ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

岩手県産の洋ナシ「ゼネラルレクラーク」を購入し、初めて味わいました

2014年10月31日 | グルメ
 岩手県産の洋ナシ「ゼネラルレクラーク」というを購入し、初めて味わいました。

 この洋ナシはJR東北新幹線の盛岡駅構内で買い求めたものです。この洋ナシ「ゼネラルレクラーク」は表面に赤褐色の斑点が入っているのが特徴です。



 この赤褐色の斑点は熟し過ぎた結果ではないのかと思いましたが、「ゼネラルレクラーク」は元々、こうした斑点模様なのだそうです。ただし、完熟した結果、端点の色が濃くなって目立つようになっているようです。

 ふだん良く見かける洋ナシ「ラフランス」などに比べて、かなり大きいです。重さは500グラムから600グラムあります。

 どんな洋ナシの品種なのかをWebサイトで調べてみると、「ゼネラル レクラークは1950年にフランスのパリ郊外で発見された品種で『ドゥワィアンヌ・ドゥ・コミス』の自然交雑実生と推論されている」と説明されています。さらに「日本には昭和52年(1977年)に青森県畑作園芸試験場(現在の県産業技術センターりんご研究所 県南果樹部)が、フランスから苗木を取り寄せて導入した」と書かれています。

 「ゼネラルレクラーク」の特徴は皮の表面が黄緑色の地に“サビ”が多く入っているとのことです。あの斑点は“サビ”と表現するようです。熟成して、斑紋が増えている様子です。

 Webサイトでは味についての説明として「果肉は非常に果汁が多く、緻密で熟すととろけるような食感で、芳醇な香りと甘み酸味のバランスが取れた濃厚な味わいが楽しめます」と書かれています。表現が難しい味について、食べてみてその通りと感じました。



 「ゼネラルレクラーク」は、日本では青森県が主な産地で生産量の半分程度を栽培し出荷しています。第二位は山形県(13パーセント)、第三位が岩手県(13パーセント)、第四位が北海道(12パーセント)です。主に東北地方と北海道で生産され、地元に出荷されているようです。

 洋ナシは「果実がまだ硬いうちに採取され、その後に予冷・追熟させて出荷されます。青森県では20日間ほど温度15~20度(摂氏)で追熟させられた後に出荷されます。このため、食べごろの旬は10月下旬から12月ごろまでとなる」とのことです。今回買い求めた「ゼネラルレクラーク」はちょうど食べごろに入ったものだったようです。

 「ゼネラルレクラーク」を初めて味わった幸せをかみ締めています。

長野県佐久市の佐久荒船高原には、イカルの群れも飛来しています

2014年10月30日 | 佐久荒船高原便り
 長野県佐久市の東側にある佐久荒船高原には、イカルの群れも飛来しています。

 標高が1100メートルから1200メートルある佐久荒船高原は夜間や早朝に冷え込みが厳しく、秋が深まっています。落葉が始まっている森では、カケスが多数、飛び回っています。早朝にカケスをよく見かける森に近づくと、偶然、イカルの群れが飛んできました。

 イカルの群れの通過をみていると、少し離れた木の上に数羽のイカルが留まりました。この木には、3羽のイカルが留まりました。



 1羽のイカルが去り、2羽が残っています。



 あわてて撮影したために、フォーカスが少し甘い画像です(今年春に佐久荒船高原でイカルを見かけた話は、2014年5月18日編をご参照ください)。

 この近くでは、草原の中に紅葉している低木がありました。



 杉林の木に巻き付いているツタの葉が紅葉しています。このツタの種類は分かりません。



 長野県佐久市から内山トンネルを抜けて内山峠を越えて、群馬県甘楽郡下仁田町側を下り始めると、南側にそびえている荒船山(標高1423メートル)を見上げるようになります。



 午前中のために艫岩(ともいわ)の断崖(北向き)は日陰です。

 荒船山の山麓の木々は紅葉しています。





 佐久荒船高原と荒船山では10月下旬になって紅葉が進み、秋が深まるばかりです。

最相葉月さんが書いた労作「星新一 一〇〇一話をつくった人」を読み始めました

2014年10月29日 | 
 ノンフィクション作家の最相葉月(さいしょうはづき)さんが書いた労作「星新一 一〇〇一話をつくった人」を読み始めました。

 この単行本は2007年3月30日に新潮社が発行し、当時、話題をかなり集めたものです。



 “積ん読く”解消を目指し、積ん読く棚から何かを読もうと、小説以外を探した結果、この単行本を選びました。その際に、この本についてWebサイトで調べたところ、この単行本は2007年に第28回日本SF大賞を受賞していることを知りました。

 人気小説家の星新一さんのショートシュート集「ボッコちゃん」「妄想銀行」などを若い時に面白いからという理由で読んでいました。



 (この本の画像は現在、新潮社が発行している文庫本のものです。オリジナルは判型が違いました)

 発行された当時は、作者の星新一さんは“星製薬の御曹司”として星製薬社長を務め、苦労したことを何となく知っていたレベルでした。個人的には、独特の文体のショートシュートの人気作家としてしか考えていませんでした。

 「星新一 一〇〇一話をつくった人」は、その人気小説家の星新一さんが誕生した背景を丹念に語ります。

 この「星新一 一〇〇一話をつくった人」は、最相さんが星新一の奥さんから、星新一(平成9年12月30日に死去)の遺品(伊豆の別荘には段ボール箱100個以上)の整理を任され、日記などの膨大な資料群からまとめた星新一の伝記です。最相さんは星新一の友人・知人などの関係者130人以上にインタビューし、その証言から星新一像を描きます。

 星新一(本名は親一)は、星製薬の創業者の星一(ほしはじめ)の長男として誕生します。この単行本の第一章は、父親の星一が故郷の福島県で産まれ、17歳の時に東京で学びたいと、夜間の東京商業学校に入学し、さらに20歳の時に渡米して、コロンビア大学で経済学と統計学を学ぶという精力的な若者時代を過ごす話です。当時、米国に渡って、名門私立大学に入って卒業するだけでも、かなりの苦労をしたことと思います(かなり高い学費をどう工面したのかなどが気になります)。

 この父親の立身出生話は非常に面白いです。米国や日本に帰国後に、当時の明治政府にいた伊藤博文、後藤新平、新渡戸稲造などと縁ができたり、知り合いになります。星一は少ない元手で大きな利益を得られるのは製薬事業と考え、星製薬の前身となる企業を創業し、モルヒネの国産化などを足がかりに、星製薬を育てていきます。星新一の父親の星一の立身出世話は、明治時代に新興企業を起こす話として、とても面白いです。

 大成功した星製薬創業者の長男として産まれた星親一(星新一の本名)は、小学校として東京女子高等師範附属小学校に入学するなど、当時の上流階級の子息として成長します。良家の子息としておおらかに育ちます。

 そして「将来は内閣総理大臣になりたいです」と入試の面接でいって、無事に東京高等師範附属中学校に入学します。同中学は以前の教育大学附属中学校(現在の筑波大学附属中学校)です。星親一は、後に「本当に内閣総理大臣になりたいのか」と友人に聞かれて、「いや、いうことがないからいった」と答えます。高校を経て、東京大学農学部に入学し、日本が太平洋戦争(第二次世界大戦)に入っていく中でも、年齢・入学年次の関係で、比較的苦労知らずの青春を過ごします。

 この後は、父親の死と同時に起こった星製薬の経営相続を巡る騒動に巻き込まれ、泥沼の経営権争奪の中から、社長を降り、小説家として育っていく話になります。星新一さんが編み出した新しい文学とは何かを語る後半部分は、現在読んでいるところです。

横浜市の港の見える丘公園のローズガーデンでは、バラの花が咲いています

2014年10月28日 | 季節の移ろい
 横浜市中区山手町にある港の見える丘公園のローズガーデンでは、バラの花がよく咲いています。

 横浜市の中華街や山下公園に対して東南側にある港の見える丘公園に入って急な斜面を上ると、フランス山部分(フランス領事館の跡地)の森に入ります。さらに進むと、イギリス山部分(英国領事館の跡地)に入ります。

 イギリス山部分は西洋公園らしい風景が続きます。





 イギリス山部分の一郭に設けられたローズガーデンでは、秋咲きのバラの花が咲いています。



 ピンク色の大振りな「マヌウメイソン」の花が咲いています。



 日本の京成バラ園芸が開発した、淡いピンク色の「はまみらい」の花が咲いています。



 京成バラ園芸が開発した、やや薄い赤色・黄色の「ふれ太鼓」の花も咲いています。



 白色の「ホワイトクリスマス」の花も咲いています。



 ローズガーデンで咲いている秋咲きのバラの花はやや花期を過ぎた感じで、もうすぐしぼみそうな花がいくつかありました。

 横浜市の公園の中で、人気が高い港の見える丘公園を夕暮れ時に散策し、その人気が高い訳がいくらか分かった気がしました。

日本経済新聞紙の「見えてきた昭和100年 モノ・カネ・ヒト均衡点探る」を拝読しました

2014年10月27日 | 日記
 2014年10月26日に発行された日本経済新聞紙の朝刊一面のコラム「物価考 未来を探して 下」の「見えてきた昭和100年 モノ・カネ・ヒト均衡点探る」を拝読しました。

 日本経済新聞新のWeb版である日本経済新聞 電子版には見出し「見えてきた昭和100年 モノ・カネ・ヒト均衡点探る」として掲載されています。



 このコラムの導入部は、栃木県那珂川町のゴルフ場の太陽光発電設備の導入というエピソードから始まります。1972年6月に首相についた田中角栄は「日本列島改造論」を提唱し、栃木県の山あいもゴルフ場に開発されました。その背景には、1947年から1949年に産れた“団塊の世代”が生産年齢人口の中核を占め、日本に大量消費文化が根づき、日本各地は開発ラッシュにわきました。

 その“団塊の世代”は、昭和100年にあたる2025年には、全員が75歳を超します。この結果、たとえば、ゴルフ人口は500万人近く減ると予測されています。これを反映して、ゴルフ場のプレー代は30パーセント下落しています。この結果、各地のゴルフ場は太陽光発電設備の導入などの打開策を図っています。

 日本の少子高齢化はさまざまな事態を引き起こすと予想されています。ここ10年間ほどの日本のデフレは、中国が世界の工場として、廉価な労働力によって安い製品などを供給してきたことが大きな背景であると考えられています。記事では“中国発の物価革命”が大きな一因だったと解説しています。

 しかし、2025年になると、中国でも少子高齢化が進み、中国では年齢が15歳から65歳までの生産年齢人口が本格的に減少し、安い労働力が消滅していきます。

 物価はモノの需要と供給量の釣り合いで原則、決まります。ところが、このコラムでは昭和100年(2025年)時点の物価を決める日本の“カネ”を巡る状況は厳しいそうです。

 日本の債務増加を世界の金融市場がどこまで許すかという懸念を投げかけています。昭和100年(2025年)時点には、モノ、カネ、ヒトの需要と供給の事情が大きく変わる可能性が高いそうです。ここ10年間のデフレを享受した日本経済は“過去の話”になり、そのモノ、カネ、ヒトの均衡点がどこに収まるのかという予測値は厳しい内容のようです。日本の将来は、現時点でしっかり考えて対応していくしかありません。