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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

進化を続ける福祉用具

2025-08-31 09:24:35 | 講演・講義・フォーラム等
 世の進化と軌を一にするように福祉用具の世界も進化を続けているようだ。おしゃれな保護帽、着脱の簡単な介護シューズ、多様な杖、使いやすい歩行器・車いす、等々…。今の福祉用具を多々紹介していただいた。

 少し話は古くなりますが、8月27日(水)午前、私が定例的に受講している札幌市社会福祉総合センターが主催する「わたしの生き方セミナー」の8月講座が開講され受講しました。
 今回のテーマは、「福祉用具の機能性とデザイン~福祉にもおしやれを~」と題して(株)特殊衣料の会社の皆さんが分担して講師を担当されました。

    
    ※ 講義は(株)特殊衣料の4人の社員の方々が担当されました。

 最初に(株)特殊衣料が開発したという頭部保護帽「abonet」についての紹介がありました。
 abonetは、てんかんの病を持つ人はもちろんのこと、高齢者も予期せぬところで転倒するケースが多発しています。
 統計によると、65歳以上の交通事故死は年間約2,150人に対して、転倒・転落死亡者はなんと約11,000人にも上るそうです。
 その原因は頭部を打撲したことよる場合が多いという調査結果が出ていました。
 そこで、(特殊衣料)・(札幌市立大学)・(札幌市経済局)の三者連携によって頭部保護帽「abonet」を開発したということです。
 保護帽そのものは、それまでも存在していたのですが、それはいかにもベッドギアといった外観で、見映えが良くなく、洗うことも困難だったと言います。
 それを三者の連携によって、機能性(守る+洗える)+デザインを兼ね備えた「abonet」を開発したことで、高齢者からも重宝される保護帽として使用されるようになったということです。

    
   ※ 三者によって開発され、市販されている頭部保護帽「abonet」です。

 時代はやはり「機能性」と「デザイン」の両立を要請しているようです。
 両者が両立することによって使える場面、使える機会が広がります。そして講師は言います。「機能性が身体をサポートし、デザイン(おしゃれ)が心をサポートしてくれる」と…。

    
    ※ 履きやすく、デザインもすっきりした介護シューズです。 

 そして次には、特殊衣料が扱っているおしゃれな福祉用具の一部を紹介してくれました。
 それは、介護シューズであり、杖であり、歩行器・車椅子などでした。
 一つ一つについての説明は割愛させていただきますが、いずれの福祉用具も「機能性」と「デザイン」の両立を目指して、各メーカーが開発にしのぎを削っていることが窺えました。
 やがて、何時の日か私もお世話になるかもしれない福祉用具です。用具の進化は歓迎すべきことと思いながら講義を拝聴していました。

    
             ※ 自走式の車いすです。社員の方が実演してくれています。

 なお、私が所属する「めだかの学校」では、9月末に「発見!公共施設の今 & 職員食堂」の一環として札幌市社会福祉総合センターを訪れ、福祉用具展示場などを見学する予定です。今回の受講は良い予習ができたと思っています。 

夷酋列像は何故フランスに渡ったのか?

2025-08-28 09:17:57 | 講演・講義・フォーラム等
 それはまるでミステリーを読み解くような興味深いお話だった。あの松前藩家老の蠣崎波響によって描かれた幻の名作「夷酋列像」が、スイス国境に近いフランスの片田舎のブサンソン市の市立博物館に所蔵されていることが判明したという。何故そんなところで発見されたのか?講師の加藤利器氏がその謎に迫った。

 一昨日午後、かでる2・7において道民カレッジ主催の「学びの広場でマナボー」講座が開講されたので受講しました。
 今回のテーマは「夷酋列像の謎を追う!」と題して、札幌日仏協会の理事長を務める加藤利器氏が講師を務めました。加藤氏は北海道新聞社のパリ特派員を務めた経験もあり、ブザンソン市立博物館を訪れるなど、夷酋列像の謎を今もって追い続けている方です。

 ここで「夷酋列像」について説明する必要があるかもしれません。
 「夷酋列像」とは、江戸で絵の修業をした松前藩の家老の蠣崎波響が、12人のアイヌに「蝦夷錦」という鮮やかな衣装を身に付けた12枚の画なのですが、その画が細密画的な繊細な描画と鮮やかな色彩が幕府の中央に注目されたことで、各地に模写が次々と現われたという当時話題の画だったのです。
 ただし、「夷酋列像」が制作された背景はかなり複雑で、政治的意図をもって制作されたとも伝えられてますが、そのことに触れると複雑になり過ぎますので興味のある方はお調べいただけれたらと思います。

    
  ※ 松前町からプレゼントされた「夷酋列像」11点の絵葉書です。

 さて、本題に戻りますと、加藤氏はまず3人のフランス人の名を挙げました。その3人とは、牧師のメルメ・カション、同じく牧師のジョセフ・デュカ、そしてデュカの弟でブサンソン博物館の学芸員だったアルフレッド・デュカの3人です。
 メルメ・カションとジョセフ・デュカは、牧師を外国に派遣する学校「パリ外国宣教会」の同級生でした。

 メルメ・カションは1859~1863年まで函館に派遣され布教に励むと共に、当時函館奉行だった栗本鋤雲らとも親しく交際したと伝えられています。
 一方、ジョセフ・デュカはタイに派遣されましたが布教途中で仏教徒に撲殺されたそうです。

        
  ※ 「夷酋列像」に描かれた12人のアイヌの中の長と目されているツキノエの図です。

 さて、ここからは加藤氏の調査・研究と推理も交えた謎解きです。
 メルメ・カションは函館奉行の栗本鋤雲らを通じて、何らかの手立てで「夷酋列像」を譲り受けたのではないか、と加藤氏は推察します。
 その「夷酋列像」を友人だったジョセフ・デュカを通して、彼の弟でブサンソン博物館の学芸員だったアルフレッド・デュカに託したのではないか、というのが加藤氏の見立てなのですが…。
 この説は今現在、加藤氏の説を確証するだけの証拠などはまだ見つかっていないそうです。

 ところで、ブサンソン市立博物館に保存されているのは「夷酋列像」12点のうち11点だけで、「イコリヤカニ」という画が未だに発見されていません。
 そこで加藤氏は想像を逞しくします。メルメ・カションは日本に滞在中、使役人として中国人を雇っていたそうです。「イコリヤカニ」が着ていた衣装は鮮やかな黄色の衣装だったそうですが、中国人は黄色の色をとても敬うところがあったことから、メルメ・カションが進呈したか、何らかの方法で使役人の手に渡ったのではないかと推理しました。

        
※ 唯一発見されていないイコリヤカニです。多くの模写のをもとに再現したと思われます。

 なぜ「夷酋列像」がフランスに現存するのかについては、今現在もブサンソン市立博物館の学芸員をはじめ、関係者が調査・研究を継続中とのことでした。
 残念なことは「夷酋列像」はブサンソン市立博物館に常時展示されているのではなく、所蔵庫に眠っているとのことでした。そして保存状態が必ずしも良いとはいえない状況だとも聞かされたことでした。

 なお、加藤氏は最後にアイヌ民族の末裔であり、彫刻家とした名を成した故砂沢ビッキ氏の言葉を紹介してくれました。
 砂沢ビッキ氏は生前、「夷酋列像」を描いた蠣崎波響を「アイヌ民族からは裏切者と呼ばれている」、「『夷酋列像』はアイヌにとり屈辱である」と述べていたことを紹介してくれましたが、加藤氏がバランス感覚の持ち主であることを感じ取ることができました。

 「夷酋列像の謎」は、まだまだ深い霧の中、という感じでしょうか??

 ※ なお、私のレポがあるいは私の聞き違いや、解釈の違いが含まれているかもしれないことをお断りしておきます。

 ※ また、本講座には蠣崎波響の生まれ故郷である松前町の町長、副町長、担当職員の方が出席され、私たちに「夷酋列像」を模写した11枚の絵葉書をプレゼントしていただくという行幸にも恵まれました。
 



獣害を考えるシンポジウム in 酪農学園大学

2025-08-24 19:53:34 | 講演・講義・フォーラム等
 酪農学園大学は農業系の大学らしく、広い敷地の中に講義棟などが点在する素晴らしい環境だった。その酪農学園大で「獣害を考えるシンポジウム」があり、興味を抱いて参加したのだが…、私の期待したこととは少々違っていた??

 昨日午後、江別市にある酪農学園大学で開催された「獣害を考えるシンポジウム」に参加しました。
 参加しようと思った動機は、近年マスコミを賑わすヒグマをはじめとして、道内に生息する野生動物に対してどう対応するのか、専門家の見解を聴いてみたいと思ったからでした。

    
   ※ 国道12号線から大学の建物群に向かう「白樺の道」です。
 
 併せて、これまで足を踏み入れたことのない酪農学園大学を一度見てみたいとの思いもありました。
 大学は国道沿いのバス停から牧草畑が広がる中を徒歩で10分ほど歩くとようやく大学本部、講義棟などが立ち並ぶ施設群に着くという具合に広々とした中に立派な施設が立ち並んでいました。
 資料によるとこうした恵まれた敷地、施設の中で大学院生を含め3,000名弱の学生が学んでいるとのことです。

    
  ※ 日本哺乳類学会の会場であり、シンポジウムの会場にもなった大学中央館です。

 シンポジウムは同大学で開催されていた「日本哺乳類学会」の関連行事として開催されたようです。
 さて、そのシンポジウムは大学の中央館にある学生ホールという大きなホールで開催されました。
 そのシンポジウムは、テーマが「野生鳥獣との共存の未来を築くために ~‟Wildlifer”の育成と課題~」というものでした。
 私は上述したように獣害の傾向と対策的な内容を期待していたのに対して、シンポジウムの真の狙いは、テーマの最後にある「Wildliferの育成」というところにあったようです。
 ‟Wildlifer”とは、どうやらWildlifeから派生した造語のようなのですが、意味としては野生動物に関する専門家というような意味のようです。つまりシンポジウムの真の狙いは、野生動物の保護と管理に関する専門家をどう育成していくか、というところにあったようです。

    
   ※ 酪農学園大学の創設者:黒澤酉蔵氏の記念館とその前に立つ黒澤酉蔵像です。

 というのも、酪農学園大学では2011年より「野生動物コース」(来年度からは野生動物領域と改称予定だそうです)を特設し、すでに卒業生たちが道内各地で活躍している現状にありますが、さらにそうした専門家を育成することが急務とされる中、その育成と課題について意見を交換する場だったようです。
 シンポジウムは、関係者による現状と課題について次々と発表がありました。
 その発表とは、
 ◇酪農学園大学野生動物コースの取組み  酪農大教員 伊藤哲治氏
 ◇野生動物の民間企業の仕事および必要とされる人材  (株)野生動物管理事務所 奥村忠誠氏
 ◇野生動物関連の行政(都道府県)の仕事および必要とされる人材 北海道庁 久郷真治氏
 ◇野生動物関連の行政(市町村)の仕事および必要とされる人材  占冠村 浦田剛氏
 ◇酪農学園大学の野生動物コースのこれから  酪農大教員 佐藤喜和氏
さらにテーマはメモしきれませんでしたが、◇東京農工大学の宇野裕之氏と、◇元(株)野生動物管理事務所に勤められていた岸本真弓氏が、それぞれの立場からテーマについて発表されました。

 その内容は、誰もが野生動物に関しての専門家ですから、総じていえば今日的な状況にあってWildliferをもっともっと増やさねばならないという立場の方々ばかりでした。
 曰く、専門家を育成することによって人間と野生動物たちが適切な距離をとり、両者が共に生きていく環境の造成を急ぐべきであるとする方。人口減少が進む中、里山の衰退がますます進み、野生動物が人間界に進出してくる状況にどう対処するか?等々…。

    
   ※ 学生ホールの横にあった小規模の野外のコンサートなどができる広場(?)です。

 確かに発表を聴いているかぎり、野生生物と人間が共存していくためには、まだまだその道の専門家が足りないように思われます。
 昨今のクマ騒動を伝えられるたびに、人間とクマがどう向き合っていくべきなのか、その課題は大きいように思えます。
 ただ、人口減少が進む中、都道府県も市町村も、そこにどれだけの人材を配置できるのか?そこが悩ましい問題となってくるかもしれません。
 そんなことを考えながらシンポジウムを聴いていました…。

フリーアナ宮本隆治の「ハシカベ体操」

2025-08-23 21:41:09 | 講演・講義・フォーラム等
 「ハシカベ体操」とは、元NHKの人気アナウンサーの宮本隆治氏が提唱する独自の発声法だという。「老いはのどからやってくる」と題するフリーアナウンサーの宮本隆治氏の講演を聴いた。

       

 本日午前、北海道歯科医師会が主催する「道民公開講座」がパークホテルで開催され、参加ししてきました。
 講座のテーマ及び講師は、上述したように「老いはのどからやってくる」と題して、元NHKアナウンサーの宮本隆治氏が講演されました。
 会場のパークホテルの3階大ホールは、私のような年配者で満員の盛況でした。おそらく500名以上は入っていたのではないかと思われました。

   
   ※ 写真のようにホールの後方まで聴衆でいっぱいでした。

 宮本氏はNHK時代に「NHK歌謡コンサート」とか、「思い出のメロディー」、さらには「NHK紅白歌合戦」の総合司会を6年も務めるなど、どちらかといえば柔らか路線を担った方でしたから、ユーモア精神十分で私たちを耐えず笑いに誘いながら講演を進めました。

 そうした中で、核心の「ハシベカ体操」についての話に移っていきました。
 宮本氏の父親は長命だったそうですが、父親が高齢となっていたある日、父親と会話をしていた時、父親の発音が非常に不明瞭になったことに気付いたそうです。
 そこで宮本氏は、アナウンサーとして鍛えた発声法を父親に伝授することを考えたそうです。それが「ハシベカ体操」だったというのです。
 父親はその発声法を実践したことにより、発音が明瞭になったと共に98歳まで生命を維持され天寿を全うしたとのことでした。

        

 その「ハシベカ体操」とは?
 ◇ 「ハ」 ~ ハーッとお腹をへこませて、息を吐く
 ◇ 「シ」 ~ シーッと15秒(静かにするように、うながすみたいに)
 ◇ 「ベ」 ~ カァ~、カラスの真似
 ◇ 「ベ」 ~ ベロ(舌)を出して、左右に動かす
 たったこれだけのことだそうですが、専門家に言わすとなかなか合理的な方法だと評価されているそうです。
 お話を聴いていた私たちも実際にその場でやってみました。確かに簡単なことでした。

 宮本氏は、これを機に「老いはのどからやってくる」という著書も発刊され、好評だということです。

 「嚥下障害」や「誤嚥による肺炎」など、誤嚥性障害で亡くなる人が2030年には全国で12万9,000人を数えるとの推定もされているそうです。
 私も加齢とともに誤嚥の症状に見舞われることが多くなってきたように感じています。気を付けねば…。


筋肉が蘇る ‟ちょいトレ”

2025-08-15 10:00:18 | 講演・講義・フォーラム等
 筋肉は20代をピークに毎年1%ずつ減り続けるという。何もしなければ70代ではピークの50%減になるそうだ。そこで無理せずに ‟ちょいトレ” を継続することによって、筋肉の減少に歯止めをかけ、健康寿命を伸ばそうというのだが…。

 わずか30分間の講座ですが、「簡にして要を得ている」といつも思う札幌市の社会福祉総合センターが主催する「やさしさっぽろ健康講座」を昨日昼に受講しました。
 テーマは「〇〇しながらちょいトレ・アンチエイジング貯筋トレ」と題して、レイス治療院札幌南の代表の大越孝郎さんが講師を務めました。

    
    ※ 講師を務められたレイス治療院札幌南の代表の大越孝郎さんです。

 ちょいトレ、貯筋トレの紹介に入る前、健康寿命を伸ばすという大きなテーマに触れました。
 大越氏はいわゆる東洋医学畑の専門家ですが、今や健康寿命を伸ばすためには東洋医学と西洋医学の利点を生かした「統合医療」の考え方が主流であると強調されました。
 それぞれの利点と欠点とは、東洋医学は即効性はないが、副作用や後遺症の心配がない。一方、西洋医学は即効性に優れているが、副作用、後遺症が心配されると…。それが統合医療が注目されてきた理由だとされました。

 さて、そうした統合医療の推進と共に、健康寿命を伸ばすポイントは次の4点に注目することが大切と述べられました。その4点とは、①血流改善、②骨、③腸内細菌、④メンタルヘルス、の4点を挙げられ、それぞれについて解説されました。
 その一つ一つの解説については割愛しますが、その中の③骨について、高齢化による転倒死が年間一万人以上に上ることが紹介され、その骨を自在に動かす「筋肉」を衰えさせないことの大切さを強調されました。

 前述したように筋肉は何もしなければ70代でピーク時から半減してしまうという調査結果が出ているそうです。
 そこで筋肉を鍛えることが求められているのですが、問題はいかに「継続」するかが課題だと指摘します。
 筋肉を鍛えることの重要性は理解できても、それを「継続」する難しさが現実であると大越氏は指摘します。
 そこで大越氏が提唱するのが「ちょいトレ」であり、「貯筋トレ」であると強調します。

 大越氏は自らの実践について披露されました。それは、TVを観ながらコマーシャルの時間帯を利用してちょっとした筋トレを取り入れることだ言います。また、家の中での移動の際、または街中を歩く際、ちょっとした工夫で筋肉が鍛えられると言います。
 そして実際に参加者たちと、その一部を実際に体験しました。

    
    ※ 「ちょいトレ」の実際を体験する参加者の皆さんです。

 人間の筋肉の7割は下半身に集まっていると言います。それは、大腿四頭筋であり、大臀筋であり、ハムストリングスです。これらを特に意識して「ちょいトレ」に取り組み、「貯筋」に励むことだと話され講座を終えました。
 
 怠惰な私にとって継続することが何よりの難題ですが、大越氏の言葉を脳裏から離さず、意識的に取り組まねばと思った私ですが…、はたして?



没後50年 山内壮夫シンポジウム

2025-08-08 14:41:50 | 講演・講義・フォーラム等
 彫刻家・山内壮夫は札幌市内に多くの作品を残したほか、全国各地にも彼の作品は数多く残されている。にもかかわらず、彼を評価する声や、業績を讃える声は少ないという。山内壮夫の没後50年を期して行われた識者たちの声に耳を傾けた。

     
※ ポスターに表示されている彫刻作品は、札幌市の中心部のカナモトホール前に展示されている「希望」の像です。

 8月六日(水)夜、本郷新記念札幌彫刻美術館主催「没後50年 山内壮夫シンポジウムに参加しました。素人ゆえに何事にも恐れを知らず、どこにでも出没する私の面目躍如です。
 ただ、今回の参加動機は先に本郷新記念札幌彫刻美術館で開催中の「没後50年 山内壮夫展」を観覧していたこと、さらには以前私が「めだかの学校」の野外学習で大通公園、中島公園に展示されている彫刻の案内役を担ったことから、彼の作品の特徴の一つであるデフォルメされた人間の表情に好感を持っていたことが若干の理由ではあったのですが…。

 シンポジウムの登壇者は、
 ◇藤井 匡 氏(東京造形大学教授)
 ◇寺地亜衣 氏(旭川美術館学芸課長)
 ◇梅村尚幸 氏(本郷新記念札幌彫刻美術館学芸員
の三方でした。

    
     ※ シンポジウムに登壇された左から藤井氏、寺地氏、梅村氏の三方です。

 三人は90分間にわたって、「山内壮夫」について縦横に語りました。とてもその全てを再現することはできませんが、私がメモすることができ、印象的なエピソードについてレポしたいと思います。
 その一つに、山内壮夫が建築に大変関心を持っていた彫刻家であることが紹介されました。
 山内は建築家の佐藤武夫(早稲田大学教授)との交遊が深く、佐藤の建築物と山内の彫刻作品がコラボレーションした作品が全国各地に存在することが紹介されました。メモできたものによると…、( )内は 山内の作品名です。?はメモし切れなかったところです。
 ◇長崎国際会館(?)
 ◇新潟市庁舎(アルミニュウム作品「家族」)
 ◇岡山スポーツ塔(「弓を引く若人」)
 ◇文京公会堂(「芽」)
 ◇岩国市庁舎(「和」)
 ◇前橋市水道会館(?)
 ◇江東公会堂(「風の譜」)
 ◇新潟港震災復興記念碑(「躍進」)
 ◇新潟県戦没者慰霊碑(「誓い」、「祈り」)
 ◇北海道開拓記念館 ※現北海道博物館(「羽ばはき」)
と見てくると、山内壮夫が全国的に活躍されていた彫刻家であることが分かります。
 なのに、同時期に活躍した本郷新や佐藤忠良が遺作展や回顧展が数多く開催されているのに対して、山内壮夫の場合は、これまで道内で2回開催されただけだったそうで、今回の「没後50年 山内壮夫展」で3回目だそうです。

 その理由を3氏は次のように解説された。
 一つは、世界の彫刻界の動きに影響されて、作品の特徴を激しく変えた点があるのではないか、と指摘された。ある方は、それが器用に見えてしまう弱さを感じさせてしまった。あるいは、流行を上書きすることが評価に影響したのではないかと話された。

    

 一方で、「山内壮夫の魅力は?」と問われると、流れるように線の動きが美しい、形の柔らかさ、作品の顔の表情がかわいい、重力を感じさせない、などの発言と共にさらに研究を進めれば「魅力はまだまだありそう」という藤井氏の発言もありました。

 最後に、梅村氏から中島公園内に展示されている「猫のハーモニカ」像の作品名についての疑問が呈されました。
 山内自身は作品のことについては「小さな牧神」と書き残しているそうですが、どこかで誰かが、その形から「猫とハーモニカ」と命名したようですが、梅村氏はじめ関係者からは「どう見ても猫に見えないし、ハーモニカというのも無理がある」という声が出ているとのことなのです。
 梅村氏によると、楽器を手にしているのは「牧神」という半獣半人の「牧神パン」ではないかと「小さな牧神」から想像します。さらにその「牧神」が手にしているのはハーモニカならぬパンフルートという楽器のほうがよく似ていると指摘しました。
 どうやら梅村氏の主張に説得力がありそうですが、果たして作品名が改名される日がくるのでしょうか?

     
     ※ 中島公園内に展示されている「猫とハーモニカ」の作品です。

 札幌市民の方はもちろん、市民以外の方々も来札された機会に中島公園を訪れて「猫とハーモニカ」像を探していただき、とっくりとその像を眺めてみるというのも一興ではないでしょうか??

 美術作品の鑑賞などは私にとって最も縁遠いものと自認していましたが、こうしたシンポジウムを拝聴するもの時にはいいものですね~。



東京・大田区の地域コミュニティづくりの実践を聴く

2025-08-07 13:41:19 | 講演・講義・フォーラム等
 今東京・大田区では住民主体の「地域コミュニティづくり」が機能しているという。そのコミュニティづくりを主導したというスーパーバイザーの方からお話を伺った。大都会東京にあって、住民が意識的に動き、地域づくりを担っているとは?その秘訣を聴いた。

  

 8月4日(日)午後、札幌市中央区民センターホールにおいて、労働者協同組合ワーカーズコープと(一社)日本社会連帯機構という団体が「まちづくりフォーラム2025」を開催したを聴講しました。
フォーラムのテーマは「みまもりあい つながりあい ささえあい の循環に向けて」というテーマで開催されました。

 フォーラムは、
 ◇講演Ⅰ「地域見守りネットワーク『みま~も』について」
      労働者協同組合ワーカーズコープ・センター事業団
                   スーパーバイザー 澤登久雄氏
 ◇講演Ⅱ「みまもりあいプロジェクト『地域・多文化共生支援アプリ』
      について」
      社団法人セーフティネットリンケージ代表理事 高原達也氏
 ◇座談会「活動事例の意見交換『講師×実践者』による討論」
      実践者 田中勇喜氏(札幌市西区第1地域包括支援センター)
          近川富美氏(地域交流拠点ピリカ)
           講演されたお二人
という三部構成で実施されました。

 それぞれ興味深い内容でしたが、ここでは私が特に興味を抱いた講演Ⅰの「地域見守りネットワーク『みま~も』について」の澤登氏の講演についてレポしたいと思います。

      

 「地域包括支援センター」というところをあたなはご存じでしょうか?
 ウィキによると、「地域包括支援センター」(以下、包括と称します)とは、「高齢者とその家族を介護、医療、保健、福祉など様々な側面から支える地域の総合相談窓口」と説明されています。
 講師の澤登氏は東京・大田区にあって、その包括に20年以上務められた経験があるとのことでした。
 今や包括は全国で5,000ヵ所以上、東京・大田区では23ヵ所の包括があるそうです。
 大田区の包括では、一か月で1,000件以上の相談に対応しているそうです。
相談業務に対応していた澤登氏の中に、一つの問題意識が浮かび上がりました。それは1,000件以上の相談数はあくまで相談に来ることができた人の人数であるということです。
 「地域には、専門職や各サービスを必要としているが自分でSOSの声を上げることができない人がたくさんいる」という事実がありながら、包括の職員は相談に来ることができた高齢者に対して、サービスを提供するだけで精一杯の日常だったということです。
 澤登氏の功績は、そうした現状に諦めることなく、「現状を何とかしよう!」と立ち上がったことです。

 そこで生まれたのが、地域に暮らすすべての人、地域に働くすべての人たちとともに「面」で支える仕組み「みま~も」を誕生させたことです。
 「みま~も」について簡単に説明すると、「様々な得意分野を持つ民間企業との連携による新たなネットワークモデル」だそうです。まちづくりを目的とした「みま~も」の趣旨に賛同した企業・事業所・施設・病院・クリニックなどが「協賛金」を出し合い、活動する新しい地域づくりのカタチを提案したそうです。つまり「金を出し、人も出し、汗も出す!」仕組み作りです。
 そうした呼びかけに大田区では、現在協賛病院2、協賛施設5、協賛企業が29、協賛薬局6、協賛医療・介護事業所10の計52が現在登録し区内で様々な事業を展開しているそうです。
 また、「みま~も」には、個人的に賛同して活動に参加する「みま~もサポーター」も60名が登録し、活動を支えているとのことでした。(このサポータからも年会費を徴収しているとのことです)
 具体的な活動の一例としては、商店街の廃業した店舗を集会所として改装し、そこで各種のミニ講座、ミマモリ食堂を開き高齢者が気軽に立ち寄ることができる居場所づくりに力を入れたり、イベントやお祭りに協力するなど多様な活動を展開しているとのことでした。

    
  ※ 大田区の「みま~も」活動の一つとして取り組んでいるのが、「高齢者見守りホルダー」の登録システムで、写真のようなホルダーを高齢者に配布し、身元確認などに活用しているそうです。

 2008年に発足した「みま~も」の取り組みに注目するところも現れ、2024年現在で全国12ヵ所、200ほ超える協賛事業所・企業に及んでいるそうです。(北海道では小樽市が取り組んでいるようです)

 澤登氏のお話は、この後このような仕組みづくりに取り組む際の留意点などに及びましたが、その点は割愛させていただきます。

 最後に澤登氏は、次のようにお話をまとめました。
 地域共生社会の実現のためのキーワードは「社会参加」であると…。
 いくつになっても、行きたい場所がある!それは、気軽に訪れることができる場所!行きたいと思える場所!そこには、友人・知人がいて、自分を待っていてくれる。必要としてくれている。そのような場所をたくさん作っていきたい、と述べられました。
 
 私にとっては他人ごとではありません。今はまだ、身体が自由に動くので毎日あちこちと出回っていますが、早晩そうしたことが無理となってくることが想像されます。
 身体が多少不自由になっても、行きたいところ、行くべきところを見つけておかねばならないと思っています。
 また、同じような思いを持った人たちとの繋がりも意識していきたいとも思わせてくれた「まちづくりフォーラム2025」でした。



進取の気性に富んだ北海道の女性

2025-08-04 19:16:52 | 講演・講義・フォーラム等
 戦後、大学で学び育った女性たちが女性史研究に意識的に取り組み始めたのは1970年代と言われているが、北海道では1972年にいち早く旭川市において「北海道女性史研究会」が発足していたという。事程左様に北海道ではいち早く女性解放への槌音が胎動したようである。

 少し時間が経ちましたが、8月1日(金) 午後、連続受講しているちえりあ講座の「先人たちのさっぽろ物語~札幌の「今」をつくったひとの歴史~」の第4講(最終講座)がありました。
 第4講のテーマは「戦前戦後の女性たちのあゆみを語り継ぐ~『北の女性史』刊行40年によせて~」と題して、札幌女性史研究会代表の岸伸子さんと、女性史研究会の会員の一人であり札幌学院大学の新田雅子准教授が講座を担当されました。

 講座は、新田准教授が北海道女性史研究会が1986年に刊行した「北の女性史」についての紹介と「札幌女性史研究会」のあゆみを紹介し、岸女性史研究会代表が北海道の女性の中で顕著な活躍をされた桟敷ジョセフィン(よし子)の足跡を紹介するという形で進められました。

    
   ※ 講義をする新田雅子札幌学院大准教授です。

 まず新田准教授は、北海道の女性史研究会の歩みを次のように紹介しました。
 1972年 旭川で「北海道女性史研究会」発足
 1973年 「北見市女性史研究会」発足
 1974年 北海道歴史教育者研究協議会で「女性の歴史」分科会を特設
 1975年 国際婦人年  「オホーツク女性史研究会」発足 (北見市の発展形? 拙者註)
 1977年 「第一回女性史のつどい」名古屋市で開催
 1978年 札幌市と江別市在住の7人で「女性史のつどい」創立 (札幌女性史研究会の母体?拙者註)
1980年 「北海道女性史年表」作成開始
 1981年 「札幌市女性史研究会」と改称
1985年~1986年 『海道新聞』に「北の女性史連載(全55回)
 1986年 『北の女性史』を刊行
と1970~80年にかけて、北海道では女性史の活動が華々しく展開されていたようです。
 その後も北海道においては女性史の研究は盛んに行われてきましたが、近年になって会員の高齢化が進んだことによって往時のような活動が困難となっている話されました。

        
       ※ 札幌女性史研究会の労作「北の女性史」です。

 講義の途中に、実際に「北の女性史」が回ってきて手に取ってみましたが、大変な労作であることが一目で分かりました。その目次だけを紹介すると…
 1.えぞ地の頃―幕末 2.開拓時代の生活 3.遊郭 4.医療 5.教育 6.労働 7.団体・運動 8.文学・学習
と女性をめぐる全ての分野を網羅した本格的な歴史書でした。

    
    ※ 講義をする「札幌女性史研究会」代表の岸伸子さんです。

 続いて岸伸子さんが北海道出身で、1930(昭和5)年に倉敷紡績万寿工場争議を指導した女性として知られている桟敷ジョセフィンについて紹介してくれました。
 桟敷ジョセフィンは、1902(明治35)年、札幌に生まれました。父親は北海道英語学校(現北海高校の前身)の教師でしたが、日露戦争に反対して職を失うという硬骨漢だったようです。そのためにジョセフィンの幼少から少女期は苦難の生活を余儀なくされたようです。
 しかし、ジョセフィンは優秀だったのでしょう。北星女学校の校長スミス先生の計らいで給費生として北星女学校に学びます。
 さらには彼女の英語力が見込まれ、余市の大漁業家の子女の住み込み家庭教師をしながら、日本女子大学に学びます。大学では、社会事業学部女工保全科に学び、社会科学研究会にも参加したということです。
 そして大学卒業後に倉敷紡績万寿工場の女子寄宿舎・教化係として就職しました。
 当時の倉敷紡績の第二代社長大原孫三郎は、従業員を大切にする経営に徹し、紡績業界でも模範とされる企業でした。孫三郎の言葉に「従業員の幸せなくして、企業の繁栄なし」と標榜していたそうです。桟敷ジョセフィンにとっては理想の企業だったと思われます。
 ところが、紡績業界も不況の波が押し寄せ「合理化」が進む中、桟敷は女子労働者たちを指導し、労働争議を起こしましたが、争議は結局敗北。桟敷は馘首されました。
 その後、関西の繊維労働者の組織化を図る中、検挙され、治安維持法違反で2年半の服役に処せられました。
 釈放後は、自活のために看護婦、保健婦などを務める中、敗戦を迎え1946(昭和21)年には中国に渡り、中国では衛生教育分野の職に就いたそうです。1958年に帰国後は、大阪で保健婦活動の傍ら、日中友好に関わりながら、平和への願いを語り続け、1992(平成4)年、89歳で逝去されたそうです。
 なお、桟敷さんは1986(昭和61)年の「北の女性史」の出版記念会に出席し、祝辞を述べられたとも話されました。そういう意味では桟敷ジョセフィンさんは「北の女性史」を語るうえではシンボル的存在だったのかもしれません。

    
※ スライドで映し出された「北の女性史」出版記念会で祝辞を述べる桟敷よし子さんと、倉敷紡績時代の桟敷ジョセフィンさんです。

 なお、桟敷ジョセフィンという名前について疑問を抱いた私が質問したところ、彼女の父親は「子どもたちには世界で通用するような人物になってほしい」という願いを込めて、彼女の兄弟姉妹も同じように世界的な有名人の名を付けたとのことでした。ただし、桟敷ジョセフィンさんは、成人後に桟敷よし子と改名しています。(年代不明)

 以上、お二人によって二つの話題を伺いました。
 北海道においていち早く女性史の研究が始まったことについて、私はある種納得できるところもあると思っています。それは、北海道独特の風土と関係があるように思われます。
 北海道はご存じのとおり、明治期に本州各地から移住した開拓者たちによって発展したきた地です。移住者たちはそれぞれ自らの出身地の文化・風土を護ろうとした思われますが、極寒の北海道を開拓するにあたって、女性も有力な労働力として必要だったことによって、女性の発言力が強まったのではないでしょうか?
 北海道はよく本州各地のようなしがらみが少ないとも云われます。
 そうした風土が女性史の研究を盛んにした背景にあるのかな?と講義を受けながら考えていた私でした…。      



ウォーカブルシティとは?

2025-08-01 20:24:51 | 講演・講義・フォーラム等
 Walk(歩く)+Able(できる)+City(市)…、Walkable Ctiy(ウォーカブルシティ)とは、直訳すると「歩きやすい(歩いて行ける)街」と訳すそうだ。札幌の街は今そのような街の姿を目指して歩み出したという。「サッポロ ウォーカブルシンポジウム」に顔を出してみた。

      

 7月29日(火)午後、桑園地区に新築なった「エア・ウォーターの森」を会場に、「サッポロ ウォーカブルシンポジウム」に顔を出してみました。
 どのような会合なのか、よく把握しないまま興味本位で参加を決めたシンポジウムでした。

 主催者(札幌市まちづくり政策局)の説明によると、札幌市では現在(仮称)Well-Movng City SAPPORO 2045ビジョン」を策定するための作業を進行中とのことです。
 ここでもまた英語が使用されていますが、Well-Movngとは、参考書によると「個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念」ということです。
 私流に訳すると「誰もが幸せを感じられるような札幌の街にしよう!」というような意味でしょうか?
 そのための一つの動きとしてウォーカブルな街づくりを目指しましょう!というのがシンポジウムのねらいであることを理解しました。

 シンポジウムはまず、札幌市の担当者から「(仮称)Well-Movng City SAPPORO 2045ビジョン」素案の説明がありました。
 それによると、札幌市ではWell-Movng Cityを目指して、大学教員とか、街づくりの専門家などに依頼し、官民協働で素案の検討を進めているとのことでした。
 その肝は、「車社会から人中心の社会へ」ということでしょうか?
 端的な例でいうと、現在中心街の道路は二車線となっていますが、それを一車線として、人が歩く歩道の幅を大幅に広げるといったビジョンも素案の中にはあるということでした。
 ビジョンの到達目標年次が2045年ということですから、向こう20年という長いスパンで街を改造(改変)していくビジョンということのようです。 

   

 Well-Movng Cityを目指す動きは徐々には動き出しているようです。‟官民協働” を具体化する動きの一つとして、シンポジウムでは、続いて地域において街づくりに取り組んでいる民間団体の実践例が報告されました。
 発表団体は、次の5団体でした。
 ◇ 一般社団法人 新さっぽろエリアマネジメント
 ◇ 一般社団法人 まちづくり篠路
 ◇ 札幌駅前通まちづくり株式会社
 ◇ 道庁エリア研究会
 ◇ 学生団体マルシェ本舗(平岸)

 それぞれの団体の活動は、それぞれの地域を盛り上げる活動を創造的に展開されていることを伺わせてくれる報告でした。
 その中でも興味を抱いたのが、「道庁エリア研究会」の報告でした。
 この研究会は、北海道庁の南側から大通公園に至る間に存在するビルや会社21団体(社)で構成されているとのことですが、問題意識として道庁赤れんが庁舎と大通公園という二大観光スポットを直線で結ぶ地域にありながら、観光客などがその地域を避けるようにして二つの観光スポットを行き来しているという問題意識を抱いたそうです。
 その二大観光スポットを観光客などが喜んで行き来するような街づくりを目指すべきではないかとということで、関係会社等による研究会を立ち上げたということです。
 果たしてどのような成果を生みだすのか、その行方を注目したいなぁ、と思いました。

 シンポジウムを通して感じたのは ‟官民協働” という言葉でしょうか?この言葉がどれだけ実効性を伴ってビジョンが進められるか?ということが重要のように思います。
 従来から、行政が施策を進める際に、民間の意向を聴取するという段階を踏んでいたと思いますが、どこか形式的なものでしかなかったことが多かったような気がします。
 真の意味で ‟官民協働” を標榜するのであれば、例え行政側が描いたビジョンどおりにコトが進まなくとも、民間の意見に謙虚に耳を傾け、大胆に路線を変更することも含め、丁寧に協議を進め真の意味での合意を得てコトを進めることが肝心なのではないかと思います。

   
 ※ 会場の「エア・ウォーターの森」は、かなり大胆な造りをした建造物です。内部にはご覧のように木材をふんだんに使った構造となっています。

 いずれにしても、「誰もが幸せを感じられるような札幌の街にしよう!」というコンセプトには大賛成です。札幌の街が未来に向けて、ますます住みよい街になることを心から願っています。

怪獣博士の小林快次氏が語るカムイサウルス

2025-07-28 16:36:14 | 講演・講義・フォーラム等
 小林快次氏は恐竜・カムイサウルスの全身骨格の発掘を主導した怪獣博士として世界に名の知られた方である。その小林氏がカルチャーナイト2015の一環としてNHK札幌放送局においてトークショーを展開したのを聴いた。

 7月25日(金)は、23回目を迎えた「カルチャーナイト2025」が札幌市内75ヵ所の施設を会場に展開されたと新聞が報じていました。私はこの催しを毎年楽しませてもらっています。ここ数年は近くの北海道知事公館で行われる各種イベントを楽しんできました。
 今年も知事公館で、と思っていたのですが、NHKで小林快次氏のトークショーがあると知って、参加を希望したところ幸いにも当選通知が届いたので、今年はNHKにすることにしました。

 小林氏のトークショーはこの日3回行われたのですが、私は午後7時開始の第3回目のトークショーを聴きました。
 小林氏は「カムイサウルスのここがすごい!」というテーマのもと、NHKアナ(小林アナ?)の質問に答える形で進められました。

      
      ※ 北大総合博物館教授の小林快次氏です。

 カムイサウルスは2003年に地元の化石愛好家によって発見されましたが、当初は首長竜と見られていたようです。(首長竜は厳密には恐竜の仲間と見られていないそうです)
 それを疑問に思った研究者が2011年に小林氏に鑑定を依頼したところ、小林氏は即座に首長竜ではなく、恐竜の化石だと断言したそうです。
 小林氏の鑑定により、本格的な化石発掘が行われたことで世界的な発見に繋がったということです。当初は「むかわ竜」と呼ばれていましたが、2019年に小林氏が「カムイサウルスジャポニクス」と命名したそうです。

 カムイサウルスの骨格模型は現在国内に4体あって、そのうち二つはむかわ町穂別博物館にあり、一体は沖縄県立博物館に、そして残り一体がNHK札幌放送局に展示中とのことでした。(NHK札幌には来年3月31日まで展示し、その後は北大総合博物館に展示予定とのことです)

     
    ※ NHK札幌放送局のロビーに展示されている全長8mにも及ぶ骨格模型です。

 その中にあって、NHK札幌放送局に展示してあるものが最も完全な形て復元されたものであるとの小林氏の説明でした。
 小林氏はその展示されているカムイサウルスを指して、トサカの部分がこれまでの復元模型より薄くなったことで、より精悍な顔つきになったのでよく見てほしい、と話されました。
 また、復元模型の大腿骨の部分に穴が開いているところがあるが、それは骨格が海底に眠っている間に海底の微生物によって食された跡であるという、興味深い事実を教えられました。

    
  ※ ライトアップされたカムイサウルスを背景にトークショーを展開する小林氏です。

 そして最後に、現在行っているアラスカでの発掘調査は非常に興味深いと語ってくれました。何故かというと、発掘する土壌に恐竜の足跡が残っていたり、恐竜が滑った跡、尻尾が付けた跡などが残っていることだと話されました。
 そしてもしかすると新種のテラノサウルスの発見に繋がるかもしれないと、まるで子どものように目を輝かせて語っていたのが印象的でした。
 小林氏は、いつまでも恐竜を追い続ける少年のような好奇心を持ち続けている方のようです。
 その思いを持ち続けることで新種発見に繋げてほしいものです。

 今年のカルチャーナイトはこれまでとは違った形で楽しむことができた一夜でした。