北海道の冠婚葬祭、あるいは年中行事は明治の開拓期に本州各地から移殖した人たちによって、さまざまな形で引き継がれ今に至っているという。今に伝わる冠婚葬祭や年中行事についての源流を調べている研究者からお話を聞いた。
一昨日(7月25日)午後、連続受講している札幌市民カレッジ「先日たちのさっぽろ物語」の第三講があり受講しました。
第三講目のテーマは「移住者の文化のその後」~年中行事と冠婚葬祭を聞き取る~と題して、北海道博物館学芸員の尾曲香織氏からお話を聞きました。
一昨日(7月25日)午後、連続受講している札幌市民カレッジ「先日たちのさっぽろ物語」の第三講があり受講しました。
第三講目のテーマは「移住者の文化のその後」~年中行事と冠婚葬祭を聞き取る~と題して、北海道博物館学芸員の尾曲香織氏からお話を聞きました。

尾曲氏はまず、ご自分の研究分野である「民俗学」について触れました。
氏によると「民俗学」とは、人のくらしを見つめるもので、「俗」という言葉に象徴されるように、合理的でない、身近なあれこれ、権威や公式的な制度からは距離があるものであり、地域社会固有の文化を調査研究する学問であるとされました。
そして、北海道における文化の形成の特徴について話を進めた。
前述したように北海道は明治期に入り、本州各地からの移住者(移殖者)が相次ぎました。その中でも、青森、秋田、新潟、富山、石川などからの移住者が多く、特に青森、新潟などは5万戸近い移住者に上ったそうです。それらの人たちはもともと住んでいた地域の文化を携えて移住してきました。
その代表例としてお正月にいただく「お雑煮」の違いです。
尾曲氏が紹介してくれたものを拝見すると、出身県によって「雑煮」は千差万別で、使用する味噌も違えば、具材もまちまちです。
しかし、今はどうでしょうか?私の家でもお正月には妻がお雑煮を作ってくれますが、そのルーツがどこなのか判然としません。つまり、移住から何世代も経た現在では、純粋に出身県のお雑煮の形が継承されている方が珍しいことなのかもしれません。

※ 全刻各地のさまざまなお雑煮です。
上記の「お雑煮」の例にみられるように、移住元の文化が引き継がれている例もあるかもしれませんが、多くはさまざまな要因から変化し続けているのが現状のようです。
その例として、尾曲氏は「お葬式」の変化を取り上げました。
新十津川町では、移住元であった奈良県十津川村では土葬が一般的だったため、移住当初は死者を土葬していたそうですが、衛生問題などがあり火葬に変化していった例を挙げられました。
また、私も初めて耳にした葬儀の後に行われる「マナイタ直シ」という風習です。この風習は、かつて葬儀は同じ集落内の数軒から数十軒の組や町内会などで相互に手伝っていたいました。その際にお手伝いいただいた方々を葬儀の後に労う会が催されることがあったそうです。その会のことを「マナイタ直シ」と称したそうです。
現在では、業者の手による葬儀が一般的となり、そうした風習も過去のものとなってしまったようです。
さらには「結婚式」の姿も当時とは大きく様変わりしました。
明治期からしばらくは、会場は結婚する男性の家が会場となって、近隣の女性たちによる手伝い、あるいは若者たちによるいたずらなど、近所の人たちが関与する形だったそうで、婚家の負担も相当だったようです。
ところが、大正時代以降、凶作や世界恐慌などの影響から、苦しくなった国民生活を改善するためのさまざまな取組み(ex.「民力涵養運動」,「農山漁村経済更生運動」,「生活改善運動」など)によりその姿を大きく変えてきました。
その中から生まれてきたのが、北海道独特の「会費制結婚式」といえるでしょう。
上記の「お雑煮」の例にみられるように、移住元の文化が引き継がれている例もあるかもしれませんが、多くはさまざまな要因から変化し続けているのが現状のようです。
その例として、尾曲氏は「お葬式」の変化を取り上げました。
新十津川町では、移住元であった奈良県十津川村では土葬が一般的だったため、移住当初は死者を土葬していたそうですが、衛生問題などがあり火葬に変化していった例を挙げられました。
また、私も初めて耳にした葬儀の後に行われる「マナイタ直シ」という風習です。この風習は、かつて葬儀は同じ集落内の数軒から数十軒の組や町内会などで相互に手伝っていたいました。その際にお手伝いいただいた方々を葬儀の後に労う会が催されることがあったそうです。その会のことを「マナイタ直シ」と称したそうです。
現在では、業者の手による葬儀が一般的となり、そうした風習も過去のものとなってしまったようです。
さらには「結婚式」の姿も当時とは大きく様変わりしました。
明治期からしばらくは、会場は結婚する男性の家が会場となって、近隣の女性たちによる手伝い、あるいは若者たちによるいたずらなど、近所の人たちが関与する形だったそうで、婚家の負担も相当だったようです。
ところが、大正時代以降、凶作や世界恐慌などの影響から、苦しくなった国民生活を改善するためのさまざまな取組み(ex.「民力涵養運動」,「農山漁村経済更生運動」,「生活改善運動」など)によりその姿を大きく変えてきました。
その中から生まれてきたのが、北海道独特の「会費制結婚式」といえるでしょう。

※ 以前は、写真のように婚家で結婚式・披露宴が行われていました。
ここに挙げた例だけではなく、私たちの中で行われている年中行事や冠婚葬祭の姿は、さまざまな要因によって大きく変化を遂げて、今の姿になったようです。
だからこそ、現在の姿のルーツである元々の姿を記録として止めることが重要であると尾曲氏は力説したものと受け止めました。尾曲氏たち「民俗学」研究者の活動を応援したいと思います。
ここに挙げた例だけではなく、私たちの中で行われている年中行事や冠婚葬祭の姿は、さまざまな要因によって大きく変化を遂げて、今の姿になったようです。
だからこそ、現在の姿のルーツである元々の姿を記録として止めることが重要であると尾曲氏は力説したものと受け止めました。尾曲氏たち「民俗学」研究者の活動を応援したいと思います。
これらの北海道カルチャーも少しずつ内地(すみません、昔の表現)に近づきつつあるようにも感じますが、今も披露宴は会費制が主流なんですか?
10年ほど前、札幌で教え子の結婚披露宴に出ました。こちらからの参加者は、指定の金額を御祝儀袋にきっちり入れて出していましたが、札幌人は裸のお札で釣りをもらっている人も(笑、私は中間、封筒に指定金額)
私は北海道カルチャーのほうがずっと合理的と思います。祝儀はいくらにしようかで悩み、偶数(2万円や4万円)はダメだの新札mustという内地の風習はバカみたい!
北海道はそもそも内地(今でもお年寄りの方々はそのように称しますね)からの移住者たちの手で開拓された地ですから、内地の文化・風習が残っている場合が多いということが今回の講座でも知ることができました。
その中で、会費制結婚式は内地の風習にとらわれることなく、簡素化・合理化を進める中から生まれたものと思われます。
私が子どもの頃は、まだ内地の風習も残っていたように記憶していますが、私が成人したころは完全に会費制結婚式となっていました。
そしてその形は現在もそのまま継承されていますね。
本州の結婚式のことを伺うと、北海道の会費制結婚式の在り方のの有難さを感じてしまいます。