戊辰戦争に敗れた東北諸藩の士族は禄を失い困窮を極めていたが、明治新政府(北海道開拓使)は、それら士族の救済を目的として屯田兵制度を創り、北海道に移住させ、北方警備と北海道開拓を託したのだが…。
先週から受講している札幌市生涯学習センター講座(ちえりあ講座)「先人たちのさっぽろ物語~札幌の『今』をつくった ひとの歴史」の第二講が昨日午後にあり受講しました。
第二講のテーマは、「琴似屯田兵村の歴史~屯田兵の暮らしと労苦を伝える~」と題して、琴似屯田子孫会の事務局長である永峰貴氏が務めました。
先週から受講している札幌市生涯学習センター講座(ちえりあ講座)「先人たちのさっぽろ物語~札幌の『今』をつくった ひとの歴史」の第二講が昨日午後にあり受講しました。
第二講のテーマは、「琴似屯田兵村の歴史~屯田兵の暮らしと労苦を伝える~」と題して、琴似屯田子孫会の事務局長である永峰貴氏が務めました。

※ 講師を務めた屯田兵三世の永峰貴氏です。
永峰氏は屯田兵三世で、琴似屯田兵として入植した祖父に与えられた土地に現在も住まわれている数少ないお一人で、地域FM放送局「三角山放送」において、屯田兵の業績を伝える「屯田兵グラフティ」のパーソナリティを長らく務められている方でもあります。
そうした永峰氏と、退職組織において一緒に仕事をさせていただいたり、私が代表を務める「めだかの学校」において度々講師をお願いしたりして、親しくさせていただいている方です。

※ 永峰氏の祖父・永峰忠四郎氏が写った貴重な写真です。(永峰氏は前列右端の方)
永峰氏のお話は、屯田兵に関して多岐にわたりましたが、ここではテーマにも掲げられた屯田兵の ‟労苦” に絞ってレポしてみたいと思います。
屯田兵制度は、開拓使次官だった黒田清隆の建議によって創設されたとなっています。それによりますと、屯田兵制度創設の目的は、
① ロシアの南下政策から北海道を守る
② 未開の大地の開拓
③ 禄を失った士族の救済
を目的としたということですが、③の士族の救済という目的の裏には、「旧幕府側の武士を遠隔地に追いやる」という隠れた目的もあったのだと永峰氏は指摘しました。
未開の北海道を開拓するということは、機械力もほとんどない明治初期において、大木が生い茂る原野を切り拓くことですから大変な困難を伴うことでした。
当時の屯田兵の日課は次のようだったそうです。
□ 4月1日~9月30日
起 床 4:00
就 業 6:00~12:00
食 事 12:00~13:00
就 業 13:00~18:00 ※ 就業時間 11時間
□10月1日~3月31日
起 床 5:00
就 業 7:00~12:00
食 事 12:00~13:00
就 業 13:00~17:00 ※ 就業時間 9時間
永峰氏は言います。「週休2日に慣れてしまった私たちには、想像を絶する重労働」だったと…。
ですから、屯田兵にとって過酷な肉体労働がその ‟労苦” の第一番だったことが想像されます。加えて、それまで体験したことのない北海道の冬の寒さが屯田兵や家族を苦しめたことも容易に想像できます。

※ 写真は琴似市街地に保存展示されている琴似屯田兵村兵屋跡の建物です。
ところが彼らの ‟労苦” はそれ以外のところにあったのです。
まずは、当時の北海道のいたるところに生息していた野生生物(オオカミ、ヒグマ、バッタ、カラス、etc)が屯田兵が栽培した農作物を食い荒らす被害に苦しめられたということです。
さらには意外なことに、屯田兵たちが苦労したことの一つに「言葉」があったそうです。東北各地から集められた士族たちはそれぞれの方言で話すために意思疎通に苦しめられたようです。そのことから、北海道では標準語に近い北海道弁が普及していったということです。
というようなことより、さらに彼らを苦しめたのが「世間の冷たい目」だったそうです。世間の目は、彼ら屯田兵を「天皇に逆らった者」という目で見ていたことに耐えることが、最も辛いことだったということです。
そうしたこともあったからでしょうか?西南戦争が勃発して九州に派遣された屯田兵は、汚名返上とばかりに誰よりも勇敢に戦ったと史実は伝えています。
講座を受講して、札幌、及びその周辺、そして北海道各地が現在のように発展した礎には、屯田兵たちの言い知れぬ苦労があったことを改めて思い知らされる思いでした。
講座は私がレポした以外にも、屯田兵に関わるさまざまなことを教えていただきました。
そして今、永峰氏は伝えられてきた屯田兵屋の間取りがある古文書の発見により、若干の違いがあることが判明したそうです。現在残され保存されている琴似屯田兵屋並びに琴似屯田兵村兵屋跡はいずれも畳の部屋が八畳と四畳半になっていますが、発見された文書では六畳と四畳半となっているそうです。

※ 永峰忠四郎氏の実兄である大隈忠之助氏が明治8年に記録として残した文書です。
その違いを正す屯田兵屋の再建し、保存することが永峰氏の肩にかかっているとのことでした。永峰氏のますますのご活躍を祈念したいと思います。