田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

河崎秋子著「愚か者の石」

2024-08-31 16:03:00 | 講演・講義・フォーラム等
  河崎作品は本作で3作目なのだが、前2作とは、読後の印象がやや違ったのだが、それは私一人だけの勘違いなのだろうか?

    

  私にとって河崎作品の前2作とは、直木賞受賞作の「ともぐい」と、デビュー作の「颶風の王」の2作である。
 その2作と比して、どうも今ひとつ読後の感想に差を感じたのだが、その因を考えてみたい。
 前2作と「愚か者の石」の違いの一つに物語の背景の違いがあるような気がしている。前2作の「ともぐい」や「颶風の王」の主たる背景は道東である。さらに題材がかたや熊撃ち、かたや馬を扱う農家である。いわば河崎さんにとってはホームグランドにおいて物語が展開するために、河崎さんは縦横にペンを奮われた感がある。
 それが本作においては、明治期の月形町の「樺戸集治監」という監獄の中が舞台である。河崎さんはかなり克明に取材を重ね、臨場感たっぷりに描写されているのだが、今ひとつ私の意表を突くような表現とか、展開は見られなかったかな?という思いを抱いた。

      

 ただ、物語の後半の後半において、意外な展開に導いていくところは流石に河崎流である。私が河崎作品に接したのはまだわずかの3作である。河崎作品を云々するのは早すぎるのかもしれない。
 積極的に河崎作品に当たっていきたいと思っているのだが…。

映画 堂々たる人生 No.379

2024-08-30 09:04:00 | 映画観賞・感想
 良くも悪くも“裕次郎” である。1961年制作というから、62年前の映画である。裕次郎27歳の映画であるが、裕次郎にとってはデビュー後47作目の主演映画である。今の人が観れば突っ込みどころ満載であるが、当時、裕次郎ファンだった人たちにとっては、懐かしさいっぱいの映画だったろう。ところで今の人は“裕次郎”と聞いて誰のことか分かるのかなぁ??

       

 8月25日(日)午前に「ちえりあフェスティバル」で「最高の人生のはじめ方」を観た後、午後には北海道立文学館において上映された「堂々たる人生」を観るという映画鑑賞のダブルヘッダーを体験した。
 なぜ道立文学館で裕次郎映画なのか?と不思議に思ったが、道立文学館では定期的に文芸作品を中心とするDVD上映会「映像作品鑑賞のつどい」を開催しているという。今回の「堂々たる人生」は、原作が源氏鶏太作品の「白い雲と少女」という作品の映画化ということで取り上げられたようだ。

     

 ストーリーは玩具会社に勤める中部周平(石原裕次郎)は、会社員としても優秀なうえ、女性にもめっぽうもてるという役柄である。中部が勤める玩具会社が経営危機に陥ったところを中部と同僚の紺屋小助(長門裕之)、石岡いさみ(芦川いずみ)とともに危機を切り抜け、会社を立ち直させるというストーリーである。
 とにかく石原裕次郎のカッコ良さが前面に出た映画で、その昔は裕次郎ファンだった思われる女性がたくさん詰めかけていたが、彼女らにとっては若き日の思い出に浸ることのできた時間だったのではないだろうか?さらに相手役の芦川いずみのハツラツとした可愛らしさがレビュー欄でも大好評であるが、私も同様の感想を持った。

  
  ※ 写真左から、石原裕次郎、芦川いずみ、清川虹子、桂小金治の出演者です。

 また脇を固めた桂小金治、清川虹子、藤村有弘、殿山泰司、中原早苗、東野英次郎、宇野重吉といった面々が若々しく演じていた姿を見ることができたことが嬉しかった。今では全ての方が鬼籍に入られているだけに、懐かしさいっぱいに観ることができた映画だった。

山岡荘八著「伊達政宗」全八巻を読む

2024-08-29 08:00:00 | 本・感想
   歴史小説というのは、登場人物の関係を把握することがこれほど難しいことなのか、ということを嫌というほど味わわされた。また登場人物の氏名も私にはことのほか難しかったぁ…。それでも伊達政宗の人となりを理解することができたのでは?と思っているのだが…。

      

 今ごろになって歴史小説に興味を持ち始めた。吉川英治著「宮本武蔵」全八巻に続いて、BOOK OFFで山岡荘八の歴史文庫「伊達政宗」全八巻を購入することができたので、凡そ一か月をかけてこのほど読了することができた。
 伊達政宗について私のこれまでの知識は幼少の頃の病気で隻眼になったということ、そして「伊達者」という言葉もあるように派手な装いをしていたということくらいの知識しかなかった。
 しかし、今回読了することによって伊達政宗が大変な策略家であり、時の将軍だった徳川家康からも一目おかれた存在であったことを知ることができた。思えば伊達政宗生きた時代とは、群雄割拠の時代で常に緊張しながら、世の中の勢を見ながら策略を練ることが求められた時代であった。
 伊達政宗が生きた時代(1567〜1636年)。特に家督を継いだ1584年(政宗18歳の時)以降、時代を共にした主な武将として名が挙げられるのは豊臣秀吉、その子の豊臣秀頼、織田信長、そして徳川家康、その子である徳川秀忠、孫の徳川家光と、ちょっと挙げただけで錚々たる顔ぶれが並ぶ。こうした中で丁々発止のやりとりをしながら逞しく政宗はその存在感を発揮しながら生き抜いていくのである。

    

 よく「もし政宗が20年早く生まれていたら、天下を取ったのではないか」と言われているそうだ。ところが現実は政宗が本当に力を持った時に、政宗の前に徳川家康が大きく立ちはだかっていたのだった。家康を前にして政宗は丁々発止の仕掛けをあれこれと企むのだが、家康の泰然とした対応の前に、政宗はなすすべに事欠いたというのが、実相だったようだ。そうした経緯を辿る中で、政宗は大望を胸にしまい込み、家康と共存共栄を図る道を選択したようだ。そして、政宗は領地である仙台の地の繁栄に力を注ぎながら、家康と共に歩む道を選択したのである。そして三代将軍:徳川家光の代には家光の後見人という実質的に副将軍の地位を得たということである。
 識者によれば政宗は「類まれなる情報収集力と分析力を持ち、それを基にした決断力があった」からこそ、当時辺境の地であった仙台藩主という立場にありながら、絶大なる権力を発揮した希代の名君として名を馳せたということだろう。
 著者の山岡荘八は、史実に沿いながらも、細部においては氏の創作も巧みに織り込みながら筆を進めたという。そうした創作姿勢が多くの読者の支持を得たということなのだろう。私もおおいに楽しめた全八巻だった。




世界遺産の拡大をどう考えるか?

2024-08-28 09:19:51 | 講演・講義・フォーラム等
 世界遺産が拡大を続けている。世界遺産の登録が始まった1972年にはわずか12件だったものが、2024年現在では1,223件が登録されているという。増え続ける世界遺産をどう考えるのか?識者の考えを聴いた。
     
 8月24日(土)午後、札幌パークホテルにおいて北海道世界文化遺産活用推進実行委員会が主催する「ユネスコ世界文化遺産講演会」が開催され、参加した。
 講演会は2部構成で、第1部が講演、第2部が対話という形で実施された。
 第1部の講演の方は日本ユネスコ協会連盟理事長(法政大学名誉教授)である鈴木祐司氏が「世界遺産登録:登録の過程と問題点」と題して講演された。
第2部の対話は、「世界遺産の警鐘と持続可能な世界」というテーマのもとで、西山徳明教授の進行で進められた。
 鈴木氏の講演の要旨は次のようであった。1972年の世界遺産条約に始まる登録活動は1978年に12件が登録されて以来、2024年現在では1,223件(文化遺産962件、自然遺産231件、複合遺産40件)に達している。うち我が国は文化遺産が21件、自然遺産が5件で、計26件である。
 鈴木氏が問題点と感じている第一は「量的な拡大」だという。発足当初は100件を上限とする案もあったというが、現状は発足当初の目論見は跡形もない状況となっている。第二は世界遺産の分布の不均衡だという。現状は先進国、ヨーロッパの占める割合が全登録の約半数を占めているという事実である。第三は世界遺産委員会の構成がやはりヨーロッパが中心となっている現状だという。
 そうした状況において、より根本的問題として文化財保護の思想がヨーロッパに由来し、制度設計もその思想に基づいたものであるという点だという。さらには、登録の対象や登録過程において「政治的問題、歴史問題」が絡んできているという事実だという。こうした状況を私たちはどう考えるべきか?と問題提起された。

     
     ※ 講演された鈴木佑司氏です。

 第2部の対話は、少し変わった形で進行された。というのは、この講演会に出席を希望したという二人の高校生が登壇して、高校生が持つ世界遺産に関する疑問を専門家(鈴木祐司氏と西山徳明氏)が答えるという形で進められた。
 高校生の質問が多岐にわたったこともあり、この点についてのレポは割愛するとして、鈴木氏が問題提起した点について、お二人の考えが披歴されたのでそれをレポすることにしたい。

    
    ※ 対話の進行、助言をされた西山徳明氏です。

 お二人の結論としては、「世界遺産が増えることを恐れることはない」ということだった。
世界には価値ある物件がまだまだあるという。特にヨーロッパ以外では…。後進国と言われる国々には登録申請に至る過程に大きなハードルが立ち塞がっている現状があるという。
問題は価値ある物件にどれだけの “絶対的価値” があるかどうかだという。世界遺産のそもそもの設置目的が “世界平和” に寄与することがそもそもの目的であるという。世界遺産を管掌するユネスコ憲章の前文には「心の中に平和の砦を築く…」とあるという。鈴木氏は、ユネスコは「非力だけど無力ではない」と表現された。世界の平和が遠ざかっているような印象さえ感ずる今、ユネスコの存在には大きな意味があるともいえる。そうした中では
量的な拡大を続ける世界遺産の登録数などそれほど大きな問題ではない、ということなのかもしれない……。              


「さっぽろの古を訪ねて Ⅲ」野幌屯田兵村を訪ねる

2024-08-27 19:01:32 | 「めだかの学校」関連
 生憎の雨天となり、実施か?中止か?の判断を迷ったが、プジェクトチームで話し合って実施することにした。結果、雨の状態もそれほど酷くはならず、計画どおりに実施することができ、今はホッとしている心境である。
    
    ※ プロジェクトチームの仲間が作成した今回の学習の案内文書です。

 本日(7月23日)朝10時から午後3時まで「めだかの学校」野外講座「北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を訪ねる」の現地見学の第4弾、「野幌屯田兵村の史跡を訪ねる」を実施した。
 今回は上記のとおり午前と午後を使った全一日講座として実施した。というのも、これまでの屯田兵村跡と比較し関連史跡が多かったことによるのだが、私たちにとってはこのシリーズのハイライトと考えた回だったのだ。
 今回訪れた関連史跡とは、
《午前の部》  
 ◇野幌屯田兵屋

    
    ※ 屯田兵屋の前で説明員(手前の人物に被っている)の話を聴く参加者です。

 ◇野幌屯田兵第二中隊本部(屯田資料館)

    
    ※ 野幌屯田兵第二中隊本部の全景です。
    
    ※ 野幌屯田兵第二中隊本部の内部で説明員のお話を伺いました。
 ◇被服庫
《午後の部》
 ◇野幌公民館
 ◇野幌兵村練兵場
 ◇開村記念碑 野幌兵村

    
    ※ 開村記念碑 野幌兵村の前で説明する江別市観光ボランティアの方です。

 ◇開村記念五十年碑
 ◇野幌公会堂 

    
    ※ 幾多の変遷を重ねながら現在も保存・使用されている野幌公会堂です。
  
 ◇ガラス工芸館
 ◇子ども盆踊歌 詩碑
 ◇経緯度・標高銘石
 ◇屯田の木像さん(天徳寺)

    
    ※ 天徳寺に祀られている屯田兵(そうではない兵も含まれているという)の
      木像です。

 中には直接屯田兵と関連のないものも含まれてはいたが、以上を案内され、見学することができた。
 案内されたと記したが、午前は江別市郷土資料館説明員の方が、午後からは江別市観光ボランティアの3人の方々が、それぞれ案内・説明をしてくれた。
 印象的だったのは、やはり◇屯田兵屋、◇屯田兵第二中隊本部だった。両方ともに当時のままの姿で復元・保全されており、当時の屯田兵の生活、そして兵隊組織としての体裁が整えられていたことが偲ばれるものであった。また、説明員の方から詳しく野幌屯田兵村の全体像の説明を受け、現在の野幌の国道より北側全体が屯田兵村であったことがよく理解することができた。 
 午後からの見学では、◇開村記念碑、◇開村記念五十年碑の説明が印象に残った。
 開村記念碑の前では、毎年7月1日に「野幌屯田兵村開村記念式典」が催されているという。その際に、子孫や江別第二中学校、江別第二小学校の児童・生徒によって「野幌屯田兵村開村記の歌」が斉唱されているという。その歌をボランティアの方はスマホに収録していて、私たち聴かせていただくという配慮を示してくれた。

    
    ※ 今回案内していただいた3人の江別市観光ボランティアの方々です。
    
    ※ 江別市観光ボランティアのユニフォームTシャツです。

 また、開村記念五十年碑の碑文には野幌屯田兵村が子弟の教育にいかに力を注いだかについて記されていると聞かされた。また裏面には、野幌屯田兵村に入植(入団?)した225戸全員の名が記されていた。
 この他の場面でも、ボランティアの方々は私たちが理解しやすいように用意周到に準備され、私たちを迎えてくれた。こうした配慮に感謝したい。
 天候は幸いなことに小雨がばらつく程度で、予定していた見学箇所を全て見学することができたのだが、最後の見学箇所だった天徳寺の「屯田の木像さん」の見学を終えると激しく雨が降っていた。これも天の配慮と感謝しながら、ボランティアの方々に厚くお礼を述べさせていただき、本日の予定を終えることができた。
 このシリーズの残りも9月末に訪れる予定の「山鼻屯田兵村」で終了である。野外学習の難しさも味わいながら、なんとか無事に終了したいと願っている。
 それにしても、こうして屯田兵村を訪ね歩いてきてみて、一つの感慨が私の中で芽生えだしている。それは、こうして巡り歩いてみて、私たちは屯田兵の、そしてその家族の方々の味わった寒冷地における開拓の大変さをどれだけ理解できたのだろうか?という率直な疑問である。私たちはなんとなく屯田兵の歴史の表面のみをなぞっただけではないのか、という思いを拭えないのだ。
 今後、そうしたことについても仲間と議論してみたいと思っている。

本番!さっぽろラウンドウォーク セクション7(新札幌 ⇒ 上野幌)

2024-08-26 19:34:58 | さっぽろラウンドウォーク
 暑い期間を避けて、53日ぶりの再開で、さっぽろラウンドウォークの後半戦を開始した。狙いは当たり多少汗はかいたものの、気持ち良いコンディションの中でセクション7を歩き通すことができた。
  
     

 本日、「めだかの学校」札幌ラウンドウォーク踏破クラブとして6度目となる「ラウンドウォーク セクション7」を実施した。
 メンバーは常連であり、我がクラブの相談役的立場のN氏が所用のために不参加となったが、初顔のO氏が加わり5名での実施となった。
(男性4人、女性1人)
 9時30分、地下鉄「新札幌駅」に集合との約束だったが、9時20分には全員が揃ったので、早速スタートすることにした。
 事前踏査でスタート前に、ぜひ参加する方々に見てもらいたいと考えていた「新札幌アクティブリンク」に案内した。アクティブリンクは、病院4棟、高層マンション、商業施設、ホテルなどの施設を空中回廊で繋いだ新しい施設だが、さらにはJR「新札幌駅」、地下鉄「新札幌駅」とも繋がっており、まさに雪国北海道にとってはある意味で理想的な施設が誕生したともいえる施設である。参加した方は「写真では見ていたけど、素晴らしい!」と感想を述べられていたのが印象的だった。

    
    ※ 様々な施設と繋がった新札幌アクティブリンクです。

 さて、ラウンドウォークの方は「野津幌川」河畔から連絡通路的な散策路を通り、その支流にあたる「小野津幌川」河畔を下流に向かって歩き、スタートから1時間10分後にJR「森林公園駅」に至った。コンディションは曇り空、気温もそれほど高くはなくやや汗ばむものの、この季節としては上々のコンディションだった。皆さんまだまだ元気そうだったが、最初の休憩をとった。

    
    ※ 野津幌川河畔を往く参加メンバーの方々です。
    
    ※ 散策路で早くも紅葉し、通路に落ちている葉を見ました。
    
    ※ JR森林公園駅の近くの公園で一休みするメンバーです。

 休憩後、目指すは「道立野幌森林公園」である。野幌森林公園では、昨年撤去された「北海道百年記念塔跡」の寂しい風景を眺め、公園内に点在する「北海道博物館」、「北海道開拓の村」の前を通り、これも公園内に存在する「瑞穂の池」を目ざした。途中、「北海道開拓の村」の前でこの日唯一の5人揃っての写真を撮ってもらうことができた。

    
    ※ 「北海道開拓の村」前で5人が揃った写真を撮ってもらいました。

 「瑞穂の池」の前には東屋があり、トイレもあったので昼食ポイントと考えていたので、着いたのが11時40分と昼食を摂るにはやや早いかな?と思われたが予定どおり昼食とすることにした。

    
    ※ 「瑞穂の池」の前の東屋で昼食をとっているところです。

 昼食に30分間を取り、再スタートして森林公園内を進み、「瑞穂口」から公園を抜けた。私たちは 公園内に設けられた五つの出入り口の「記念塔口」から森林公園に入り、「瑞穂口」から出たのだが、森林公園の一部を縦断した形となった。
 森林公園を出て、この日二度目となる「北星大学付属高校」を眺めながら、再び「小野津幌川」河畔を今度は上流に向かって歩き続けた。この辺りは江別市との境界近くを歩いていたことになる。「小野津幌川」の川向には一時期脚光を浴びた「下野幌テクノパーク」が広がっていたが、現在はなんとなく静かな感じがするのだが、実際はどうなのだろうか?
 その先に興味深いところがあった。「札幌秘境100選」という著書の中で、著者の青木由直氏が札幌・江別・北広島三市境界点が存在することを紹介している。私たちはそのすぐ近くまで行ったのだが、現地は雑木林が繁り、とても足を踏み込めるようなところではなかったため、残念だったが境界点を探すことは諦めた。

    
    ※ メンバーの中で最も若いY女史はいつも颯爽と先頭を切ります。

 ルートは北広島側に移り、札幌市との境界点に近い住宅街を歩いた。すると一軒の住宅の前で小学生に出会った。その子に「君は北広島市民ですか?」と尋ねたら「そうです」と答えてくれた。「直ぐそこからが札幌市だよね」と聞くと、この問いにも「そうです」と答えてくれた。まさに私たちは札幌市と北広島市との境界線上近くを歩いていたのだ。
 住宅街を抜けると、もうゴールのJR「上野幌駅」は直ぐ近くだった。その近くの丘には今夏の甲子園大会に駒を進めた札幌日大高校の校舎が聳えていた。

    
    ※ 小高い丘に聳える札幌日大高の校舎です。

 ゴールのJR「上野幌駅」に着いたのは14時40分。私の歩数計で約17km。休憩・昼食時間を除くと、4時間30分ほどかかったことになる。年齢相応の歩き方かな?と思われる。

    
    ※ この日の子゛―ルに着いたメンバーです。背中に安堵感が漂っています。

 初参加のO氏に感想を伺うと「先輩の方々が元気良かった」とのことだが、多分にヨイショしているようにも聞こえたが…。
 ともかく今回も特に事故なく、全員が無事にゴールできたことが何よりだった。

映画  最高の人生のはじめ方  №378

2024-08-25 19:05:55 | 映画観賞・感想
 何といっても主演のモーガン・フリーマンの醸し出すほのぼのとした雰囲気が映画全体に流れている映画だった。映画は2012年制作ということだからフリーマンが75歳の時のものだが、とても良い味を出していた映画だった。

       
 本日(8月25日)午前、札幌市生涯学習センター(愛称:ちえりあ)「ちえりあフェスティバル2024」が開催されたが、そのフェスティバルの一環として映画「最高の人生のはじめ方」が上映されたので観覧した。
 おおよそのストーリーは次のとおりである。
 主人公のモンテ・ワイルドホーン(モーガン・フリーマン)は、元々メジャーリーガーを目ざしていたが交通事故によって車椅子生活を余儀なくされたが、最愛の妻から「一つのドアが閉まれば、別のドアが開く」という言葉に励まされ、西部劇の作家として小説家の道を切り開いた。しかし、6年前にその最愛の妻を亡くしてしまったことで酒に溺れ、小説家としての道を自ら断ってしまう。そんな生活を心配した甥のヘンリーが湖畔に建つ家の夏休みの留守番をすることを勧めてヘンリーに車で送られてくる。そんな湖畔の一軒家の隣に住む母娘4人家族と出逢い、モンテと母娘4人家族との交流を描くストーリーである。
 ストーリーは何か事件があるわけではない。何か劇的な変化があるわけではない。ある意味で淡々とモンテと家族の交流を描くだけである。その交流の中からモンテが、そして家族4人が徐々に心境が変わっていく様を描いたものである。その交流の日々の様子からモーガンの良さがスクリーンに滲み出てくるのだった。
    
 映画の邦題「最高の人生のはじめ方」がレビュー欄ではかなり批判されている。私もやはり違和感は拭えなかった。おそらく邦題を付けた方は2007年に同じくモーガンが出演した「最高の人生の見つけ方」にヒントを得たものと考えられるが、やや安易だったのではという印象を禁じ得ない。原題は「The Magic of Belle Isle」なのである。この題名を直訳すれば「美しい島のマジック」的なことになるのではないだろうか?(かなり怪しい英訳ではあるが…)
そのことは別にして、リード文で触れたように私的にはホッコリと楽しめた映画だった。

クラシックギターコンサート

2024-08-24 21:27:04 | ステージ & エンターテイメント
 奏でる音は必ずしも完璧とは云えなかったのでは?と思われたが、クラシックギターの良さは感ずることができたコンサートだった。それにしても音楽ホールというのは、あのギターの繊細な音をホール全体に響き渡らせる構造となっていることを改めて感じさせてくれた。

    

 本日午後、六花亭ふきのとうホールにおいてクリニック・イン・ザ・モーニングが主催する「クラシックギターの調べ」が開催され、入場券を入手することができたので参加した。
 クリニック・イン・ザ・モーニングとは、私の住まいの近くにある内科・小児科のクリニックである。年中無休、早朝7時から午前中だけ診療するという特異な形態で開業している病院である。コンサートはそのクリニックの院長である岡田純一氏のリサイタル的なコンサートだった。
 岡田氏はプログラムによると、岡田氏のギターは単に趣味という範疇を越えて一時期は本格的にギターを研鑽した人らしい。何せ30代の頃には仕事の傍ら、5年間も毎年数週間ハンガリー国立リスト音楽院に通い、ギターを本格的に学んだそうである。その後も内外のギタリストに師事し、(特にギタリストの平野勇氏には深く心酔しているようだ)現在は日本ギター連盟の正会員でもあるという。
    
 その岡田氏は現在の病院を開業するころからコロナが蔓延するまで、今回のようなコンサートを定期的に開催していたそうだが、今回はそれ以来の開催だということだった。
 本日演奏された曲目は以下のとおりである。
《第1部》
  ◇イングランド民謡/スカボロー・フェア
  ◇J.S.バッハ/前奏曲 swv 1006a
  ◇J.イルマル/子守唄 バーデン・ジャズ組曲より
  ◇菅野ようこ/花は咲く
  ◇P.メセニー/Jason Vieaux 編曲による二作品 
       ・Letter from home  ・Everyday(I thank you)
《第2部》 ※ 第2部には釧路から駆け付けた平野勇に師事する兄弟子にあ     
       たる吉村暢康氏が加わっての二重奏となった。
  ◇F.クープラン(吉村暢康編曲)/Le Tic₋Toc₋Choc
  ◇A.ボロディン(吉村暢康編曲)/中央アジアの平原にて
  ◇J.S.バッハ(吉村暢康編曲)/目覚めよと呼ぶ声あり
  ◇M.ムソルグスキー(吉村暢康編曲)/キエフの大門
   ※ 全て吉村氏の編曲となっているのは、独奏曲を二重奏曲に編曲したということである。
 いつも言っていることだが、私は音楽を聴くことは好きだが、それを評することはできない。そんな私が敢えて今回のコンサートの感想を述べてみようと思うが、眉に唾してお読みいただきたい。
 岡田氏は本業の方が多忙でやや練習不足だったのではないだろうか?素人の私が聴いていても運指(指の運び)がやや緩慢になるところがあったような気がして聴いていた。それでも十分に岡田氏のギターテクニックの素晴らしさを堪能できた。
 第二部になって吉村氏が加わり、かなり曲がスムーズに流れるように聴こえてきたのは私の幻聴だったのだろうか?しかし、クラシックのギターを奏でるということは、相当な鍛錬が必要だということを改めて教えられた思いだった。
    
 また、リード文でも触れたが、今回のコンサートは「六花亭ふきのとうホール」の素晴らしさを感得できたコンサートだった。私の席は後方だったのだが、ギターの奏でる繊細な音がクリアに耳に届いた。キャパ221人のホールであるが、相当に音響に配慮したホールであることが実感できた。

ほっかいどう希望大使(認知症本人大使)とは?

2024-08-23 19:01:59 | 講演・講義・フォーラム等
 高齢(化)社会を迎え、「認知症」が他人事ではなくなってきた。そうした中、「認知症本人大使」なる人たちがこのほど北海道から任命された。初耳だったこの方々はどんな人?との思いから「認知症フォーラム」に参加してみた。

     
     
 本日午後、かでるアスビックホールにおいて北海道が主催する「認知症フォーラム」に参加した。プログラムは、
 第1部が「ほっかいどう希望大使(認知症本人大使)」の任命式と「とうきょう認知症希望大使」の方の講演。
 第2部が映画「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」の上映の2本立てとなっていた。私は同映画を以前にすでに観ていたので第1部のみ参加した。
 ほっかいどう希望大使(認知症本人大使)は、今回北海道が初めて任命するということだったが、赤平市在住の松本健太郎さん(50歳)、江別市在住の横山弥生さん(54歳)、札幌市在住の竹内瑠璃子さん(77歳)の3名が任命された。(3名の方は氏名・顔写真などを公表されている)うち、松本さん、竹内さんは年齢からお分かりのとおり若年性アルツハイマー認知症と診断された方だそうだ。
 さて、「ほっかいどう希望大使(認知症本人大使)」だが、北海道によると「認知症になっても希望を持って暮らしていけることを発信する、認知症ご本人の方々のこと」だという。その役割は「認知症当事者の方々や家族などに希望をもたらし、認知症の方への理解を深める役割」を担うとのことだ。その具体的な内容は、◆認知症の普及啓発活動への参加・協力◆道の認知症施策への意見提案、などを担う方だそうだ。(任期は2年間)
 3人の方は任命後、それぞれ抱負を語られたが、特に若年性アルツハイマーの方は一見普通の方と変らず、お話の仕方もしっかりしていて、その任務をしっかり果たされるのではと思われた。竹内さんはさすがに高齢とあって介護が必要だったが、そのキャリアが素晴らしい方(海外登山などをこなされた)で、その思い出などを語るときには記憶が鮮明に甦る方なのではと思われた。

    

 続いて、「とうきょう認知症希望大使」(北海道と呼称が若干違っていた)として、全国的に活動されているさとうみきさん(48歳)が「ひと足先に認知症になったわたしからのメッセージ」と題して行った講演をお聴きした。
 さとうさんが認知症と診断されたのは43歳の時(現在48歳)と典型的な若年性アルツハイマー型認知症である。診断された直後は、落ち込み、ふさぎ込み、他人や地域からも遠ざかったそうだ。しかし、家族や周りの方々の助けもあり、今や認知症の方にはもちろんのこと、その家族に対しても前向きなメッセージを発しながら全国を巡っているという。
 そのさとうさんは講演の中でたくさんのメッセージを私たち聴衆に向けて発せられた。その全てをメモできたわけではないが、印象的なメッセージを羅列すると…、
 〇認知症になっても見える景色に変わりはない。
 〇ありのまま生きる。
 〇今までと変わらず、楽しいと思えることを続けること。
 〇人は頼られる存在であることに喜びを感ずる。(例え認知症でも)
 〇パートナーは、認知症という名の伴奏者になってほしい。
 〇その「人」らしさは、「生」き続けている。
 〇認知症になったからって、人生は終わったわけではない。
 〇私は「認知症のさとうさん」ではありません。「目の前のひとりの人」と
  して見てください。
 〇誰もが「ひとりの人として」ありのままに暮らせる社会を実現してほし
  い。
 〇認知症になっても私の人生は続いている。私は今を生きているのです。
 さとうさんは、こうした様々なメッセージを私たちに投げかけられた。

     

 さとうさんのお話から、私は次のように「認知症」を受け止めることができたと考えている。認知症はだれもが罹り得る、ある意味で抗しがたい病ともいえる。もしそうした診断をされたときに、嘆き悲しんだりせずに、その現実を受け止めることが必要ではないか。その上で、もちろん専門医にかかり病状を遅らせる措置を取ることは必要だが、同時に罹患前と変わらずに生きることを楽しむべきではないのか、ということをさとうさんから学んだ思いである。
 同時に、もしパートナーや家族に異変を感じたときにも慌てずに、病状を認めつつ、過剰に反応はせずに必要なサポートをしながら、それまでと同様に相対していくことが肝要なのかな?と思ったのだが…。
 これからも機会あるごとに同様の講座や講演を聴くように心がけたい。

      

 映画「ボケますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」さんは、前作「「ボケますから、よろしくお願いします」の続編である。私は両方とも観覧済みだったので今回はパスしたが、凡その内容は次のとおりである。
 映画監督・信友直子の父母は広島県呉市に住んでいる。90歳を超えた両親なのだが、前編から母親の方が認知症の傾向が出始めていた。それを父親が冷静に受け止めながら母親を介護していた。後編に入り病状はさらに悪化し、ついには入院する事態となった。父親も腰が曲がり母親の介護が大変な状況となってきた。それでも父親は現実を受け止め、嘆きもせずに母親の介護に務める姿がとても印象的な映画だった。
 私が父親の立場だったら、と思いながら観た映画であるが、信友直子の父親からは学ぶことが数多くあった…。


ぼくがぼくに変身する方法

2024-08-22 19:53:06 | 本・感想
 SF童話の書名である。とうとう入手することができた!作品は今年の「第37回福島正美SF童話賞」大賞を受賞した作品である。この作品の作者の「やませたかゆき」氏は知人(と云っても良いのかな?)の一人ということもあり首を長くして出版を待ち望んだ一冊だったのだ。

      

 やませたかゆき氏とはブログを通してもう10数年以上にわたってお付き合いさせていただいている方である。
 そのお付き合いとは、主として拙ブログにやませ氏からコメントをいただくことが多く、同じく毎日のようにブログを発信しているやませ氏のブログに私からコメントを入れることは少ない傾向がある。それはやませ氏が私より15歳くらい若いこともあって、感性の違いを感じてしまうところがあるのだ。私のブログはいわば直球一本やり、対してやませ氏のブログは一捻り、二捻りした投稿が多いこともあり、私からのコメントを控えてしまうことが多いのだ。もっともそうしたところにやませ氏の作家としての資質もあると思われるのだが…。
 さて、やませ氏にとって作家デビュー作ともなった「ぼくがぼくに変身する方法」であるが、過日書店に行った際はまだ札幌には入荷していないということで、予約していたところ昨日「入荷した」という連絡があり、本日購入して早速読ませていただいた。
 児童書など私はほとんど読んだことはない。息子に読み聞かせた記憶もないなぁ…。

     
  ※ タクミが変身して空高く飛び上がったシーンです。(絵ははせがわはっち氏です)

 ストーリーは大要次のような内容である。
 主人公のタクミ(小学4年生)はフリーマーケットで中古の変身ベルトを手に入れた。もちろん4年生にもなったタクミは変身できるなどと思って買い求めたわけではなかった。ところが同級生で体格の良いクラスのボスの剛太(ボスノ)がタクミに意地悪をして変身ベルトをぞんざいに扱った。体格に劣り力の弱いタクミは「サンダー仮面に変身して、剛太をやっつけてやりたい!」と強く願った。すると、なんと願いが叶ってしまう…、という流れである。
 ストーリーとしてはあり得る話かな?と思われるが、おそらく作者のやませ氏が小学生の頃に夢見た話だったのでは、と思われたのだが…。だから設定も、ストーリーも無理なく、あるいは小学校の低学年の子が読んだとしたら「えっ?ぼくも願ってみようかな?」と思わせてくれるのではないだろうか?
 70歳過ぎのお爺ちゃんもスイスイと読み進めることができた。

       
       ※ 「ぼくがぼくに変身する方法」の裏表紙です。

 やませ氏によると、こうした児童文学賞で大賞を受賞し出版した場合、その後に児童文学賞に応募することはないそうである。(つまり、児童文学作家として認められたということのようだ)したがって、今後は児童文学作家として活動していくことになるそうだ。幸い、やませ氏は会社員として生活に一区切りをつけ、現在は再雇用で以前の会社に務められているようだが、近く完全にフリーの身になるとも聞いている。これからは創作活動に専心できるようである。そうなるとますますの活躍が期待できる。
 さらなるやませ氏の活躍を見てみたい(願いたい)ものである。