田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

ちょっと期待外れだったかな?興梠一郎氏の講演

2024-10-24 15:46:09 | 講演・講義・フォーラム等
 テレビなどでもお馴染みの中国研究家として知られる興梠一郎氏の講演を楽しみにしていたのだが、期待外れの感が強かったな?もう少し真剣に論じてくれると思っていたのだが…。

 一昨日(10月22日)午後、ニューオオタニインにおいて「エネ・フィール」という女性団体が主催する「エネ・バスケット学習会」に参加した。エネ・フィールとは、「北海道エナジートーク21」の趣旨に賛同する女性団体のようである。その団体が、神田外国語大学の興梠一郎教授を招請して「いま中国で何が起きているのか?~習近平体制と課題」と題して講演をするというので期待を抱いて参加した。

    
    ※ 講演をする興梠一郎氏です。

 ところが、お話は最初から興梠氏の宣伝めいたことから始まった。すなわち「私の言っていることを知りたかったら、私のOfficial You Tubeを見よ」と言っているかのごとく、興梠氏が作成しているページを映し出したり、ご自身の著書を紹介したり、まるで自身の宣伝のために演壇に登場したのかと聴いている者たちが錯覚するような出だしだった。

   
   ※ 興梠氏が発信するYou Tubeチャンネルのページを映し出しました。

 そして一応、次の3点についてお話したいと提示した。
 ① 日本人学校児童刺殺事件
 ② 日中の経済問題
 ③ 台湾問題に絡んだエネルギー関連問題
とした。
 しかし、内容的には私には空疎にしか映らなかった。
 興梠氏はお話しながら、なぜか絶えず笑いを交えながら話すのだが、会場は凍り付いたように誰一人笑う人がいなかったのを興梠氏はどう受け止めたのだろうか?私には興梠氏が中国の一般大衆を嘲笑する笑いだったのかな?と受け止めたのだが…。
 ① の日本人学校児童刺殺事件に関して、興梠氏は「中国政府の姿勢が中国の一般大衆を扇動している節がある」と指摘した。
そして中国は「報復社会」であるとも述べた。「報復社会」とは「低収入や失業中で社会的地位の低い男性が社会への報復をする」ことだとし、日本人学校児童刺殺事件もその一環だとの見方を示した。
② についてはほとんど触れなかったが、③ について、中国が台湾の周囲で軍事演習を繰り返しているのは、台湾への燃料輸入のルートを封鎖する狙いがあるとし、中国軍が台湾上陸をしなくとも台湾を窮地に陥れることができると指摘した。興梠氏によると台湾は一週間燃料の輸入がストップすると、国が立ち行かなくなると指摘した。

         

 そして最後に興梠氏は「中国国家主席である習近平は比類なき存在となってしまい、大きな誤りを犯す可能性が一気に大きくなった」と指摘した。
凡そのお話は以上のようなことだった。しかし、この程度のことは私たち一般人もメディアを通じて、それとなく把握していることとそれほど変わらないのではと思った。
 問題は、そうした中国の現状に対して、私たち日本人はどう考え、どう対処すべきなのか示唆することが中国研究者としての在り方なのでは?と思うのだが、その必要はないのだろうか?それとも、それは氏自身のYou Tubeを見てくれ、ということなのだろうか??
 私にはやや期待外れに終わった感の強かった講演会だった…。


工藤じゅんきの十人十色

2024-10-23 12:59:53 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道のSTVラジオが放送するバラエティ番組で「工藤じゅんきの十人十色」という長寿番組がある(らしい)。「らしい」ということは、私自身は聴いたことがないからだ。そのパーソナリティの工藤じゅんきのお話を聴いた。

   

 一昨日(10月21日)午後、かでる2・7において「北海道民放クラブ」が主催する講演会が開催され参加した。「北海道民放クラブ」とは、北海道内の民間放送会社に所属した経験のあるOB、OGたちで作る懇親会だそうだ。その民放クラブの中の「社会活動部会」が定期的に講演会を開催し、クラブ員以外にも聴講を呼び掛けている講演会なのだ。けっこう興味深い話題、人選なので私も時折顔を出している。
 今回はその一環として、まだ現役でマイクの前に立っている(現在72歳、STVを定年退職後も番組は担当している)工藤準基さんが招請し、「工藤じゅんきの人生いろいろ十人十色」と題する講演会が開催された。

        

 私は前述したようにラジオはほとんど聴かないので、番組自体も聴いたことがない。しかし、工藤じゅんきさんについては、その親しみやすいお顔と共に私の記憶の中にはあった人だ。
 お話はバラエティ番組のパーソナリティらしく、番組を通して出会った人、あるいは取材で知った人などのことをあれこれと紹介してくれたが、その中の一つのお話をレポしたい。
 それは旭川市のカレーの名店「クレージースパイス」の店主だった斉藤達哉さんを巡る人間模様についてだった。
 斉藤さんがつくるカレーは、徹底的に素材にこだわり、水分は玉ねぎを炒めることで抽出するそうだ。それと同時に斉藤さんは「男は生きざま」こそが全てという体育会系の生き方を標榜し、年中短パン、Tシャツで通していることなどから、旭川のみならずカレー通にとっては超有名店ということだ。

    
    ※ 「クレージースパイス」の店主:斉藤達哉さんの在りし日の姿です。

 そうした斉藤さんの店と、日本ハムのヒルマン監督時代に通訳を務めていた岩本賢一さんが繋がりがあったそうだ。岩本さんは旭川北高校時代に野球部に所属していたが腰を痛めて野球の道を諦めたが、斉藤さんの店でアルバイトをしていたという。その際に斉藤さんの生きざまに影響され、一念発起してスポーツトレーナーの道を志しアメリカの大学に留学しトレーナーへの道を歩んでいたところ、ニューヨークメッツの通訳に雇用され、そこで当時ニューヨークメッツの選手だった新庄剛志選手の通訳を務めることになったという。
 岩本さんは新庄選手より一足早く帰国し、日本ハム球団に採用されてヒルマン監督の通訳を務めるようになっていた。そこで、日本ハムが旭川で試合がある時には、自分がアルバイトをして心酔している斉藤さんが経営する「クレージースパイス」を日ハムの選手に紹介したところ、日ハムの選手たちには大好評で、当時日ハム選手だった大谷翔平選手も「クレージースパイス」のオムカレーにチーズと海老、マヨネーズとゆで卵をトッピングした「半熟オムのチーズカレー」が大好物だったそうだ。
   
※ 大谷翔平選手の大好物だっという「半熟オムのチーズカレー」です。

 そして新庄選手の日本球界復帰であるが、その際に新庄選手が「日本球界に復帰するなら日本ハムしかないでしょ」と云った言葉が私には忘れられない。新庄選手が何故そう云ったのか?私にはよく理解できなかったが、その言葉の裏には岩本賢一通訳との強い絆があったのではないか、と工藤じゅんきさんは明言されなかったが、きっとそう言いたかったのだと思うし、私もそう思いたい。 

    
    ※ 日本ハム監督時代のヒルマン氏の通訳を務める岩本賢一氏です。

 なお、店主の斉藤達哉さんは昨年9月に59歳という若さでお亡くなりになってしまったそうだ…。きっと多くの人の涙を誘ったに違いない。
 その他にも工藤じゅんきさんは番組を通して知り合った方々との思い出話を披露してくれたが、ここでは割愛したい。
 「北海道民放クラブ」の講演会の人選は硬軟織り交ぜてなかなか興味深い。次回は元旭川動物園長の小菅正夫氏だという。氏の話もなかなか興味深い。楽しみに待ちたいと思う。

あゝ、懐かしきキハ40

2024-10-22 10:38:57 | その他
 え――――っ!こんなところで再会できるの!?あの朱色とクリーム色のツートンカラーのキハ40型気動車。私の高校時代3年間、列車通学でお世話になったキハ40型気動車。私はキハ40に乗車中、高校時代にタイムスリップしていた…。

    
    ※ こちらに「キハ40」はウェブ上に掲載されていた写真です。

 その懐かしき「キハ40型気動車」に再会できたのは、過日JRウォーキングで富良野に向かった「根室本線」乗車した時だった。滝川駅から富良野に向かう列車が「キハ40型気動車」だったのだ!
 あの特色ある車体を彩る朱色とクリーム色のツートンカラー、そして車内はダークブルーの座席、それは私が高校時代に通学時に利用した気動車そのままだった…。

    
    ※ 富良野駅に到着した「キハ40型気動車」です。

 私の高校時代は、遥か昔に遡る1961(昭和36)年4月から、1965(昭和40)年3月までである。当時私は道東の小さな町である津別町の北見相生という集落に住んでいた。
 高校は、当時北海道は小学区制だったため高校は町の唯一の高校「津別高校」に入学することが必然だった。「津別高校」は私が住んでいた北見相生から列車で30分ほど離れたところにあった。
 そこで通学には、当時周辺町村の中核町村であった美幌町から北見相生までに敷設されていた国鉄「相生線」を利用して「津別高校」に通学していた。その時走っていたのが「キハ40気動車」だったのだ。
 だから私にとって「キハ40気動車」は私の青春と共にあった列車だったといっても過言ではない。「キハ40気動車」での30分間は友人たちとの絶好のおしゃべりタイムだった。今のようにスマホがあるわけでない。かといって教科書を繰るほど勉強熱心でもなかった。それでも定期テストの前くらいは教科書を開いていた時もあったかなぁ…。

   
   ※ キハ40の社内です。当時とまったく同じでした。

 時には、寝坊をして朝食も摂れずに「キハ40気動車」に駆け込み、気動車内で弁当をかっ込んだ時もあった。
 「キハ40気動車」で忘れえぬ思い出は、1962(昭和3)年6月に十勝岳が大噴火をしたときだった。噴煙は道東一体に降り注ぎ、空は朝からどんよりと曇っていた。気動車は外気を車内に取り入れる方式だったらしい。車内は噴煙で真っ白になってしまったことを記憶している。
 「相生線」は当時の国鉄にとっても枝線の枝線で、当時から赤字路線だったのだろう。国鉄がJRに代わる前の1985(昭和60)年にいち早く廃線となってしまった。
 私は今夏、その「相生線」の終着駅「北見相生駅」に立ち寄ってみた。当時の駅舎が今なお保存されていたのを懐かしく、思い出深く眺めたのだった…。
 そんな思い出いっぱいの「キハ40気動車」に思わぬ形で再会できた奇跡(?)をブログに記さずにはいられなかった…。

    
    ※ 帰路、滝川駅に到着した「キハ40」のヘッド(運転席)です。

 なお、古き「キハ40気動車」がいまだに現役で走っていることは、撮り鉄のファンにとっても貴重な存在のようだ。沿線には何人もの撮り鉄ファンがカメラを抱えて「キハ40気動車」が通過するチャンスを狙っていたのが印象的だった…。

ヘルシーウォーキング㊺ 食と自然を独り占め富良野ウォーク

2024-10-21 19:14:09 | JRヘルシーウォーキング
 いや~、寒い一日でした。遠く十勝連山の峰々には白い雪が被り、近くの山々もすっかり紅葉する中、ブドウ畑や秋まき小麦の畑の田園風景を見ながらのウォークとなった。ワインとチーズもしっかりとゲットしながら…。
           
 ※ JRウォーキングのマップでは初めて2枚組のマップでした。

 10月20日、予告どおりJR北海道の「一日散歩きっぷ」(2,540円)を利用し、JRヘルシーウォーキングの「いつでもウォーク」として設定されている富良野コースを歩いた。
 「なぜわざわざ遠く富良野まで出かけて歩かねばならないの?」と事情を知らない方は訝るかもしれない。趣味の世界というのは、関心がない人にとっては「何が面白いの?」ということになる。
 私の場合は、昨年からこのJRウォーキングに取り組んでいるのだが、このJRウォーキングはポイント制を採用しているところが参加者をくすぐるのだ。私は昨年30ポイントを獲得し、主催者からささやかなプレゼントをいただいた。今年も「ぜひ30ポイントを!」と思い取り組み始め、春先は順調に道内各地を巡りポイントも積み重ねだのだが、途中から「さっぽろラウンドウォーク」にも取り組み始めたために、こちらの方がおろそかになっていたのだ。ウォーキングシーズンも終わりに近くなり、慌てて帳尻を合わせようと思い始めて、まだ歩いたことのない富良野コースを選択したということなのだ。
 昨日の朝、札幌駅発6時35分の鈍行列車に乗り、岩見沢、滝川で乗り継いで富良野駅に到着したのは10時46分だった。(鈍行列車は辛い!滝川駅で1時間半も待たされた)

    
    ※ JR富良野駅です。駅内には「駅そば」が開店していました。

 駅そばで腹ごしらえをしたり、トイレを使ったりしてスタートは午前11時富良野駅前をスタートした。

    
    ※ 富良野駅からは西側と南側に駅前通が伸びといるが、写真は西側の駅前通です。

 すると厚目のアウターを羽織っていたのに「寒い!」のだ。それもそのはず、遠く十勝連峰の峰々は白い雪が被っていたのだ。この日私が札幌を出る時も雨が霰に変わり道が白く染まり始めていた。

    
    ※ 十勝連峰の峰々はすでに真っ白くお化粧をしていました。

 ルートは駅前から直ぐに郊外の田園風景と変った。初めは普通の畑作地帯だったが、しばらく進み道を折れ曲がると、周りは一面ブドウ畑に変わった。富良野市のウリの一つである「富良野ワイン」の原料となるブドウ畑が連なる道を歩いた。

    
    ※ 写真のようなブドウ畑が延々と伸びていました。

 そのブドウ畑の中にたくさんの車が駐車している「カンパーナ六花亭」が建っていた。「カンパーナ六花亭」は、本業の菓子の販売はもちろんのこと、ちょっとオシャレなランチの場ともなっているようだ。六花亭は札幌でもそうだが、ちょっとハイクラスなお店づくり長けているように思える。ここを通った時、ちょうど正午だったのだが、建物の一部に鐘楼があり、正午を伝える鐘が鳴り渡った。

    
    ※ たくさんの車が駐車している「カンパーナ六花亭」です。鐘楼は写真の右側に建っていました。

 さらにその先には「ふらのワイナリー」の工場が建っていたが、先を急ぐ私は工場には寄らず通過した。

    
    ※ 「ふらのワイナリー」の建物です。

 ルートは街中近くの住宅街に導かれ、さらには街中へと一時戻ったが、そこには「富良野神社」が建ち、さらにその向かいには「富良野小学校」が建っていた。その小学校の校庭には「北海道中心標(正式には、「北海道中央経緯度観測標」)」という高さ4m、重さ34トンという大きな標石が置かれていた。富良野市は「へそのマチ」として知られているが、その由来がこの中心標が立てられていることによるようだ。

    
    ※ 富良野神社の第二鳥居と本殿です。
    
    ※ 富良野小学校の校庭に立てられていた「北海道中心標」です。
    
    ※ 中心標の傍には「北海へそ祭り」をPRする人形も立っていました。

 ルートは富良野の道の駅的存在でもある「ふらのマルシェ」という富良野地方の産品を一堂に並べて販売するマーケットであるが、ここも私は一度訪ねたこともあり、時間的に余裕もなかったのでパスして先へと進んだ。

    
    ※ 「ふらのマルシェ」は大盛況のようで、第二会場も建設されました。

 ルートはまたまた田園地帯へと導かれる。ほとんど休みらしい休みもとらず10キロ近くも歩き続けたことでかなり疲労がたまってきたようだった。畑は収穫が終わり、整地されていて単調な風景だった。中に一部緑色の畑が見えたが、秋まき小麦が芽を出した状態のようだった。

    
    ※ 秋まき小麦の畑では?と思われますが…。

 ルートの目的はただ一つ、畑作地帯の先にある「富良野チーズ工場」を目ざすことだったが、疲れた体にはこれが遠かったぁ…。畑作地帯の外れ小高い丘の中腹にそれはあった。日曜日とあって観光客がたくさん詰めかけていた。私はこうした時に、土産などは購入しない主義なのだが、せっかくの記念とあって妻に富良野ワインとここの工場で生産されたチーズをお土産を購入した。

    
    ※ 「富良野チーズ工場」の庭(写真上)と工場・売店の建物です。
    

  あとは一部来た道とルートは違ったが、一路約4キロをゴールの富良野駅に向かって歩み続けるだけだった。

    
    ※ 富良野駅から南に伸びている駅前通です。こちらがメインかな?とも思われました。

 ゴールの富良野駅に着いたのは午後2時40分。つまり所要時間3時間40分を要したのだった。コースは約15キロということだったが、途中私の地図読みの甘さから2度ほどルートを間違えてあちこちと彷徨ったこともあり、私の歩測計では約17.5キロと出ていた。
 富良野市での滞在時間は4時間15分。私はその大半を歩いていたことになる。そして札幌からは遠方ということで2ポイントを獲得し、札幌駅へは午後6時47分に帰り着いたのだった。

        ※ 若い頃、何度も何度も、何度も滑った富良野スキー場(旧称:北の峰スキー場)です。

 私は今後さらに2コースのJRウォークを予定している。なんとか目標の30ポイントを獲得できるのではないかと計算している。
◇ウォーク実施日  2024年10月20日(日)
◇歩いた距離    約15.0 km

“回想法” って何だ??

2024-10-20 04:38:09 | 講演・講義・フォーラム等
※ 本日は他人から見れば “なんて酔狂な!" と思われるかもしれないが、朝早くから富良野に列車で向かい、JRウォーキングをやって、夜8時過ぎに帰宅予定である。そのため予めブログを投稿してから出かけることにしました。

 “回想法” などという言葉は私にとっては初耳だった。“回想法” はどうやら我々高齢者にとっては脳を活性化させるための有効な手段のようだ。この分野では国内でも高名な方のお話を伺った。

     
 昨日(10月19日)午前、札幌学院大学新札幌キャンパスにおいて「札幌学院大学心理臨床センター市民講座」が開講され受講した。講座のテーマは「高齢者の語りと回想法~豊かな今とこれからに向けて~」と題して上智大学名誉教授で、黒川由紀子老年学研究所々長である黒川由紀子氏が講師を務められた。
 黒川氏の講義は2時間にわたるものだったために、回想法を含めた高齢者に関わる多岐のことに及んだが、ここでは私が把握することができた “回想法” に絞ってレポすることにする。
 そもそも “回想法” とは、アメリカの精神科医であるロバート・バトラーが提唱した心理療法の一つだそうだ。
 その “回想法” を一言で言い表すと「昔の懐かしい写真や音楽、昔使っていた馴染み深い家庭用品などを見たり、触れたりしながら、昔の経験や思い出を語り合う心理療法の一つ」だという。
 そしてその効用は、「昔のことを思い出して言葉にしたり、相手の話を聞いて刺激を受けたりすることで脳が活性化し、活動性・自発性・集中力の向上や自発語の増加が促され、認知症の進行の予防となります。また、昔の思い出に浸り、お互いに語り合う時間を持つことで精神的な安定がもたらされる」ということのようだ。
 その方法には「マンツーマンで行う個人回想法と10名前後で行うグループ回想法がある」という。

    
    ※ 講演する黒川由紀子氏です。

 黒川氏は云う。人間には「流動性知能」「結晶性知能」と二つの知能が存在するが、「流動性知能」とは、処理のスピード力、直感力、図形の処理能力、法則を発見する能力などを差すが、対する「結晶性能力」とは、言語能力、洞察力、創造力、内省力、コミュニケーション力などを差すという。その二つの知能のうち「流動性知能」は加齢と共に衰えていくのに対して、「結晶性知能」の方は高齢となっても維持され、安定する傾向があるという。高齢者は、「結晶性知能」の方を維持するためにも“回想法”を採り入れるべきであるというのが黒川氏の主張と理解した。
 そして黒川氏は、“回想法”の特性を次のように説明された。
 「昔の思い出は、高齢者の方が今まで歩まれてきた人生そのものであり、昔を懐かしんで話をされている時は、自然と穏やかな表情になっていらっしゃることでしょう。語り合う相手がいれば、喜びや幸せな気持ち、大変だった経験を乗り越えてきたことも一緒に分かち合い、充実した時間を過ごすことができます。楽しかったこと、辛かったこと、家族や友人とのエピソード、生き抜いてきた社会的背景など、人それぞれ過ごしてきた時間は異なります。今までの自分の人生を振り返り、人生を再確認することで、現在の自分も肯定的に受け入れやすくなります。昔の思い出に親しむことはごく自然なことであり、回想法は今の自分を認め、人生を豊かにするための手段のひとつとも言えるでしょう」と…。
 この後、黒川氏は実際に実施した体験談をいつか紹介してくれた。
 黒川氏のお話を聴いていて、私が所属する「めだかの学校」で今取り組んでいることが多少関係がありそうだな、と思えてきた。
 というのも、「めだかの学校」では今年度下半期の学習プログラムの一つに「めだか会議 放談会」というプログラムを開始した。このプログラムはテーマを決めて、会員があれこれとテーマに関して喋り合うというものである。拙ブログにおいて先日も投稿したが、10月のテーマは「私の健康法」だった。これは“回想法”とは結び付かないが、今後のテーマの中には「私の忘れえぬ思い出(旅、食、出来事、他)」とか「私が名作だとお勧めできる作品」、あるいは「北海道内のお勧めスポット」などは、それぞれの過去のことを語ってもらうものである。
 これらは必ずしも“回想法”のねらいと直結するものではないが、ある種繋がっている部分も感ずることができる。
 今回“回想法”のことを学び、会員の発言を肯定的に受け止めるよう努めることによって、会員一人ひとりが自らを肯定できる機会となれば嬉しいかぎりである。そして将来は「めだかの学校」においても“回想法” そのものを実践してみたいと思わせてくれた講義だった。

またまた感動!札幌大谷高校音楽科演奏会

2024-10-19 16:29:13 | ステージ & エンターテイメント
 先月の北星女子高校音楽科の演奏会に続いて、今回は札幌大谷高校音楽科の演奏会を聴かせていただく機会があった。音楽の専門家を目ざす(?)彼ら、彼女らの演奏は真剣そのもので難度の高い曲目に挑む姿に感動を覚えた。

   

 昨夜、札幌コンサートホールKitara(今回は大ホールではなく小ホールでの演奏会だった)において札幌大谷高校音楽科の第39回定期演奏会があり、知人が入場整理券を入手してくれたので演奏会を聴く機会に恵まれた。
 今回の演奏会も北星女子高校と同様、音楽科生徒52名の校内オーデションを経たうえで選抜された10名がソロで演奏を披露したそうである。例によって演奏された曲目と独奏、独唱の違いを紹介すると…、(演奏した生徒名は割愛)
 ① F.リスト/即興的ワルツ S.213  (ピアノ独奏)
 ② パイジェッロ/もはや私の心には感じない 他(ソプラノ独唱)
 ③ F.リスト/ハンガリー狂詩曲 第6番  (ピアノ独奏)
 ④ J.S.バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 他(サクソフォン独奏)
 ⑤ ラフマニノフ/《楽興の時》第1番 変ロ長調 Op.16-1  (ピアノ独奏)
 ⑥ ラヴェル/《スペイン狂詩曲》より「祭り」  (電子オルガン独奏)
〈 休  憩 〉
 ⑦ 田中喜直/《たんぽぽ》 他(ソプラノ独唱)
 ⑧ J.ユー/《ファンタージー》  (フルート独奏)
 ⑨ バルトーク/《戸外にて》より1.「笛と太鼓で」 他(ピアノ独奏)
 ⑩ A.トマジ/《バラード》  (サクソフォン独奏)
 ⑪ プロコイエフ/4つの練習曲 第2番 Op.2-2 e-mooll  (ピアノ独奏)
そして最後に音楽科生徒52名による合唱曲2曲が披露された。その曲目は…、
 ◇武満徹/ 混声合唱のための《うたⅡ》より「死んだ男ののこしたものは」
 ◇上田真樹/混声合唱とピアノのための組曲《夢の意味》より「4.夢の意味」「5.
夢の名残」
 以上だったが、北星女子と違い大谷高校は共学ということもあり、男子生徒の出演ももちろんあった。④、⑤、⑪は男子生徒の演奏である。
 私はいつもこの種の演奏会を聴くときに、私なりの感想をプログラムにメモするようにしているが、今回も逐一演奏ごとにメモし続けた。
 そのメモをもとに私なりの感想を述べてみると、第一にピアノ独奏はいずれもが難しい曲に挑戦していたのではないか?と思われたことだ。いずれの演奏者の曲も、非常に速い運指を必要とする曲だったが、さすがに高校生ともなると「凄いなぁ」と率直に関心した。ただ、それがソプラノ独奏となると、大人の声とは違い成長途上の声という印象は否めなかった。しかし、それは人の成長に伴って肉体が変化していくことに伴うものだから致し方のないことでもある。サクソフォン、フルート、電子オルガンについても、各人が高度な技を獲得して演奏に臨んでいたと思えた。
 そして北星女子のときと同様、各人が演奏する曲目をどのように解釈し、どのように演奏しようとするのか、その思いをプログラムに寄せていたが、それぞれが演奏する曲目を深く理解して演奏に臨んでいたこと窺わせてくれた。
 いずれにしても、将来的に音楽の専門家を目ざしているであろう若い高校生たちの真摯な努力の成果に触れることができ、満ち足りた思いでKitaraを後にした。

 

初めての冬囲い

2024-10-18 15:00:23 | ボランティア
 “初めてのお使い” ならぬ “初めての冬囲い” である。慣れぬ手つきながら、なんとか恰好だけは整えた。しかし、実際に幼木は無事に冬を越すことができるのか?その答えは来春になるまで分からないのだが…。

 本日午後、私にとっては人生初めての「八重紅枝垂桜」の幼木の冬囲いに挑戦した。
 というのも、15年間継続してきた道立近代美術館前の歩道の清掃ボランティアだが、(そのボランティアについては拙ブログで折に触れて投稿してきた)会員の高齢化によって今秋をもって終止符を打つことにした。残念だが、高齢化は抗しがたい現実である。
 そこで会の会費に若干余剰金があったことから、「活動を続けてきたことを記憶に残すため、記念の植樹をしよう!」ということになった。樹種は私の希望も入れてもらって「枝垂桜」にすることになった。

    
    ※ 樹名板は東急ハンズで制作しました。

 ネットを通じて小さな幼木を入手し、9月末に会員の手によってマンションの庭に植樹した。植樹して3週間が経ったが、今のところ順調に育っているようである。

        
       ※ 購入した枝垂桜の幼木です。無事に育ってくれますように…。

 そこで必要となるのが雪国寒冷地である札幌においては “冬囲い” が必須である。市の緑のセンターに出向いて、指導員の方から冬囲いについてレクチャーを受け、ホームセンターに行って器材を購入した。購入したのは「サンムシロ」という石油由来のむしろ、風除けネット、ネット張り用支柱、結束バンド、などである。
 まずサンムシロで枝垂れ桜の幼木を覆い、棕櫚縄を使って結わえた。

    
    ※ まずサンムシロで幼木を覆いました。

 続いて、その周りを覆うように支柱を立てて風除けネットを巡らし、結束バンドで支柱に結わえた。

       
       ※ サンムシロで覆った幼木をさらに風除けネットで覆いました。 

 と書くと、なんとなく冬囲いが立派にできたように聞こえるかもしれない。 
 しかし、この出来具合で、厳しい札幌の冬の気候に耐えうるのか?と問われるといささか自信がない。何せ素人仕事なのだから…。
 冬本番を迎えて、吹雪のために風除けネットが吹き飛んでしまうかもしれない。それくらいあやふやな作業で自信がないのだ。もし吹き飛んだから、冬の最中に補修作業に追われる羽目となるかもしれない。
 心配の種は尽きないが、“その時はその時” と腹をくくってこの冬を過ごすしかないかなぁ、と思っている。そんないささか自信のない “初めての冬囲い” でした…。

「命の嘆願書」の著者が語る

2024-10-17 16:59:50 | 講演・講義・フォーラム等
 戦争とはなんと非人間的な行為なのか、私のような者が軽々しく云うべきではないのかもしれないが、敗戦国となった我が日本の旧ソ連抑留者の中に、仲間のために自らの危険も顧みず、抑留国政府に嘆願書を送りつけた三人の日本人がいた。著者はその埋もれていた事実を執念の追跡で事実を明らかにした。

   

 昨夜、自治労会館において今年度第1回目の「労文協リレー講座」が開催された。第1回目は「『命の嘆願書』が訴えるもの~モンゴル・シベリア抑留の物語」と題して、元読売新聞記者の井出裕彦氏が講師を務めた。

   
   ※ 講演をする井出裕彦氏です。

 「命の嘆願書」とは、第二次世界大戦によって敗戦となった日本軍の兵士は旧ソ連全域とモンゴルに57万5千人が抑留された。そして抑留中の死者の数が5万5千人にも上ったという悲惨な事実があったのだが、その中でモンゴル抑留者の中には日本兵のみならず民間人も多数含まれていたという。(モンゴル抑留者1万4千人中、約1割が民間人だったそうだ)
 著書はモンゴルに抑留された日本人のリーダー3人が、自らの危険も顧みず旧ソ連政府に嘆願書を送り付けたという事実があったことを知った。歴史に埋もれようとしていたその事実を著者は執念の追跡でそれを明らかにした書なのである。
 その著書を紹介する記事を転写する。

  飢餓、極寒、重労働──。
  「殺してくれ」凍傷に倒れた同胞は死を願った。
  生き延びるために、抑留国政府を相手に
  自らの危険を顧みず嘆願書を送りつけた三人の日本人がいた。
  本書は、国家機密の壁を越え、その闘いを緻密に追跡した
   元読売新聞記者による135万字の記録である。

 著者である井出裕彦氏は現役の読売新聞社時代にモンゴル抑留者のことを知ったようだ。そしてモンゴル外務省中央公文書館において、3人の日本人が作成した嘆願書の存在を確認したという。井出氏はこの事実を発掘することをライフワークとする決心を固め、新聞社を辞し、一人で取材を進め、3年間にわたる執筆作業によって135万字にも上る大書を上梓したのである。
 自らの危険を顧みず嘆願書を送りつけた三人の日本人とは、
 ◇満州熱河省日本人居留民団長 久保昇 氏
 ◇ウランバートル収容所日本人部隊指揮官 小林多美男 氏
 ◇日本人向け病院部隊の軍医 木本隆夫 氏  
の三人である。

   

 嘆願書は公文書館において9通が見つかったという。その内容は、久保氏の名による「民間人の抑留は国際法違反であり、捕虜の扱いを受けるのは了解できない」として早期の本国帰還を求めたもの。一方、小林氏、元木氏の嘆願書は、モンゴル到着後、日本人抑留者の間で相次いだ凍傷に対する緊急対策を求めたものだった。
 その見返りはやはり厳しく、3人は投獄されたり、帰国が他より遅らされたりした。特に小林氏は過酷な取り調べを受け「水牢」に4ヵ月以上も収容されたりもしたという。
   
※ 久保氏が提出した嘆願書の写しです。

 著者の井出氏は何度か公文書館に足を運ぶうちに抑留者の中で、現地で死亡した283人(その後の再調査でさらに分かった67人も加え)の「死亡診断書」、「死亡証明書」を見つけて、その写しを自費で入手し、著書にそれらの方々の氏名を公表し、ご遺族に死亡記録(写し)を無償提供することを現在も続けているという。

   
※ 135万字とは、新書版に換算すると実に30冊分に相当するという大書であるという。

 話は多岐にわたったが、講演の趣旨は以上のような内容だった。私はお話を聴きながら、確か小学校の低学年の頃だったと思う。ラジオから流れてくるソ連、中国、朝鮮などから引き揚げてくる人たちが帰港する「舞鶴港」からの実況中継していたアナウンサーの声が忘れられない。帰港する方々の数奇な運命など分からないまま、アナウンサーの方が興奮した声で語る声が耳に残っている。その中に、モンゴルで苦しまれた方もいらっしゃったのだろうか…。
 なお、講師を務められた井出裕彦氏は読売新聞社退社後、その理由は語られなかったが、現在は石狩管内の当別町に居を移して、当別町を拠点に活動を続けているそうだ。身近なところに、素晴らしい生き方をされていることを知り、大いに刺激された。

 ※ 実は、私が井出氏のお話を伺うのは7月24日に続いて2度目である。

山岡荘八著「徳川家康」に熱中しています!

2024-10-16 15:39:23 | 本・感想
 “何を今さら” と揶揄されるかもしれないが、この歳になってようやく歴史物に興味を抱きだしたという極晩熟(ばんじゅく)の私である。山岡荘八全集の中で「徳川家康」編は26巻あるのだが、現在8巻まで読み進めた。面白い!熱中しています。

 ある時、某氏と話をしていた際に、私が「山岡荘八の伊達政宗を読んでいる」と話したところ、その某氏が「じゃ、次は徳川家康だね」と言われ、主体性のない私は某氏のお勧め通りに「徳川家康」に手を染めたということなのだ。

   
 いや~、実に面白い!その第一の要因は山岡荘八の筆致の巧みさに私が単純に酔っているということなのだが、人の命を虫けらのごとく扱う戦国時代において、家康の戦略家のとして読みの鋭さ、そして人間としての奥の深さが私にはとても興味深い。
 第1巻「出生乱離の巻」
 第2巻「獅子の座の巻」
 第3巻「朝露の巻」
 第4巻「葦かびの巻」
 第5巻「うず潮の巻」
 第6巻「燃える土の巻」
 第7巻「颱風の巻」
 第8巻「心花の巻」
と読み進めてきたが、第8巻において風雲児とも称された織田信長が京都「本能寺」において家臣であった明智光秀の謀反によって倒されたところである。

   
 考えてみると、戦国時代において全国制覇を狙っていた今川義元、武田信玄、そして織田信長といった傑物たちが次々と倒れていった時代である。その時代を生きた徳川家康自身がどう考えていたか知る由もないのだが、少なくとも表面上はけっして野心を剥き出しにするようなことがなかったのは事実のようだ。

   
 物語はまだ1/3も読み進んでいない。この後、残った羽柴秀吉とどのような丁々発止を繰り広げてゆくのか、いやいや家康のことだから柳の木が風に逆らうことなく流されるようで、流されることなく、自らの意志を深く潜航させながら貫いていく様がどのように描かれていくのか興味を持ちながら読み進めたい。
 とは云っても、私の読書時間はけっして多くはない。だいたいが寝る際に睡眠薬代わりに読むことがほとんどであるうえ、遅読ときているから、遅々として先へ進めないのが現実である。残り18巻の完読が何時になるのか?予測もつかない。おそらくお正月を過ぎてもまだまだその途中であろう。今のペースなら来年一年間はかかるかなぁ…。
 私のペースで、焦ることなくじっくり味わいながら読み進めたいと思っている。

あなたの健康法は?「めだか会議 放談会」

2024-10-15 16:44:30 | 「めだかの学校」関連
 めだかの学校の会員の方々が実に多彩な健康法を実践していることを知ることができた!食事に気を付けている方、体力づくりを計画的に実践されている方、積極的に外出し講座、講演を聴いている方、人それぞれであったが参考になることが多かった。

 私が所属し、代表を務めているシニアの生涯学習グループ「めだかの学校」では、本日より今年度下半期の学習企画を実施することとなった。下半期は二つの企画を実施することにしている。
 その一つが、「めだか会議 放談会」と称して、テーマを設定し、そのことについて会員同士が自由に発言し、交流を図るというものである。
 そしてもう一つが、「DVDフォーラム」と題して会員所蔵のDVDを視聴して感想を語り合うという企画で、両者を交互に月に1度ずつ実施していく計画である。
 本日はその初回として「めだか会議 放談会」が「私の健康法」をテーマに交流を図った。
 すると、めだかの学校の会員は “意識高い系” が多いのか、次々と自らの健康法を語ってくれた。

   

 曰く、食事(特に朝食に)に必ず体に良いもの(酒粕、玉ねぎ、ヨーグルト、ブロッコリー等)を採り入れているという人、3食をしっかりと摂るよう心がけているという人、玄米採食を摂っている人、と様々ではあったがいずれもが “健康の源は食事である” ということを意識し、食事には特に注意を払っている方が多かったようだ。
 続いて、運動である。こちらはラジオ体操、そして歩くことを心がけている方が多かった。年代としてはそれが妥当かな、と思われた。中にはボランティアに取り組むことで自然と身体を動かすことに繋がっていると発表された方もいた。
 さらにボケ防止のために、新聞の社説や歳時記の書写を習慣化している人、積極的に講演・講座の受講を心がけている方。また、 “健康検診” の必要性を主張する方も多かった。そして「めだかの学校」に参加することによって交流を図ることができていることに感謝する言葉もあった。
 私は?というと、ふだんあまり健康法を意識することなく暮らしている自分に気付いたが、最近少し体力の衰えを感ずることが多くなってきたので、自分はふだんどうしているのかについて振り返る良い機会だった。
 そうして振り返ってみると、食事に関しては毎朝一杯のトマトジュースを飲むことと、朝食後にヨーグルトを摂ることをここ20数年間継続していることに気付いた。食事自体については妻に任せっきりであるが、食卓にはいつも多品種の食品が並べられていることが健康に繋がっているものと妻には感謝している。
 運動については、近年はやはり “歩く” ことが中心となっている。しかし、毎日決まった歩数を歩くという方法ではなく、その日その日によって歩く距離も、歩くところもマチマチである。ただ、スマホの歩数計を見るかぎり今年の一日平均歩数が今のところ一万歩を超えているのでまずまずかな?と思っているところだ。ただ、筋肉系の運動が不足していることが反省点である。
 また、ボケ防止という点では、札幌に住んでいるアドバンテージを活かして積極的に講座、講演、そしてステージにと毎日のように歩きまわり、それをブログとして投稿していることがボケ防止に繋がっているのではと思っているところだ。
 私の反省点としては、もっと意識を高く持って意図的な健康法を実践することかな?と反省しているところである。

   

 放談会は自分の実践していること交流し合い、そこから学ぶことを狙いとしているが、今回はゲストに招いた道民カレッジの事務局(生涯学習振興課長)の方のアドバイスもいただき、実り多い放談会になったと振り返っている。今後の「放談会」も楽しみになってきた。