフットパスウォークを終えた後、もう一度来てみることにしてウォークを続けることにした。
※ 一滴の水も見えない遊水公園内の施設です。
遊水公園を出ると、あとはひたすら水田地帯を歩くだけだった。マップを見ていただいても分かる通り、水田地帯を方形にルートは造られていた。
ルート横には道内有数の米どころらしく、収穫した米を乾燥・貯蔵する「カントリーエレベーター」が大きな壁画とともに聳え立っていた。
どこまでも続く水田地帯、アスファルト舗装の照り返しがきつい。持参の水筒の水がどんどん減っていく。
どこの水田地帯を見ても、水利施設が整っているのが印象的だ。もちろん妹背牛の水田地帯にも滔々と水が流れる水路が走っていた。
※ 用水路には滔々と水が流れていました。
※ こちらは用水路ではなく水田地帯を横断するように流れる「芽生川」の流れです。
コースはやがて道道47号線に出て、妹背牛市街地を目ざす。
市街地近く右手に学校が見えてきた。生徒玄関のシャッターが下りていた。2009年に閉校してしまった妹背牛商業高校の校舎だと近くにいた人から聞いた。妹背牛商業高校というと名伯楽の吉野監督が女子バレーボールを全国優勝に導いたことのある高校である。社会教育の仕事をしていたとき、吉野監督を講演会に招請したことが懐かしく思い出される。
※ どことなく寂寥感を醸し出す旧妹背牛商業高校の校舎です。
※ こちらはまだまだ現役の妹背牛小学校の校舎です。
街に入ったが閑散としていた。お盆休みのせいだろうか?それとも暑さのせいだろうか?
歩道に点在するフラワースタンドがユニークである。中に植えられているインパチェンスが美しく咲き誇っていたが、地域の住民の方々が一生懸命お世話していることがうかがえた。
そして道道47号線を右折し、ゴールのJR妹背牛駅を目ざすのだが、その通りの正面にとんがり屋根のかわいい建物が目立つ。初め見たときはこの建物が駅舎かと思ったが、そうではなく「妹背牛幼稚園」の建物だった。
ゴールの妹背牛駅はその幼稚園を左手の曲がったところにあった。
ところで「遊水公園うらら」だが、ウォークを終えた後、車で再び訪ねてみた。すると公園には管理人が言うとおり水が流れ、暑い日だったこともあって多くの親子連れが訪れ、水が流れる滑り台は大賑わいだった。
ところがその他の水路はというと、相変わらず水は流れていなかった。やはり節電のため公園全体に水を流すことは止めていたようだった。
この時節、仕方のないことかなぁ~。
※ 再び遊水公園に行ってみたところたくさんの子供たちが水と戯れていました。
※ 一方で、同じ公園内でも他のところは相変わらず水は流れていませんでした。
《フットパスウォーク実施日 ‘13/08/16 距離約7.8㎞》
恵みの大地散策ルート
ひたすら平坦な町・妹背牛町、という表現がぴったりするほど凹凸のない大地が広がっていた。それは北海道の米どころ北空知を代表する光景でもあった。
8月15日、北竜町のサンフラワーパークホテル(北竜温泉)に一泊した私は、翌16日北見へ向かう前に妹背牛町のフットパスルートを歩くことにし、スタート&ゴール地点のJR妹背牛駅に向かった。
妹背牛駅はお世辞にも立派な駅とはいえない駅舎(以前は事務室なども備えた駅舎があったようだが、無人化とともに簡素な駅舎に建て替えられたそうだ)だった。駅の周辺も閑散とした感じが寂しかった。以前はどの町でも駅を中心にして街が形成されていたものだが、時代の移り変わりとはいえ寂しいかぎりである。
この日、駅前を8時40分にスタートしたのだが、すでに夏の陽が照り付け気温も相当に上がっていた。駅の横には往時は大活躍したであろう石造りの倉庫群が並んでいた。現在はどの程度使用されているのだろうか?(何せ妹背牛駅は貨物取り扱いが中止されたという)
続いて駅からほど近いところにある「妹背牛神社」の横を通り、街中を抜け「郷土館」へ向かう。この郷土館は昭和6年に建築された「妹背牛町役場」の前身だそうである。フランス風デザインの流れを汲んだ建築物ということで保存され、内部を資料館として活用しているようである。時間が早かったため内部の見学はできなかった。
ルートは「妹背牛中学校」の横を通り、妹背牛の中心街からはやや離れたところに立つ現役の「妹背牛町役場」の庁舎に向かう。
※ 妹背牛中学校の校舎です。
※ こちらは妹背牛町役場の庁舎です。
役場庁舎を回り込んだところに石碑が立っていた。さすが米どころ妹背牛町である。「水稲発祥の地」と刻字された石碑だった。
そして妹背牛町役場の脇を通り「妹背牛町カーリングホール」の前に出る。遠くから眺めただけだがなかなか立派な施設のようだ。夏期間は氷を張っていなく、室内体育館的に利用されているようだ。
少しコースからは外れるが、妹背牛町役場の横には「妹背牛温泉ペペル」がある。私が人生の大半を過ごした網走管内(現オホーツク管内)もそうだったが、各自治体がほとんどといって良いほど公営温泉を開設していた。空知管内も同様のようで、これまで巡ってきた沼田町、秩父別町、北竜町と各自治体が温泉を開設していた。それだけ日本人は温泉が好きだということなのだろう。また、自治体の首長としては地域住民の福祉施策として公共温泉の開設は必須事項なのかもしれない。
コースはこの後、妹背牛町の目玉の一つ(?)「遊水公園うらら」へ向かう。ここで今どきならではの話題に出会った。(後編に続く)
北海道立総合研究機構では研究成果の一端を市民に公開する「ランチタイムセミナー お昼の科学」を毎月一度、道庁の1階ロビーで開催している。
今月23日(金)は第37回目のセミナーとして「部屋の空気はきれいですか? ~シックハウスにならないために~」と題して、林産試験場の秋津裕志研究員が講演を行った。
秋津氏お話で「へぇ~」と思ったことがあった。それは人間が外部から摂取する全物質の57%が室内空気だと指摘した点だった。その摂取量が食べ物や飲み物などをはるかに凌駕していることを初めて知った。だとすると、シックハウス症候群に悩まされている人たちにとっては深刻な問題である。
シックハウスを引き起こす代表的原因物質にホルムアルデヒドがある。このホルムアルデヒドは建築用材である合板の接着剤として多用されたため、新築住宅などに入居した人たちがシックハウス患者となる例が多いようだ。
また、外気との室内の空気が断絶される高気密・高断熱の建築物が原因物質を容易に拡散させずに室内に留まり続けることもシックハウス患者の多発を生んでいるとのことだ。
最近はホルムアルデヒドなどの原因物質の規制がかなり厳しくなったと秋津氏は話したが、それでもなおシックハウス症状を訴える人は後を絶たない状況だということである。
このことは、研究者にもいまだ知られていない原因物質がまだまだあるということによるということだった。
快適な住まいを求めた結果、その構造と建築用材のために病を発するという皮肉な現象が起こっているが、今のところ対策はそうした建築物に近寄らないという方法しかないそうである。
セミナー参加者の中に新築住宅を購入しながら、シックハウス症状が発症したために、その住宅に住めずにいるという方がいらっしゃったが気の毒というほかない。
研究の進展によって原因物質の解明を進めると共に、人間が被害に遭わなくて済むような用剤の開発に努めてほしいものである。(素人ゆえの勝手な願い?)
それにしても、道総研のランチタイムセミナーは私にとってほど良い長さのセミナーである。セミナーの時間帯が12時05分~55分までと50分間というのが有り難い。このくらいの時間だと私の集中力も持続してくれる。
あまり得意とは云えない科学の話であるが、分かりやすく説いてくれるこのセミナーをできるだけ受講したいと思う。
講師の渡邉教授は主張する。「災害遺構」は残すべきだと…。「災害遺構」を残すことによって、観光の振興に寄与すると共に、災害防止や災害教育にも役立てることができるという。一方で東北沖大地震の現地では災害遺構の撤去を決めたところもあるという…。
北大大学院の地球環境科学院が主催する公開講座『東日本東北沖大地震と北海道』を受講している。8月21日から9月25日まで6回の講座が予定されている。
先日21日(水)、その第1回講座「観光産業への被害と観光のこれから」と題して、地球環境科学研究院の渡邉悌二教授の講座が行われた。
講座は大震災によって東北の観光産業が大きな被害を蒙ったことや、日本各地にある津波災害から住民を護る避難看板の問題点などについての紹介があったが、ここでは「災害遺構」の在り方についてレポートすることにする。
今、大震災のあった東北地方では災害遺構を残すべきか、撤去すべきか、各地で論議となっているようだ。つい先日も陸地に打ち上げられた船舶が住民の70%の賛成によって撤去されることが決まったと報道されていた。
渡邉氏はそうした動きに疑問を呈する。確かに住民の方々にとって遺構は辛い記憶を思い起こす構造物であるかもしれないが、そこを乗り越え残すことに大きな価値があると主張します。
災害の記憶は、膨大な書籍、映像、パネルなどによって保存することはできるが、災害の爪痕を現地で実際に見るのとではそのインパクトに大きな違いがあると氏は主張します。
そして氏は「洞爺湖有珠山ジオパーク」の例をあげられた。洞爺湖有珠山ジオパークは私も実際に訪れたが、有珠山の噴火によって地表がうねり、建物が破壊された現状がそのまま残され、それを目の当たりにしたとき、火山エネルギーの凄さ、恐ろしさに衝撃をおぼえたものである。
氏はそうした災害遺構を保存・展示することによって「学びの観光」となるばかりでなく、将来の防災・減災に役立てることができたり、防災教育の教材にも成り得ると言います。講義を聴いていた私は「負を転じて、それを活かす」視点におおいに共感を覚えた。
しかし、甚大な被害を蒙った東北の人々はそのトラウマがあまりにも大きく、まだそうした視点にはなかなか立てない現状のようである。
はたして東北において「災害遺構」が今後どのようになっていくのか、私も注目していきたいと思った。
シャガール展を今頃?と思われる向きもあるかもしれない。何せシャガール展は今日が最終日だったのだから…。近所に近美があっても、私にとって絵画は猫に小判なのである。
観賞する予定はなかったのだが、友人のS氏からチケットを譲っていただき、最終日になってようやく重い腰を上げたという次第だ。
シャガールというと、パリのオペラ座の天井画が有名である。その天井画に取り組んだ際の下絵が20数枚も展示されていたのが印象的だった。
※ パリ・オペラ座の天井に描かれたシャガールの天井画です。
また、鉛筆画の単調な下絵が続いて展示されていたこともあって、その後に展示されていた「音楽の勝利」と題する、赤を基調とした絵が新鮮に私の目には飛び込んできた。
しかし、大多数はシャガール独特の描き方の人物画が多く、素養のない私には退屈であった。
※ シャガール1966年制作の「音楽の勝利」です。
その中で、「シャガールを巡る旅」と題する映像が大画面で映写されていた。天井も含めて4面画像で映写されるオペラ座の天井画やサンテティエンヌ大聖堂のステンドグラスの映像は迫力があり、臨場感あふれるものだった。
午後からの音楽界も知人のK氏の紹介によるものだった。(K氏がチケットを安く手配してくれた)
「ドイツの森」と題して、ドイツの作曲家の曲の演奏会だった。今回が13回目ということだったが、今回は「ベートーヴェン」と「R.シュトラウス」の曲が演奏された。
ピアノ小泉香織さん、ヴァイオリン高杉奈梨子さん、ソプラノ陣内麻友美さんのトリオによる演奏会だった。
※ 渡辺淳一文学館の外観です。
三人とも札幌において精力的に演奏会を行っている中堅の音楽家のようだ。札幌における音楽的なポジションがどれくらいなのか、私にはまったく分からないが、その演奏会の回数から想像するには相当の実力の持ち主たちであることは間違いなさそうである。
演奏された曲目は次のとおりである。
◆ベートーヴェン ◇遠くからの歌(ソプラノ、ピアノ)
◇ロンド ハ長調 作品51-1(ピアノ)
◇ヴァイオリンソナタ 第7番 ハ短調 作品30-2
第1楽章、第2楽章、第3楽章、第4楽章
(ヴァイオリン、ピアノ)
◆R.シュトラウス ◇5つの小品 作品3より(ピアノ)
◇私の心は浮かぶ 作品48-2(ソプラノ、ピアノ)
◇「乙女の花」作品22より(ソプラノ、ピアノ)
1.矢車菊 2.けしの花
◇明日 作品27-4(ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノ)
※ 演奏会場となった渡辺淳一文学館の地下にある小ホールです。
一つだけ感想めいたことを述べて、この項を閉じたい。
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタのときだった。ヴァイオリンとピアノの掛け合いのような演奏が面白いと思った。時にはお互いが囁くように、時には叫びあうがごとく、二つの楽器が奏でる音の饗宴を面白く感じた。あるいはそのあたりが室内楽の楽しみの一つなのかもしれない。
二つとも受動的な参加ではあったが、それなりに心が満たされたカルチャーサンデーだった…。
フットパスの話題が続き拙ブログをお読みの皆さまには食傷気味なのではとの思いから、少し別な話題をレポートしてみようと思った。
8月22日(木)、以前から計画されていた市立大通高校の「桑園地区連携ミニ大通クリーンアップ作戦」が実施された。
私は以前からミニ大通の美化に関わっていた関係から、市立大通高校のこのボランティア活動に協力することとなった。というより、大通高校がボランティア活動の対象を検討していた時に積極的にミニ大通の美化についてお願いした立場の一人だった。
ご存知かと思いますが、大通高校は三部制の定時制高校です。つまり、午前部、午後部、夜間部と生徒が三分されている。今回のボランティア活動にはこの三部の一年生約300名が参加してくれることになった。各部のスケジュールは、
午前部は1・2校時の授業を終えた後の10:25~11:55(3・4校時)
午後部は5・6校時の授業を終えた後の15:20~16:50(7・8校時)
夜間部は9・10校時の授業を終えた後の19:40~21:10(11・12校時)
となっていた。
私は全ての回に参加し、作業の要領について生徒さんたちに説明する役割だった。
ミニ大通は西11丁目から17丁目まで全部で7ブロックある。場所によって状況が大きく違っていた。西11~12丁目はふだんから地域住民の方々が美化に努めていることもあり、散策路にほとんど雑草など目立たない。そこで今回は13丁目以降を重点的に取り組むことにした。
生徒さんたちは手に手に軍手を付け、作業に使う移植ゴテを持って集まってきてくれた。
クラスごとに作業範囲を指定して取り組んでもらった。一生懸命取り組む子、そうでない子、作業の様子は様々だったが、総じてみんな真面目に取り組んでくれていたように思う。
夜間の部は暗くて作業は無理なのではと思われたが、街灯の灯りを頼りに他の部と同じように取り組んでくれた。
そして総勢300名余りで取り組んでくれた結果、時間の関係で全てを完成することはできなかったけれど、かなりの散策路の雑草を除去することができた。願わくば、高校生の行為を目にした周辺住民の方々が引き継いでくれることを願いたいと思う。
ところで、午後の部の終了に際して担当の先生から突然「講評を」と要請され、まとまりも十分でないまま生徒さんたちの前でお話してしまった。
突然の要請だったこともあり、私はついつい本音に近いことを話してしまった。そのことを私は反省している。特に「一生懸命頑張って人も、そうでなかった人もごくろうさま!」と言ってしまった。「そうでなかった」などとは失礼な言い方だったと思った。
そこで改めて担当の先生に本意ではなかった旨のメールを送り、次の文章を添付した。
市立札幌大通高校のみなさんへ
一生懸命頑張った人も、そうでなかった人も、どうもご苦労さま!
あれっ?おじさん今ちょっと失礼なことを言ってしまったかな?今日のボランティア活動で頑張らなかった人なんていないよね。それぞれ自分なりに一生懸命頑張ってくれたんだよね。失礼なことを言ってしまってごめんね。
ところでおじさんは今日みなさんと一緒に活動していて、自分の高校時代を振り返っていました。「自分は高校時代にこうしたボランティアの経験などあったろうか?」と…。しかし、いくら考えてみてもそうした経験など思い出せませんでした。
その点、みなさんは私などより早い時期に素晴らしい経験をしているんだなあ、と考えていました。
みなさんはまだまだ若く、今は自分のことに集中し、自分を高めるために毎日毎日一生懸命に生きてほしいと思います。
そんな日々の中で、ちょっと心に余裕ができたときに、他人のことや自分が住んでいる地域のことについてちょと考えてみませんか。そして自分にできることで、他人や地域に役立つことはないだろうかと考えて、実際に行動に移してみませんか?
どんな小さなことでも、自分が他の人の役に立つということは、私はカッコいい生き方だと思います。そう考えて私も今実践しているつもりです。
今回は授業の一環でしたが、みなさんは貴重な経験をされました。この貴重な経験をぜひ今後に生かしていってほしい、とおじさんは強く願っています。
今回はミニ大通に美化にお手伝いいただき、本当にありがとうございました。
各自治体において魅力あるフットパスルートを設定することはなかなか難しいことだと想像される。北竜町の後半のルートは少々苦し紛れのルート設定と思えたのだが、実際はどうなのだろう?
「眺望の丘」からの眺望を楽しんだ後、急な坂を下り、水田が広がるあぜ道を「金毘羅公園」を目ざしてのウォークが続いた。
あぜ道には朝まで降っていた雨が道の凹んだところにまだ溜まっていた。ルートは水田の用水路沿い続いていたが、用水路の水が勢いよく流れていた。その水の様子を見ると、本州などで水不足が言われているのに比べ、けっして雨が多い今年の夏だったわけではないのに水が豊富な北海道を実感した。
※ 朝降った雨水が溜まったあぜ道を行きます。
※ さすが北竜町です。ちょっとした休耕畑にもひまわりが植えられていました。
※ ジャリ道の脇には水田に水を導く水路に水が勢いよく流れていました。
誰一人として行き交う人のいない田舎道を淡々と歩く。やがて目ざしていた「金毘羅公園」に着いた。マップの説明では四季折々の美しい風景が楽しめる公園とあるが、私が訪れたときは緑一色で長い距離を歩いて訪れるだけの価値のある公園かというと疑問符を打たざるを得ない。しかもその公園をUターンしてほぼ同じルートを折り返すのは辛い。ほぼ同じルートを淡々と歩いた…。
北竜町のフットパスルートの距離は約10.8㎞である。
私は想像する。空知総合振興局から各市町村の担当部局に「各自治体で距離10㎞前後のフットパスコースを設定してほしい」と要請があったのではないだろうか。その他にもさまざまな縛りがあったと予想される。
その要請に応えるために各市町村の担当者はいろいろと苦慮されたうえで自市町村のコースを設定していったものと思われる。北竜町の場合、まずはひまわり畑(ひまわりの里)を見てもらおう、ということが浮かんだはずである。それに加えてルート全体を10㎞前後としたときに今回のようなルート設定に至ったのだろう。
北竜町のことについて全く知識のない私が言うべきことではないのかもしれないが、「金毘羅公園」を往復するルートの代案はなかったのだろうか?秩父別町のフットパスルートを巡ってきた後だったこともあって、そんなことが頭の中をよぎった。
※ 手前の道を往復し、右手の道に折り曲がり進みます。カーブミラーの下にルートの案内表示が見えています。
そんなことを考えているうちに、ひまわり畑(ひまわりの里)の表側、ひまわり観光センターのところに至った。ちょうどひまわりが満開の時期で、しかもお盆の休み時期ということもありたくさんの観光客が訪れていた。そこから見た130万本といわれるひまわりの花たちはいっせいに私の方を向いてくれているような気がした。
※ ひまわり130万本が花開いた壮大な眺めです。
※ トラクターが引く観覧車がひまわり畑を巡ってくれるようです。
※ 三台の水車が回る絶好の撮影ポイントということです。
たくさんの観光客の中で、ウォーキングスタイルの私はちょっと周りから浮いた感じもしたので、写真を撮った後そそくさとひまわり畑を後にした。
続いて、最近はどこの町でも見事に整備されているパークゴルフ場を横目にしながらゴールの「道の駅 サンフラワー北竜」に急いだ。
ゴールでは龍の形をした「北竜門」が私を迎えてくれた。
※ 広々としたグリーンが広がるパークゴルフ場です。
※ パークゴルフ場の横には足に優しいゴム製の通路が敷かれた遊歩道がありました。
※ ゴールでは「北竜門」が迎えてくれました。
ひまわりを意識したわけではなかったが、ちょうどひまわりの満開時に北竜町のフットパスをウォーキングできたことはラッキーだったと言えよう。
北竜町のフットパスルートには秩父別町のものよりは少し小ぶりな案内表示が要所要所に設置されていて安心して歩くことができた。さらには、担当者がタート地点にまで来てルートの説明をしてくれるという新雪を受け、忘れられない町となった。
私はこの日(8月15日)、沼田町、秩父別町、北竜町と三つの町のフットパス合計距離約31.5㎞を歩き少々疲れた。その疲れを北竜町温泉でゆっくりと癒した私だった。
《フットパスウォーク実施日 ’13/08/15 距離約10.6㎞》
ひまわりの里散策ルート
「ひまわり」をマチづくりの中核に据える北竜町のルートは、ひまわり畑(ひまわりの里)を後ろから、前から眺めるルートだった。町の担当者の親切な対応も印象に残る北竜町だった。
今回の北空知のフットバスウォークをするにあたり、私は事前に当該の町の担当部局に連絡を入れ、ルートの概要や留意点を取材することにした。というのも、このそらちフットバスで最初に訪れた栗山町でマップに記載されていたルートが現地へ行ってみて初めて閉鎖していたという事態に遭遇したために、その二の舞を避けたかったからだ。
北竜町の担当部局は教育委員会だった。担当者に連絡を入れると「北竜町へ来たら、役所にお出でいただくか、連絡を入れてほしい」と言われていた。
※ このルートのスタート&ゴール地点であり、私がこの日宿をとった道の駅とホテルが併設された「サンフラワー温泉」の建物です。
私はこの日(8月15日)三つ目のフットパスをスタートさせようと「道の駅 サンフラワー北竜」から教育委員会に電話を入れ、ルートのことを改めて尋ねた。すると、担当者がわざわざスタート地点まで来てくれるということになった。恐縮である。
というのも、マップを見ていただければ気が付くのだがマップの中に「眺望の丘」というのが2ヵ所あるのだ。私がその「眺望の丘」のことについて聞いたからだった。
町の人たちにとっては「眺望の丘」というと、私が向かう眺望の丘ではなく、もう一つの丘を指すのだというややこしい話だった。
※ 丁寧に説明に来ていただいた教育委員会の担当者です。
おーっと、なかなかスタートできない。担当者は私がルートを正確に回ることができるかどうか心配しているようだった。ただ、案内表示は完備しているという。私は担当者にお礼を言いつつスタートした。
最初は水田地帯が広がる中を歩く。わずかに傾斜した土地には棚田状に造成された水田が広がっている。
※ 北竜町もコースの要所要所にはご覧のような案内表示が立てられていました。
※ 米どころ北空知を象徴するような光景です。
やがてルートは「いちいの森」というところに誘う。通称オンコという立派な古木が立ち並び、散策路には歌碑がたくさん立てられていた。
※ たくさんの立派なイチイの木が見られた「イチイの森」ですが、逆光だったようですね。
そしてルートは北竜町が力を入れているひまわり畑(ひまわりの里)の裏側に回り込むように設定されていた。その路はひまわり畑の北西にあたるためひまわりの花が後ろを向いているのが残念だったが、後で南東側からも見ることができるので我慢しよう。
※ 有名な北竜町のヒマワリ畑を裏側から見るルートです。
ひまわり畑を過ぎると、車両通行禁止の脇道に入る。この脇道は整備が行き届いていなく雑草が繁茂しており、ハーフパンツで歩くには厳しかった。雑草が繁茂していたことでルートもはっきりしなかったが、ところどころに立てられた案内表示に助けられた。
※ 脇道に入ると写真のような雑草が目立つコースになったな、と思っていたら…
※ これは大変!ハーフパンツじゃ厳しい!コースでした。
※ 雑草通りを過ぎたら、個人の農家が養魚場のようなため池を造成していたようです。
車両が通行できない脇道を抜け、急な坂道を上ったところが目ざしていた「眺望の丘」だった。
※ 「眺望の丘」に登る途中に写真のような「縁結びのイチイ」と題したイチイの木がありました。
※ 「眺望の丘」からの眺望です。
(後編に続く)