田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈17〉三内丸山遺跡(青森市)

2023-11-15 19:02:10 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 「三内丸山遺跡」は北海道・北東北縄文遺跡群の中で唯一国の「特別史跡」に指定された遺跡であり、もちろん北海道・北東北縄文遺跡群の中の中心的存在である。その規模、発掘された建物跡、大型の掘立柱建物など他を圧している感がある遺跡である。
 
        
 私が「三内丸山遺跡」を訪れたのは、2020年に続いて2度目である。したがって新たなる感動というものはなかったが、北東北の遺跡群を巡ってきた後に訪れると、やはりそのスケール、遺跡としての充実ぶりは群れを抜いている感じがする。
 「三内丸山遺跡」は紀元前3,900~2,200年前とされ縄文の前期から中期にかけての遺跡とされている。
  
  ※ 唯一この写真だけは「三内丸山遺跡」を概観する写真としてウェブ上から拝借しました。

 遺跡はまずガイダンス施設である「三内丸山遺跡センター・縄文時遊館」がドーンと構えていて、そこを通らないと遺跡そのものを見ることができない仕組みとなっている。入場料410円を払い「縄文時遊館」に入ると、まずは「映像シアター」で「三内丸山遺跡」の概要を把握し、続いて30分おきに出発するガイドツアーを待つ。(時間30分程度、ガイド料:無料)
  
  ※ 「三内丸山遺跡センター・縄文時遊館」のエントランスです。写真右側にも広がっていてとてもカメラに収まりませんでした。
  
  ※ 「縄文時遊館」の内部です。右側は中庭。左側に映像シアター、展示室、そして遺跡の入口などが並んでいます。

 そしてガイドに従い時遊トンネルを通って、いよいよ遺跡に足を踏み込むことになる。ガイドされた順は2020年の時と同じだった。ムラのメインストリートの両側には「土抗墓」と呼ばれる墓跡が土を盛り上げたような形で多数残っていた。続いて、縄文人に住居である竪穴式住居が再現されたものが数棟立ち並び、その中の二つの住居だけが内部の見学を許された。続いて貯蔵庫を再現した建物、捨て場跡(これは実際の跡が残されていた)、さらに長さ32mもある大型建物を復元したもの、そして「三内丸山遺跡」のシンボルともなっている太さ1mものクリの木を使用した大型掘立柱建物を再現したもの、と当時の集落の様子を彷彿とさせる遺跡にはため息が出るほどだった。
  
  ※ ガイド(黄色の人)の説明を聴くガイドツアー参加者です。前方に丸い形をした土抗墓が見えます。
  
  ※ 掘り起こした土溝を見せている施設です。
  
  ※ こちらはいろいろな形の竪穴式住居を復元している一角です。
  
  ※ 高床式の貯蔵庫を復元したものと思われます。
  
  ※ 竪穴式の住居跡の柱を建てた穴を発掘当時のまま展示しているところです。
  
  ※ 「三内丸山遺跡」のシンボルの大型掘立柱建物を復元したものです。

 最後に、「大型掘立柱建物」を建てた時の柱跡が発掘当時のまま保存されているところに案内された。その穴の大きさ、柱の太さは目を見張るほどだった。
  
  ※ 大型掘立柱建物の柱を立てた穴(発掘当時のまま)です。
  
  ※ その穴から発掘されたクリの木の残骸が発掘され、現在はその木のレプリカが
穴の中に置かれていました。(本物は縄文時遊館に)

 ガイドされたところは以上だったが、「三内丸山遺跡」は面積42haだという。私たちが巡り歩いたのはそのほんの一部だったのではないだろうか?雨風が強い悪天だったために、私は早々に「縄文時遊館」に引き返したが、できればもっとじっくりと遺跡を見たかったとも思ったのだが…。
 ガイドツアーを終え、「縄文時遊館」の展示を見て回った。「三内丸山遺跡」は2,000点以上の土偶が発掘されるなど、発掘された出土品の数においても全国有数だという。それらが非常に見やすく展示されていた。また、その展示品の前の解説が分かりやすく訪れた者に興味を抱かせてくれた。
  
  ※ 三内丸山遺跡で発掘された土偶は2,000点以上にものぼるそうだが、その中の代表とされる「大型板状土偶」です。
  
  ※ 館内には写真のように縄文人の生活の様子を再現した展示もありました。手前の四角いタッチパネルが展示品を丁寧に説明してくれる装置が素晴らしかったです。
 さらには、展示しきれなかった出土品なども別棟の方に収蔵されている様子が窓越しに見られるようになっていた。
  
  ※ 展示室に展示できない多くの出土品が見える形の収蔵庫にたくさん収められていました。手前の黒い塊は、大型掘立柱建物の柱に使われていて発掘されたクリの木の一部です。
  
  ※ 「縄文ビッグウォール」と称して、三内丸山遺跡から発掘された土器の破片を
5,120個展示したものだそうです。
  
 北東北の縄文遺跡群を巡ってきて、各遺跡のガイドの方々が「三内丸山遺跡は…」と特別視して話す場面に何度も遭遇したが、それもむべなしの感だった。「三内丸山遺跡センター・縄文時遊館」は、レストランやショップも充実していた。私は「れすとらん五千年の星」で「縄文うどん」を食し、ミュージアムショップで掘立柱建物をイメージした長さ85cmの巨大なふ菓子を購入した。「縄文うどん」は麺にクリ、ドングリ、長芋が練り込まれているとのことだったが、味はまあまあといったところか。ふ菓子の方は孫たちの土産としたのだが、孫たちには大受けだった。
  
  ※ 私が食した「縄文うどん」です。
      
 ※ 孫たちに大受けだった「縄文柱」を模した長さ85cmのふ菓子です。

 こうして私の北東北縄文遺跡群を巡る旅を終えたのだが、振り返ってみると、全てを訪れる、というところに最大の目標をおいたこともあり、一つ一つの遺跡をじっくりと見る(観察する)という点では欠けていた点も多々あった。ただ、当初の最大の目標を無事にクリアできたことに今は満足している私である。

 ガイダンス施設「三内丸山遺跡センター・縄文時遊館」 青森市三内丸山305               
 ◇入館料 410円

北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈16〉 小牧野遺跡(青森市)

2023-11-11 19:20:45 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 小牧野遺跡もまた環状列石(ストーンサークル)を特色とする遺跡である。北東北の遺跡を巡り、縄文人たちがいかに祭祀を重要視していたかを痛感させられた。小牧野遺跡はその大きさ、形状ともに特筆すべき環状列石だった。
        
 いよいよ私の北東北の縄文遺跡巡りも最終日となった。10月17日(火)、私は初めに「三内丸山遺跡」を訪れたのだが、「三内丸山遺跡」はいわば北海道・北東北遺跡群の中で特別な存在であるので最後にレポすることにして、まずは「小牧野遺跡」をレポートする。
 「三内丸山遺跡」が青森市の中心街からそれほど離れていないところに位置するのに対して、「小牧野遺跡」は青森市の中心からかなり離れたところ(10キロくらい?)の台地に位置していた。
  
  ※ 遺跡は遠くに青森市の街も望める台地に位置していました。
 「小牧野遺跡」は紀元前2,000年前の遺跡とされ、いわば今から4,000年前に栄えた遺跡で、縄文後期の前半の遺跡とされている。
 私はまず廃校になった校舎を利用したガイダンス施設の「縄文の学び舎・小牧野館」を訪れた。こちらには学芸員やガイドなどはおらず、私は勝手に見学させていただいた。説明する方はおられなかったものの、昔の教室をそのまま活用した形で、教室毎にテーマが設けられていて、展示の説明が私たち素人にも分かりやすい説明と展示方法が印象的なガイダンス施設だった。
  
  ※ 廃校した校舎を利用したガイダンス施設「縄文の学び舎・小牧野館」です。
  
  ※ 遺跡から発掘された土器です。
  
  ※ 遺跡から発掘された「土坑墓」を再現して展示しているものです。
 遺跡はガイダンス施設からやや離れたところに位置していた。そこには見学者用の「小牧野の森・どんぐり家」という施設があり、ガイドはそこで待機していた。ガイドの方はそれまで各遺跡が案内してくれた方々とはやや雰囲気が違っているように感じた。どこか職業的匂いを感じさせ、あるいは臨時の職員さんなのかもとれないと思われた。
  
  ※ 遺跡のところに建てられた見学者用の「小牧野の森・どんぐり家」です。
  
  ※ その「どんぐりの家」の内部です。
 その方に案内され遺跡に向かった。遺跡はやはり当時の環状列石を復元させたもので、三重に石が並べられていた。これまでも二重、三重の環状列石を見てきたが、最も石がたくさん並べられているように感じた。またその円の大きさが直径55mと国内最大級の大きさを誇るものだったところに大きな特色があった。また、その石の並べ方にも規則性があるように思えた。
  
  ※ 環状列石です。写真では二重円ですが、確かに三重円の大きな環状列石でした。
  
  ※ こちらは別の環状列石です。
  
  ※ 石の並べ方に規則性を感じました。
 今回の北東北の遺跡を巡る旅では、前述したように環状列石やお墓の遺跡がとても多かった。このことは文明が発達していなかった縄文の時代においては、自然現象や人の生死などに対して何かに “祈る” ということが最大の関心事だったのかもしれない。そのことが この時代に遺跡において祭祀の場としての環状列石が数多く発掘されたことに繋がっているのではないか、と素人なり感じたことだった。 
  
  ※ 環状列石の傍にあった「土坑墓」の跡です。
  
  ※ 祭祀に使ったものを捨てた「捨て場跡」です。
 ガイダンス施設「縄文の学び舎・小牧野館」 青森市野沢沢辺108-3               
 ◇入館料 無料

国際シンポジウム「北海道・北東北の縄文遺跡群の価値理解と普及」

2023-11-09 17:05:12 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 私にとってはややレベルの高いシンポジウムに参加してみた。シンポジウム自体の私の理解度はイマイチだったが、「インタープリテーション」というキーワードが印象に残ったシンポジウムだった。
     
※ シンポジウムの開催告知パンフレットですが、背景の写真は世界遺産に登録された北海道内の縄文遺跡群です。

 少し時間が経ってしまったが11月5日(日)午後、北海道大学の農学部講堂において「北海道・北東北の縄文遺跡群の価値理解と普及」と題する国際シンポジウムが開催されたので参加してみた。
 シンポジウムは、西山徳明北大教授の基調講演に始まり、岩手県御所野縄文博物館々長、アメリカホープウェル国立歴史公園の考古学者、アメリカ国立公園事務所の考古学者、オーストリアの知的財産管理部門の主査、と言った方々の事例報告、そして登壇者全員によるパネルディスカッションと盛りだくさんの内容だった。
     
   今回のシンポジウムの講演者・発表者の顔写真と経歴です。

 シンポジウムの全てをレポートするのは私にはとても荷が重いので、シンポジウムを通じて私が印象的に感じたことをレポすることにする。
 その印象に残ったこととは「インタープリテーション」という言葉だった。基調講演で西山氏が再三にわたって口にした言葉である。私のように考古学について門外漢の者にとって初耳の言葉であったが、ネットで調べると次のようにまとめてくれている。
「自然・文化・歴史(遺産)を分かり易く人々に伝えること。自然についての知識そのものを伝えるだけではなく、その裏側にある“メッセージ”を伝える行為。あるいは、その技能のこと」
 本シンポジウムにおいて、「インタープリテーション」という言葉が強調されたのは、世界遺産の中でも特に “遺跡” というのは、一般人にとってそれを見ただけではその価値を十分には理解できないケースが多いために、その価値を伝える術(すべ)が大切であるということを強調されたのだと思われる。確かに私のこれまでの体験でも、屋久島や白神山地、あるいはグランドキャニオンなどの自然遺産はそこに身を置いただけでその素晴らしさ、雄大さなどを体感することができた。
 しかし、昨年、そして今回と巡り歩いた北海道や北東北の縄文遺跡群の場合は、発掘した跡が覆土されていたり、「ここで縄文人たちは祭祀を行っていた」と言われたりしても、そのことをイメージするのは難しかった。それを単に現地をガイドするだけではなく、インタープリテーションという考え方でビジターにより深く理解してもらうことが “遺跡” を案内する場合は必要であるということを強調しようということなのだろう。
 今回の北東北の縄文遺跡巡りでは、拙ブログでも度々触れているとおりガイドの方々の説明が、これまで私が受けた他のところでのガイドと比べて一段と丁寧だったなぁ、という印象が強かった。あるいは、ガイドの方々も研修によって「インタープリテーション」という概念を具現化しようと努められていたのかもしれない。
 上述したように “遺跡” というのは一般人にとっては地味な存在である。世界遺産に登録された遺跡の関係者は、登録されたときの喜びの時期が過ぎて、これからはいかに一般の方々がいかに持続的に興味関心を抱いていただけるかが課題となってくるようである。「インタープリテーション」は関係者にとって大切なキーワードのようだ。
 事例報告では、今回私も訪れた岩手県の御所野遺跡が遺跡の価値伝達のために先進的な試みを手がけている報告があった。
 またアメリカ・テキサス州の「ホープウェル儀式用土塁群」は千歳市の「キウス周堤墓群」と似かよった遺跡である点が目を惹いた。
   
   ※ 一見、千歳のキウス周堤墓群と見紛うような「ホープウェル儀式用土塁群」
   の写真です。

 さらにアメリカ国立公園局では、パークレンジャーに対して考古学的な価値を伝えるための研修に意を注いでいるとの報告があった。
 オーストリアの方からは、1~2世紀にわたって広大な領域を築いた「ローマ帝国」の国境線沿いの遺跡の保存のために国を跨いで、国同士が連携して遺跡を保存することの重要さ、難しさについての報告があった。
 パネルディスカッションでは、外交辞令的な意味合いも含まれてはいるのだろうが、日本の取組みについて賛辞する言葉が続いた。それぞれの国において、それぞれの事情で関係者は苦労されていることをうかがわせてくれる発言だった。
   
   ※ プログラムの最後のシンポジウムの様子です。

 関係者の伝える工夫、努力。それを受け止め理解し、周りに価値を広める一般人の応援・協力。この二つが北海道・北東北縄文遺跡群の価値を広く国内に定着させていくための鍵となるようである。


北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈15〉 太平山元遺跡(外ヶ浜町)

2023-11-07 16:21:09 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 休日であることを覚悟して伺った遺跡だったが、やはり今回の旅の中では最も収穫が少なかった遺跡となってしまった。それでも現地まで赴き、遺跡の上に立てたことをヨシ(良し)としたい。
        

 「大森勝山遺跡」を訪れたのは10月16日(月)、私はその後「太平山元遺跡」を目ざして外ヶ浜町まで車を飛ばした。この日は休業日であったが、その後のスケジュールを考えると直接職員やボランティアガイドから詳しいお話を伺えなくとも、現地にだけは立ってみたいと考えたのだ。
 「太平山元遺跡」は縄文草創期の紀元前13,000年(つまり現代より15,000年前)という縄文の中でも最も古い時期の遺跡である。したがって出土した土器にも縄目(縄文)の模様がないものが出土しているという。
  
  ※ 「太平山元遺跡」のエントランスです。遺跡は遠方の小高いところです。遺跡の手前には当時植わっていたであろう針葉樹が植えられていました。
 遺跡は小さな集落の住宅に囲まれるような形で存在していて、これまで見てきた遺跡と比べ面積は小さかった。遺跡は小さいながらも台地を形成しているところは他の遺跡と同様だった。現地は説明板なども整備され、遺跡の周囲には当時の自然環境を再現するためにデータに基づき針葉樹なども植樹されていた。
  
  ※ ちょっと小高い台地に形成された「太平山元遺跡」の全景です。
  
  ※ 写真のように民家がすぐ近くに建っていました。
  
  ※ 説明板の前の小石模様のものは、遺物が発掘された跡のようです。

 また遺跡の入口には新しいガイダンス施設の新築工事が進められていた。
  
  ※ 遺跡の横では新しいガイダンス施設の建設の真っ最中でした。

 残念だったのは、遺跡からそれほど離れていないところに廃校校舎を利用したガイダンス施設「外ヶ浜町太平ふるさと資料館」が休館だったことだ。縄文模様がない土器をできれば見たかったが、叶わなかったのは残念だった。再訪は叶わないと思うが、新設なったガイダンス施設を訪れたみたいものである。
  
  ※ 遺跡から少し離れたところにある廃校をし利用した現在のガイダンス施設「外ヶ浜太平ふるさと資料館」です。残念ながら閉館中でした。
 ガイダンス施設「外ヶ浜町太平ふるさと資料館」
                                                       青森県外ヶ浜町蟹田太平沢辺34-3               
 ◇入館料 無料

北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈14〉大森勝山遺跡(弘前市)

2023-11-05 12:30:30 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 こちらの遺跡もまたまた「環状列石」の遺跡だった。本来なら名峰・岩木山を背景とした遺跡として知られているのだが、生憎の天気で岩木山の山頂は雲に隠れたままだった。それより、休日なのに私のために説明をしていただいた弘前市の職員の方の親切に感激した私だった。
       
 この「大森勝山遺跡」を訪れたのは10月16日(月)だった。月曜日は遺跡など公共の施設などは本来休業である。この「大森勝山遺跡」も同様だった。ところが数日前に、「16日、10時30分に本当に来られますか?その際には私がご案内します」という電話をいただいていた。前日15日にも確認の電話をすると、案内いただけるという。
 私はガイダンス施設の「裾野地区体育文化交流センター」に向かった。センターは休館だった。どうやら職員の方は別のところに勤務されているらしかった。問い合わせの電話を入れると「直接、遺跡のところで待っていてほしい」ということだったので、遺跡のところへ移動して職員が到着するのを待った。
  
  ※ 「大森勝山遺跡」の駐車場時です。前に見える小さなプレハブはおそらくボランティアガイドの詰所でしょう。この日はもちろん休日ですので施錠されていました。
 約束どおり10時30分に若い職員の方が到着し、さっそく遺跡の方に導いてくれた。
  
  ※ 遺跡に向かうエントランスのところにモニュメント的な木がありました。枝先を伐採したということですが、やはり遺跡の象徴的な木として植樹されたものだそうです。 
 「大森勝山遺跡」は縄文晩期にあたる紀元前1,000年(つまり現代より3,000年前)の遺跡で、北東北の遺跡の特徴の一つである環状列石(ストーンサークル)の遺跡だった。
 遺跡は岩木山が眼前に聳える台地のところに広がっていた。この遺跡で面白いと思ったのは、発掘され並べられていた石と同じ石質・色・形の石材を利用して当時の様子を実物大表示で行っていたことだ。また、環状列石の周りには竪穴建物跡や炉の跡、あるいは捨て場跡が点在していたことを職員の方に説明いただいた。
  
  ※ 遺跡は発掘当時の様子を同じような意思を配列して再現されていました。
  
  ※ こうした石の配列は、それぞれ意味があるものと思われますが、一つの塊は一つの集落、あるいは家族の墓という意味があるようです。
  
  ※ このような石の配列にも意味があるのでは、との説明でした。
  
  ※ 祭祀の際などに使われたと思われる「屋外炉」の跡を再現したものです。
 この「大森勝山遺跡」から冬至の日に岩木山を見ると、太陽が岩木山の山頂に沈んでいくそうである。そのことから縄文人はカレンダーのように年月の経過の目安にしていたのではないかと推察されているそうである。
  
  ※ 私が訪れた際の遺跡と岩木山です。残念ながら山頂が雲に隠れていました。
  
  ※ 本来ならこのように岩木山が見えるそうです。(ウェブ上から拝借しました)
 弘前市の若い職員の方は、私に対してとても丁寧に「大森勝山遺跡」について、縄文人の生活について説明してくれた。
 そして休館だった「裾野地区体育文化交流センター」にも案内してくれ、内部の展示を見せていただいた。遺跡から発掘された主たるものは「弘前市立博物館」の方に所蔵されているらしく、交流センターには国の重要文化財にも指定されている「猪型土製品」はレプリカということだった。
  
  ※ 遺跡とは少し離れたところにあったガイダンス施設の「裾野地区体育文化交流センター」の建物です。雨模様のため暗く写っています。
  
  ※ センター内に展示されていた「猪型土製品」のレプリカです。
 いずれにしても市井の市民の一人である私に、遺跡・施設が休みにもかかわらず親切丁寧に対応してくれた弘前市の職員と出会えたことは、今回の旅をとても意義深いものにしてくれたことを感謝している。

 ガイダンス施設「裾野地区体育文化交流センター」 
                     青森県弘前市十面沢矕8-9               
  ◇入館料 無料

北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈12〉亀ヶ岡石器時代遺跡 & 〈13〉田小屋野貝塚(つがる市)

2023-11-02 19:27:18 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 「亀ヶ岡石器時代遺跡」と「田小屋野貝塚」は隣接して存在する遺跡なのだが、縄文人が活躍した時代が違うことから、二つの遺跡を違った遺跡として登録されたようである。
 

 私は当初この二つの遺跡を10月16日(月)に予定していた。ところが前日になって、月曜日は土・日に開放(開館)している公共施設は、月曜日は閉鎖するということに気が付いたのだ。私は慌てて15日の朝に「伊勢堂岱遺跡」から二つの施設に問い合わせたのだが「予定どおり閉鎖する」とのことだった。そこで急遽予定を変え、北秋田市の「伊勢堂岱遺跡」の見学を終えた後、遠路つがる市の二つの遺跡まで車を飛ばして訪れたというわけである。
 「亀ヶ岡石器時代遺跡」と「田小屋野貝塚」は、ガイドを予め予約しておかなくとも、現地ではボランティアガイドがその都度対応してくれるという仕組みのために、予約の電話を入れなかったことも私が凡ミスを犯した原因の一つだった。
 私は二つの遺跡を訪れる前に「つがる市木造亀ヶ岡考古資料室」を訪れた。資料室は遺跡からはかなり離れたところに建っていたが、展示物も充実しているとは言い難かった。つがる市にはもう一つ「つがる市縄文住居展示資料館カルコ」という施設があるが、そちらの方に主たる資料が展示されているのかもしれない。私は今回、そちらを訪れることは時間的に無理だった。
  
  ※ 「つがる市木造亀ヶ岡考古資料室」の外観です。
  
  ※ 資料館の内部の展示です。古風な形式の展示でした。
 「考古資料室」の後、遺跡へ向かった。すると「亀ヶ岡石器時代遺跡」の傍に「縄文遺跡案内所」があり、そこを伺うと直ぐに空いていた女性のボランティアガイドが私の担当として案内してくれた。
 「亀ヶ岡石器時代遺跡」は、縄文晩期にあたる紀元前1,000年~400年にあたる時期に栄えた遺跡であり、大規模な共同墓地が発掘された遺跡として知られている。また縄文晩期ということから土器や土偶などに精緻で複雑なものが多数発掘されている。その中でも大型の「遮光器土偶(愛称:しゃこたん)」は「亀ヶ岡石器時代遺跡」の象徴ともいえる存在となっている。
 私はまず「縄文遺跡案内書所」のすぐ隣にある「亀ヶ岡石器時代遺跡」から案内された。
  
  ※ 「亀ヶ岡石器時代遺跡」の前には大きな遮光器土偶のモニュメントが立っていました。
 遺跡は台地上に100基を超えるお墓が発掘されたということだったが、それらは全て発掘前の状態に復されていて、写真の被写体となる情景は皆無だった。
  
  ※ 遺跡から発掘された楕円形や円形に掘りくぼめたお墓(土坑墓) を再現したお墓が展示されていました。
  
  ※ 縄文人にとって貴重な食料だったクリの木(実)はどの遺跡でも植えられていました。
 続いて、「亀ヶ岡石器時代遺跡」から10分弱歩いたところにある「田小屋野貝塚」に向かった。こちらも遺跡の方は、縄文前期の遺跡ということで紀元前4,000~2,000年前の遺跡だそうだ。竪穴建物跡、墓、貯蔵穴、貝塚などが確認されたというが、現場は「〇〇跡」と記された看板があるだけで、全て土で覆われていた。
  
  ※ 「田小屋野貝塚」では、このような看板が立てられ発掘跡を説明していました。
  
  ※ こちらは人骨が発掘されたときの状況を写真で説明していました。
 二つの遺跡共に写真の被写体としてはイマイチだったが、案内してくれたボランティアガイドの方が生き生きとしてガイドしてくれていたことが印象的だった。そのことに触れると、彼女は「全国から訪れる遺跡ファンの方々に説明することは、とてもやり甲斐があります」と語っていた。これまで出会ったボランティアガイドの方々も同様な思いでガイドされていることをうかがわせてくれた。
 最後に遺跡から弘前市のホテルに戻る前に、「木造駅」を訪れた。「木造駅」は、駅舎が愛称「しゃこたん」で知られる遮光器土偶の巨大モニュメントが有名であるが、私もその傍に立って巨大にモニュメントに驚いたのだった。
  
  ※ 「木造駅」の「しゃこたん」を模した巨大なモニュメントです。
 ガイダンス施設「つがる市木造亀ヶ岡資料室」 青森県つがる市木造立岡屏風山195                
  ◇入館料 200円
 ガイダンス施設「つがる市縄文住居展示資料館カルコ」青森県つがる市木造若緑50-1
  ◇入館料 200円
               

北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈11〉伊勢堂岱遺跡(北秋田市)

2023-10-31 15:41:21 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 「伊勢堂岱遺跡」も環状列石(ストーンサークル)が発掘された遺跡だった。4つの大きな環状列石が一つのところにかたまって発掘されたが、ガイドの方の説明がなかったことで外観を眺めるだけの見学となった。
        
 「伊勢堂岱遺跡」は、縄文時代後期前葉の紀元前2,000年から1,700年前の遺跡と考えられている。ここの遺跡の特徴は何といっても4つもの環状列石(ストーンサークル)が隣接して存在することだ。
私はこの日(10月15日)、朝一で遺跡のガイダンス施設である「伊勢堂岱縄文館」を訪れた。縄文館は大きな施設でないこともあってだろうか無料で開放されていた。
  
  ※ 「伊勢堂岱縄文館」の建物です。逆光のようで写真がはっきりしませんね。
  
  ※ 駐車場も環状列石をイメージして(?)円形に駐車するようになっていました。
 今回北東北の縄文遺跡を巡っていて、どの遺跡でも多くの人たちに関心をもってもらうためだろうか?出土品からデフォルメしたり、キャラクターに仕立てたりしてアピールしているところが多かった。この「伊勢堂岱遺跡」においてはちょっととぼけた表情をした「板状土偶」(愛称:いせどうくん)を一押ししていたようだ。縄文館の展示室の入口にはその「いせどうくん」を本物の確か8倍にした大きな「いせどうくん」が迎えてくれた。
  
  ※ 展示室入口には大きくデフォルメされた「いせどうくん」が出迎えてくれました。
 展示室にはその他、伊勢堂岱遺跡から発掘された「遮光器土偶」や「笑う岩偶」も展示されていた。
  
  ※ こちらが本物の「板状土偶」の「いせどうくん」です。
  
  ※ 「遮光器土偶」はいろいろな遺跡から発掘されたようです。
  
  ※ こちらは「笑う岩偶」です。縄文人もユーモアがあ???
 その後、縄文館からは少し離れたところにある環状遺跡に向かった。小高い丘の上にあった遺跡は確かに4つの環状遺跡が並んでいた。(一つは円が欠けた状態だったが)4つもの環状遺跡が発見されたのはこの「伊勢堂岱遺跡」だけであるところに価値があるようだ。環状を描いている石は主として近くの米代川の川原石が使われたとされている。
  
  ※ 環状列石全体を見ることができないので、HPの空撮写真をお借りしました。
  

  

  
  ※ 発掘当時のまま川原石が並べられていました。
 ところでこの「伊勢堂岱遺跡」は、大舘能代空港の近くにあるのだが、空港へのアクセス道路を建設していた際に見つかった遺跡だという。そのためにアクセス道路は計画を変更して遺跡を迂回するように建設されたそうだ。遺跡の敷地の中には、道路建設のために敷設されたコンクリートの建造物が残っていたが、そこは遺跡の野外ステージのバックとして活用しているとのことだった。
  
  ※ 空港へのアクセス道路が建設されていた痕跡が残るコンクリートの壁です。遺跡では野外イベントの際のステージのバック壁として利用しているそうです。
 前述したが、ここではガイドの説明を伺うことができなかった。しかし、ガイドブックではガイドのサービスがあるとの記述があったので、事前に申し込んだところ一度は承諾されたのだが、後日になって「団体のガイド要請があったのでお断りさせてください」と連絡があった。ガイドに余裕がなかったのかもしれないが、残念であった。
 その後、私は私のボーンヘッドによって日程変更を余儀なくされ、遠く青森県つるが市の「亀ヶ岡石器時代遺跡」と「田小屋貝塚」を目ざして車を遠く走らせたのだった…。

 ガイダンス施設「伊勢堂岱縄文館」 秋田県北秋田市脇神小ヶ田中田100-1                
  ◇入館料 無料
  ◇訪問日 10月15日(日)

北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈10〉 大湯環状列石(鹿角市)

2023-10-28 16:24:19 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 「大湯環状列石」は、大きな二つのストーンサークルからできていた。秋らしいとても気持ちの良い天候の中で、ここでも熱心な女性のボランティアガイドの案内で楽しく見学させていただいた。
        
 「大湯環状列石」は、二つの環状列石(ストーンサークル)を主体とする遺跡で、紀元前2,000年から1,500年前の縄文後期に発達した遺跡と考えられている。この頃の環状列石と集落は離れていて、環状列石があるところはいくつかの集落の共同墓地であり、共同祭祀場だったと考えられている。
 この日(10月13日)は宿をとった青森県田子町から国道104号線を走って鹿角市の「大湯環状列石」を目ざした。ところが国道とはいっても道路は細く、青森県から秋田県へと県を跨ぐため県境の峠道などは細いうえに曲がりくねった道が続き、緊張の連続のドライブだった。
  
  ※ 「大家環状列石」のガイダンス施設である「大湯ストーンサークル館」のエントランスです。
 「大湯環状列石」は鹿角市の街の中心に入る手前の郊外に展開していた。私がちょうどガイダンス施設の「大湯ストーンサークル館」に着いたとき、館内を案内する女性のボランティアガイドの方が夫妻を相手に説明を始めていた。そこに同行させていただき説明を伺った。「大湯ストーンサークル館」は比較的小規模のもので、遺跡から出土した遺物もそれほど多いとは思われなかった。その中で一つ特徴的な物があった。それは通称「どばんくん」とも呼ばれている土版である。僅か5~6cmの土版なのだが、その表裏に1~6までの穴が付いているのだ。ガイドの方は「あるいは子どもに数の概念を教える道具だったのでは?」と説明されたが、本当のところは謎のようだ。
       
       ※ 「どばんくん」の表にはヒトの顔を象りながら1~5までに数の穴が付けられています。

       
       ※ 裏側には6つの穴が…。
 また、大きな土器も展示されていたが、それは「土器棺」として使用されていたものと説明があった。おそらく子どもを埋葬するために使われたのでは、とのことだった。
  
  ※ 幼子など小さな子供の死体を入れたと思われる「土器棺」です。
 続いて遺跡の「大湯環状列石」の現地の見学に移った。そこで先の夫妻はガイドから離れたために、私はここでもマンツーマンで案内を受けることになった。「大湯環状列石」は二つの環状列石から成っており、それぞれに「野中堂環状列石」、「万座環状列石」と命名されていた。私たちはまず「野中堂環状列石」に赴いた。
  
  ※ 「野中堂環状列石」の全景です。二重円になっているのがお分かりになると思われます。
 「野中堂環状列石」は60基以上の石で二重の環状を形成しているのだが、その中に明らかに日時計を意識した組石が見て取れたのが印象的だった。
  
  ※ その環状列石の内側に写真のように日時計と思われる長い石が立っていました。
  
  ※ 今回の遺跡巡りをしていて、こうしてクリの木を意識的に植えているところが目立ちました。クリの木は縄文人にとって大切な木の一種でした。
 続いて、道路を隔てて「万座環状列石」の方に移った。こちらの方は100基以上の石が遺されていてより鮮明な形で環状列石の跡を確認できた。周りには建物も点在していて当時の様子を彷彿とさせてくれた。しかし、それらの建物は住居とは言い難く、ガイドの説明によると、祭祀に訪れた人が休んだり、墓守のような人が仮眠をとったりする建物だったのではないか?ということだった。
  
  ※ 「万座環状列石」の全景です。やはり二重円になっています。
  
  ※ こちらは環状列石の傍に建物を復元していました。しかし、住居ではありません。祭祀の際に使われた施設だと思われます。
  
  ※ その建物の一つに入って説明するボランティアガイドの方です。
 私が「おっ!」と思ったことがあった。それは二つの環状列石(ストーンサークル)の間に道路が通っているが、鹿角市や秋田県では将来この道路を廃止し、う回路を設けることになっているという話だった。遺跡と道路という関係では、北海道・千歳市の「キウス周堤墓群」 は墓域の上を道路が通っている。道路が建設された当時は遺跡の存在が確認されていなかったから仕方がなかったといえば仕方がなかったのだが、千歳市あるいは北海道はこの残念な現状について善後策を検討されているのか否か気になるところである。
 遺跡の見学が終わりストーンサークル館に帰ったガイドが「館が用意している映像資料を見ていってほしい」と言われたので、視聴させていただいた。その中に一コマで、縄文人が土器を使って食物を火にかけて食していたとの説明に続き、さまざまな食物を一度に土器に入れて食していたのではとの説明から「縄文人はごった煮が好きだったようだ」との説明がされたが、きっと調査からそうした証拠も見つかっているのではと思われた。

 ガイダンス施設「大湯ストーンサークル館」
                秋田県鹿角市十和田大湯万座45                
  ◇入館料 320円
  ◇訪問日 10月13日(金)

北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈9〉 御所野遺跡(一戸町)

2023-10-26 14:00:35 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 「御所野遺跡」は、遺跡そのものも、ガイダンス施設も、そこにいたるエントランスも、「三内丸山遺跡」に優るとも劣らないもので、私が巡った17遺跡の中で双璧を成すと言っても過言でないほど充実した遺跡だった。
        
 北東北の縄文遺跡群巡りの第2日は、遺跡間が離れていることもありこの日は「御所野遺跡」一つを見学するにとどめた。そのため時間的に余裕もあったために、八戸市の国の天然記念物の指定を受けている「蕪島ウミネコ繁殖地」を訪れたり、「御所野遺跡」へ向かう途中の三戸町の「三戸城跡」を見学したりしながら「御所野遺跡」へ向かった。
 「御所野遺跡」は縄文中期後半の紀元前2,500年から2,000年に栄えた遺跡であるという。
 一戸町にある「御所野遺跡」は、国道4号線沿いを三戸町、二戸市を通って一戸町の中心街も通過した郊外に位置していた。するとそこに三角屋根の建物が見えたので、そこがガイダンス施設かと思ったのだが、それは「ききのつりはし」という木製の吊り橋が架かっている入口だった。屋根付きの木道「ききのつりはし」は深い谷を跨ぐように造られていたが、一戸町の説明では「谷の向こうにある数千年前の縄文時代の景観に向かうためのタイムトリップ装置としても機能し、弧になって曲がっているため見通しのきかないところが不安と期待を喚起し、外光の入る明るい部分と板張りの暗い部分が交互に体験することで、時間を圧縮した感覚を味わうことができる」とあったが、まさにそのとおりで「どんな遺跡が待っているのだろう!」という期待感に胸を膨らませながら遺跡に向かった私だった。
  
  ※ 国道4号線沿いに建っていた「ききのつりはし」の入口の建物です。
  
  ※ 「ききのつりはし」の内部は写真のように弧を描いていました。
  
  ※ HPから借用した「ききのつりはし」の全景です。谷の向こうに遺跡がありました。
 つり橋を渡り終わると、そこには遺跡のガイダンス施設である「御所野縄文博物館」が待っていた。この博物館もまた素晴らしく、遺跡からは直接見えないように配置され、屋根は芝生で覆われているといった凝りようだった。
  
  ※ 「ききのつりはし」を渡り終えると「御所野縄文博物館」がお出迎えです。
 博物館に着いたのが予定より早かったために、「予約したガイドを早めていただけないか」とお願いしたところ、ガイドと連絡を取ってくれて予定より早くガイドしていただけることになった。ここでもガイドの方は退職された男性のガイドの方だったが、私と1時間以上にわたり博物館内、そして遺跡を案内していただいた。
 まず博物館で印象的だったのが、縄文人の生活の様子を再現したプロジェクションマッピングだった。一年間の生活の移り変わりを分かりやすく再現したところは多少デフォルメされているところがあったかもしれないが、縄文人の生活の様子を理解するうえでは素晴らしい映像だったと思われた。
 また博物館内も観覧する側の立場に立った展示が素晴らしいと思えた。その中でも有名なものの一つに「鼻曲がり土面」という個性的な表情をした土面と、妊娠した女性を表現した「縄文ぼいん」とも称される土偶が有名とのことだった。
  
  ※ 御所野遺跡を代表する出土品の一つ「鼻曲がり土面」です。
  
  ※ こちらは妊娠した女性を表した通称「縄文ぼいん」だそうです。
 つづいて博物館から遺跡へ移動して説明を受けた。御所野遺跡は広々とした台地に広がっていた。というのもこの時代は居住域と墓域、祭祀場が分かれていたことも広いところが必要だったと思われる。遺跡には竪穴式住居をはじめ、祭祀を行う集会場と思われる施設、などが復元されて遺跡の各所に建てられていた。また、明らかに墓石と思われる「配石遺構」も何ヵ所か復元されていた。
  
  ※ 広々とした台地の広がる「御所野遺跡」です。
  
  ※ 再現された土盛の竪穴式住居です。
  
  ※ こちらは木の皮で造った貯蔵庫のような働きをした建物です。
  
  ※ 死者を弔う石の配列だと思われます。
 ここの「御所野縄文博物館」ばかりではなく、今回の旅の中で度々出てきた言葉で「アオトラ石」という言葉が出てきた。この石は緑食岩と呼ばれる堅い石で、石斧(せきふ)に使われた石だったという。鉄の無い時代、堅いアオトラ石で縄文人は木を切り倒していたという。その産地が北海道の日高山脈からしか採れなかったそうだ。このような貴重な石が海を渡って東北各地に伝来されたというから非常に興味深い。御所野遺跡内においても 現代人がアオトラ石を使って倒された木株の跡が残っていた。
        
        ※ 北海道日高産のアオトラ(青虎)石です。
  
  ※ そのアオトラ石で木株を切り倒した跡です。相当な重労働を伴ったと考えられます。これはもちろん現代人がアオトラ石を用いて木株を切り倒した跡ですよ!
 最後にガイドの方はもう一度博物館に戻り、説明したりなかったことを詳しく説明してくれるなど終始親切なガイドぶりが印象的だった。
 そして私は最初に渡った「ききのつりはし」を再び渡り現代に還ってきたのだった。

 ガイダンス施設「御所野縄文博物館」 岩手県一戸町岩舘御所野2                
  ◇入館料 300円
  ◇訪問日 10月13日(金)


北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈8〉 是川石器時代遺跡(八戸市)

2023-10-24 15:49:16 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 是川石器時代遺跡は縄文晩期の遺跡ということで、それ以前よりは高度な技術がほどこされたものが発掘された遺跡である。特に、赤いベンガラを塗った漆製品が数多く発掘された遺跡として知られている。
         
 午前中に七戸町の「二ツ森貝塚」の見学を終えた私は八戸市に舞い戻った。八戸市には「長七谷地貝塚」という関連資産があり寄ってみたのだが、ただの原っぱで看板があるのみで見るべきところもなかったのでパスして、もう一つの遺跡「是川石器時代遺跡」へ向かった。
 「是川石器時代遺跡」は、現在遺跡自体が整備工事中ということだったが、「是川埋蔵文化財センター 是川縄文館」をガイドが説明してくれるというので訪れることにしていた。
  
  ※ 是川石器時代遺跡のガイダンス施設の「是川埋蔵文化財センター 是川縄文館」
の建物です。
 ガイダンス施設である「是川縄文館」はなかなか立派な施設だった。私が「是川縄文館」に到着すると、やはり男性のお年を召したボランティアガイドが待っていてくれた。
 ガイドは「二ツ森貝塚」のガイドと同様、能弁に「是川石器時代遺跡」について語ってくれた。特に、特色の一つである漆(ウルシ)の収集方法については、漆の木から漆を収集する道具も展示されていてその方法を詳しく説明してくれた。その製品の一つで完全な形で出土したわけではないが「木胎漆器」と題する漆塗りの赤い木の器が「是川石器時代遺跡」から出土した代表的なものとして紹介されている。ベンガラの赤色を混ぜた漆を土器や木器に塗ったものは祭祀に用いたとされているが、そもそも縄文人が赤色を好んだのは、赤色が生命の力を象徴する色として尊び、人の死と再生を意味するのではないかとガイドは説明された。
  
  ※ これがパンフレットの表紙にも使われている「木胎漆器」です。本物は赤色がやや退色していますが、確かにベンガラの色が残っています。
  
  ※ 同じ赤色の漆がほどこされている土器の入れ物です。
  
  ※ 木製の櫛にも赤色の漆が塗られています。
 また、もう一つ「是川石器時代遺跡」を代表するものとして国宝にもなっている「合掌土偶」は縄文館の中でも特別な形で展示されていた。その他にも数々の貴重な遺物が展示されていたが、その数があまりにも多いために私はそれらを十分に消化することはできなかった。
  
  ※ 国宝の「合掌土偶」です。土偶で国宝に指定されているのは5体だそうです。
  
  ※ こちらは八戸市民に人気があるという「頬杖土偶」です。
 縄文館の入口付近に二つの胸像が建っていた。ガイドによると、お二人は地元の素封家だった泉山岩次郎と斐次郎という義兄弟だという。彼らは自らの畑から出土した貴重な遺物の数々を散逸しないよう自費でもって護ったことによって、現在縄文館に貴重な出土品が展示されることになった恩人であるということだった。
  
  ※ 是川縄文館内に建てられた泉山岩次郎と斐次郎の胸像です。
 最後にガイドの方は、現在整備工事中ではあったが「是川石器時代遺跡」を構成する遺跡の一つ「中居遺跡」に案内してくれて、柵の外から低地に小川が流れる遺跡を案内してくれた。
  
  ※ 泉山岩次郎の畑跡だという「仲居遺跡」です。(現在整備中とのこと)
 この遺跡においてもボランティアガイドの方が丁寧に遺跡について説明してくれたことが有難かった。

 ガイダンス施設「八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館」 青森県八戸市是川横山1                
  ◇入館料 250円
  ◇訪問日 10月12日(木)