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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

西区オーケストラ チャイコフスキー「悲愴」に挑む

2025-04-28 15:44:50 | ステージ & エンターテイメント
 定評のある札幌西区オーケストラが定期演奏会でチャイコフスキーの遺作となった「悲愴」に挑んだ。指揮者の熊倉亮太氏に率いられた87名の大演奏陣は難曲「悲愴」を見事に演奏し切り、聴衆から喝采を浴びました。

 一昨日(4月26日)夜、札幌コンサートホールKitaraにおいて「札幌西区オーケストラ 第37回演奏会」があり、友人たちと一緒に鑑賞しました。

        
       ※ プログラムの写真はもちろんチャイコフスキーの横顔です。

 西区オーケストラについては、道内のアマチュアオーケストラとしては北海道交響楽団と双璧をなすオーケストラだと私は思っています。(但し、札幌市以外のオーケストラについてよく承知していないのですが…)
 過去に何度も西区オーケストラの定期演奏会、ファミリーコンサートを聴かせてもらっていますが、北海道交響楽団に優るとも劣らない実力を有するオーケストラだと思います。

 この夜、演奏された曲目は次のとおりでした。
   ◇シベリウス/交響詩「春の歌」作品16
   ◇ニールセン/アラジン組曲 作品34
     1.祝祭行進曲
     2.アラジンの夢と朝霧の踊り
     3.ヒンズーの踊り
     4.中国の踊り
     5.イスパハンの市場
     6.囚人の踊り
     7.黒人の踊り
      《 休  憩 》
   ◇チャイコフスキー/交響曲 第6番 ロ短調 作品74「悲愴」
      第1楽章 Adagio-Allegro non troppo
 第2楽章 Allegro con grazia
      第3楽章 Allegro molto vivace
      第4楽章 Adagio Iamentoso
  〈アンコール〉◇チャイコフスキー/エフゲニー・オネーギン(ワルツ)

 いずれの曲の演奏も私の耳にはとても心地良く入ってきました。
 シベリウスの「春の歌」は、北国フィンランドの長い冬を越えて迎えた春の喜びを感じさせてくれる雰囲気を感じさせてくれる一曲でした。
 また、ニールセンの「アラジン組曲」は、いかにもアラビアの世界を彷彿とさせるメロディーが耳をくすぐると共に、7つに分かれた組曲それぞれの違いを感じ取ることができるような演奏でした。特に5番目の「イスファンの市場」の場面では、オーケストラを4つのグループに分け、それぞれ全く別の音楽を演奏するという変わった奏法が目新しく思いました。

 
 ※ 写真は今回のものではなく、過去の演奏会時のものをネット上から拝借しました。

 何と云ってもこの夜の真骨頂はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」です。本人にその意志はなかったものの、曲が完成して初演してからわずか9日後にチャイコフスキーは帰らぬ人となってしまい、結果としてチャイコフスキーの遺作の曲となったとプログラムの解説で紹介されていました。その交響曲に「悲愴」という題が付されたことに、何か運命的なものを感じます。
 演奏は時に重低音が響く重々しい展開の場面、時に激しく情熱的な場面、等々抑揚に満ちた演奏が続きました。
 配布されたプログラムの解説は各楽章の演奏の特徴を良く捉えられた解説であったために、それを追いながら聴いたのですが、演奏を理解するうえでとても役立ちました。
 
 曲全体は前述したように、チャイコフスキーの感情の起伏を表現しながら展開したのですが、曲の最後は全体が消え入るようにして曲が終わりました。そして会場は一瞬の静寂の後、盛大な拍手に包まれました。
 マイクを手にした指揮者の熊倉氏は「難しい挑戦だった」と述懐しましたが、私には素晴らしい演奏だったと感じました。

 どなたかが、今回の演奏会に参加した後に、すぐにブログで発信されているのを目にしました。それによると…

    たぶんオケの皆さんの多くが
    仕事や家事をこなしながら
    その合間に練習をしているわけで、
    それって大変なことよね〜。

    きっと
    好き!とか
    楽しい!とか
    情熱みたいなものがなければ、
    ああいう演奏をできるように
    ならないんじゃないかな。
     (めっちゃ難しそうな曲でした)

    ステージにいる人達が
    すごく輝いて見えたし、
    単純にすごいな!と思いました。

という、とても素直な感想がありましたが、私もまったく同感です。
 札幌西区オーケストラの皆さんの益々のご活躍を祈念いたします!         


ヘルシーウォーキング №49 アルテピアッツァ美唄と東明公園の桜を楽しむ、美唄ウォーク

2025-04-27 15:21:10 | JRヘルシーウォーキング
 時おり雪混じりの雨が降る中、美唄の街を歩いた。期待の東明公園の桜は残念ながら蕾状態だった。美唄もまた過疎化が進展しているようで街中に活気が見られなかった…。また、私の体調にも若干の不安が…。

     

 今年2度目のJRヘルシーウォーキングです。今回はJR美唄駅がスタート&ゴールの12kmのコースです。
 私はJR桑園駅6時47分発の普通列車に乗り、美唄駅に8時13分に降り立ちました。今回は土日限定の「一日散歩切符」(2,730円)を利用して往復しました。

    
    ※ JR美唄駅の西側、いわば表玄関です。

 コースマップを受け取り8時20分、美唄駅をスタートしました。
 コースは国道12号線が走るJR函館本線の西側が表側とすると、反対の東側の主に住宅地を縫って東進するコースです。
 コンディションは少し肌寒いくらいでしたが、歩くには適した気温でした。

    
    ※ スタート直後、参加者がまだ塊となっています。

 スタートして間もなく「北海道せき損センター」という大きな名前の病院(建物自体も大きかった)が目に入りました。「せき損」とは「脊髄の損傷」という意味かな?と思いながらも初耳でした。  
 帰宅して調べてみると、やはりその名前には歴史的にも北海道を代表する脊椎・脊髄疾患の先進的治療が行われていた病院だということが判明しました。センターは、北海道大学医学部整形外科の関連基幹病院としても位置付けられているということです。

    
    ※ 「北海道せき損センター」の表玄関です。

 せき損センターを後にして、住宅街が延々と続きます。途中、コースから少し外れたところには「美唄東小」や「美唄聖華高校」があったのですが、目に入らないまま通り過ぎました。

 道央自動車道の下を潜り抜けると、住宅もぽつんぽつんと立ち並ぶだけの寂しい光景に代わりました。目指すは一本道の先にある「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」です。
 「アルテピアッツァ美唄」に向かう途中にショートコースとの分岐点がありました。つまりアルテピアッツァ美唄は単なる往復コースなのです。アルテピアッツァ美唄は美唄においては超有名な観光スポットですから、これまで何度も来ている方には不要な施設と映ったのでしょう。
 私の過去に3度ほど訪れていましたが、「ヘルシーウォーキングは基本コースを歩くことを基本とする」と考えていますので、当然アルテピアッツァ美唄に向かいしまた。  

        
    ※ アルテピアッツァ美唄では象徴的な作品の一つです。

 アルテピアッツァ美唄は、世界的彫刻家の安田侃氏の生誕の地で、氏の作品が緑豊かな公園に展示されています。この日も以前見たときと同じように安田氏の数々の作品が森の中に佇んでいました。

    
    ※ 安田侃氏の彫刻ではよく目にするタイプの作品です。

 アルテピアッツァ美唄を後にしたころからだったでしょうか?曇り空から雪混じりの雨が降り出しました。コースは、美唄市の東端の大地に造られた「東明公園」を目指し、坂道を上り続けました。「東明公園」は桜並木が続くが名所として知られていますが、残念ながら全体が蕾状態でした。
 そして東明公園の丘の上に建つ美唄の温泉施設「ビバの湯 ゆ~りん館」通過し、丘を下って美唄市街地を目指します。

    
    ※ 東明公園の桜並木は残念ながら蕾状態でした。
    
    ※ パークゴルフ場のグリーン上に白い粒が見えるのはこの日降った雪です。
    
    ※  美唄市の温泉施設「ビバの湯 ゆ~りん館」の建物です。

 ここからの道は退屈なウォーキングでした。なんの変哲もない田舎道を往くといった感じのウォーキングが続きました。
 市街地が近づいてきたところで、ようやくコンビニや郊外店が目に入るようになりました。
 そしてJR函館本線の跨線橋を通過して、線路の西側に来るとようやく市街地の様相を呈してきました。とは云っても人の姿はあまりなく、閑散とした感じは否めませんでした。

 西側市街地での私の期待は「美唄屯田兵屋」を見学することでした。国道12号線から少し入ったところにその兵屋は建っていました。しかし、内部見学はできそうな雰囲気ではなく諦めました。おそらく年に何回かは公開の催しはあると思うのですが…。

    
    ※ 美唄屯田兵屋です。

 続いて、境内に高い塔が屹立する「空知神社」が目に入りました。その境内に高い碑が建っていました。碑には「沼貝開拓記念碑」と書かれていました。帰宅して調べてみると21.8mもの高さだそうです。

    
   ※ 空知神社の境内から外れたところに高い「沼貝開拓記念碑」が建っていました。

 残念だったのは、「空知神社」の隣に「美唄市郷土博物館」があったのを見落としてしまったことです。これは返す返すも残念でした。
 イベントコースの場合、マップはほとんど見なくとも現地に案内標識が用意されているため、マップをよく見なかったことが原因でした。
 その後、空知神社から近いJR美唄駅に11時25分ゴールしました。

 ところで今回のウォーキングでは、恐れていたことが起こりました。私に腰痛の自覚症状が出てしまったことです。今年の入り長距離のウォーキングをすると、体の疲れと共に腰痛症状が出てくるのです。そうすると、体がくの字に曲がり、脚が押し出されるような歩きとなってしまうのです。いわゆる「老人歩き」です。
 こうなると休む以外に回復の方法はありません。私は休みを何度か取りましたが、そう何度も取るわけにはいきません。私は電信柱のようなものを見つける度に腰を伸ばすことをして、なんとか騙し騙し歩き続けましたが、これはピンチです。
 JRヘルシーウォーキングの継続にも黄信号が灯った気分です。なんとか腰痛を克服する術を探し続けたいと思っています。
 ◇ウォーク実施日  2025年4月26日(土)
 ◇歩いた距離    約12.0 km


若手ピアニストの技に聴き惚れる

2025-04-26 16:12:09 | ステージ & エンターテイメント
 若干二十歳でありながら情感あふれる奏法は、多くの聴衆を唸らせたようだ。(もちろん私も…)学業と並行して道内において演奏活動を行っているという岩本七音さんの市役所ロビーコンサートを聴いた。

       

 昨日正午、月に一度の札幌市役所主催の「市民ロビーコンサート」があったので駆け付けました。
 今回の出演は岩本七音(いわもと なおと)さんという小樽商大商学部に在籍する3年生の方でした。

 岩本さんの略歴を拝見すると、これまで輝かしい成績を収めていることが分かりました。その成績とは、「全日本学生音楽コンクールピアノ部門」で小学生の時に全国第2位、中学生の時に全国第3位、高校生の時に全国第2位と小・中・高を通じて常に全国トップクラスの成績を収めている方で、その他のコンクールでも素晴らしい成績を収められています。

 そんな素晴らしい成績を収めた方が、何故音楽関係の大学に進学しなかったのか不思議な感じがします。真実は分かりませんが、岩本さんには音楽だけではなく、その他の才能も優秀なために、将来の選択の幅を広くしておきたかったのかもしれません。

 さて、肝心のコンサートの方ですが、わずか30分間と短い時間のため、披露していただいた曲は3曲でしたが、いずれもが聴き応えのある素晴らしい演奏でした。その3曲とは…
 ◇シューマン/トッカータ ハ長調 Op.7
 ◇シューマン=リスト/献呈 S.566 R.253
 ◇ショパン/ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄ポロネーズ」
といずれも本格的なピアノ曲ばかりを演奏してくれました。

     
     ※ いかにも若々しい岩本七音さんです。

 演奏の様子を間近で聴かせてもらいましたが、その様子からも完全に曲と一体化したように拝見しました。時に鍵盤と真剣に対峙したり、時には大きく胸を反り目線を遠くに置いたりと、若干20歳の若者が弾いているとは思えないほど情感豊かな演奏でした。
 披露していただいた3曲の中で、私が最も気に入ったのはやはり聞き憶えのあるメロディーが何度も繰り返されるショパンの「英雄ポロネーズ」が特にお気に入りでした。
 全3曲を弾き終えたとき、会場から「ブラボー!」の歓声が上がりました。ロビーコンサートで私は始めて聴いた歓声でした。
 岩本七音さんのこれからの益々の活躍を祈念したいと思います。  

映画 ゲッベルス ―ヒトラーをプロデュースした男― №397

2025-04-25 16:43:01 | 映画観賞・感想
 シアターキノで観た映画で初めて期待外れの映画だったかなぁ…、というのが正直な感想です。ゲッペルスのプロパガンダが、どのようにして大衆に浸透し、それによって大衆がどう行動したのか、そのあたりが私に伝わってこないもどかしさのようなものが最後まで融けることはなかった…。

       

 昨日午後、ひさしぶりに時間が空いたので以前から気になっていた「ゲッベルス ―ヒトラーをプロデュースした男―」を観るためにシアターキノに赴きました。
 平日にも関わらず、中高年を中心に小さなシアターはほぼ満員の盛況でした。

 気になっていた…、と記したのは映画チラシに記されていた次の言葉でした。
 「ゲッベルスの手法が現在も広がり続けているからに他ならない。ウクライナやガザにおける戦争、ポピュリズムや極右台頭の背後で喧伝される言葉や映像、量産されるフェイクニュース…」
 あの時のドイツ国民が示したナチへの熱狂、それがどのようにして醸成されのか、そしてその時と現代のどこが酷似しているのか、そのあたりを感じてみたいと思ったのですが…。
 映画からはそれがどうしても私には伝わってこなかったのです。

         
          ※ 実際のゲッベルスの肖像写真です。

 そこでネット上ではどのように評価されているかと繰ってみたところ、当然のように賛否両論が展開されていました。そうした中、私の思いを代弁してくれるような評論を見つけることができました。その評論とは、IMUZA.comの「そんなに褒めないよ、映画評」というサイトでした。その評論を転写することにします。

 やはりやめておくべきでした。
 映画としてみるべきものがありません。ヨーゼフ・ゲッベルスを使っておよそ1937年あたりから1945年5月あたりまでのナチ党の盛衰と戦争の経緯をざっと語っているだけの映画です。
 いくらゲッベルスがこう言った、ああ言ったからこうした史実が生まれたと語ったところでそのプロパガンダがどのように大衆に浸透し、それにより大衆がどう行動し、その結果どのような恐ろしい現実が生まれたのかを描かなければプロパガンダの真実は描けません。
 ほぼ室内劇のつくりであり、そこにかなり頻繁に当時の実写フィルムが挿入されます。たとえばヒトラーがバルコニーで演説するシーンがあるとしますと、まず室内のシーンとしてヒトラーとゲッベルスが話しているカットがあり、やがてヒトラーがバルコニーに向かいますとそこで屋外からヒトラーを撮った実写フィルムに切り替わります。
 この手法がかなりたくさん使われています。ですので室内以外の実際に何が起きているかの屋外のシーンは少なく、あるにはあるのですがしょぼいです。かなり低予算の映画だと思います。日本にまで持ってきて劇場公開するような映画ではありません。
 まったく意味がないということではなくドイツやオーストリアのテレビで流すべきテレビドラマということです。


 まったく私が感じたこと、言いたかったことを代弁してくれています。筆者も書いているように、この映画をドイツやオーストリアの人たちが観たとしたら、映画で描き切れなかったことを実体験、あるいは語り継がれていることからそのすき間を埋めることができたのかもしれませんが…。

         
         ※ 実際のヒトラーの肖像写真です。

 また、映画はビジュアル的にもキャスティングに問題があったようにも思えました。登場したヒトラー役の方が私がイメージする中肉中背でややヒステリックに見えるヒトラーではなく、大男でかなり肥満体でどう見てもヒステリックには見えないキャストだったからです。ゲッベルス役も実際のゲッベルスとはやや印象は違いましたが、不気味な印象を与えるということでは適役だったのかもしれません。
     
※ 映画の中のゲッペルス(右端)、ヒトラー(中央)、ゲッベルスの妻(左端)です。

 とまあ、不満ばかりを述べたてることになってしまい、この文章を読んでいただいている方には気分を害することになってしまったかもしれませんがお許しください。
 次は良い映画に巡り合えますように…。

北海道独自の擦文文化を考察する

2025-04-24 20:53:56 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道の歴史は、その時代区分において東北以南の本州とは違う時代区分がなされている。 そのためもあって、考古学的に北海道の文化は独特の発展を遂げてきたとも云える。 私にとっては難しい考古学の話を専門家からお聴きした。 

 昨日午前、札幌市社会福祉協議会が主催する「わたしの生き方セミナー」の今年度第1回講座が、札幌市社会福祉総合センターで開講されたので受講しました。 
 第1回講座のテーマは「考古学から探る北海道の歴史~北海道をめぐる古代の交流・交易~」と題して、北海道博物館学芸員(考古学)の鈴木琢也氏が講師を務められました。 

         

 考古学は私にとっては関心の低い分野なこともあり、さらにはお話がやや専門的でもあったことから十分な理解ができたとは言い兼ねますが、理解できた範囲でレポしたいと思います。 
 まず、リード文でも触れた北海道と本州の時代区分の違いですが…。 
東北以南の本州の時代区分は①縄文時代、②弥生時代、③古墳時代、④古墳時代、⑤飛鳥時代、⑥奈良時代、⑦平安時代、… と続きますが、北海道は少し違った時代区分となっていることは諸兄もご存じのことと思います。 その北海道の時代区分とは…、
 ①縄文時代、②続縄文時代、③擦文文化時代、④考古学上のアイヌ文化時代、と続きますが、その間、続縄文時代と擦文文化時代の間にオホーツク地方だけに独特の「オホーツク文化」が花開いた時期があります。 
 こうした時代区分の違いが生じた原因は、東北以南は米作が可能だったため米作中心の生活へと移行していったのに対して、北海道内は米作には不適なために、基本的にはそれまでと同様に狩猟や採集生活が続いたことが最大の原因でした。 


 さて、今回考察する「擦文文化」ですが、擦文文化の時代は、7世紀後半から13世紀にわたって北海道において栄えた文化とされています。 「擦文」の名前の由来は、土器を作る際に、土器の表面を整えるために木のへらで擦ったことから、その擦った(こすった)文様が残ったことから「擦文文化」と称されたそうです。

    

  考古学の世界においては、7世紀後半から13世紀にわたって栄えた擦文文化をさらに三つに時代区分してその特徴を考察しているそうです。 
 その三つとは①成立期(7世紀後半から9世紀)、②拡散期(10~11世紀)、③変容期(12~13世紀)、と分けられるそうです。 
 

 擦文文化の時代に入り「成立期」には、北東北との交流がそれまで以上に活発となり、土器の様式、墓の在り方、住居の形態などに大きな影響を受け、変化した時代だったようです。 
 まず土器の様式ですが、北海道が擦文時代にすでに日本は平安時代に入っていたのですが、北東北においては「土師器(はじき)」という素焼きの土器がさかんに作られ、その影響を受けた北海道においては擦文土器が作られるようになったということのようです。 なお、本土では「須恵器」という土師器より高い温度で生成された土器も出回ることになったそうです。 色も土師器が土色なのに対して灰色の土器だったそうで、土師器よりは上級土器とみなされていたようですが、北海道内の遺跡からも発掘されていることからも交流が活発だったことが窺えます。 
 墓や住居についても本土の影響をうけたことが話されましたが、詳細は省略することにします。 

 そして「拡散期」に入ると、北東北との交流はますます盛んとなり、「成立期」にはその影響が札幌、石狩あたりに限定されていたものが、全道各地にその影響が拡がりだした時代でした。 道内の遺跡にその痕跡が数多く残っているそうです。 
 さて、交流が盛んになると、当然対価が求められますが、北海道からは毛皮類や鷲羽、海産物などが交易品として珍重されたそうです。 その中に「鷲羽」というものが含まれていますが、これは読んで字のごとくで、野鳥の鷲の羽根が珍重されたそうです。 本州では得られないオオワシやオジロワシなどの大型の野鳥の羽根が珍重されたということです。 
      
※ 鈴木氏が提示してくれたアイヌが鷲羽を採るための図だそうです。

 そして「変容期」に入ると、モノの交流だけではなく、人的交流も始まった証拠が遺跡などを発掘する中で見えてきたと言います。 というのも、この時期(12~13世紀)になると、北東北では平泉藤原氏が勢力を伸ばし、隆盛を究めました。 そうした情勢が北海道との交流にも少なからず影響を与えたことは想像に難くありません。 
 平泉藤原氏の本拠地だった遺跡からは擦文土器が発掘されたそうですが、使用された土や器の壁が厚いことから北海道の擦文土器とは明らかに違うそうです。 つまり発掘された土器は北海道から運び込まれたものではなく、擦文土器をつくる技術を持った人々が平泉や周辺で制作した可能性が高いというのです。 
 それに対して、北東北からも技術をもった人たちが海を渡り北海道に渡ったことが考えられ、北海道においても「須恵器」の器が目立つようになったということです。 

 こうして「擦文文化」はやがて終焉を迎え、「アイヌ文化」と称される時代へと移行していったようです。  
 「アイヌ文化」がその後、どのように発展したいったか、ついては本講の主たる目的ではありませんでしたので、講座では触れられませんでしたが、本州とは違い「擦文」という文化が北海道において一時期、独特の文化を育んだということは、興味深い事実だと云えるかもしれません。 

 講演の後の質疑応答のコーナーのところで、「北海道には擦文文化の後に、突然アイヌ民族が出現したのか」という質問がありましたが、鈴木氏は「それまで住んでいた蝦夷地の住民がアイヌの人たちだったのではないか」というようなことを述べられ、私も納得しました。 

 北海道地史の中で、その点について明示されていないキライもありますが、鈴木氏のように考えるのが自然のような気をしながら質疑応答を聞いていました。 
 「擦文文化」について、少しだけ分かったような気がしている私です… ・。 ととるため



フランシスコ教皇の言葉

2025-04-23 19:48:59 | その他
 21日のカトリック教会の頂点に立っていたフランシスコ教皇が逝去された。その教皇が残された数々の言葉が私の中に深くささった。拙ブログは私自身の体験を書き続けるものだが、本日はその禁を破って教皇の残された言葉を反芻してみたい。

 21日午前7時35分(日本時間同日午後2時35分)、フランシスコ教皇が逝去されたことが世界中を駆け巡りました。
 購読している北海道新聞にも大きく取り上げられました。その記事の片隅に「教皇の主な発言」と題する言葉の数々が紹介されていました。それを読ませていただき、私はいたく感動してしまったのです。どの言葉も深い人類愛に満ちた言葉で埋め尽くされていたのです。
 私はキリスト教徒でもなく、宗教にはいたって淡白な市井の人間です。だからだろうか?私は教皇の残された言葉を素直に読むことができたのです。
 フランシスコ教皇は、けっしておごらず、生活は質素で、庶民的な人柄で世界を魅了したそうです。 そんな教皇が残された言葉を噛みしめるとともに、私の中に長く残したいと思い、新聞に紹介された言葉の数々を紹介します。

   

◇教皇の務めは、最も貧しく弱い人たちに手を差し伸べ守ることだ。
  (2013年3月、バチカンでの就任ミサで)
◇神を求める同性愛者を裁くことはできない。
  (2013年7月、ブラジルからの帰途、記者団に)
◇女性が軽んじられている世界は貧弱な不毛の地だ。
  (2015年3月、「国際婦人デー」に)
◇一つやりたいのは、誰にも気づかれずに外出してピザを食べること。 
  (2015年3月、教皇選出2年に合わせたテレビインタビューで)
◇壁を築くことだけを考え、橋を架けよう考えない人物はキリスト教徒ではない。
  (2016年2月、メキシコ訪問を終え、米大統領候補だったトランプ氏について)
◇あなたたちは一人ではない。希望をなくさないで。
  (2016年4月、難民が押し寄せるギリシア東部レスボス島訪問で)
◇全てのイスラム教徒をテロリストと見なすのは公平ではない。
  (2016年7月、欧州各地のテロを受け)
◇世界が無関心であることを謝ります。
  (2017年12月、バングラデシュに避難しているミャンマーのイスラム教徒少数民族ロヒンギャ難民と面会して)
◇今こそ共に取り組み、あらゆる手段を取ってこの悪事を根絶しよう。
  (2019年2月、バチカンで開いた「未成年者保護会議」で聖職者による性的虐待問題について)
◇核なき世界の実現は可能であり必要不可欠だ。
  (2019年11月、長崎で演説)
◇核兵器を保有することも倫理に反する。
  (2019年11月、広島で演説)
◇原発は完全に安全が保証されるまでは利用すべきではない。
  (2019年11月、訪日を終えた教皇特別機上の記者会見で)
◇未曽有の事態だ。
  (2020年3月、世界での新型コロナウイルス感染拡大を受けて)
◇時代錯語の権力者が戦争を引き起こしている。
  (2022年4月、マルタを訪問した際、ロシアのウクライナ侵攻について) 

  発言な中には、一見政治的な発言が含まれているようにも見えますが、しかし全体の発言を見た時、それが深い人類愛から発せられたものであることが良く分かります。言葉を変えれば人類愛に反することについては、例え政治にコミットするような発言も臆せず発していることにフランシスコ教皇の覚悟も見る思いがします。

   

 世界の現況を見たとき、歩みは遅くとも徐々に、徐々に一人ひとりを大切にする世界に向かっているかな?と見ていたのですが…。その歩みがここにきて逆の方向に向かい出したのではと危惧する日々です。
 フランシスコ教皇の言葉が世界の人たちの中に深く刺さってくれることを願いたい思いでいっぱいです。                     


「札幌誕生」 著者:門井慶喜×秋元札幌市長 特別対談

2025-04-22 19:29:55 | 講演・講義・フォーラム等
 著者の門井慶喜氏は「一から街ができる姿を描きたかった」と語った。一方、秋元札幌市長は「第二の開拓時代を率先したい」と述べた。お二人の「札幌誕生」にまつわるあれこれを興味深く聴くことができた対談だった。

    

 本日午後、札幌コンベンションセンターにおいて「『札幌誕生』刊行記念 札幌市長・秋元克広さん×門井慶喜さん 特別対談」が行われたので参加し、お二人のお話に耳を傾けました。司会は元HBCアナウンサーの鎌田強さんが務めました。
  
    
    ※ 対談前のフォトセッションでのお二人です。

 お二人の話を一生懸命にメモしながら聴いたのですが、その中から印象的な言葉を掘り起こしてみたいと思います。

 まず、門井慶喜さんの言葉です。
 門井さんの著書に「家康、江戸を建てる」があるが、家康が江戸を創ったときは、江戸はすでに住んでいた人たちがいる中で、江戸の街を創っていったが、札幌は一部アイヌの方々がコタンをつくってはいたものの、ほぼ何もない状態から街づくりが始まった。門井氏はそうした何もない原野を「一から街ができる姿を描きたかった」と語りました。

    
    ※ 著書について、札幌について語る門井慶喜氏です。

 著書に出てくる具体的な場面に関して門井氏は…、
 ◇札幌農学校は、単なる農学を教えるだけではなく、宗教も含めて総合的な教育が展開されたことで多分野のリーダーを育成した。
 ◇島義勇が構想し、実現した碁盤の目状の札幌の街は、自分たちより他所から来た人たちを優遇する街に映る。
 ◇創成川(当時の大友堀)は、内陸都市である札幌にとって、水運を担い、札幌が発展するうえで大きな精神的位置づけがされる存在である。
 ◇札幌はいまだに発展中であるが、人口減少時代を迎えようとしている今日、二宮尊徳(その弟子である大友亀太郎)の取り組んだことは、それを克服するモデルとなり得る。
 ◇島義勇が短期間ではあったけれど、多くの仕事をし札幌人に讃えられたのは、明治政府から遠い蝦夷に派遣されたことによる「後がない」という思いと、島義勇の人間的魅力が部下に大きな影響を与えたことよる。
 などなど、作品の興味深い背景についてお話されました。

 一方、秋元札幌市長は…、
 ◇ご自身の出身校である北海道大学の前身の札幌農学校の先輩たちについて、「日本を支えるような人材を輩出した学校であり、先輩というよりは偉人たちを多く輩出した学校」だったと述べられた。
 ◇碁盤の目状の札幌の街については、昔も現代もイメージの違いはなく、伸びていく素地があるイメージである。
 ◇創成川(大友堀)は、住民の生活、産業などに大きく関わり、水路として石狩川と繋がり水運の通路として大きな役割を果たした。
 ◇これからの札幌、北海道は、国防、エネルギー、食糧といった面で日本の中でも重要な位置を占めている。そういう意味で「第二の開拓時代」を迎えているとも云える。
 ◇また、人口減少時代を迎え、人手不足などが懸念されるが、DX技術などを駆使して解決してゆきたい。
 ◇「札幌誕生」は一気読みするほど楽しく、また参考になった。世界のユートピアを目ざして都市づくりに邁進したい、と語りました。

    
    ※ サイン会の様子です。

 1時間という対談時間はとても短く感じられるほど、お二人のお話には魅せられました。
 対談後には、予想されていたとおり門井慶喜氏のサイン会が催され、私も持参した「札幌誕生」の中表紙に、門井氏自慢(?)の万年筆で達筆のサインを頂いてきました。

       
  ※ いただいた門井氏のサインです。(白丸の部分は私の名前を記していただきました)
     

門井慶喜著「札幌誕生」

2025-04-21 15:23:26 | 本・感想
 この「札幌誕生」は率直に面白かった!遅読の私が557頁の長編を一気に読み終えることができた。札幌創成期に関わった5人の偉人について著者の視点から綴ったものである。札幌誕生の秘話をまた一つ私の中に加えることができた。

     

 門井慶喜著「札幌誕生」は、北海道新聞に連載として2023年から今年1月かけて掲載されたものです。北海道新聞の購読者である私は当初こそ読んでいたのですが、新聞小説を読む習慣のない私にはいつしか離れてしまいました。
 その「札幌誕生」が、4月4日に発売と知って、発売日にさっそく買い求めたのです。

 「札幌誕生」には、札幌創成期に関わった次の5人が取り上げられていました。 (掲載順)   
  ◆開拓判官---島義勇       
  ◆ビー・アンビシャス---内村鑑三     
  ◆人の世の星---バチラー八重子 
  ◆流行作家---有島武郎 
  ◆ショートカット---岡崎文吉


 なぜ面白かったか?というとまず第一に作者の門井慶喜氏の筆致がとても分かり易かったことがあります。これまで読んでいた「徳川家康」の作者:山岡荘八氏は大正、昭和前期に活躍した作家のため、どうしても私にはどこか違和感を感じながら読み進めた感じがありましたが、門井氏の文章はスーッと私の中に入ってきたように思います。
 さらには、各登場人物を語る時にこれまで知られていなかったエピソードが随所に登場し、それがとても興味深かったことがあります。

 例えば島義勇の場合、彼は佐賀藩に生まれ、体格の良く、頭脳も優秀で藩校の弘道館を通常より2年早く卒業するほどの秀才でした。ところが藩には義勇と同年代に枝吉神陽という義勇でも全く歯が立たないほどの天才がいたことで義勇は自分に対して自信が持てなかったということです。
 その義勇が明治政府から開拓判官として蝦夷開拓を任されたことから、初めて自分の居所、働き甲斐を覚えて、全身全霊で開拓にあたることとなる遠因であったことを知ることができました。
 また、義勇は蝦夷開拓にあたって部下に命令するだけでなく、自らも率先して肉体労働の先頭に立って、周りを励まし開拓にあたったということも、この「札幌誕生」で初めて知ることができたことでした。

 続いて内村鑑三は、日本のキリスト教思想家として名を成した人ですが、札幌農学校の二期生ととして入学し、周りがクラーク氏の教えに従い、次々とキリスト教に入信する傍ら、内村は最後まで入信に抵抗し続け、半ば同級生たちから強制的に入信の署名をさせられたという逸話もこの本で知ることができました。

 さらに岡崎文吉は、湾曲が連続していた石狩川をショートカット(捷水路)方式によって川の周辺地域を洪水被害から救ったことで有名な技師ですが、文吉は当初、自然を大胆に改変するショーツカット方式に反対し、自然をそのまま残し放水路方式によって洪水調節を図ろうと主張し続けました。そして放水路方式の工事を開始したものの、予想を超える難工事と財政難もあり、大局的見地に立ってショートカット方式に主張を変えたことで、今日のような石狩川が出来たそうです。周辺は穀倉地帯に変わり、洪水被害も激減したといいます。
 このショートカット方式により石狩川の総延長が当初は364kmあったものが約100kmも短縮され、現在は268kmだそうです。

 その他にも、表層的にしか北海道、札幌の歴史について理解していなかった私に、数々のエピソードを紹介してくれた「札幌誕生」は期待していた以上に興味深い一冊となりました。

 その「札幌誕生」の作者:門井慶喜氏が明日4月22日(火)に来札し、秋元札幌市長と対談することになっていて、私も会場に駆け付ける予定にしています。
 購入した「札幌誕生」を持参し、サインをいただいたこようと思っています。ミーハーですなぁ~。 

ヘルシーウォーキング №48 春の訪れを感じる、安春川と屯田防風林・新川さくら並木ウォーク  

2025-04-20 16:01:19 | JRヘルシーウォーキング
 私にとっては一昨年の4月に続く2度目の新川駅をS&Gとするコースだったが、一昨年はさくらの時期が過ぎてしまい、今回はさくらの時期には早すぎたようだった。しかし、 コース自体はとても気持ち良く春のウォーキングを楽しめた今年初のJRヘルシーウォーキングだった。

     

 いよいよJRヘルシーウォーキングが始まりました。
 私にとっては3シーズン目の参戦です。
 シーズンインに備えて、今年は日ごろから努めて歩くように心がけてきました。今年に入って昨日までの一日平均歩数は11,000歩を超える数字を保ってきたのですが…。

   
   ※ 新川駅構内でマップをいただきスタートです。

 昨日朝、8時過ぎに自宅を出て、桑園駅よりJRで新川駅まで移動して、駅構内でマップを受け取り、8時30分新川駅をスタートしました。
 コンディションは前夜遅くまで降っていた雨は止み、曇り空ながら暑くも寒くもなく、ウォーキングには適したコンディションでした。
 コースはJR学園都市線の高架下を往き、途中から人工河川の「安春川」沿いを歩きました。

    
    ※ 新川駅をスタート後、JR学園都市線の高架下を往く参加者たちです。
    
     ※ 安春川沿いは、きれいに整備され理想的な散策コースになっています。

 一昨年は「安春川」沿いを延々と歩くコースだったのですが、今回は途中から右折して「屯田防風林」を目指しました。「屯田防風林」「日本の歩きたくなる道100選」にも選定された自然がそのまま残され、歩くところも舗装されていない自然に踏み固められたようなコースです。

    
    ※ 「日本の歩きたくなる道百選」に選ばれている「屯田防風林」です。

 ここでスタートしてから45分経っていたのですが、私は早くも疲労を感じ始めました。以前と比べると体力の衰えを自覚している私は意図的にゆっくり歩いていたつもりなのですが、この体たらくです。思わず防風林内に設けられたベンチに腰を下ろしてしまいました。

    
    ※ 屯田防風林内で今春初めてのエゾエンゴサクを見ることができました。

 「屯田防風林」を歩き終えると、今度はもう一つの人工河川である「新川」を目指して南下します。淡々とした市街地が続きます。
 防風林で一休みしてから1時間後、またまた歩くのが辛くなり、コース上にあったコンビニのイートインコーナーが目に入ったので、そこで飲み物を購入し、またまた一休みしてしまいました。

 すっかり市街地化した新琴似地区の一角に、サイロがあり仔馬が放牧されている「近藤牧場」を横目に「新川」を目指しました。その「近藤牧場」の近くに「残り5km」の表示が目に入りました。
 この後「残り3km」、「残り1km」の表示が疲れた体に勇気を与えてくれます。

    
    ※ 住宅街に忽然と姿を現した「近藤牧場」です。    

 ようやく明治時代に掘削され真っ直ぐ日本海に注がれている人工河川の「新川」沿いに走る遊歩道に辿り着きました。川沿いを東方向に真っすぐに約4km進みます。この川沿いにはさくらの樹が連続して植栽されており、「新川さくら並木」と称されています。しかし、さくらの方はまだ固い蕾に包まれており、開花にはまだ少し時間がかかりそうな状態でした。

    
    ※ 右に「新川」、川沿いに「新川散策路」、頭上には「西陵橋」です。
    
    ※ 「新川」の堤防沿いには「新川さくら並木」が続いています。
    
    ※ 「新川さくら並木」の桜の蕾はまだ固い状態でした。

 長~い、直線路を疲れに耐えて歩き切り、進路を北に取り、少し歩くとゴールの新川駅に到達しました。

    
    ※ 新川駅は「JR学園都市線」の高架下に造られていました。

◇ウォーク実施日  2025年4月19日(土)
◇歩いた距離    約12.5 km(歩数 20,538歩)

  JRヘルシーウォーキングはポイント制を採用していることが参加者の気持ちをくすぐります。
 つまり一回参加すると基本的に1ポイントが与えられます。(ただ、北見、函館、釧路、稚内といった札幌から遠方になると2ポイントが与えられます)

 今回は札幌市内の新川ですから当然1ポイントなのですが、雨天の場合は+1ポイントが付加されます。今回は前夜遅くまで降雨に見舞われたために、事務局判断で雨天同様に+1ポイントが与えられ2ポイントが付与されました。
 私は昨年、一昨年と30ポイントを上回るポイントを取得しましたが、今年も30ポイントを目指し、あわよくば40ポイントも、と考えているのですが、今回のような体たらくではかなり怪しいかなぁ?
 いやいや老体に鞭打って頑張ってみますよ!

遊牧民音楽の原点を聴く

2025-04-19 15:02:33 | ステージ & エンターテイメント
 いわゆるステージ演奏者ではないけれど、第一文化功労者勲章受章者だったり、モンゴル国の英雄叙事詩の語り部に認定されている奏者が、商業化されていない遊牧民に伝わる原点の音楽を歌い、吟ずる音(音楽)を聴いた。

   

 昨日、一昨日と二日間にわたって市民交流プラザSCARTSコートにおいて「遊牧民ひろば~観て、聴いて、体験する遊牧文化~」に参加し、遊牧民音楽に耳を傾けた。
 主催は、京極町のNPO法人「北方アジア文化交流センターしやがぁ」(理事長 西村幹也氏)というところです。 ‟しやがぁ”については、ウェブ上で検索したところ次のように出ていました。

  “しやがぁ”とはモンゴル語で、”くるぶしの骨”を言います。モンゴル遊牧民はこれをたくさん集めて大切にしますが、これは豊かさを象徴します。1頭から2個しか取れないくるぶしの骨がたくさんあるということは、家畜に恵まれていることを示すからです。 日本とモンゴルの関係が豊かなものになるように、また、そのためのジョイント・つなぎ目になれたらと言う願いを込めて法人名を‟しやがぁ”としています。

    
    ※ 会場の一角には遊牧民が日常に使う生活用具などを販売していました。

 さて、私がなぜ二日間も通ったかというと、一日目に行った際に披露する曲と曲の合間に。 ‟しやがぁ”の理事長である西村幹也氏が遊牧民の生活や音楽などについて詳しく解説してくれるのです。それを一度聴いたくらいでは理解できないところもあり、そこを少しでも理解したくて二日間通ったということなのです。

         
       ※ 曲の合間に説明する ‟しやがぁ”の理事長である西村幹也氏です。

 最初に登場した奏者はクグルシンというドンブラという弦楽器を抱え、モンゴルの土地に古くから伝わる歌を4曲披露してくれました。
 クグルシンさんはおよそ30年間にわたり遊牧をしながら医師として草原地域で暮らし、土地の古老から多くの歌を学び、その素晴らしい歌声が評判となった方だそうです。そのため演奏依頼が後を絶たず、その結果第一文化功労者勲章を授与されたということです。
 60歳代くらいかと思われるクグルシンさんはとてもきれいな高音の持ち主で、朗々と歌い上げる姿に演奏依頼が引きも切らないというのも納得できました。

    
    ※ モンゴルに伝わる遊牧民の音楽を歌いあげるクグルシンさんです。
       手にしているのは、ドンブラという弦楽器です。
 
 続いて登場したのはボルドという30歳後半では、と思われる方でした。ボルドさんは歌い手というより英雄叙事詩の語り部として、4編の叙事詩や喉歌(ホーミー)を披露してくれました。
 ボルドさんはモンゴルにわずか9人しかいない英雄叙事詩の語り部の1人だそうです。
 ボルドさんは一編毎に使用する楽器を変えて演奏(吟ずる?)しました。
 その楽器はトプショールという弦楽器、ツォールという縦笛を用い喉歌(ホーミー)を披露したり、馬頭琴の元となったイケルを用いたり、最後には馬頭琴でも奏でてくれました。
 ボルドさんの場合は、派手さのない地味なステージでしたが、それがむしろ素朴な遊牧文化の原点でもあることを教えられた思いでした。

    
    ※ ツォールという笛を奏でながら、喉歌を披露したボルドさんです。

 西村氏によると、現在世界においてSDGsが声高に叫ばれているが、移動を常とする遊牧民の生活は多くの物を所有できないために、生きるための最低限の物を所有し、自然の中で生き抜く知恵と経験、能力を身に付け、かつ豊かな精神文化がそこに生み出されたと言います。
 その一つが遊牧民の音楽であり、会場に展示されたカザフ刺繍であり、さらには展示即売されていた多くの民族雑貨なのだと言います。
 昨日、一昨日と、遊牧民族の世界に触れたひと時でした。

    
    ※ カザフ織の敷物が会場内にたくさん展示されていました。