ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

日本経済新聞紙の「文化」欄のコラム「仏像 潜む場所十選」の「宝誌和尚立像」を拝読しました

2019年09月15日 | 日記
 9月上旬に発行された日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄に掲載されているコラム「仏像 潜む場所十選」を楽しみに読んでいます。

 このコラムの筆者は、京都国立博物館の連携協力室長の浅沼毅(あさぬまたけし、「あさぬま」は旧字表記)さんです。

 前回、取りあげた回と順番が遡りますが、2019年10月6日発行の朝刊では、第6回として、京都市下京区の西往寺に祀られている「宝誌和尚立像」(ほうしわじょうりつぞう)を解説しています。

 日本経済新聞紙のWEb版である日本経済新聞 電子版でも「仏像 美のひそむ場所(6) 西往寺「宝誌和尚立像」」と掲載されています。



 この宝誌和尚立像の顔は「まるで銀杏(ぎんなん)がはじけるがごとくに、おもての僧形が割れて、その下側から十一面観音がのぞいている」と解説されています。



 この画像は、宝誌和尚立像の顔の部分だけのものです。印刷物の日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄でも、顔の部分の画像が載っています。顔の部分の画像でないと、詳細が分からないからです。

 宝誌和尚(418から514年)とは、中国の南北朝時代に活躍した伝説の僧です。その伝説の僧のエピソードを像にしたものです。

 南北朝時代の梁(りょう)の武帝が仏教を崇拝し、画家に命じて宝誌和尚の肖像画を描かせようとしたところ、宝誌和尚はみずからの顔を割いて、下から観音の姿をあらわし、その姿が自在に変化したために、画家は肖像画を描けなかったというエピソードがあるそうです。

 この南北朝時代に活躍した宝誌和尚は、10世紀に成立した中国の宋王朝の成立を予言したといわれています。この予言を盛んに喧伝(けんでん)し、宋王朝の正当性を主張する動きによって、宝誌和尚信仰が中国では流行ったそうです。

 この流行が、日本にも伝わり、平安時代に宝誌和尚像がつくられたのではないかと推測しています。

 宝誌和尚立像は、鉈彫(なたぼり)という、粗いノミ目を残す技法が用いられています。以前は、未完成の像との見方もありましたが、最近ではこの技法が 宝誌和尚の顔の中から十一面観音が姿を見せたその時を表現していると解釈されているそうです。

 鉈彫の像は、東日本側に作例が多いそうです。この像もかっては伊豆の寺にあったとも伝えられているそうです。

 なお、この宝誌和尚立像は、現在は京都国立博物館が管理しているようです(推測です)。


埼玉県比企郡吉見町のさくら堤公園の土手では、シナヒガンバナの花が咲き始めています

2019年09月15日 | 季節の移ろい
 埼玉県比企郡吉見町の水田地帯の中を南北に続くさくら堤公園の土手の部分では、早咲きのシナヒガンバナの花が咲き始めています。

 このさくら堤公園は、5から6メートル程度に土を盛り上げて堤をつくり、その土手にソメイヨシノの桜並木を約1.8キロメートル植えた、サクラの花見の名所です。

 この長く続く堤は、江戸時代には、荒川などの堤防として役だっていたようです。

 現在は、さくら堤公園の土手の上部は、サイクリングロードの舗装された小道になっています。



 このさくら堤公園は、土手の斜面の部分でヒガンバナが一面に咲く名所です。そして、そのヒガンバナが開花する前に、シナヒガンバナという早咲きの花が咲く名所です。





 シナヒガンバナはコヒガンバナとも呼ばれています。ヒガンバナの開花より、2週間から3週間早く花を咲かせます。背丈は40センチメートル程度です。





 今年は、7月の冷夏、8月の猛暑などの影響で、例年よりシナヒガンバナの開花は少し遅れた感じです。

 葉が繁ったソメイヨシノの大木の葉陰で咲いているシナヒガンバナの花は、多くは朱色です。



 中では、薄いオレンジ色がかった花や白い花も所々で咲いています。







 このシナヒガンバナの球根を植えたそうで、サイクリングロード沿いにソメイヨシノの木の間に花が直線状に咲いています。

 一部では、シナヒガンバナの花がしぼみ始めています。





 普通のヒガンバナは染色体が3倍体なので種ができません。このシナヒガンバナは染色体が2倍体と考えられています。

 このため、シナヒガンバナは種ができます。

 シナヒガンバナの花が枯れると、次は普通のヒガンバナが花を咲かせます。今年は9月下旬のお彼岸過ぎのころでしょうか・・.