田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

「ろうどくの小径」って?

2022-06-30 15:46:17 | イベント

 最近、札幌市内では “朗読” に関するイベントが目立つように思っていた。そこで「朗読のイベントってどんなもの?」という興味本位で覗いてみた…。

   

   ※ 「ろうどくの小径」開会前のステージ上にはマイクが1本立っているだけでした。

 6月26日(日)午後、札幌市中央図書館においてドラマチックリーディンググループ〈さ・く・ら〉が主催する「ろうどくの小径」というイベントが開催されると知って参加してみた。入場者を50名と限定して開催したが、ここでも女性の参加者が多くおおよそ満員の参加者の中で開催された。

 今回の「ろうどく小径」には4人の読み手が登場し、いずれも有名な日本作家の短編を朗読した。そのラインナップは…、

 ① 瀬戸内寂聴「花情」より「ライラック」

 ② 林芙美子「緊急下車」

 ③ 藤沢周平「日暮れ竹河岸」より「梅雨の傘」

 ④ 川端康成「妹の着物」

   

   ※ 読み手の方は写真のように原稿を手にして朗読をしました。(着物を着た方が多かったですね)

いずれもが30分前後の作品だった。4人の読み手(いずれも女性)は、さすがに人に聴かせるとあって、練習も十分積まれているようで躓くようなこともなく、声量も適度で大変聴きやすかった。また、作品によっては途中で効果音が流れるケースもあった。

 私は初めてこの種のイベントに参加してみて、正直なところ「あゝ、こういうものか」という感じであった。

 しかし、考えてみればそれ以上のものを期待できるものでもないような気がした。例え、プロが読んだとしても感想は大して変わりはないだろう。

 一つ気付いたことがあった。それは普段から読み親しんでいる作家の作品の場合、よりよく私の中に染み入ってきたように思われた。この日の場合は、私にとって藤沢周平や林芙美子の作品がそれであった。

   

   ※ イベントの最後に、この日登場した4人の読み手全員がステージに揃いました。

 たった一回参加しただけで、朗読イベントそのものをどうこうと評価するのは拙速というものだろう。リード文でも触れたが、私がよくイベント情報を入手する「大通情報ステーション」の情報コーナーでは、けっこう朗読イベントが目立っている。中には有料のものもあるようだ。機会があればまた別のイベントに参加して、もう少し朗読イベントの魅力を探ってみたい、とも思っている…。


札幌市内にはたくさんの川が流れていた!?

2022-06-29 09:56:45 | 講演・講義・フォーラム等

 札幌市内は豊平川の扇状地に立地しているため、その昔は多くの伏流水が市内を縦横に走っていたという。それらの “失われた川” を写真や資料と共に紹介していただくという興味深いお話を聴いた。

   

 6月25日(土)午後、札幌市資料館が主宰する札幌市制100周年記念講演と銘打った講演会に参加した。講演会は(株)アイビー地質情報室の宮坂省吾氏「札幌の川 失われた川を尋ねて」と題して講演された。宮坂氏は北大で地質学を専攻された後、関連の企業に就職され、研究員的なお仕事をされてきた方だと拝察した。

 宮坂氏によると、宮坂氏の先達である山田秀三という方が昭和40(1965)年に札幌市内中心部を流れていた5つの川をアイヌの古地図から復元したそうだ。アイヌは川のことをコトニ(窪んでいるところ)と呼んでいたことから、川の名の多くにコトニの名が付けられている。

その5つの川とは、①ポロコトニ(大きいコトニ川)、②ポンコトニ(小さいコトニ川)、③シンノㇱケコトニ(真ん中のコトニ川)、④チェプンペッ(魚が入る川)、⑤サクシュコトニ(サッポロ川の方を流れるコトニ川)の五つの河川である。

      

      ※ 現在の札幌市内の地図に、昔流れていた川を落とし込んだ図です。(宮坂氏提供)

 私が以前に学んだところ、札幌市内、特に北区や東区では多数の流れがあったと学んだが、今回宮坂氏は特に札幌市中央を流れていた5つの河川に注目してお話されたということである。

 現在、前記した5つの河川で残っているのは復元したことによって往時の姿を留めているのは北大構内を流れるサクㇱコトニ川だけではある。(一部ポロコトニも知事公館の庭で復元している)その他はことごとく姿を消してしまった。その理由について宮坂氏は一つひとつ説明してくれた。

 ①のポロコトニと、②のポンコトニは最も西側に位置し、ポロコトニは知事公館の庭(当時は知事公館ではなかった?)で湧出して庭を流れ、やがてポンコトニと合流して、コトニ川本流に流れていたという。ところがやがて湧出量が減り、やがて枯れたそうだ。現在、知事公館の庭にはその一部が残った形となっているが、流れは人工的に水を流して往時の姿を再現しているということだ。

 ③のシンノㇱケコトニは「真ん中のコトニ川」と称されるように、南6条目付近から石山通り沿いに北上し、火防線(現在の大通公園)を横断し、北大植物園に至った川だったという。大通公園にある「鯨の森」はその川跡だそうだ。当時市内では最も深かった川だというが、この川もやがて市街化によって埋め立てられ姿を消していったようだ。

 ④のチェプンペッは、現在の北大植物園の温室脇のメム(豊平川の伏流水が湧き出るところ)から水が湧きだし、ポロコトニと合流していたそうだ。チェプンペッの流れは植物園内に大きな池を造ったりしたが、やがて枯れていったという。園内にその形跡は残るものの、それは僅かな低地を呈しているといった感じである。

 最後に現代に息づく(?)⑤のサクシュコトニである。サクシュコトニは旧伊藤邸のメムに端を発し、旧偕楽園を通って北大構内に流れ込んでいた流れである。講演では言及されなかったがサクシュコトニもその先ではコトニ本流に合流していたと思われる。というのも、構内を流れサクシュコトニでサケが遡上する姿が見られたというのは有名な話だからだ。しかし、この流れも1952年には付近のメムが一斉に枯れ始め、流れが失われたそうだ。原因はやはり市街化によって地下水源が遮断されたことではないだろうか、と素人の私は考えた。(その点について宮坂氏は言及されなかったので…)

 その枯れた流れを2003年に北大構内の一角から人工的に水を流すことによって北大構内に蘇ったサクシュコトニの流れは現在、北大生や市民の憩いの場となっている。

   

   ※  講演する宮坂氏です。

 以上、宮坂氏は科学者らしく調査によって確定した事実を淡々と述べられた。ここに私が記した内容は必ずしも正確ではないかもしれない。宮坂氏のお話と提供いただいた資料をもとに、私なりに整理したものであることをお断りしておきたい。

 札幌の昔を知る、ということも興味深い作業である。  

※ 原稿を整理しているうちに、私は以前に宮坂氏のお話を拝聴していることが記録に残っていた。こちらのレポと併せてお読みいただくと、札幌の “失われた川” についてより理解が深まるかもしれない。興味のある方はこちらもご覧ください。⇒(2017/10/15投稿分)

 


札幌市のパークゴルフ場めぐり〈41〉平岡公園コ―ス

2022-06-28 13:07:22 | 札幌市のパークゴルフ場巡り

 平岡公園の一隅に緑豊かなコースが広がっていた。無料のコースではあったが、コースは良く整備されていて気持ち良くプレイを楽しむことができた。特にAコースはホール周りが微妙に傾斜しているために上級者にも楽しめるコースではないかと思われた。   

 梅雨のない北海道はどこに行ったのだろうか?この日私は「平岡公園の湿生植物の観察会」に参加していたのだが、途中雨にたたられた。そのためもあったのだろう。私が訪れた時には誰もプレイをしている人の姿が見えなかった。コース案内では、9ホールのコースとなっていたが、実際にはA、Bコースに分かれて計18ホールが設けられたパークゴルフ場になっていた。

   

   ※ パークゴルフ場専用の駐車場ではなく、公園の第三駐車場ですが、コースは直ぐ先にありました。

   

    ※ ちょっとオシャレなパークゴルフ場を示すモニュメントです。

   

   ※ スタート地点に休憩舎を兼用するような東屋があります。札幌市のコ―スでは一般的なようです。

   

   ※ コースのレイアウトや、各種の連絡文書が掲示されていましたが、利用度の高さが伺える掲示でした。

 コースはAコースが適度な立木を配した林間コース。一方Bコースは広い芝生が張り巡らされた平面的な芝生コースといった対照的なコースとなっていた。

 私は単調(と思える)な芝生コースを避け、林間コースでプレイすることにした。前述したように誰一人としていないコースでゆったりとプレイを楽しむことができた。20日ぶりのプレイとあって成績はイマイチだったが、そうしたことはあまり気にしていない。私にとっては市内全てのコースを体験することが第一の目的なのだから…。

   

    ※ Aコースの第一ホールをティグランドから見たところです。けっして一級品ではありませんが、よく整備されたコースでした。

   

   ※ グリーン周りも問題はありません。微妙に傾斜しているところが上級者向きにも思われました。

   

   ※ 写真のようにフェアウェイとラフがしっかりと区別されていました。

 リード文でも触れたように、コースの整備状況は大変よく、スタート地点の掲示板を伺うと地域住民の方々にはかなりの頻度で利用されているようだ。例会や大会の予定がたくさん告知されていた。事実、私がプレイを終えようとした頃には、天気も回復したこともあり数組の方々がプレイを始めていた。

   

   ※ こちらは私はプレイしなかったBコ―スです。Aコースとは対照的に平坦なコ―スでした。(下の写真も)

      

 整備されていたコースにも関わらず、私の方はといえばパーも割れない恥ずかしい成績だった…。                                                                                                                      

《コース概要等》

〔住      所〕清田区平岡4条7丁目地先

〔コース概要〕・18ホール、パー66 総延長約 ?m

 ※ 札幌市発行の「パークゴルフ場マップ」によれば、この「平岡公園コ―ス」は9ホールとなっていました。そのため記されていた総延長の距離は参考にならないと思い、記しませんでした。

〔休      日〕水曜日

〔利用時間〕 5~8月 7:00~18:00 9月~11月3日 8:00~17:00

〔駐車場〕有(100台)

〔プレイ料金〕無料

〔ティーの用意〕無

〔問い合わせ〕平岡公園管理事務所 ☎881-7924

〔訪問日&私の成績〕22/06/19   Aコース 34/33  


吉村昭著「殉国 陸軍二等兵 比嘉真一」

2022-06-27 11:41:42 | 本・感想

 6月23日の「沖縄慰霊の日」を意識したわけではないが、偶然(?)私は吉村昭が著したこの書を読んでいて、このほど読了した。太平洋戦争末期、米軍が沖縄に侵攻した中、沖縄守備軍、そして沖縄住民が辛酸をなめ尽くした日々を少年兵・比嘉真一の視点で描いた一冊である。

          

 主人公・比嘉真一は昭和20年当時、沖縄県立第一中学校の3年生だった。年齢でいえば14~15歳である。真一は同級生の中でも特に小柄だったという。小説の中で彼の身長は記されていないが、小さなサイズの軍服でも袖を折り曲げねばならなかったというから、真一はかなり小柄だったようである。

 そんな年端もいかない真一たちを軍隊の一員として組織しなければならなかったのは、敗色濃厚で兵士の数も十分でなかったことにあった。日本陸軍は、比嘉たち中学校3~5年生も沖縄守備隊の一員として招集し、「鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校隊」として総員398名で組織されたという。時に昭和20年3月25日のことであった、その日から6月23日に沖縄が陥落するまでの約3ヵ月間の悲惨な敗走の日々を15歳の少年兵である陸軍二等兵・比嘉真一の目から描いたものである。

 比嘉たちに与えられた装備は、学校で教練用に使用されていたというおよそ実戦には役立ちそうもない三八式歩兵銃と小銃弾150発、それに銃剣、手榴弾3個(そのうち1個は自決用として渡された)だったという。その歩兵銃も足りなくて3年生の一部50名ほどはなんと「竹槍」を代わりに持たされたそうだ。

 まだまだ年若く、訓練も十分でない比嘉たちが前線に立てるはずもなく、彼らの任務はもっぱら伝令、豪堀り、炊事といった後方支援が主な任務だった。

 火力に優る米軍は比嘉たちが潜む濠に容赦なく弾丸の雨を、火炎の放射器で攻め入った。日が経つにつれ守備隊は劣勢におかれ、敗走に敗走を続けねばならなかった。その敗走は多くの死者を置き去りにしながら逃げねばならない悲惨なものだった。

 小説後半の描写は目を覆いたくなるほど悲惨だった。比嘉たちの身体や衣服には虱(しらみ)が寄生し、二カ月間も入浴もできなかったという。また死体が処理できないために、死体に蠅(はえ)が集まり、やがて死体からは蛆(うじ)が湧いてきたという。そして死臭が漂う中を比嘉たちは逃げるのが精いっぱいだった。

 やがては海岸ぶちまで追い詰められた真一は米軍の捜査の手が伸びる中、夜は死体の中に潜って身を隠したという。死体が横たわるその下に身を隠すなどということは平時には想像すらもできないむごいことである。戦争が正常な精神さえも犯してしまうという事例の一つではないだろうか?

 比嘉はけっして逃げ延びたのではなく、兵士の一人として、皇軍の一人として、敵に危害を与えたうえで名誉の戦死をしたいと死期を探っていた。比嘉がこうした思いに至った戦前の教育の凄さ(酷さ)を思い知らされる思いである。

 比嘉はやがて米軍の捜査に捕らえられるのであるが、彼があまりにも小柄なために、彼が「兵士だから殺せ!」と叫んでも、米兵は相手にせず捕虜としたことによって比嘉は生き残ることになった。

 年端もいかない旧制県立中学校3年生の陸軍二等兵・比嘉真一から見た沖縄戦の戦いであるが、その内実を改めて教えられた思いである。小説の中で比嘉真一から悲壮感のようなものは伝わってこない。むしろ、郷土を敵から守ること、国に殉ずることに参加できた誇りを感じながら与えられた任務を懸命に全うしようとしている姿だった。そこから見えてきたものは、前述もしたが「教育」の恐ろしさである。

 吉村昭は、少年・比嘉真一を通して「教育」の恐ろしさ、大切さを伝えたかったに違いない。 


お花の話題を二つレポします❣

2022-06-26 17:24:45 | イベント

 柄にもなく私はけっこう「花」に興味がある。とは言っても、そのレベルは「雑草が蔓延っているより、花が咲いている光景を目にするほうが気持ち良いでしょう」という程度なのだが…。今、札幌で開催されている「花」に関する二つのイベントを覗いてみた。

 今、札幌では「花フェスタ札幌2022(会期6/25~7/3)と「サッポロフラワーカーペット2022(会期 6/24~6/26)が開催されている。昨日、私は札幌市資料館で開催された講演会に参加した後、その足で二つのイベントを覗いてみた。

   

 大通公園の西4~8丁目を会場に開催されていた。私がこのフェスタで楽しみにしているのは「北海道農業高校ガーデニングコンテスト」(通称:ガーデニング甲子園)である。今回のコンテストには北海道内の農業関係学科を持つ9校、14チームが参加していた。審査結果が出ていたので、私は大賞(岩見沢農業高校C)、準大賞(岩見沢農業高校D、倶知安農業高校)、奨励賞(新十津川農業高校A)の4チームの作品を写真に収めた。受賞した作品の傾向を見ると、いわゆる本格的な花壇を志向したものが選出されたのかな?と思われた。

   

    ※ 大賞を獲得した岩見沢農業高校Cの「雑木の庭 岩農スタイル」です。   

   

   ※ 準大賞の岩見沢農業高校Dの「遊園地」です。(こちらはコンパクト部門の出品でした)

   

   ※ 同じく準大賞を獲得した倶知安農業高校の「The flower of your life」です。

   

   ※ 奨励賞を受賞した新十津川農業高校の「植物の生命~豊かな水~」です。

 花フェスタ自体は、ガーデニング甲子園以外にも「花市場」とかハンギングバスケット、蘭の作品などが展示されたり、即売会が実施されたりしていたが、私の興味外だった。それより私の興味を惹いたのはあまりPRしていないようだったが、造園関係の会社がそれぞれ趣向を凝らした花壇を提示し、花壇に番号が付されていたところからコンテストを実施しているんだろう、と思い何ヵ所かの花壇を写真に収めた。すると、本日その審査結果が公表されていた。それによると札幌市長賞に輝いたのは、「横山造園」、「佐藤萬香園」、「北海道造園コンサルタント」の3社の花壇だった。

   ※ 会場の各所に展開していた造園業各社の趣向を凝らした花壇の数々です。

   

   

   

   

   ※ 札幌市長賞を獲得した「横山造園」の作品です。

   

   ※ 同じく札幌市長賞の「佐藤萬香園」の花壇です。

   

   ※ 数多くのフラワーショップが出展していた「花市場」の夜臼です。

 

        

 花フェストを急ぎ足で回った後、道庁前のアカプラ広場で開催されている「サッポロフラワーカーペット2022」に足を運んだ。フラワーカーペットは花びらや自然素材を用いて大きな絵を作り上げるイベントで、札幌ではバラ(赤・ピンク)、カーネーション(オレンジ・黄色)、菊(白)の3種類の花びらを使用していると資料で説明されていた。

   

   ※ メイン会場のアカプラ広場に描かれたフラワーカーペットです。

   

   ※ 上の作品を反対柄から見たところです。

 フラワーカーペットはアカプラ広場、赤レンガテラス内、札幌駅前地下歩行空間「憩いの空間」の3ヵ所に描かれていた。(後で知ったことだが、今年はその他に「大丸札幌店」、「そらの広場 ステラ9」でも描かれたらしい)これまではメインのアカプラ広場に大小のフラワーカーペットが描かれていたのだが、今回は会場を分散し、さらには屋内での展示が多くなったようだ。やはり戸外だと風雨に影響されてフラワーカーペットの維持・管理が大変だということだろうか?

   

   ※ 赤レンガテラス内に描かれた小型のフラワーカーペットです。

   

   ※ 「憩の空間」に描かれたアイヌ模様のフラワーカーペットです。

 二つのイベントと共に、さらに大きなイベントとして現在恵庭市において「ガーデニングフェスタ北海道」(会期 6/25~7/24)という全国的なイベントが開催されている。

 このように「花」に関するイベントが次々と開催されるということは、札幌市民が、また道民が「花」に大きな関心を持っている方が多いという証のように思えてくる。このことは北国故に「花」を愛でる期間が限られていることが、反対に「花」を愛でる気持ちが一層強いことの表れなのかもしれない…。


脳卒中の治療最前線について聴く

2022-06-25 11:26:12 | 講演・講義・フォーラム等

 脳卒中を発症したら “時間” が勝負!「“おかしいな?” と思ったら迷わず救急車を!」と講師は強調された。気鋭の脳神経外科の先生から脳卒中の治療最前線の話を聴いた。

 6月22日(水)午後、北海道生涯学習協会主催の「ほっかいどう学」かでる講座の第3回講座が開講されたので参加した。

 講座は柏葉脳神経外科病院の高度脳血管病センター長の中山若樹氏「脳卒中の治療最前線~明るい明日へつながる” 医療~」と題して講演された。

   

   ※ 講演をされる中山若樹医師です。

 私の場合、病気の話をうかがうと、自分が今にもその病気に罹ってしまうのではないか?という不安に駆られてしまう。癌の話を伺った時など、しばらくは心配で寝つきが良くなかったことを憶えている。今回もお話を伺ったことでなんとなく不安が増したように思われるのだが…。

 さて、話はごく初歩的なことから始まった。拙ブログをお読みくださっている諸兄はご存じの話とは思うが、私の復習のために記しておくと、「脳卒中」の「卒」は “急激” を、「中」は “あたる” を表す言葉だという。そして「脳卒中」という病気は大きく「脳梗塞」「脳内出血」「くも膜下出血」の三つの病気を指す言葉だと説明された。

 そこから先の各病気が脳内においてどのような状況となるか、またその異常をどのように治療するか、など専門的と思われることについてはあまり関心が持てなかった。ただ医学の進歩は目覚ましく、次々の新しい治療法が生まれているとのことで頼もしく思われた。

 脳の病気というと「脳ドック」のことが話題となるが、中山氏は「脳ドック」が脳卒中の予防に有効か?と問われれば万全とは言えないと話された。「脳ドック」が特に有効なのは脳内の動脈瘤を発見・除去するには「有効な手立てだ」と話された。

   

   ※ 脳の断面写真を提示されて説明されたが、それを拝聴する受講者たちです。

 私にとっての関心事は、脳卒中の予防方法についてだった。残念ながら資料を全くいただけなかったのでスライドに写されたものをカメラで撮り、それを文書化したものを提示することにする。

《脳卒中予防十ヵ条》

 ① 手始めに高血圧から直しましょう。

 ② 糖尿病は放っておいたら悔い残る。

 ③ 不整脈見つかり次第すぐ受診。

 ④ 予防にはタバコを止める意思を持て。

 ⑤ アルコール控え目は薬 過ぎれば毒。

 ⑥ 高すぎるコレステロールも見逃すな。

 ⑦ お食事の塩分・脂肪控えめに。

 ⑧ 体力に合った運動続けよう。

 ⑨ 万病の引き金になる太りすぎ。

 ⑩ 脳卒中 起きたらすぐに病院へ。

これは分かりやすい!そして実行もしやすい!そして⑩の「脳卒中 起きたらすぐに病院へ」を常に意識していたい。あとは脳外科医が勧める「脳卒中予防十ヵ条」を遵守しながら生活したい。それでも不幸にして脳卒中に見舞われたとしたなら、そのときは「私に与えられた定め」とでも受け止めるしかないのだろう。


北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈4〉 キウス周堤墓群(千歳市)

2022-06-24 15:44:36 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 大小さまざまな周堤墓が連続する様は壮観だった。また、この遺跡では市民ボランティアの方々が遺跡案内をされており、個人で伺っても対応してくれる仕組みとなっているところが素晴らしかった。

 6月21日(火)念願だった千歳市の「キウス周堤墓群」に足を運んだ。

 この日私は直接「キウス周堤墓群」には向かわず、まずは「千歳市埋蔵文化財センター」に立ち寄ってから向かうことにした。埋蔵文化財センターは千歳市の田園風景が広がる長都地区にあった。そこはいかにも廃校校舎を再利用したという趣きの建物だったが、調べてみると「旧長都小中学校」の校舎を改造したものだと判明した。

   

   ※ いかにも学校々舎の玄関といった趣の「千歳市埋蔵文化財センター」の入口です。

   

   ※ センターのエントランスには世界遺産登録の喜びにあふれるデコレーションがされていました。

 千歳市には「キウス周堤墓群」だけでなく、「美々貝塚」をはじめ実に多くの遺跡が点在していることを知ることができた。それらの遺跡では、国指定の重要文化財がいくつも発掘されていることも知ることができた。

   

    ※ 千歳市の「ママチ遺跡」から発掘された約2,300年前、縄文時代晩期の土面だそうです。

   

            ※ こちらも千歳市の「美々4遺跡」から発掘された動物型土製品で、カメにも、水鳥にも、ムササビ、

アザラシにも見える不思議な姿をしています。(そう解説してありました)

 文化財センターで「キウス周堤墓群」への行き方を確認して向かった。「キウス周堤墓群」は文化財センターから7km先にあった。

   

   ※ 「キウス周堤墓群」の駐車場と、市民ボランティアの方が詰めている詰所です。

   

   ※ 詰所の横には周堤墓をイメージするデコレーションが施されていました。

 「キウス周堤墓群」の駐車場の先には案内ボランティアの方々が待機する詰所があり、そこで手続きをすると直ぐに対応してくれた。周堤墓とは、大きな円形の中に遺体を埋葬する集団墓地のことで、縄文時代末期に盛んに造られたということで、「キウス周堤墓群」だけではなく、千歳市周辺では多くの周堤墓が発見されているそうだが、「キウス周堤墓群」は特に大規模のために国指定の遺跡に指定されたという。その「キウス周堤墓群」は現在まで大小9基の周堤墓が発掘・保存されているそうだ。

 周堤墓は「〇号周堤墓」と名称が付けられているが、これは発見された順に番号が付されているとのことだった。

   

   ※ 「キウス周堤墓群」の入口で説明してくださった市民ボランティアの方です。

 私は市民ボランティアによって早速周堤墓に案内された。周堤墓のあるところは、縄文時代と変わらぬ鬱蒼とした大木が生い茂る森林である。私はまずキウス周堤墓の中でも最大級の規模を誇る「2号周堤墓」に案内された。周堤墓がどれくらいの大きさだったかというと円形の周堤の外径が73mほどという大規模なものである。さらに「2号周堤墓」は周りから約2mの高さまで土を盛り上げており、内部を3mほど掘り下げているため、周堤墓の内部からは約5mもの高さの壁となっているとのことだった。(残念ながら周堤墓の内部へ入っての観覧は許されていない)

   

   ※ 2号周堤墓の外側の淵の盛り上がりです。(前方)

   

   ※ 2号周堤墓の内部を撮ったトコろです。右奥のところが コンクリートで遮られているのが確認できます。

 残念に思ったことがあった。それは市民ボランティアの方が「周堤墓をよ~く見てください。何か変わったことに気付きませんか?」と問われた。よく見ると、円形の一部が欠けているように見えた。その旨を答えると、「そうなんです。周堤墓の一部が道路にかかっているんです」と言われた。説明によると、周堤墓の存在がまだ特定されていなかった明治23(1890)年に周堤墓を横切るように道路(現国道337号線)が造成されたそうだ。この道路によって「2号周堤墓」と「4号周堤墓」は分断され、「5号周堤墓」、「12号周堤墓」は道路の向かい側に位置することになってしまった。いま考えるといかにも惜しいと思われるが、研究が進んでいなかった明治年代に道路が造成されたということだから致し方ないことと諦めるしかないということだろう。(う~ん。それにしても惜しい!) 

      

   ※ 「キウス周堤墓群」の全体図です。2号と4号が道路によって寸断されています。

   

   ※ 道路側から撮った2号周堤墓です。

   

   ※ こちらは4号周堤墓だと思うのですが…。わずかに道路が写っています。

 私は続いて「3号周堤墓」、「1号周堤墓」と案内された。「1号周堤墓」では現在、さらに周堤墓内で発掘作業が行われていて、青いビニールシートが目立った。「1号周堤墓」には簡単な展望台が設けられていた。しかし展望台というにはいささか貧弱なたった2段しかない台だった。国指定遺跡だから本格的なものの造成は制約されるのだろうが、周堤墓内には入れないのだから、せめたもう少し高い階段を用意していただいて周堤墓全体を俯瞰できるような措置を高じてはもらえないものだろうか?と思ったのだが…。

   

   ※ 1号周堤墓の外側の盛り上がりです。

   

   ※ 1号周堤墓の内部を遠望しました。青いビニールシートが見えますが、現在発掘作業中ということでした。

 市民ボランティアの方から興味深いお話を伺った。実はこの「キウス周堤墓群」があるところは元々私有地だったそうだ。その私有地が貴重な遺跡らしいと知った持ち主は、耕作を止め周辺の雑草除去に努めたそうだ。そうした陰の努力が現在の「キウス周堤墓群」を形成しているとも語ってくれた。

 前回、「入江・高砂貝塚」、「北黄金貝塚」を訪れた時に、学芸員の方の説明がいかに貴重だったかについて触れた。その際は団体で訪れたために学芸員の方も対応してくれたが、今回のように個人で訪れた場合は、普通はただぼーっと見学するだけで得るものも少ない。ところが「キウス周堤墓群」では個人で訪れてもボランティアの方が案内してくれるという有難い体制を取ってくれている。こうした千歳市の取り組みに感謝したい思いである。例えボランティアを活用するとはいっても財政的の問題もあろうかと思われるが、他の遺跡などでもぜひこうした取り組みを検討していただきたいと思うのだが…。


北区歴史と文化の八十八選巡り №9

2022-06-23 12:33:26 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

※ 蔵出し第2弾である。この「北区歴史と文化の八十八選巡り」も6月6日に終えていたものである。なかなかレポする機会がなかったが無理して今日のレポとして押しこんだ。

  北区歴史と文化の八十八選巡りはこれまで1度に4ヵ所ずつレポしてきたが、 今回は史跡などが新琴似神社境内一か所に集中的に保存されていることもあり9つの史跡等を一挙レポすることとした。

〈●〉新琴似神社

   

   

 新琴似神社自体は八十八選に選定されているところではない。しかし、9つの史跡が一か所に設置されていることから、その場所等について簡単にレポしたい。

 神社の場所はJR新琴似駅、北区体育館の直ぐ近くに樽川通に面して立地している。比較的麻生の繁華街から近いところにある。

   

 比較的広い境内の一隅が神社の駐車場となっているが、その周囲に「新琴似屯田兵中隊本部」の復元建造物を中心として各石碑等が点在している。

33〉屯田兵もやい井戸跡

   

 新琴似神社境内に保存されている史跡の中で唯一その跡地の特定に苦労したのが「屯田兵もやい井戸跡」である。境内のあちこちを捜し歩いたが、それらしき跡が分からなかった。諦めかけた時に、新琴似屯田兵中隊本部の建物の前に来た時、そこに「屯田兵もやい井戸跡」の説明板が立てられていた。ということは中隊本部の近くにそれがあったことを示しているものと考えた。形跡はまったくなかった。説明板によると屯田兵屋の4戸に一つの共同井戸ということだから、跡地そのものではないのかもしれないが、一応その地を井戸跡とすることにしたい。その説明板には次のように書かれていた。

 明治20年(1887年)新琴似に九州出身を中心とする屯田兵146戸が入植。その生活を支えた井戸は4戸の共同使用で、風呂が併設されていた。「もやい」とは「共同」の意味。この井戸は水源までモウソウ竹を打ち込んだもので、水が30センチほど自噴していた。竹の長さは約30メートル、継ぎ目にはコンブが巻かれていたと言われている。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日 

34〉東繁造君学勲碑(ひがししげぞうくんがくくんひ)

   

 この石碑以降は、いずれも新琴似神社境内を取り囲むように建立されていたので、説明板の文章だけを紹介することにする。

 東繁造は大正9年(1925年)●●当時の東大教授三田定則の門下生として血液の鑑別方法を研究。それまで鑑別しにくかった人と家畜類の血液を早く確実に見分ける科学的鑑別法に成功。この方法は、恩師と自分の名をとって「三田・東法」と名づけた。この碑は、氏の功績を称えるため、昭和35年(1960年)に当時の東大名誉教授古畑種基らによって建立された。 

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

35〉新琴似兵村記念碑

   

 新琴似地区は、明治20年(1887年)、屯田兵の入植によって開かれた地で、開村50年を記念して昭和11年(1936年)に建立された。既に開村5年を記念して建立された「新琴似開村記念碑」が神社の東側にあったが、永年風雪にさらされて、文字の解読も困難になったところから、新たにこの碑を建立したものである。
 札幌軟石の外棚を巡らしコンクリートの基礎、この上に幅3.5メートル、高さ5メートル、厚さ30センチメートルの板石を建てている。裏磁には、入植屯田兵220名の氏名が刻印されている。 

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕  6月6日

〈36〉新琴似の馬魂碑  

    

 この馬魂碑は、大正8年(1919年)に光明寺境内(新琴似7条1丁目)建立されたが、昭和50年(1975年)に新琴似神社境内に移された。開拓時代、その家の手足となって働いた農耕馬を供養するためのもの、当時の主な農家は、自分の愛馬を弔うため、それぞれ自分の農地の片隅などに建てたりしていたが、これを総括し「馬頭観世音」として奉遷したものである。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

37〉吹田晋平歌碑 

   

 吹田晋平歌碑(本名 菅 進)は、明治35年(1902年)8月19日に新琴似に生まれ
永年にわたり歌人として、さらには政治家として地域の発展に貢献した。55年間にわたり歌人として数々の秀作を発表する一方、札幌市議会議員を通算6期24年勤め、市政の発展と地域の振興に尽力した。この碑は、氏の功績に報いるため有志により昭和47年(1972)に建立された。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

38〉新琴似「百年碑」

   

 明治20年(1887年)の屯田兵入植に始まる新琴似地区は、当時、あまりにも厳しい自然環境に耐えきれず、離農する人たちが後を絶たなかったと言われている。●●ま●●の地に望みをかけて踏み止った少数の屯田兵と、新天地を求めて新たに渡ってきた一般の入植者の不屈の精神によって、昼なお暗きうっそうたる原始林が切り開かれ、良好な農耕地から住宅地へとめざましい発展を遂げた。この記念碑は、開基百年を記念して昭和61年(1988年)に建立された。

「百年碑」には添え書きがあり、「この地に育つ 若人よ 今日を創りし 先人の 自耕自拓の 精神を 継いで努力の 人となれ」と刻まれていた。

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

39〉新琴似屯田兵中隊本部

   

 この建物は、明治20年九州各地の士族146戸の入植(翌21年に74戸を補充)により発足した新琴似兵村(屯田兵第1大隊第3中隊)の本部として、明治19年に建てられました。 明治36年の屯田兵役解除後、新琴似兵村会の共有財産として引き継がれ、明治44年の兵村解散後は、新琴似屯田親交組合、新琴似兵村部落会、新琴似自治会、新琴似町内会、琴似産業組合、新琴似中学校仮教室、札幌市新琴似出張所等に使用されるなど、時代の変遷を経て昭和40年11月、札幌市に寄付されました。その後、昭和43年度から昭和46年度にかけて、創建当初に復元するための改修工事が行われ、昭和49年4月20日には歴史的価値が高く建築構造の上からも貴重な建造物として、札幌市有形文化財に指定されました。
 建物の構造は木造、小屋裏部屋付き平屋建て、全体の形は素朴でおおらかさがあり、玄関出入口、窓回り等の細部、小屋組などに当時流行した洋風木造建築の特徴を良く残しています。現在札幌市では、新琴似屯田兵中隊本部保存会の協力を得て建物を保存管理しています。(札幌市有形文化財) 

 訪れた日は月曜日だった。建物の開館日が火・木・土の週3日のため入館は叶わなかった。しかし、私は以前に入館した経験があった。内部は中隊長室、下士官集会室、軍医室、事務室などからなっており、現在はそこが屯田兵に関する資料が展示されている。私は「思っていたほど大きな建物ではないなぁ」というのが正直な感想だった。                                 

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内 

〔訪問日〕  6月6日 

〈40〉新琴似「拓魂」碑  

   

 新琴似開基百年を記念して、開拓を支えてきた先日と、共にあった農業組織の歴代の会長を顕彰するもので、昭和61年(1986年)に建立された。

 日高産の赤石で、正面に「拓魂」の2文字と碑文、表面には歴代の組合長の名前が刻まれている。 

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内 

〔訪問日〕 6月6日

41〉新琴似「開村記念碑」

            
 新琴似地区は、明治20年(1887年)、屯田兵の入植によって開かれた地で、開村5年を記念して建立された。しかし、この開村記念碑が永年風雪にさらされ、文字の解読も困難になったことから、先人の開拓の功を後世に伝えるために、神社の西側に「新琴似兵村記念碑」として昭和11年(1936年)に再建されている。

 ※ 現地で撮った写真を整理したところ、この「開村記念碑」の写真を撮ることを失念していたようだ。よってこの写真だけウェブ上から拝借してしまうことになった。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日 


フォルクローレ ライブを楽しむ

2022-06-22 10:57:52 | ステージ & エンターテイメント

 何故か私はフォルクローレの音色に魅かれるところがある。あの哀愁を帯びた音色がインディオたちの厳しい生活を思い出させるのだ。その音色に浸りたくて、ライブハウスに足を運んだ…。

        

 過日(5月10日)、札幌在住のフォルクローレ奏者岡田浩安さんのコンサートを聴いたときに、岡田さんがライブハウスに出演することを知った。そのライブで19日(日)夜、岡田さんが出演すると知って、中央区の北4条西28丁目にあるLive & Dining JAMUSICAに駆け付けた。

   

   ※ 店の入口には今夜のライブゲスト名が表示されていました。

   

   ※ ライブ開始前のステージです。

 ところが私のことである、ライブの内容をよく承知していなかった。というのもライブ名はArbol y Viento  with 岡田浩安」となっていた。つまりライブの主役は岡田さんではなく、Arbol y Vient(アルボリビエント)という関西を中心に活動している二人組のライブに岡田さんが賛助出演するという形だったのだ。Arbol y Vientは確かに勝野勉がケーナやサンポーニャを奏で、正木良久がギターを奏でるフォルクローレのデュオである。そこに岡田さんはケーナ、サンポーニャはもちろんのこと、ギターやチャランゴで加勢したライブだった。

   

   ※ 演奏する三人の奏者たちです。左から岡田、勝野、正木の各氏です。

 例によって、私は演奏された曲名をメモしたのだが、はっきりと聞き取れなかったところもあり、かなり妖しいのでArbol y Vientのファンからお叱りを受けるかもしれないが、私の記憶にとどめる為にも曲名を記すことにする。

〈1〉ハカデノマウス

〈2〉五月の風

〈3〉天色の紫陽花

〈4〉カーニバル

〈5〉ダニーボーイ

〈6〉雲列車

 (休 憩)

〈7〉ウェラティ

〈8〉ブルーウインドウ

〈9〉小さなオルゴール

〈10〉足跡

〈11〉北の大地

〈12〉トウモロコシリーグ

《アンコール》

〈13〉コンドルは飛んでいく

   

   ※ Arbol y Vientのリーダー格で、ケーナを演奏する勝野勉さんです。

 曲名を眺めてみて、あるいはフォルクローレファンの方であればお気づきになるかもしれないが、そのほとんどはArbol y Vientのオリジナルだった。そのためだろうか?確かにケーナやサンポーニャで演奏はしているものの、音のテイストが私が知っているフォルクローレからはやや離れた音だったように思えてならなかった。事実、彼らArbol y Vientはフォルクローレだけに止まらず、アイリッシュやジャズのハーモニーも取り入れながら曲づくりをしていると公言していた。アンコールに演奏したフォルクローレの名曲「コンドルは飛んでいく」もオリジナルではなく、彼ら風にアレンジされたものであった。その点では、私が期待したフォルクローレを楽しむという点においてやや期待外れの感は否めなかったが、それでも随所にフォルクローレのテイストが感じられ、それなりに楽しむことができたライブだった。

   

   ※ Arbol y Vientのギタリスト正木良日久さんです。

 私にはフォルクローレそのものをもっと楽しみたいという思いがある。岡田さんの場合は(私はまだ彼のライブを2度ほどしか経験していないが)、フォルクローレのもつテイストを大切にしようとする姿勢がうかがえるし、フォルクローレそのものの音を楽しむことができると思っている。幸い岡田さんは札幌を中心に活躍されている方である。今後も岡田さんの演奏を楽しむ機会がきっと何度もあると思われる。岡田浩安さんのフォルクローレを今後も楽しみたい。

   

   ※ サンポーニャを演奏する賛助出演した岡田浩安さんです。


札幌市のパークゴルフ場めぐり〈40〉丘珠空港緑地コース

2022-06-21 16:43:16 | 札幌市のパークゴルフ場巡り

 ※ 早くに体験しながら、なかなか レポできずにいた「パークゴルフ場めぐり」である。長く蔵の奥深くにしまっておいたが、いわば蔵出し的に本日のレポにすることにした。

 久々に非常に気持ちの良いコースでのプレイとなった。コースは非常に整備されていて、多くの市民がプレイを楽しんでいた。私もこのコースでは18ホールをプレイして楽しんだ。

   

   ※ 「本日は営業中」という表示からして、パークゴルファーを歓迎しているようです。駐車場。

   

   ※ 管理棟というか、クラブハウス的な建物です。

   

   ※ 管理棟の前にはコ―ス全体のレイアウト図が表示されていました。

 丘珠空港緑地コースは、道路一つを隔てて丘珠空港に接している丘珠空港緑地内に設けられているコースだった。札幌市の「パークゴルフ場マップ」を見るかぎり、特別なパークゴルフ場ではないのだが、ここのコースには特別感があった。クラブハウスのような建物内には料金を徴収するスタッフが常駐し、建物内には菓子やパンなどの軽食も用意されていた。コースとしては18ホールだから特別大きなパークゴルフ場でもない。しかし、コースの整備状況は市内のパークゴルフ場としては一級品だった。

   

   ※ 「青空コ―ス」の一番ティーです。フェアウェイが整備されている様子がお分かりかと思います。

   

   ※ グリーン周りもこの日回った他のコースとは段違いでした。

   

   ※ 「青空コース」は周りを木々に囲まれていて、癒されるコースでした。

 フェアウェイはきちんと芝が刈られていて、ホール周りはさらに短く刈りこまれた芝によってホールを安心して狙うことができた。また、ロケーションとしても〔青空コース〕は適度に林間コースとなっており、一方〔翼コース〕は視界が広がる広々としたコースと、変化をつけているのも好ましく映った。

   

   ※ 一方「翼コ―ス」は写真のように全体が芝生に覆われ、広々とした印象を与えてくれました。

   

   ※ 写真のように全体が見通せるコースレイアウトでした。(翼コース)   

 私の「札幌市のパークゴルフ場めぐり」もようやく40台に乗った。残り25コースである。この後どのようなコースとの出会いがあるのだろうか?楽しみである。                                                                                                                          

 《コース概要等》

〔住      所〕東区丘珠町230番地ほか

〔コース概要〕・18ホール、パー66 総延長約 925m

〔休      日〕火曜日

〔利用時間〕 8:00~17:00 〔駐車場〕有(65台)

〔プレイ料金〕一般300円、小中学生150円、65歳以上210円(その他の料金設定あり)

〔ティーの用意〕有

〔問い合わせ〕丘珠空港緑地管理事務所 ☎781-3051

〔訪問日&私の成績〕22/06/01   青空コース 29/33  翼コ―ス 30/33