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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

道民カレッジ「学びカフェ」を今年もお手伝いしています!

2025-08-22 19:13:44 | その他
 年齢を問わず誰もが参加できる学びの場として、昨年度から道民カレッジが全道各地で開催している「学びカフェ」の指導のお手伝いとして昨年から参加させていただいていますが、今年も過日の夕張市に続き、本日室蘭市でお手伝いをしてきました。

        

 道民カレッジでは、・気軽に立ち寄れる ・暮らしに役立つまなびがある ・それぞれのペースで学べる ・新しい出会いがあるかもしれない そんな、あたたかみのある居心地の良いカフェのようなまなびのスペースを参加される皆さんといっしょに創りたいと考えています。
 
 という謳い文句で、今年は帯広市、夕張市、稚内市、室蘭市の4市で「道民カレッジ まなびカフェ」を、すでに開催したり、これから開催を予定しています。
 私はそのうち、夕張市と室蘭市の指導のお手伝いを依頼されました。
 そして過日8月5日(火)に夕張市の「拠点複合施設りすた」において、最初の授業を担当してきました。
 教科は、昨年は「国語科」だったのですが、今年は「理科」を担当することを依頼されました。

    
    ※ 夕張市の会場「拠点複合施設りすた」です。

 どのような内容を取り扱うか、事務局と相談して小学校3年生の「電気の通り道」という学習を実験学習を中心とした内容で組み立てました。
 まずは私たちがふだん手にしているコインは「電気を通すだろうか?」という問いを発し、予想を立ててもらってから、実際に乾電池と豆電球を用意して確かめてもらいました。
 コインは、1円がアルミニウム、5円が真鍮、10円が銅、50円、100円が白銅、500円がニッケル銅と、全てが金属製ですから、実験の結果は全て「電気を通す」という結果になり、参加した皆さんも納得でした。

    
    ※ このような教材を用意して学習に臨みました。

 そこで中間のまとめとして「全てのコインは電気を通しました。これは、コインが全て金属だったからです。金属は電気を通すのですね」とまとめた後、次の問いを発しました。
 「それでは私が用意した次のものは電気を通すでしょうか?」と問い、次のようにものを提示しました。
 その用意したものとは?
 ◇ゼムクリップ、◇アルミカップ、◇鉛筆の芯、◇金色の折り紙、◇銀色の折り紙、◇仁丹、◇スチール缶、を用意しました。

    
    ※ 夕張会場で予想を立てている皆さんです。手元に飲み物を用意して気軽に学習に臨めるよう配慮しています。

 さて、どのような結果になったでしょうか??
 こちらも初めに予想を立てていただいてから、確かめの実験をしてもらいました。
 その結果については、ここでは秘密にしておきましょう。
 面白いのは、金色と銀色の折り紙では違う結果だったということです。さて、皆さまはお分かりですか?
 不安に思われる方は、百均ショップに金色と銀色の折り紙が販売されていますから、お確かめください。

 このような簡単(?)な学習を本日も「室蘭市生涯学習センターきらん」に集まっていただいた9名の皆さまと一緒に学習してきました。(夕張会場は14名でした)

    
    ※ 室蘭市の会場「室蘭市生涯学習センターきらん」の外観です。
       両会場ともに立派な施設でした。

 どちらの会場も参加していただいた方々が嬉々として取り組んでくれたことが私には嬉しいことでした。

    
    ※ 室蘭市会場でもう一つの教科の学習に取り組む皆さんです。

 私はさらに10月にもう一度室蘭市でお手伝いすることになっています。さて、次はどのような教材で皆さまと一緒に学習しようか?と頭を悩ましてみたいと思っています。

歌ってストレス発散!

2025-07-22 15:23:47 | その他
 コンサート等を聴くばかりじゃどうしても息が詰まる思いがする。時にはアウトプットすることも必要に思う。かといって、歌曲など高尚な歌を歌えるわけじゃない。ごくごく平凡に、昭和歌謡や昔馴染んだフォークソングを皆で一緒に歌い楽しんだ。

 昨日午後、中央区民センターで「年金者組合札幌中央支部」という団体が「うたごえ広場」を開催すると知り、「どんなものなんだろう?」という興味も手伝い参加してみることにしました。

 参加者は30名を超えていただろうか?年齢層はかなり高いようでしたが、意外に男性の方の姿も多く心強い思いでした。

    

 「うたごえ広場」の楽しみ方は次のようなシステムとなっていました。
 リーダー(名前は分かりません)の方がパソコンを操作して、予め準備していた歌やリクエストのあった歌をネット上のカラオケなどから音源を取り出し、その音源に合わせて皆が声を合わせて歌うというシステムでした。

 取り上げられた曲目をメモすることを忘れたために、思い出せた曲目を羅列すると…、
 ◇切手のない贈り物、◇四季の歌、◇上を向いて歩こう、◇時代、◇手のひらを太陽に、◇百万本のバラ、◇芭蕉布、(順不同)などだったように記憶しています。実際にはもう少し他の曲も何曲があったと思いますが、思い出せません。
 私は「芭蕉布」以外は、どの歌もよく憶えていて、楽しく歌うことができました。

 さらには、三人の方がソロで歌声を披露しました。その三曲とは、◇「男はつらいよ」、◇「オホーツクの海」、◇「お座敷小唄」の替え歌で「ボケない小唄」を披露し皆さんから喝さいを浴びました。皆さんそれぞれ思いが深い曲なのでしょう。

 最後に「今日の日はさようなら」を歌い散会しました。

 私は歌うことが嫌いではありません。というよりはかなり好きな方だと自認しています。
 現職時代は飲み会などの後にカラオケに繰り込み、お腹いっぱい歌うことがありましたが、退職してからはそういう機会もめっきりと減りました。
 お腹の底から声を絞り出して歌った後の爽快さを知っている私としては、そうした歌う機会が減ってしまったことをとても残念に思っていました。

 たくさんの人が声を揃えて歌うなどということは、世の中に流通した歌の多くを共有できた私たち世代だからこそ出来ることなのではと思います。
 この「うたごえ広場」は二カ月に一度しか開催されないようですが、私はしばらくこの「うたごえ広場」に参加してみようと思っています。


フランシスコ教皇の言葉

2025-04-23 19:48:59 | その他
 21日のカトリック教会の頂点に立っていたフランシスコ教皇が逝去された。その教皇が残された数々の言葉が私の中に深くささった。拙ブログは私自身の体験を書き続けるものだが、本日はその禁を破って教皇の残された言葉を反芻してみたい。

 21日午前7時35分(日本時間同日午後2時35分)、フランシスコ教皇が逝去されたことが世界中を駆け巡りました。
 購読している北海道新聞にも大きく取り上げられました。その記事の片隅に「教皇の主な発言」と題する言葉の数々が紹介されていました。それを読ませていただき、私はいたく感動してしまったのです。どの言葉も深い人類愛に満ちた言葉で埋め尽くされていたのです。
 私はキリスト教徒でもなく、宗教にはいたって淡白な市井の人間です。だからだろうか?私は教皇の残された言葉を素直に読むことができたのです。
 フランシスコ教皇は、けっしておごらず、生活は質素で、庶民的な人柄で世界を魅了したそうです。 そんな教皇が残された言葉を噛みしめるとともに、私の中に長く残したいと思い、新聞に紹介された言葉の数々を紹介します。

   

◇教皇の務めは、最も貧しく弱い人たちに手を差し伸べ守ることだ。
  (2013年3月、バチカンでの就任ミサで)
◇神を求める同性愛者を裁くことはできない。
  (2013年7月、ブラジルからの帰途、記者団に)
◇女性が軽んじられている世界は貧弱な不毛の地だ。
  (2015年3月、「国際婦人デー」に)
◇一つやりたいのは、誰にも気づかれずに外出してピザを食べること。 
  (2015年3月、教皇選出2年に合わせたテレビインタビューで)
◇壁を築くことだけを考え、橋を架けよう考えない人物はキリスト教徒ではない。
  (2016年2月、メキシコ訪問を終え、米大統領候補だったトランプ氏について)
◇あなたたちは一人ではない。希望をなくさないで。
  (2016年4月、難民が押し寄せるギリシア東部レスボス島訪問で)
◇全てのイスラム教徒をテロリストと見なすのは公平ではない。
  (2016年7月、欧州各地のテロを受け)
◇世界が無関心であることを謝ります。
  (2017年12月、バングラデシュに避難しているミャンマーのイスラム教徒少数民族ロヒンギャ難民と面会して)
◇今こそ共に取り組み、あらゆる手段を取ってこの悪事を根絶しよう。
  (2019年2月、バチカンで開いた「未成年者保護会議」で聖職者による性的虐待問題について)
◇核なき世界の実現は可能であり必要不可欠だ。
  (2019年11月、長崎で演説)
◇核兵器を保有することも倫理に反する。
  (2019年11月、広島で演説)
◇原発は完全に安全が保証されるまでは利用すべきではない。
  (2019年11月、訪日を終えた教皇特別機上の記者会見で)
◇未曽有の事態だ。
  (2020年3月、世界での新型コロナウイルス感染拡大を受けて)
◇時代錯語の権力者が戦争を引き起こしている。
  (2022年4月、マルタを訪問した際、ロシアのウクライナ侵攻について) 

  発言な中には、一見政治的な発言が含まれているようにも見えますが、しかし全体の発言を見た時、それが深い人類愛から発せられたものであることが良く分かります。言葉を変えれば人類愛に反することについては、例え政治にコミットするような発言も臆せず発していることにフランシスコ教皇の覚悟も見る思いがします。

   

 世界の現況を見たとき、歩みは遅くとも徐々に、徐々に一人ひとりを大切にする世界に向かっているかな?と見ていたのですが…。その歩みがここにきて逆の方向に向かい出したのではと危惧する日々です。
 フランシスコ教皇の言葉が世界の人たちの中に深く刺さってくれることを願いたい思いでいっぱいです。                     


札幌市中央区新庁舎オープン騒動記

2025-02-25 21:16:37 | その他
 “騒動記” とはちとオーバーかもしれないが、いや~疲れました。戸籍謄本一つ取得するのに、実に2時間10分も待たねばなりませんでした。私と同様に「新庁舎はどんなもんだい?ついでにあの証明書を頂いてこよう」と考えた区民が殺到したようでした。

 本日投稿予定のトピックは別にあったのですが、この種の話題は新鮮なほど興味を抱いてくれる方が多いのでは?と考えね急遽入れ替えることにしました。
 本日は私は午前、午後と私が所属する「めだかの学校」の会議と事業に参加し、午後3時過ぎに会場のかでる2・7を後にしました。
 帰りに少し寄り道をして、新装なった中央区役所によって庁舎を見学するとともに、以前から取得なくてはと考えていた戸籍謄本を取得するために中央区の新庁舎を訪れました。
 新庁舎の外観は派手さを抑えた茶色の枠取りが特徴の渋めの印象でした。
 建物は地下2階、地上6階建てのものでした。
 
     
※ 新庁舎の全景は撮るのが大変だったので、いただいたパンフの写真を借用しました。新庁舎奥の円形の建物は札幌プリンスホテルです。

 いただいた資料によると、建物は次のような構成となっていました。
 ◇地下1・2階 駐車場
 ◇地上1階   区民ホール、区民ギャラリー、他
 ◇地上2階   区民センター、図書室、区民向けの会議室、集会室、視聴覚室など
 ◇地上3階   総務企画課、戸籍住民課、年金保険課、保健福祉課
 ◇地上4階   保健センター(健康・子ども課)、関連する健診フロアなど
 ◇地上5階   保健課、その他社会福祉協議会など
 ◇地上6階   総務企画課、地域振興課、大会議室

    
   ※ 1階のエントランスです。左側が区民ギャラリー、右側が区民ホールです。

 旧庁舎との大きな違いは、区民センターと、健康・福祉関連の部署が同じ建物に集約されたことでしょうか。
 さらに特徴としては、区民が市に対して届け出をしたり、証明書の発行を依頼したり、介護保険などの手続きをしたりという、区民と区役所が直接かかわるフロアを3階に集中させたということのようです。
 4階より上の階は、少し特別な課題や事情を抱えた方が相談したり、指導を受けるための階ということのようです。

    
 ※ 2階の区民センターです。右側が事務室でその奥の左右に各部屋が連なっています。

 さて、騒動記の方です。
 私は15時20分に区役所に着きました。そして1階、2階をさぁーっと見た後、目的の3階に上がりましたが、まず人数を多さに驚きました。多くの区民が住民票の発行、国民年金の加入申請、住所変更届、児童手当の申請、等々何らかの発行を待っている人たちでした。

    
    ※ 3階の各種の手続きをを待つ人たちです。

 私は目的の戸籍謄本の発行を申請するため、近くにいた区役所の説明員に聞きながら申請書を作成しました。
 その申請書を受付に持っていくと、順番を記したカードが配布されました。そのカードには「E131」と記されていました。
 さあ、それからが大変でした。待てど暮らせど「E131」は呼ばれないのです。それもそのはず、私と同様にカードを持って待つ人がざーっと見て200人近くもいるのですから…。

 待つ、待つ、待つ……、1時間半近く経過したでしょうか?ようやく「E131」が呼ばれて、窓口で係の方に申請書を手渡しました。すると今度は、「窓口13番で呼ばれて戸籍謄本が発行されます」と案内を受け、またまた待機です。
 これはまたしばらく待たされると覚悟した私は、まだ見学していなかった4階、5階を見て回りましたが、やはりこちらは一般の市民が対象でないとみえ、フロアにそれぞれドアが設置されていました。私の姿を認めて「見学ですか?」と問いかけてきました。頷くとフロアについて一応の説明をしてくれました。

    
    ※ 4階の保健センターですが、閑散としていました。
    
    ※ 5階の保健課ですが、こちらも人はほとんど見当たりませんでした。

 6階はさらに入りづらいのではと思いパスして、3階フロアに戻りました。
 そして待つこと、今度は1時間。午後5時30分。ようやく戸籍謄本を手にすることができました。その間、実に2時間10分。私は疲れ果ててしまいました。私が帰路に就いたときもまだ待つ人は100人以上いたように思われます。区役所の担当職員が解放されたのは何時だったのでしょうか?

    
 ※ 私が帰路に就いた17時30頃でもご覧のようにたくさんの区民が手続きを待っていました。

 初物に弱い(私も含めて)日本人の独特の光景だったのかもしれません。
 そして改めて教えられた思いです。それは、この類の申請は区役所の窓口などではなく、出先の「まちづくりセンター」やコンビニなどもっと手軽に申請&発行してもらえるところがあるので、そちらを利用する方が賢明なのでは、という結論でした。
 ふーっ、疲れたぁ-。



バースディランチ

2025-01-09 19:59:11 | その他
 「バースディランチ」というよりは、「誕生日昼食会」と称した方が相応しいかもしれません。本日、我が愛妻(?)が○○歳の誕生日を迎えました。毎年恒例ではあるのですが市内の某ホテルの和食料理店でささやかにお祝いの席を持ちました。

        

 そもそも我が家では外食をすることはあまりありません。妻の手料理で私は十分に満足しているし、そもそもそれほど贅沢をできる家庭事情でもありません。
 それでも私や妻の誕生日には恒例として外食をすることにしています。その際にチョイスするお店はほどとんが和食の店なのです。年齢を重ねるにつれて、やはり二人とも和食志向が強くなってきました。

 本日は市内の某ホテルの和食料理店でちょっとだけ贅沢をして、美味しい料理に舌鼓を打ちました。お昼時でしたが、ちょっとだけビールも添えて…。

        

 思えば、私たちも結婚してまもなく半世紀を迎えようとしています。その間、山あり谷あり、紆余曲折を経ながらも、お互いに病気もせずにここまでなんとか無事に迎えることができたことを感謝しなくてはならないと思っています。
 これからは二人とも老境に入り、互いに労わり合いながら少しでも健康寿命を維持できるよう励まし合って生きてゆければと思っております。

 本来、こうした話題は拙ブログには相応しくない話題かもしれませんが、ただただ毎日投稿するという私の個人的な使命感から相応しくない話題を投稿することになってしまったことをご了承ください。

巳のりのある一年に

2025-01-01 19:37:00 | その他
 拙ブログにお立ち寄りの皆さまあけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

 さて、年明け早々からまたまたPCの不具合で、スマホからの投稿となってしまいました。

 さて、本日のタイトルですが、ここ数年私は元旦に円山動物園を訪れて「絵馬」をいただくことを恒例にしています。
 今年もその例に漏れず「絵馬」をいただいてきました。今年は巳年ですが、札幌ゆかりの漫画家が描いた蛇(巳)の絵を中心にして、その脇に「実りのある一年に」をもじって「巳のりのある一年に」と記されたいた言葉を借用させてもらったということです。
 「絵馬」は本来、神社の境内に掲げて願いを祈願したり、願いが成就した際に神社に奉納するものだそうです。
 しかし、私はコレクションの一つとして円山動物園の「絵馬」を毎年いただいています。
 一年間居間に掲げたカレンダーの側に掛けて、一年間私たちを見守っていただくことにしています。
 




AMOEBA 2024

2024-11-16 19:00:12 | その他
 一年ぶりの再会である。今回はメンバーが都合で減ってしまったが、集まった面々は元気にそれぞれの地で活躍していることを確認でき嬉しかった。まさにAMOEBA魂は健在である!

     
  ※ 幹事役のS氏が作成した案内・日程表です。今どきは手書きの方が味があります。

 AMOEBA…、まさにあの微生物のアメーバである。私が尊敬する故小田実氏がアメリカ留学の帰途、ヨーロッパ、アジアを巡り著した著書「何でも見てやろう」の中で、故国日本のことを「日本列島の運動は、アミーバ運動のごときものであろう(小田氏はアミーバと表記している)」と喝破した。そしてこう表現した。「アミーバはてんでばらばらにあちこちに偽足を出して動きながら、それでいて、ある一定の方向を指して動いて行く。日本の場合もまさにそれではないか」、「(日本)列島のなかにはいろんな動きが無数にあり、そいつがてんでんばらばらに列島を動かそうとしながら、全体として見ると、列島はやはり一つの方向をさして動いている。その方向とは『よい方向』であった」と…。刊行された時は1962(昭和37)年、実に62年前の小田実氏はこのように日本列島を見ていたのである。現在の日本は彼が喝破したような現実かどうかの判断は貴兄にお任せする。

      
      ※ 小田実著「何でも見てやろう」の表紙です。

 そのことは別として、1988(平成10)年に私は仲間と共に、教師としての資質向上を目指す自主サークルを結成した。その際に「サークル名をどうしよう?」ということになり、私は前述した小田氏の日本列島アミーバ論のことが頭の片隅にあり、仲間と切磋琢磨していく自主的な活動は、てんでばらばらな動きをするであろうが、総体としてはきっと教師として成長していく源になるはずである、との思いから「サークルAMOEBA」と命名することを提案し、仲間から賛同を得て付けたサークル名である。
 サークルは私の所属校の教師だけではなく、近隣の学校の教師も加え10数名の仲間で月に2回の会合を持ちながら続けた自主サークルだった。
 それから数年後、サークルに集った教師たちは、教師の宿命でもある転勤などによってバラバラとなってしまったのだが、同じ勤務校にいた気の合った5人が「また、あの日に還りたいね!」と話し合い、年に一度再会の機会を作ってきた。その始まりが2000(平成14)年だった。以来、コロナ禍のために3年間の休止を挟んで、その集まりは営々と続いているのだ。
 そして今年の会が昨日と今日の2日間にわたって札幌を会場として実施したのだが、 今回は残念ながら体調不良の者が2人も出てしまい欠席となり、3人でのちょっと寂しい開催となった。
 開催内容は仲間の中で最年少(といっても65歳)のS氏が幹事役となって、次のような日程で行われた。
〈一日目 11/15〉
 ◇13:00~15:00くらい  裁判傍聴(札幌地方裁判所)
 ◇15:00~16:30     ミーティング(レポート検討) 市内喫茶店
 ◇17:00~19:00     ブレーンストーミング市内居酒屋
 ◇19:30~        都市型水族館AOAO見学(見学後解散)
〈二日目 11/16〉
 ◇ 7:00~7:30      北海道神宮参拝
 ◇ 7:30~8:30      モーニングサービスのある市内喫茶店で朝食(食事後解散)
という日程だった。
 最初の「裁判傍聴」は、参加する他の2人が道東地方在住ということもあり、実際の裁判を傍聴することを提案したのだが、実際の刑事裁判を傍聴し、私も含めてだが非常な緊張感の中での傍聴は非常に刺激になったようだった。目の前に手錠をされ、腰縄で繋がれた被告が登場し、某氏は「TVドラマなどとは全く違った緊張感を覚えた」と語っていたが、得難い体験をすることができた。
 続いての「ミーティング」はAMOEBA会の最大の特徴なのだが、それは各人がこの一年間の様子をレポート用紙にまとめて発表する形式を取っている。
 退職後に5人の中で最も恵まれた境遇にあるのは68歳になったN氏ではないだろうか?
 N氏は現在、道東の某私立大学の嘱託教授という肩書でフルタイムで勤務している。経験を活かし、学生に教職免許取得の指導をしているという。タイミングにも恵まれたようだが、小学校教諭だったものが嘱託とはいえ大学の教授職に就いているのは素晴らしい。日々、学生への指導方法の改善に励む日々だという。N氏の生き生きとした表情が印象的だった。
 一方、今回の幹事役を務めたS氏は校長経験者としては極めて異例なスーパーマーケットの夜間店舗管理という任務に就き、週4日、一日6時間勤務の生活を送っているとのことだ。この全く畑違いの仕事がS氏は「楽しい!」という。夜間勤務ということでスーパーの生鮮野菜をできるだけ残さないように時刻や売り上げ状況を見ながら、商品の値引きする権限が与えられているそうだ。そのタイミングを見計らう緊張感がたまらないという。また、消費者との何気ない会話からさまざまな情報を得ることも楽しいと話していた。
 また、勤務以外では現役時代には聞かなかった写真撮影を最上の趣味としているという。目標は「都市景観フォトコンテスト」に入賞することだと話され、氏の写した写真を数枚見せていただいた。専門的なことは分からないが、かなり良い線をいっているように思えた。

    
    ※ 市内某喫茶店でミーティングを終えた三人で記念の一枚をパチリと…。

 そして私である。私は「変わらぬ私…、変わっていく私…」と題して、今年の一年の動きを報告した。「変わらぬ私…」の部分は、日々拙ブログで投稿している通りである。
 「変わっていく私…」の方は、50年以上にわたって慣れ親しんできた自家用車を手放してしまったこと。15年にわたって続けてきた清掃ボランティアに終止符を打ったこと。そして、 今年の後半になると「さっぽろラウンドウォーク」や「JRウォーキング」に参加した後、なかなか疲労が抜けなくなったことだ。身体の老化を否応なく感じるようになってきた。こうした状況の中でこれからは今までの生き方に多少の改変が必要になってくるのではと予感しているのだが…。
 リード文に「AMOEBA魂は健在である!」と表現したが、それぞれが与えられた環境の中で、現職時代同様に精一杯生きていることをお互い確認できたミーティングだった。
 その後の「ブレーンストーミング」は、お酒を介しての遠慮のない楽しい会話に終始した。気のおけない旧友たちとのブレストは何にもまして楽しいひと時だった。
 そして一日目の最後は、幹事役のS氏の希望で「都市型水族館AOAO」を訪れた。既存の水族館との違い・魅力を初めて訪れた二人はどう感じたろうか?
二日目はN氏の希望で早朝7時に「北海道神宮」を訪れた。朝早いにもかかわらず多くの市民が訪れていたのには正直驚いた。冷気に包まれた早朝の参拝は心を洗われた思いだった。

    
    ※ 早朝の冷気の中、気持ちがピリッと引き締まりました。

 そして最後はモーニングサービスを実施している喫茶店で朝食を三人で摂った。
 以上がAMOEBA2024の全てである。
 最高齢の私としては、日々健康に留意して過ごし、来年もまたぜひとも再会できるようにしたいと誓い散会した。

あゝ、懐かしきキハ40

2024-10-22 10:38:57 | その他
 え――――っ!こんなところで再会できるの!?あの朱色とクリーム色のツートンカラーのキハ40型気動車。私の高校時代3年間、列車通学でお世話になったキハ40型気動車。私はキハ40に乗車中、高校時代にタイムスリップしていた…。

    
    ※ こちらに「キハ40」はウェブ上に掲載されていた写真です。

 その懐かしき「キハ40型気動車」に再会できたのは、過日JRウォーキングで富良野に向かった「根室本線」乗車した時だった。滝川駅から富良野に向かう列車が「キハ40型気動車」だったのだ!
 あの特色ある車体を彩る朱色とクリーム色のツートンカラー、そして車内はダークブルーの座席、それは私が高校時代に通学時に利用した気動車そのままだった…。

    
    ※ 富良野駅に到着した「キハ40型気動車」です。

 私の高校時代は、遥か昔に遡る1961(昭和36)年4月から、1965(昭和40)年3月までである。当時私は道東の小さな町である津別町の北見相生という集落に住んでいた。
 高校は、当時北海道は小学区制だったため高校は町の唯一の高校「津別高校」に入学することが必然だった。「津別高校」は私が住んでいた北見相生から列車で30分ほど離れたところにあった。
 そこで通学には、当時周辺町村の中核町村であった美幌町から北見相生までに敷設されていた国鉄「相生線」を利用して「津別高校」に通学していた。その時走っていたのが「キハ40気動車」だったのだ。
 だから私にとって「キハ40気動車」は私の青春と共にあった列車だったといっても過言ではない。「キハ40気動車」での30分間は友人たちとの絶好のおしゃべりタイムだった。今のようにスマホがあるわけでない。かといって教科書を繰るほど勉強熱心でもなかった。それでも定期テストの前くらいは教科書を開いていた時もあったかなぁ…。

   
   ※ キハ40の社内です。当時とまったく同じでした。

 時には、寝坊をして朝食も摂れずに「キハ40気動車」に駆け込み、気動車内で弁当をかっ込んだ時もあった。
 「キハ40気動車」で忘れえぬ思い出は、1962(昭和3)年6月に十勝岳が大噴火をしたときだった。噴煙は道東一体に降り注ぎ、空は朝からどんよりと曇っていた。気動車は外気を車内に取り入れる方式だったらしい。車内は噴煙で真っ白になってしまったことを記憶している。
 「相生線」は当時の国鉄にとっても枝線の枝線で、当時から赤字路線だったのだろう。国鉄がJRに代わる前の1985(昭和60)年にいち早く廃線となってしまった。
 私は今夏、その「相生線」の終着駅「北見相生駅」に立ち寄ってみた。当時の駅舎が今なお保存されていたのを懐かしく、思い出深く眺めたのだった…。
 そんな思い出いっぱいの「キハ40気動車」に思わぬ形で再会できた奇跡(?)をブログに記さずにはいられなかった…。

    
    ※ 帰路、滝川駅に到着した「キハ40」のヘッド(運転席)です。

 なお、古き「キハ40気動車」がいまだに現役で走っていることは、撮り鉄のファンにとっても貴重な存在のようだ。沿線には何人もの撮り鉄ファンがカメラを抱えて「キハ40気動車」が通過するチャンスを狙っていたのが印象的だった…。

Good-Bye フォルクスワーゲン(VW)

2024-09-02 16:59:22 | その他
 大袈裟に表現すれば、本日は私の人生において超弩級の決断をした日となった。というのも50年以上にわたって付き合ってきたフォルクスワーゲン車と分かれる決断をした。ということは、車生活にお別れするということだ。苦渋の決断であるが、高齢者の人身事故が多発していることから、敢えて決断した。

 最初に私のクルマ遍歴を辿ってみたい。まず就職と同時に叔母が使用していたTOYOTAの「ガッツパブリカ」を譲り受けたのが始まりである。
 その後、三菱の「ギャランFTO」、続いてTOYOTAの「ライトエース」と乗り継いだ。しかし私の憧れはフォルクスワーゲンだった。
 というのも、私が学生時代にヨーロッパ・アジアを一年間にわたって彷徨した時に、フォルクスワーゲンの本社があるドイツのブォルフスブルグ市(Wolfsburg)の街に偶然に立ち寄ったことがあった。“偶然” と記したが、私はヨーロッパ内をヒッチハイクで巡っていた。その際にブォルフスブルグ市を通過した際に、あの “VW” のマークを掲げたフォルクスワーゲンの本社工場が目に入った。そこで私は車を降ろしてもらい、本社を訪れたところ幸いにも工場見学を許されて、広大な工場の見学者通路(その長さは軽く1キロを超えていた)を歩いて見学した体験があり、それ以来私の中でフォルクスワーゲンは私にとって特別な車となったのだった。

     
※ ブォルフスブルグ市の本社工場です。(当時の写真ではありませんがイメージは同じです)

 そうした中で、教員風情で外車を所有することに対する躊躇があったのだが、時代は教員の中でも外車に乗っている人が珍しくなってきたことから、35歳の時についにフォルクスワーゲンの代表車種の一つ「ゴルフ」を購入するに至った。真っ赤な車体のゴルフジーゼルを駆って私は北海道のいたるところを旅してまわった。それからはフォルクスワーゲン車オンリーで今日まで乗り継いできた。

       
       ※ ゴルフ

 その遍歴は、「ゴルフ(GOLF)」」⇒「サンタナ(SANTANA)」⇒「ヴェント(VENTO)」⇒「パサート(PASSAT)」⇒「ツーロン(TOURAN)と乗り継いできた。それぞれに思い出があるが、その中、「サンタナ」という車は日産自動車がフォルクスワーゲンから製造認可を取り付けて生産したという、いわば “珍車” ともいわれた車でもあった。

      
     
      ※ サンタナ
       
       ※ ヴェント

       
       ※ パサート  
※ ここまでの写真はいずれも私が撮り貯めた写真ではありません。いずれもウェブ上から、車体の色も含めて当時のイメージを彷彿とさせる写真を拝借しました。        

 いずれも新車を購入して乗り継いできたのだが、唯一最後の「ツーロン」だけは中古車だった。というのも、「パサート」を購入してから10数年が過ぎていたころ、今は故人となってしまった登山愛好家であり、歩き旅の達人でもあった函館在住の坂口一弘氏と知己となり、坂口氏が車中泊の達人でもあったことから、車中泊に憧れを持つようになり、息子が「父さん、ツーロンという車が車中泊には適しているようだよ」と言って格好の中古車を紹介してくれたことで、その車の購入を決めたのだった。以来、私は年間に10数泊の車中泊の旅を楽しみ、2度の本州旅行を楽しんだ車である。いわば私のクルマ遍歴の最後を飾るに相応しい車だったのかもしれない。

      
      ※ こちらの「ツーロン」は今朝私がお別れ前に撮った写真です。
      

 それとは違って思い出深い車はやはり最初に購入した「ゴルフ」である。ジーゼルエンジンということで多少エンジン音が気になったが、燃費も良く、快調に走ってくれた。当時はまだ若かったこともあり道内のあちらこちらとずいぶん走り回ったが、頑丈な「ゴルフ」は実に30万kmを超えて走り、とうと乗り潰してしまった車である。
 日本車を含め、思い返してみると私のクルマ遍歴は55年間にもなっていた。現在、車を駆使している方も同様と思うが、車無しの生活など考えられない生活を続けてきた私である。その生活を、本日をもって断ち切ることにしたのは、まさに私にとっては超弩級の決断だった。

      
     ※ 長年、私の運転時のお尻を保護してくれたVWマークのマットです。

 幸い札幌において市内を移動するには公共交通機関が発達していることからもそう不便は感じないかもしれないが、郊外のイベントや行事に参加すること、あるいは近郊でスキーを楽しむこと、さらに北海道内に出かけることも制限されることになる。
 どのように私の生活が変化するのか計り知れないが、これからの日々、車のない生活でも人生を楽しむ工夫を凝らしていきたいと思っている。
 ともかく今日までの車生活を大過なく過ごしてGood-Byeできたことを是として車生活におさらばしたい。

愛は地球を救う テーマソング「サライ」

2024-09-01 18:34:32 | その他
 ベタとか、やらせだとか、いろいろと揶揄されながらも24時間テレビ「愛は地球を救う」は47年間も続いて、今日も24時間の生放送が続いている。そのテーマソング「サライ」は番組をシンボルともなっているが、私も大好きな歌である。

 テレビ局が24時間もの長時間にわたって一つのテーマで放送を続ける「愛は地球を救う」は、ある意味で国民的なテレビ番組の一つとなっているとも云える。それだけにその評価については姦しい声も飛び交っているが、47年間も継続してきたということ自体が多くの視聴者から支持されているということなのだと思う。そういう意味ではキー局の日本テレビの揺るがぬ姿勢に敬意を表したいとも思う。
 私自身はそれほど熱心にこの番組を視聴してきたわけではないが、健常者だけではなく、障害者や、被災者、難病患者などの実状を伝えることによって、チャリティーを呼び掛けるコンセプトには共鳴できるところがあると見ていた。

   

 その番組を通して流れるメロディー「サライ」の曲がなんとも私たちの心を打つ。この曲は、この番組の第15回目だった1992年に番組中に加山雄三と谷村新司によって生まれた曲だという。
 曲のテーマは「心のふるさと」なのだが、曲名として「サライ」としたのは、ペルシア語が由来で直訳では「宿(または家)」という意味で、「砂漠の中のオアシス」という意味が込められているそうだ。そこでテーマの「心のふるさと」に近いことから「サライ」という曲名になったということである。

   

 遠い夢 捨てきれずに 故郷を捨てた……

 このメロディーが流れると、胸がキューンと締め付けられる思いがする。
 この曲の出だしは、スローテンポで、低音のために私たちでも歌いやすいので、私のカラオケでの十八番になっている。(もっとも最近はカラオケからも遠ざかっているが…)
 今日の24時間テレビで、昼近くにこの曲の作詞者で、毎回のように番組最終盤で歌っていた谷村新司さんが亡くなったことを偲び、彼の懐かしビデオと共に流された。
 その曲の終末

  サクラ吹雪の サライの空へ いつか帰る いつか帰る きっと帰るから… 

をいつかまた心の底から歌って、谷村新司を偲び、24時間テレビ「愛は地球を救う」を応援したい。

        

 今夜も24時間マラソンに挑戦した “やすこ” がこの曲に背中を押されながらゴールする瞬間を見届けたい。