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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道を拓いた屯田兵の悲哀

2025-07-13 19:34:24 | 講演・講義・フォーラム等
 戊辰戦争に敗れた東北諸藩の士族は禄を失い困窮を極めていたが、明治新政府(北海道開拓使)は、それら士族の救済を目的として屯田兵制度を創り、北海道に移住させ、北方警備と北海道開拓を託したのだが…。

 先週から受講している札幌市生涯学習センター講座(ちえりあ講座)「先人たちのさっぽろ物語~札幌の『今』をつくった ひとの歴史」の第二講が昨日午後にあり受講しました。
 第二講のテーマは、「琴似屯田兵村の歴史~屯田兵の暮らしと労苦を伝える~」と題して、琴似屯田子孫会の事務局長である永峰貴氏が務めました。

    
    ※ 講師を務めた屯田兵三世の永峰貴氏です。

 永峰氏は屯田兵三世で、琴似屯田兵として入植した祖父に与えられた土地に現在も住まわれている数少ないお一人で、地域FM放送局「三角山放送」において、屯田兵の業績を伝える「屯田兵グラフティ」のパーソナリティを長らく務められている方でもあります。
 そうした永峰氏と、退職組織において一緒に仕事をさせていただいたり、私が代表を務める「めだかの学校」において度々講師をお願いしたりして、親しくさせていただいている方です。

     
  ※ 永峰氏の祖父・永峰忠四郎氏が写った貴重な写真です。(永峰氏は前列右端の方)
  
 永峰氏のお話は、屯田兵に関して多岐にわたりましたが、ここではテーマにも掲げられた屯田兵の ‟労苦” に絞ってレポしてみたいと思います。
 屯田兵制度は、開拓使次官だった黒田清隆の建議によって創設されたとなっています。それによりますと、屯田兵制度創設の目的は、
 ① ロシアの南下政策から北海道を守る
 ② 未開の大地の開拓
 ③ 禄を失った士族の救済
を目的としたということですが、③の士族の救済という目的の裏には、「旧幕府側の武士を遠隔地に追いやる」という隠れた目的もあったのだと永峰氏は指摘しました。

 未開の北海道を開拓するということは、機械力もほとんどない明治初期において、大木が生い茂る原野を切り拓くことですから大変な困難を伴うことでした。
 当時の屯田兵の日課は次のようだったそうです。
 □ 4月1日~9月30日
   起  床   4:00
   就  業   6:00~12:00
   食  事  12:00~13:00
   就  業  13:00~18:00  ※ 就業時間 11時間
 □10月1日~3月31日
   起  床   5:00
   就  業   7:00~12:00
   食  事  12:00~13:00
   就  業  13:00~17:00  ※ 就業時間  9時間 

 永峰氏は言います。「週休2日に慣れてしまった私たちには、想像を絶する重労働」だったと…。
 ですから、屯田兵にとって過酷な肉体労働がその ‟労苦” の第一番だったことが想像されます。加えて、それまで体験したことのない北海道の冬の寒さが屯田兵や家族を苦しめたことも容易に想像できます。

    
              ※ 写真は琴似市街地に保存展示されている琴似屯田兵村兵屋跡の建物です。

 ところが彼らの ‟労苦” はそれ以外のところにあったのです。
 まずは、当時の北海道のいたるところに生息していた野生生物(オオカミ、ヒグマ、バッタ、カラス、etc)が屯田兵が栽培した農作物を食い荒らす被害に苦しめられたということです。
 さらには意外なことに、屯田兵たちが苦労したことの一つに「言葉」があったそうです。東北各地から集められた士族たちはそれぞれの方言で話すために意思疎通に苦しめられたようです。そのことから、北海道では標準語に近い北海道弁が普及していったということです。
 というようなことより、さらに彼らを苦しめたのが「世間の冷たい目」だったそうです。世間の目は、彼ら屯田兵を「天皇に逆らった者」という目で見ていたことに耐えることが、最も辛いことだったということです。

 そうしたこともあったからでしょうか?西南戦争が勃発して九州に派遣された屯田兵は、汚名返上とばかりに誰よりも勇敢に戦ったと史実は伝えています。

 講座を受講して、札幌、及びその周辺、そして北海道各地が現在のように発展した礎には、屯田兵たちの言い知れぬ苦労があったことを改めて思い知らされる思いでした。

 講座は私がレポした以外にも、屯田兵に関わるさまざまなことを教えていただきました。
 そして今、永峰氏は伝えられてきた屯田兵屋の間取りがある古文書の発見により、若干の違いがあることが判明したそうです。現在残され保存されている琴似屯田兵屋並びに琴似屯田兵村兵屋跡はいずれも畳の部屋が八畳と四畳半になっていますが、発見された文書では六畳と四畳半となっているそうです。

  
  ※ 永峰忠四郎氏の実兄である大隈忠之助氏が明治8年に記録として残した文書です。

 その違いを正す屯田兵屋の再建し、保存することが永峰氏の肩にかかっているとのことでした。永峰氏のますますのご活躍を祈念したいと思います。



ヘルシーウォーキング №54 水と緑と花であふれる、美しい街・恵庭ウォーク

2025-07-12 20:09:16 | JRヘルシーウォーキング
  またまた間が空いてしまい2週間ぶりのロングウォーク(JRヘルシーウォーキング)だった。このところの猛暑にちょっと怯んだ私だったが、思いのほか気温が上がらすに快適なウォーキングが楽しめた。恵庭(恵み野)の素晴らしい景観を楽しみながらのウォーキングとなった。

      

 このところの猛暑は、私がロングウォークに赴くことを躊躇させるに十分で、すっかり長い距離のウォーキングから遠ざかっていました。
 もっとも私は現在退職組織の某ウォーキングイベントに参加していることもあり、一日一万歩を下回らないよう努めている最中なのですが…(そのことについても何時かレポできたらと思っています)
 今回の恵庭駅S & Gのイベントウォークも暑さを考えると、「参加するか、棄権するか」直前まで悩んだのですが、もし今回棄権すると今年の「JRヘルシーウォーキング」への今後の参加意欲も怪しくなると考え、敢えて参加することを決意しました。

 そのためもあり、ちょっと出遅れた感はあったのですが、朝8時34分の桑園発・恵庭行の電車で恵庭に向かいました。
 午前9時半過ぎ、恵庭駅西口をスタートし、まずは恵庭市街を南下しました。

    
             ※ スタート地点となった恵庭駅西口です。

 私の今日のウォーキングスタイルは、上はTシャツの上に山用のベスト、下は半ズボンという軽装でした。するとスタート直後は肌寒いくらいに感ずるほどでした。「これはもしかして、上に一枚くらい羽織らねばならないかな?」と思ったほどでした。

 コースは恵庭市街の繁華街に向かっているはずなのですが、まったくそんな感じは見られず、むしろ閑散とした感じの街並みでした。
 花の街を謳う恵庭市らしく、街角のそこかしこに花壇が作られていて通りを往く私たちの目を楽しませてくれました。ただ、今回のコースではさらに熱心に花づくりに励んでいる「恵み野」地区の繁華街を通るコースではなかったために、本格的な花壇を目にすることができなかったのは残念でした。

    
    ※ このような花壇が市内のそこかしこで見られました。写真の花壇は「祝 50」と描かれていたのですが、何のお祝いなのかは不明でした。

 コースは恵庭の市街地をグルっと一周するようなコースだったのですが、これといった印象的な光景を目にすることもなくJR千歳線を跨ぎ、国道36号線を横断し、「恵み野」地区へと導かれました。

    
    ※ 恵庭市内を流れる漁川沿いの遊歩道を往くJRウォーク参加者たちです。
    
 「恵み野」地区は、恵庭市が札幌市の通勤圏として計画的にニュータウンを造成したところいうことでしょうか、かなり意図的・理想的な街づくりがなされていることをうかがわせる街並みでした。
 特に、コースとなっていたところは「恵み野中央公園」を中心に素晴らしい散策路を広がっていました。流れ豊かな小川が走り、樹々が豊かに繁り、その中心部には恵庭市図書館が配され、その近くには小学校、中学校も配置され、さながら文教地区といった趣きも感じられました。

    
    ※ 恵み野中央公園内の散策路の様子です。
    
    ※ 恵庭図書館の本館は恵み野地区に建てられていました。

 「恵み野中央公園」が終わっても、散策路は続いていてその先には「恵庭市郷土資料館」が配されていました。
 イベントウォークの場合は、渡されるマップに「みどころ&ポイント」という記述があるのですが、そこに郷土資料館についての記述があったので、一時休憩も兼ねて資料館を訪れ館内見学もさせてもらいました。展示はかなり充実していて見どころのある資料館でした。特に遺跡関係の充実が目立ちました。

    
    ※ 恵庭郷土資料館のエントランスです。
    
    ※ 展示されていた一つですが、後から訪れたカリンバ遺跡から発掘された北海道式古墳の復元模型が展示されていました。

 資料館を過ぎると、恵庭市内を流れる「漁川(いさりがわ)」沿いに導かれます。長い長い堤防歩きでしたが、川面から吹く風がとても心地良かったです。

    
    ※ 市内を走る漁川財の堤防です。ノリ面の芝が枯れているのは少雨高温のせいでしょうか?

 その先には、2022年に全国ガーデンフェスタ(通称:全国花博?)の中心会場となった「道と川の駅 花ロードえにわ」がありましたが、私は過去に何度も訪れているのでパスして、ゴールを目指しました。

  ゴールの恵庭駅に向かう途上に「北海道文教大学」の立派な建物が目に入りました。ここで恵庭駅から1キロメートルということですが、通学には便利なのか?否か?難しいところですね。

    
    ※ 北海道文教大学の建物です。

  その文教大学のとなりに、これもマップに出ていた「カリンバ遺跡」を覗いて来ようと寄り道をしました。ところが現地はただの原っぱでした。何の造作もしていないということが、あるいは考古学的には正しい保存の仕方なのかもしれませんねぇ…。北東北・北海道縄文遺跡群巡りをした私にはちょっと解せない気もするのですが…。

    
    ※ カリンバ遺跡はご覧のとおり、見たところただの原っぱでした。

  そうしたことを思いながら、スタートした駅舎の反対側にあたる恵庭駅東口にゴールしました。

    
    ※ ゴールの恵庭駅東口です。
 
 リード文でも触れましたが、恐れていた暑さとは無縁の心地良いコンディションの中でウォーキングを楽しむことができました。(本日の歩数:24,119歩)
 ただ、次回19日に予定されていた砂川駅S & Gのイベントウォークは、クマの出没情報があるため急遽中止になったと連絡がありました。ちょっと残念です。

 ◇ウォーク実施日  2025年7月12日(土)
 ◇歩いた距離    約13.0km

免疫力を高めるツボとは?

2025-07-11 20:24:43 | 講演・講義・フォーラム等
 健康寿命を延ばすことは、私たちシニア世代にとって必須の課題と云っても良い。その健康寿命を延ばす一つの策がツボを押すことであるという。これまであまり関心のある分野ではなかったが、東洋医学の効用を信じて取り組んでみようかな?と思わせてくれたセミナーだった。

 今年は意図的に社会福祉総合センターて開催されている「やさしさっぽろ健康講座」を受講しています。その7月の講座が昨日10日に開講され、受講しました。
 今回の講座は、「自分でできるツボ押し~免疫力を高めるツボを学ぼう~」と題して、レイス治療院北海道の代表である大越孝郎氏が講師を務めました。

    

 大越氏はまず、医学には西洋医学と東洋医学があるが、西洋医学は即効性はあるが副作用の可能性がある。一方、東洋医学は即効性には欠けるが副作用の心配はないとし、現代は両者の特性を活かした「統合医療の時代」だと強調されました。

 そして健康寿命を延ばすためには「免疫力を高める」ことが肝要だと指摘しました。
 免疫力を高めるためには、一般的には①バランスの取れた食事と栄養摂取、②適度な運動と質の良い睡眠、③ストレス管理とリラックス法、④衛生管理と感染予防、が大切だと言われていますが、大越氏は別な観点から次の4点を挙げられました。
 (1) 血流改善
 (2) 骨
 (3) 腸内細菌
 (4) メンタルヘルス

 その中の血流改善を促すためには「指圧(ツボを押す)」が有効であるとして、実戦練習に移りました。
 人間の体には361のツボがあるそうですが、この日はその中から大越氏が特にお勧めの7か所について紹介があり、そのツボを実際に自分自身で押さえてみました。その7か所とは…
 ① 百会(ひゃくえ)
    
 ② 合谷(ごうこく)
 ③ 風池(ふうち)
 ④ 肩井(けんせい)
    
 ⑤ 志室(ししつ)
 ⑥ 承山(しょうざん)
 ⑦ 湧泉(ゆうせん)
     
   
 指圧とか、ツボなどということに特別関心のない方(私もその一人なのですが)には、その名称も耳馴染みがないと思われますが、その箇所はPCやスマホにその名称を打ち込むと容易に見出すことができます。
 講座で私たちは一通りソのツボを押さえてみて、その効用らしきものを感ずることができました。

 私は今、就寝前に腰痛体操を実践していますが、併せてツボ押しも取り入れてみようかな?と思い始めています。



PMF2025 オープニング・ナイト

2025-07-10 19:27:20 | ステージ & エンターテイメント
 いよいよ今年もPMFの夏がやってきた!クラシック音楽には造詣の浅い私だが、いつもこのイベントは楽しみにしている。今年も今のところ6つのコンサートを聴くのを楽しみにしている。その第一弾が昨夜の「オープニング・ナイト」だった。

       
        ※ 今年のPMFのガイドブックです。

 1990年に故レナード・バーンスタインの提唱によって創設されたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)は今年第35回目を迎え、札幌の夏の風物詩としてすっかり定着した感があります。
 私も2009年以来、毎年のようにPMF関連のコンサートを楽しませてもらってきました。
 今年も今のところ昨夜のオープニングナイトを含めて、6つのコンサートに参加予定でチケットを準備しています。

    
※ メイン会場のKitaraのある中島公園内には雰囲気を盛り上げるペナントがたくさん掲げられていました。

 その第一弾が、PMFの開幕を告げる昨夜の「オープニング・ナイト」だったのです。
 出演は、1,344名の希望者の中から選び抜かれた95名の若手音楽家の95名からなる「PMFオーケストラ」と、PMFの教授陣である「PMFウィーン(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団メンバー)、「PMFベルリン(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団メンバー)の方々でした。
 そして指揮は、PMF修了生でもあるアメリカ人のカリーナ・カネラキスさんが務めました。

    
    ※ 会場のKitaraには一段と大きなペナントが掲げられていました。
 
 演奏された曲目は、
 ◇レナード・バーンスタイン/「キャンデード」序曲
 ◇ヨハン・シュトラウス二世/オペレッタ「ウィーンのカリオストロ」序曲
 ◇ヨハン・シュトラウス二世/ウィーンのボンボン 作品307
 ◇ロベルト・シューマン/4本のホルンと管楽器のためのコンシェルトシュテュック へ長調 作品86

    
    ※ 開演前のステージの様子です。(演奏中はもちろん撮影はNGです)

 正直に吐露して、私には「キャンディード序曲」以外は、初めて聴く曲でありその良さを感得することも難しかったなぁ、というのが正直な思いでした。
 ただ、いつも感ずることですが、優れた音楽家たちが奏でる曲が流れだすとき、「あゝ、管弦楽っていいなぁ~」という思いが私の中に満ちてくることを感じます。今回も最初の曲「キャンディーズ序曲」が流れ出したとき、その思いを強くしました。

 そのこととともに、今回思わぬ幸運にも恵まれました。
 それは会場外のホワイエにおいてプレコンサートが行われたのですが、4人のPMF生の弦楽四重奏を目前で聴くことができたことです。
 彼らの繊細な指の動き(運指?)を間近に見ることができたのですが、その指の動きを私のような素人から見ると「やはり選ばれた人だなぁ」、「才能ある人が鍛錬することによってこそ成せる技だ」ということを実感させられました。

    
    ※ プレコンサートの様子です。

 そうした彼らの鍛錬の成果を、これから何度か聴かせていただくことをとても楽しみにしています。

熟練のジミーオールスターズサウンド炸裂!

2025-07-09 13:26:13 | ステージ & エンターテイメント
 昭和から平成にかけて日本の音楽シーンをリードしてきたプレイヤーたちからの選りすぐりで構成されたジミーオールスターズが今年もhitaruのステージで炸裂した。衰えることの知らない往年のプレイヤーの音に酔いしれた夜だった…。

      

 昨夜、札幌文化芸術劇場hitaruにおいてJIMMY AII STARS PREMIUM LIVE 2025があり、昨年に引き続き参加しました。

    
    ※ 会場のhitaruはほぼ満杯の盛況でした。

 ジミーオールスターズとは、札幌出身のギタリストのジミー東原さんが、さまざまなグループに所属し活躍しているプレイヤーを、毎年あるひと時呼び集めて札幌などでライブを行っていた集団でした。(その頃のグループの名称は「ジミー東原オールスターズ」でした)
 私もそのころ開催されていた「ばんけいミュージックフェスティバル」に毎年参加して楽しんでいました。ところが2017(平成29)年にジミー東原さんは病のために逝去してしまいました。
 メンバーの一人であり、ジミー東原さんの兄であるトランぺッターの東原俊郎氏は弟の遺志を受け継ぎ、活動を継続させて毎年ライブを開催し、今日に至っているのです。

 ステージに登場したのは、トランペット(3人)、トロンボーン、アルトサックス(2人)、テナーサックス、バリトンサックス、ギター、ドラム、ベース、ピアノの12人がオールスターズのメンバーです。
 それに加えて、弦楽部門のCrystal Snow Specisal Strigsというこの日のために構成された(?)8人の女性弦楽奏者、そしてボーカルとして川島沙耶さんが加わり、司会を喜瀬ひろしさんが担当しました。

    
    ※ 弦楽器も含めて総勢20人のステージ上での演奏の様子です。

 さて肝心のステージの方ですが、最初からエンジン全開といった感じで、hitaruの館内全体に管楽器の音色が炸裂しました。ここで曲目紹介といきたいのですが、残念ながらプログラムには曲目紹介がなく、喜瀬氏が紹介するのみでした。私は暗い中で懸命にメモしようと試みましたが、喜瀬氏の英語を聞き取ることも不十分で、かつ場内が暗い中でのメモ取りは困難でした。
 かろうじて聞き取れたのは、東原俊郎氏がソロをとった太陽グループのCMソングでもある◇「Douce Violence 甘い暴力)、川島沙耶さんのボーカルが入った◇「Fly Me to the Moon(私を月に連れてって)」、◇「Ai No Corrida(愛のコリーダ)、◇「Hold On」くらいでした。この聞き取りもかなり怪しいのですが…。

 プレイヤーとして目立ったのは、テナーサックスの藤田明夫さんで、かなりの部分でソロを取っていましたが、まだまだ現役感たっぷりの演奏ぶりでした。
 また、バリトンサックスの田中彰さんは多芸な方で、尺八もこなせば、ボーカルも担当するといった多芸ぶりで、特にボーカルの確かさは素晴らしいものでした。それもそのはず、喜瀬氏によると昔、一時ブルーコメッツの一員として活動されていたということでした。

 また、前年の反省を生かしてなのか、昨年はCrystal Snow Specisal Strigsの弦の音がほとんど私たちには届いてこなかったのですが、今回は弦だけのソロの部分が何度かあり、弦の音も生かしていた点が私には好ましく映りました。

 さらには、ボーカルの川島沙耶さんの存在です。クラシックで鍛えた強靭な喉は管楽器の大音響にも負けないほどの声量で歌い上げる姿が印象的でした。

    
    ※ ボーカルを担当した川島沙耶さんです。(中央)

 さらに、さらに東原俊郎氏のトランペットでした。調べてみると東原氏は当年79歳のようです。年齢を感じさせない音量豊かなトランペットの演奏は見事でした。数社の社長業をこなしながらも鍛錬を怠っていない証でしょう。
 アンコールで演奏した「北の国から」のトランペットの部分のしみじみとした演奏。そして最後の太陽グループのCM曲として有名な「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」は、煌びやかなステージを締め括るためにしっとりとした曲を持ってきたことが大正解のように思えました。

    
    ※ ソロ演奏をする東原俊郎氏です。スポットライトが強すぎ表情が伺えないのが残念です。

門井慶喜に嵌まっています

2025-07-08 14:10:57 | 本・感想
 ‟嵌まっています” じゃ表現が弱いかもしれない。‟嵌まりまくっています” という方が適切のようである。ともかく「札幌誕生」で門井慶喜に出会って以来、寝ても覚めても門井オンリーである。彼の着想、文体、ストーリーテラーとしての巧みさ、等々…。全てにぞっこんなのだ。

 熱しやすく、冷めやすい私は、時として一人の作家に夢中になる時があります。
 思い出してみると、沢木耕太郎は別格として、ある時夢中になって、いつの間にか遠ざかった作家は、藤沢周平、吉村昭、山崎豊子、山岡荘八、等々…。一時は夢中になっても、ある日突然疎遠となることをこれまで何度も繰り返してきました。

 今回もきっとその類なのかもしれませんが、「札幌誕生」で門井慶喜氏に出会ってから、突然のように門井本に夢中になり始めています。
 6月に彼の著「銀河鉄道の父」をレポ以来、遅読の私がこれまでに6冊の門井本を読了しました。
 その6冊を短評と共に記録しておきたいと思います。

 ① 「家康、江戸を建てる」
       
  豊臣秀吉の命により、巻頭に国替えされた徳川家康が徳川260年の礎を築
 く姿を、「札幌誕生」同様5つのエピソードで綴ったものです。徳川家康の
 用意周到さを窺わせるエピソードに満ちた一冊です。


 ② 「信長、鉄砲で君臨する」
      
  1543(天文12)年、種子島に鉄砲が伝来したことから物語は始まる。そ  
 の頃、那古野に城を与えられたばかりの吉法師(織田信長)は弱小国の城主
 でしかありませんでした。しかし、武器としての鉄砲の利点をいち早く見抜
 き次々と宿敵を撃破したが、全国統一目前にして皮肉にもその鉄砲で一生を
 終えることになった物語ですが、物語は必ずしも信長だけに視点を当てたも
 のではなく、その周縁の ‟鉄砲” に関するエピソードも含め五つのテーマで
 構成されています。その五つとは…、
   ◇第一話 鉄砲が伝わる ◇第二話 鉄砲で殺す 
   ◇第三話 鉄砲で儲ける ◇第四話 鉄砲で建てる
   ◇第五話 鉄砲で死ぬ


 ③ 「キッドナッパーズ」
          
  キッドナッパーズとは、「誘拐」という意味のようです。この作品は7つ
 の小品から成っているもので、その第一話が「キッドナッパーズ」という作
 品です。推理小説などあまり読まない私にとっては、とてもスリリングなス
 トーリーでした。
  また、中にはたった4頁という極小品もありましたが(どの作品か失念し
 ました)十分楽しめました。その7つ作品を並べると…、
  「キッドナッパーズ」、「目刺し」、「架空の風景」、「十字架のジュース」、 
  「ごとんがたん」、「べつばら」、「同じ本でも」、以上7つの作品でした。


 ④ 「東京、はじまる」
       
  明治初期、日本銀行や東京駅、その他数多くの東京の建物の設計を手掛
 けた明治の建築家・辰野金吾の物語です。下級武士から身を立てるべく学問
 に励み、洋行して列強諸国と日本の差に焦り、恩師コンドルを蹴落としてで
 も日本人建築家による首都作りを目指した男の一代記ですが、それゆえにや
 やごう慢さも感じさせる辰野の姿は読者たちにはどう映ったろうか?


 ⑤ 「しゅんすけ」
       
  「しゅんすけ」は、我が国の初代内閣総理大臣、伊藤博文の幼名の「俊輔」
 からとったものです。
  周防国の百姓の家に生まれた彼は、武士に憧れ、無謀にも一国の宰相とな
 ることを夢見たのでした。幕末の混乱期を持ち前の明るさと好奇心で駆け抜
 ける俊輔に、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、坂本竜馬らを多くの志士たち
 が魅了され、彼らの支援と俊輔の努力もあり、無謀な夢を現実としてしまっ
 た物語です。
  伊藤博文の人を魅了する人柄と、数々の幸運に恵まれた一生を描く作品で
 したが、伊藤博文の魅力を感じさせてくれた一冊でした。


 ⑥ 「かまさん」
       
  維新期に新政府に対抗して「蝦夷共和国」を建設しようと目論み、失敗し
 た榎本武揚の物語です。書名の「かまさん」は、榎本が通称として「榎本釜
 次郎」を名乗っていたことから、「釜さん」変じて「かまさん」と門井は書
 名としたようです。
  海軍伝習所で学び、3年半ものオランダ留学を経験した榎本武揚は科学者
 であり。技術者であり、万国 公法にも通じた法学者でもありました。そう
 した彼が薩長主体の新政府に反旗を翻し、彼が夢想する新しい日本をつくろ
 うと「蝦夷共和国」を建設を夢見たのだが、いつくかの不運も手伝いあえな
 く失敗に終わった物語ですが、榎本武揚の新たな一面を知った思いでした。


 以上6冊を6月以来、読了したのですが、振り返ってみると「キッドナッパーズ」以外は、全て歴史物だということに気付きました。
 歴史物というと、山岡荘八や吉村昭などの作品をこれまで読んできましたが、門井慶喜の作品は明らかに山岡たちとの違いを感じます。山岡や吉村が史実を忠実に辿る硬質の筆致に対して、門井のそれは門井史観というか、史実に対して門井の思いや読者により興味を抱かせるような筆致で描かれている点が特徴のように思われます。
 それが良いかどうかは別にして、私は今しばらく門井の作品に嵌まり続けたいと思います。
 ちなみに現在は、東京に地下鉄を誕生させた早川徳次の「地中の星」を読み進めている途中です。


アンダンテ・ウィンドアンサンブルコンサート in 月寒

2025-07-07 14:57:33 | ステージ & エンターテイメント
 ちょっと風変わりな、しかし実力十分のアンダンテ・ウィンドアンサンブルを追いかけて月寒まで行ってきました。風変わりとは、アンサンブルの成り立ちや指揮者がユニークなのです。今回のゲストの札幌市立伏見中学校合唱部の歌声と共に楽しませてもらいました。

      

 昨日午後、月寒公民館で開催された「アンダンテ・ウインドアンサンブル サマー・コンサート」を楽しんできました。私にとってアンダンテを楽しむのは北区民センター、白石区民センターに続いて3回目のことでした。

 アンダンテ・ウィンドアンサンブルの成り立ちとは、2011年3月11日に起きた東日本大震災の被災地支援のために当時の札幌近郊の大学、専門学校の2年生だけを集めて結成した50名の人たちが集まり結成した吹奏楽団だということです。その後も、彼らは仲間を広げながら、全国各地の自然災害に遭遇した人たちを支援するためにチャリティコンサートを行ってきているそうです。その名も今回は使用していませんが「定期コンサート」と名付けてコンサート活動を今日まで継続しています。

 そしてもう一つユニークなのが、アンダンテの主宰者であり、指揮者である浦航史さんの存在です。彼の軽妙なおしゃべりが、会場内にアットホームな雰囲気を創り出し楽しい演奏会が実現していると私は見ています。
 設立する際に「2年生だけ」を集めたというのは、浦さんが当時2年生であり、おそらく団員の中に上下関係を作りたくなかったという浦さんの意向が働いたのでは、と私は想像するのですが…。

      
  ※ アンダンテの主宰者であり、指揮者の浦航史さんです。軽妙なトークが冴えました。

 アンダンテの不定期コンサートではいつもゲストが登場するのですが、今回は「札幌市立伏見中学校合唱部」がゲストとして招請されました。さらには中学校吹奏楽の指導者であり、市内吹奏楽団の指揮者としても活躍されていた鹿討譲二さんがゲスト指揮者としても登場しました。

   
   ※ 総勢50名弱の確かな技量の音が館内に碑引き渡りました。

 そして演奏された曲目は次のとおりです。
【第一部】
 ■伏見中学校合唱部ステージ
  ◇荒井由実/やさしさに包まれたら
  ◇菅野よう子/花は咲く
  ◇UTA、LOAR、SKY-HI/空
【第二部】
 ■伏見中学校合唱部 + アンダンテ・ウィンドアンサンブル
  ◇マトコタツロウ/ハナミズキ
  ◇村松宗継/いのちの歌
  ◇岡野貞一/吹奏楽と合唱のためのふるさと
    〈 休   憩 〉
【第三部】
 ■アンダンテ・ウィンドアンサンブルステージ
  ◇岩井直溥/復興への序曲「夢の明日に」
  ◇ALFRED REED/音楽祭のプレリュード  ※ 指揮~鹿討譲二さん
  ◇Peinhold M.Glière/バレエ音楽「青銅の騎士」より  ※ 指揮~鹿討譲二さん
  ◇戸倉俊一 他/日本レコード大賞、青春の70年代(ジャパニーズ・クラフティ Ⅵ)

 コンサートで印象的だったのは、まず伏見中学校合唱部です。正確には数え切れませんでしたが部員は30名を超えていたと思われます。しかもそのうち9名が男子生徒でした。今どきの中学校の合唱部としては男子生徒の数も含めて非常に充実した人員です。その歌声も確かなものでした。
 伏見中学校の校区は、月寒からは遠く離れています。それだけ合唱部としての力量を買われての招請だったのでしょう。

   
   ※ 札幌市立伏見中学校合唱部の素晴らしい歌声を聴かせてもらいました。

 そしてアンダンテ・ウィンドアンサンブルです。確か以前のコンサートで、団員の方々はアンダンテに集うだけではなく、他の吹奏楽団などに所属して活動しながら、浦さんの呼びかけに応じて不定期演奏会に馳せ参じる形で活動を継続しているように聞きました。
 そうした彼らですが、その力量は市内で活動する吹奏楽団に引けるところなどまったく感じさせず、むしろ精鋭が揃った感じさえ抱かせてくれる演奏でした。特に、鹿討さんが指揮を執った「バレエ音楽「青銅の騎士」より」は感動ものの演奏でした。解説では鹿討さんの思い出の曲ということもあり、指揮にも熱が入っていたものと思われます。

    
    ※ ゲスト指揮者として登場した鹿討譲二さん(左)と浦航史さんです。

 アンダンテ・ウィンドアンサンブル…、これからも追いかけたみたいと思っています。



アイヌ民族・琴似又一郎の悲哀

2025-07-06 21:38:01 | 講演・講義・フォーラム等
 幕末から維新期にかけてアイヌ民族だった琴似又一郎は、卓越した日本語を話し、開拓使に重用されたという。道内に住むアイヌの代表のような役割を担ったものの、それは永続的なものではなかった。又一郎の立場は開拓使の都合で翻弄された。明治期のアイヌの悲哀を知ることができた講座だった。

 久しぶりの「さっぽろ市民カレッジ」の受講です。
 札幌市生涯学習センター(通称:ちえりあ)において、ちえりあ学習ボランティア企画講座で「先人たちのさっぽろ物語~札幌の「今」をつくった人の歴史~」という講座が開講されることを知りました。
 講座は4回シリーズで、各回のテーマは次のようになっていました。
 ◇第1回 「札幌に生きたアイヌの近代」~琴似又一郎の事績から辿る~
 ◇第2回 「琴似屯田兵村の歴史」~屯田兵のくらしと苦労を伝える~
 ◇第3回 「移住者の文化とその後」~年中行事と冠婚葬祭を聞き取る~
 ◇第4回 「戦前戦後の女性たちのあゆみを語り継ぐ」~『北の女性史』40年によせて~
      

 「めだかの学校」において、札幌の草創期のことを学び続けてきた私としては、私たちの学びをより深く広いものとするためにも、是非受講したいと考え申し込みをしました。
 その第1回講座が7月4日(金)の午後、ちえりあで開講されたので受講してきました。
 第1回講座は上記のとおり「札幌に生きたアイヌの近代」と題して北海道博物館アイヌ民族文化研究センター学芸員の大阪拓さんが講師を務められました。

 大阪さんは、主としてアイヌ民族に関して残されている古文書などにあたり、アイヌ民族の実態を解明することを研究対象とされている方のようです。(詳しくは不明なのですが…)
 その大阪さんが、道立古文館などで調査研究をしている中で、 琴似又一郎の人物写真が一般に伝えられている人物とは違っていたことを究明したということなのです。
 その写真は貴重なものと思われるのですが、ウェブ上で公開されているので、その写真を使って説明すると…。 
 
※ 大阪さんが究明するまで、琴似又一郎は前列真ん中の人物だと言い伝えられていたそうです。ところが大阪さんが古文書などにあたるうちに、琴似又一郎は左端の人物であることが特定されたそうです。

 そのことがキッカケとなって、大阪さんは琴似又一郎のことを詳しく調べ始めたようです。
 それによると、1857(安政4)年、16歳の時には「マタヱチ」と呼ばれていたようです。
 その頃、「マタヱチ」は石狩の幕府役人のもとへ「めしたき」として奉公に出ていたそうです。そこで「マタヱチ」は日本語を自分のものとし、他の和人変わるところがない言葉や立ち居振る舞いを身に付けたそうです。
 そうしたこともあって、役人たちも「マタヱチ」を重用し始め、1870(明治3)年には上京し東京を見聞させたり、翌1871年には札幌周辺のアイヌの行政的な代表として「乙名」という職名をいただき「琴似乙名」と称したそうです。
 さらに翌1871(明治5)には、東京に設置された開拓使仮学校「北海道土人教育所」に入学を許され、さらには、「マタヱチ」はアイヌとして初めて札幌市民としても認められたことから、その氏名を「琴似又一郎」と改名したそうです。

 ところが、開拓使の本道開拓が本格化するにつれ、又一郎さんは開拓使に翻弄されていくようになりました。
 1878(明治11)年に、又一郎さんが所有していた私有地を農事試験場整備のために移転するように求め移転を余儀なくされてしまったのです。
 さらには、アイヌ民族にとっては生業の基幹である石狩川河口の漁場も減らされたり、あるいは収穫した鮭の取引においても不利な条件を付き付けられたりされたうえ、ついには漁場を捨てねばならない状況に追い込まれたそうです。

 また、又一郎さんが移転した先の茨戸の土地も、後に移転を強いられるなど、開拓使は相当に酷い仕打ちを又一郎さんをはじめアイヌ民族に強要したようです。
 残された記録では、その後の又一郎さんの足跡は不明とのことです。

 ここからは、私の推測が混じりますが、北海道の開拓で主導的役割を果たした黒田清隆は、開発の効を焦るあまり、アイヌ民族を相当に蔑ろ(ないがしろ)にしたのではないかと想像されます。
 彼が主導した樺太千島交換条約において、宗谷に移住した樺太アイヌを札幌近郊の対雁に強制再移住させ、多くの樺太アイヌが慣れぬ土地と仕事で疲弊し、たくさんの死亡者を出したことも又一郎さんの運命を翻弄する一因となっているようです。

 又一郎さんの足跡は不明と記しましたが、大阪さんは又一郎さんの長男栄太郎さんが旭川近文原野に移転したとなっていることから、あるいは栄太郎さんと共に近文に移転したのではないか、と推測されました。

 大阪さんは、講義の中で開拓使や黒田清隆について非難するような言辞は一つもありませんでしたが、遺された古文書の内容をお聴きするかぎり、当時のアイヌ民族が相当に酷い扱いを受けていたことが容易に想像されます。
 人権意識が未成熟の時代だったとはいえ、アイヌ民族を人(ヒト)として見なさなかったという誤りを和人の末裔である私たちは、その事実を重く受け止めねばならないと講義を受けて今さらながらに痛感しました。


エスコンフィールド in 日本ハムファイターズ

2025-07-05 20:27:56 | スポーツ & スポーツ観戦
 若手の細野が相手打線を小気味よく抑え、水谷、郡司、レイエスが本塁打を放つなど18安打の乱れ打ちで、対楽天戦に12対1で快勝するという試合を観戦し、対ソフトバンク戦3連敗のうっ憤を晴らしてご機嫌よく帰宅した私たちでした。

   
  ※ エスコンフィールドの正面入口です。試合開始2時間半前とあって、まだ人出はそれほど多くはありません。

 拙ブログでプロ野球のことに触れるのは珍しいことです。ところが何を隠そう、私はプロ野球にはかなり関心がある方だと自認しています。
 昭和世代真っ直中の私の少年時代は、スポーツといえば野球しかなかった時代に育った世代として、地方少年の多くがそうであったように “読売ジャイアンツ” ファンでした。(ラジオやテレビの中継はジャイアンツ戦しか放送しなかったためです)
 ところが “日本ハムファイターズ” が北海道に本拠地を移すと、いつの間にか私は日本ハムファンになっていました。
 
 それからは日本ハム一筋…、といっても球場へ出向いて観戦することは稀で、もっぱらテレビの前で観戦するのが主な応援方法でした。(私はかなりの頻度でテレビ観戦をしています)
 札幌ドームが本拠地の時には、それでも年に何度かは球場で観戦していましたが、北広島に移ってからはすっかり足が遠くなってしまいました。

 そうした中、 コンサート仲間でもある三人組が、「年に一度くらいはエスコンへ行って観戦したいですねぇ」という話がまとまって、昨年に続き、今年も本日7月5日(土)の昼間ゲームの対楽天戦を観戦することにしたのです。(ナイトゲームは帰りのことを考えると、シニア世代にはハードルが高過ぎます)

 本日、新札幌駅からの臨時バスを駆って11時半ころエスコンフィールドに着きました。
 席は三塁側の内野席、とはいっても3階ですから、フィールドからはかなり離れた席ですが、金満家でもない私たちには相応しい席でした。

  
※ スクリーンに映し出された両チームのスターティングナインです。写真は先発両投手です。
 
 座席を確認した私は、久しぶりエスコン観戦とあって、球場内探訪に出かけました。1階、2階、3階とおそらく球場内を2周くらいしたのではないかと思います。実に多くの善男善女が行き交い、食料や飲み物を買い求めたり、グッズなどの購入を楽しんでいました。私もそれに倣いビールと食べ物を購入して、それを両手に探訪を続けました。
 
    
 ※ タワー11の壁のダルビッシュ、大谷選手の画像とは別の壁にファイターズのレジェンドたちが描かれていました。
      
    ※ 別の壁には万波選手の壁画が描かれている途中でした。

 試合開始の午後2時には席に戻り、観戦に移りました。
 本日はご存じのように快晴の天候で、今シーズン初めてエスコンのドームを開け放ち、青空の下での対戦となりました。私たちの席は幸いに日陰だったこともあり、エスコン内は冷房も効いていたため、それほど暑さを感じずに観戦することができました。
 対戦内容については多くを記しません。前述したように12対1と日本ハムの快勝でした。  
  
    
    ※ 晴天の中、エスコンの天井は取り払われ、青空の下での対戦となりました。

 私たちは日本ハムが優勢にゲームを進めるのですから気分の悪かろうはずがありません。
 特に細野投手の小気味よい投球が、なんとも心地良く、ゆったりとした気分で観戦できました。

    
    ※ 先発の細野投手の力感溢れる投球フォームです。

 ところが、楽天の先発の瀧中投手の方がピリッとしないばかりか、投球の間隔が長いのです。3回を終えた時点で1時間以上が経過していました。その時点ではまだ日本ハムが2対0と僅差のゲームでした。
 その後、日本ハムが4回に3点、6回に4点を追加し、9対1となった時点でゲームは決まった感がありました。
 その時点で試合時間は2時間以上が経過していました。誰からともなく「もういいね」ということになりました。
 冷房が効いていたとはいえ、屋根が解放されているのですから、私たちシニアにとっては徐々に体力が削られていたようです。すっかり疲れていることを自覚させられました。

    
    ※ ホームランを放った水谷選手(背番号53)を迎えるベンチです。

 この後、最後まで対戦を見届けたとしたとき、対戦が終了するのは午後5時を回ると予想されました。それから
3万人の観衆が帰路に就くとしたら、その混乱が心配となりました。あるいは帰宅が午後8時を過ぎるのでは?と考えると、これはもう席を立つという選択をする方が最善と判断しました。

 帰りは、バスでJR北広島駅まで行き、そこからJRで新札幌駅まで移動し、地下鉄を駆って午後6時過ぎに帰宅することができました。
 私たちにとっては、昼間のゲームでもハードルが高くなりつつあることを自覚させられました。
 さて、来年ははたしてエスコンでの観戦はあるのでしょうか?仲間内で熟議を重ねればなりません。

札幌北一条教会 オルガンコンサート

2025-07-04 18:56:28 | ステージ & エンターテイメント
 聖堂内に響き渡るパイプオルガンの音色は独特である。キリスト教信者でもない私でも、オルガンの響きを聴いているとある種の敬虔な気持ちになる。イタリアの教会でオルガニストを務めているという上村朋子さんの奏でるオルガンに耳を傾けました。

 昨日正午、定例的に開催されている札幌北一条教会の「昼休みコンサート」に赴きました。
 拙ブログで何度も触れていますが、北一条教会では、春季と秋季に分けて、月に一度ずつ「昼休みコンサート」を開催しています。私は自宅が近いこともあり、できるだけ参加するように努めています。
 今年の春季コンサートは4月から開催されているのですが、6月はスケジュールの関係で聴けませんでしたが、昨日で今季3回目の参加でした。

        
 
 今季4回目の開催となった昨日は、札幌出身で現在はイタリアの某教会でオルガニストを務めているという上村朋子さんのオルガンソロのコンサートでした。
 上村さんは以下4曲を演奏してくれました。
 ◇D.ブクステフーデ/トッカータ ニ短調
 ◇J.S.バッハ/「最愛菜るイエスよ、われらここに集いて」 コラーレ(讃美歌の前奏曲) 2曲
 ◇J.S.バッハ/トッカータ アダージョとフーガ ハ長調

 曲名でもお分かりのように、今回は演奏さそれた2曲はトッカータでした。
 上村さんによると、トッカータという楽曲は、16世紀に北イタリアで生まれた様式で、当初は教会合唱団に音程を与えることを目的に用いられたそうですが、その後徐々に発展し、長く複雑になってきたということです。

 ただこうした音楽に疎い私には、それが他の曲とどう違うのかについて、聴き分けられるほど素養がないのが残念でした。
 それでもパイプオルガンが紡ぎ出す独特の音色は、やはり教会で聴くとある種敬虔な気持ちになるのは、聖堂内で聴くからこそなのでしょうか?

 春季の「昼休みコンサート」は、今回で一応の区切りとなりますが、また秋になると秋季シリーズが始まります。パイプオルガンをはじめとして様々な音楽を提供してくれる「昼休みコンサート」をこれからも楽しませてもらおうと思います。