ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

ノビタキの鳴き声が八島湿原に響き渡りました

2010年05月31日 | 旅行
 5月29日午前に長野県の霧ヶ峰高原に行ってきました。「初夏以外の霧ヶ峰を見てみたい」との単純な動機で行ってきました。草原はまだ早春の状態で枯れ野色の中に、若緑色が少し混じり始めている感じでした。ポツポツとある桜(山桜か富士桜では?)も咲き始めのものがほとんどでした。

 関東一円は雨模様との天気予報でしたが、長野県は曇り時々晴れとの予報でした。アプローチの女神湖から白樺湖までは雲がやや厚く垂れ込めて、少しあやしい天気模様でした。「晴れてほしい」との望みを持ちながら、霧ヶ峰高原に入って行くと、次第に陽光が差す感じになり、北西側に位置する八島湿原に到着するころには、晴れ模様になりました。運が良いようです。車も少なく快調に進みます。

 八島湿原はさまざまな動物・植物が豊かな湿原で、天然記念物に指定されています。植物は約400種類が育っているそうです。初夏を彩るコバイケイソウの新芽が多数勢いよく湿原の淵に出ていました。7月中旬以降になると、ヤナギヤンなどのいろいろな高山植物が次々と鮮やかに咲く野草のパラダイスです。


 湿原の入り口の眼下に、「八島」と名付けられた由縁の島々が池の中に見える高台があります。その高台付近に、野鳥が一羽飛んできて低木の梢の上に留まりました。



 初夏の高原を代表する主役の一つであるノビタキの雄でした。梢の上で澄んだ声で鳴いています。「いきなりノビタキに会えるとは、なんて運が良いのだろう」と思いました。

 羽根は黒と白の美しいコントラストの中にお腹のオレンジ色がきれいな野鳥です。すぐ側に、羽根が褐色の雌もいました。ノビタキはスズメ目ヒタキ科ツグミ亜科の野鳥で、4月から5月にかけて東南アジアから日本に飛んで来ます。夏に本州の高原や北海道で繁殖します。渡りの時期は雄も羽が褐色になるそうです。八島湿原で出会った雄はもう“夏服”に衣替えを済ませて美しい羽根になっていました。


 以前に、7月の八島湿原で、ノビタキ観察をお目当てにした野鳥観察の集団にお会いしたことがあります。湿原とその周囲の斜面の低木の間を行き来するノビタキを撮影するために、かなり高価そうな一眼レフカメラをのせた三脚を並べていました。「ノビタキとホウアカを狙っている」とのことでした。残念ながら、ホウアカはまだ見たことがありません。

 近くの梢の上に地味な灰色のウグイスが留まって鳴いても、感心がない様子でした。鳴き声はしても、姿をあまりさらさないウグイスを観察できて、私は満足でした。ウグイスを間近で見ることは意外とないからです。すぐ側の藪の中で鳴いていても、姿を見ることは滅多にありません。

 その時は、ノビタキのペアが4~5組も現れ、こちらにある雄が留まれば、あちらで別のノビタキが留まるとの状態だったため、キョロキョロと視線を忙しく動かしていました。カメラで何枚か撮影しました。初夏の草原の中に、ノビタキの雄が見事に写っていました。

 2008年10月に、渡り途中のノビタキを観察する野鳥観察のグループに京都市でお目にかかったことがあります。京都市左京区のJR嵯峨嵐山駅から徒歩10分ぐらいの旧嵯峨御所の大覚寺に行った時に、大沢の池近くでバードウオッチング用のスコープ(望遠鏡)を構えている一団に会いました。「どんな鳥が観察できるのですか」と尋ねると、「渡り途中のノビタキ」との返事でした。この時は、残念ながらノビタキには会えませんでした。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周辺には、「御射山」という地名が残っています。ここには、鎌倉時代に武士が流鏑馬(やぶさめ)をした競技跡の遺跡があるそうです。鎌倉時代に、高山のこんな奥地まで来て馬を走らせていたのかと思うと、それだけで十分な修行だった気がします。途中の山中はなかなか厳しい道だった思います。

 八島湿原周辺は黒曜石(こくようせき)の産地としても有名です。八ヶ岳には黒曜石の産地がいくつかあるそうです。石器時代にナイフ形石器などをつくる原材料として日本各地に運ばれたそうです。これも当時の運搬手段を考えると、かなりの苦行だったと想像しています。

 八島湿原から和田峠を経て、和田町を降りていくと、「黒曜」という日本蕎麦屋があります。ここで手打ちの十割りそばをいただきました。山菜の「コシアブラ」「タラの芽」の天ぷらもご相伴(しょうばん)しました。日本の春は山菜を楽しむ季節です。

佐久荒船高原ではズミの白い花も咲き始めました

2010年05月28日 | 佐久荒船高原便り
 標高1100メートルぐらいの佐久荒船高原では「ズミ」(漢字は「酢実」)が咲き始めました。バラ科リンゴ属の落葉樹です。

 リンゴのような白い花が枝いっぱいに咲きます。花が木を埋め尽くすように咲くため、木が白いかたまりとなって華やかです。ズミが並木として続く場所は、白い花のトンネルになります。新緑の山のあちこちに白いかたまりが目立つようになります。



 この画像のズミは八分咲きぐらいです。満開になると、花がもっと枝を覆います。
 ズミという名前は、樹皮から黄色の染料が採れることに由来するそうです。果樹のリンゴはズミの台木に接ぎ木するものがあるようです。ズミは、「コナシ」(「小梨」)という別名も持っているようです。

 ズミの花の蕾はリンゴのような赤色です。この蕾の赤も葉の緑に映えてなかなかきれいで、目立ちます。蕾も花も鮮やかな木です。



 ズミの花はパッと華やかに咲き、1週間ぐらいでパッと散って葉桜のようになります。訪れるタイミングが悪いと、咲き終わった木々しか見ることができません。実際にはズミが咲き終わったことになかなか気がつかないことが多く、葉が茂っているのを確認し「今年はズミはもう咲き終わったんだ」と知る年も少なくありません。

 秋になると、ズミはソメイヨシノのような真っ赤なサクランボを多数実らせます。かなり小さいサクランボです。一部は黄色いサクランボになります。ズミには木の種類がいくつかありそうです。

 佐久荒船高原では、ズミの花のように木々も野草に負けずにいろいろな花を咲かせます。ズミが開花するころには、野生の藤も華やかに咲きます。背の高い樹木に巻き付いて紫色の花を咲かせます。大きなアブや蜂が甘い香りを感じて周りを飛んでいます。

 佐久荒船高原にはミズキの木も白い小さな花をかたまり状で咲かせます。遠見にも目立つ白い花のかたまりです。現在、ミズキの木は葉を成長させている最中です。ミズキの若い葉はみずみずしい緑色です。



 ミズキは成長が速く、どんどん大きくなります。新しい木は次々と芽吹いて4~5年でかなり背丈が大きくなります。樹木の幹は柔らかいため、こけしの材料になります。組織が緻密(ちみつ)でないためで、薪にするとすぐに燃え尽きてしまいます。成長は速いが中身が充実していない木です。

 日本のハナミズキであるヤマボウシ(漢字は「山法師」)も白い花を咲かせます。山の林間の中に点々と咲きます。以前、ピンクの花をつけるヤマボウシを見つけたことがありましたが、その後は残念ながら見ることができません。

 6月になると、レンゲツツジが鮮やかな朱色の花を咲かせます。高原の陽当たりのいい場所に群生しています。葉は毒を持ち、動物などに食べられないように防御しているとのことです。レンゲツツジは咲き誇る様子もその内にお伝えします。長野県東御市から入る湯ノ丸高原はレンゲツツジの名所です。

桜草が佐久荒船高原でも咲き始めました

2010年05月26日 | 佐久荒船高原便り
 桜草が、標高1100メートルぐらいの佐久荒船高原でも咲き始めました。このブログ(2010年4月9日分)でもお伝えしましたように、桜草は元々は深山で咲く野草です。佐久荒船高原では、5月中旬から桜草が陽当たりの良い所では咲き始めました。



 今は、林間のやや木漏れ日の中で健気(けなげ)に咲いています。いくつかの群が競うように咲いています。陽光の当たり方で、様々な印象を与えます。新緑の草の絨毯(じゅうたん)の中で、ピングがきれいなアクセントを与えています。日が陰ると憂(うれ)いを感じます。



 20年ほど前に聞いた話ですが、桜草は以前は高原のあちこちに咲いていたそうです。昔は春になると、どこにでも咲くありふれた野草だったそうです。このため、人が入りやすい場所では、乱獲されて消えていったそうです。運が悪いことに、ちょうど春の山菜採りの時期に咲きます。タラの芽を採る時期に重なったため、桜草の群生地はかなり消えていったとのことです。

 それでも、現在もあまり人気が無い林間では多くの桜草が群生しています。最初に林間の中で桜草が多数咲いている場所に出会った時は、そのお花畑の美しさに驚きました。実は、一番広範囲に咲く場所では、桜草はまだ地面から先の尖った感じの葉が出たばかりで、ほとんど咲いていませんでした。

 ここに桜草の開花期にたたずむと、とても幸せな感じを味わえます。ここは、かなりの山奥で人にはめったに出会いません。頭上で野鳥がさえずる、秘密の花園です。ここは、桜草以外の小さなかわいい野草も多数咲いています。高山のお花畑とは、一味違うお花畑です。

 林間では、桜草の仲間で、一番大きい九輪草(クリンソウ)もどんどん成長していました。いずれ、クリンソウの豪華な花をご紹介します。もうすぐです。春から夏は、自然の主役が次々と現れるため、リポーターは結構忙しいです。

 この時期、林間で鮮やかな朱色の花を咲かせるのは、草ボケです。日本のボケだそうです。地面から10から30センチメートルぐらいの低い所に、花を咲かせます。普段見る、木のボケは中国の園芸種のボケだそうです。



 こんなに美しい草ボケの花は、草むらの中でひっそりと咲いて他の草に紛れていきます。所々にしか咲いていません。人間に見せるために咲く訳ではないので、淡々と咲いています。アブなどが盛んに蜜(みつ)を吸っています。森羅万象(しんらばんしょう)の営みは、我々の想像を簡単に超えていきます。

べンチャーキャピタリストにお目にかかりました

2010年05月25日 | 汗をかく実務者
 先日、独立系ベンチャーキャピタルのベンチャーキャピタリストにお目にかかりました。ウォーターベイン・パートナーズ(東京都世田谷区)の代表取締役・パートナーズを務める黒石真史さんです。黒石さんはバイオテクノロジー系の大学発ベンチャー企業に対象を絞って投資し、その企業の経営がうまくいくように支援しています。



 黒石さんにお目にかかったのは、約7年ぶりでした。初めてお目にかかったのは2004年1月です。ウォータベインは、JR市ヶ谷駅から靖国神社方向に5分ほど歩いた新しいビルに入居されたばかりでした。引っ越し直後で、オフィスに真新し机が置かれ、段ボールがまだ開封されていない状態でした。ウォーターベインは約23億円の投資ファンドを2003年12月に組んだ直後で、その投資活動の拠点として新オフィスを構えたところだっのです。がらんとした新オフィスの中で、黒石さんは精力的に働いていました。

 お会いしてすぐに、タフなネゴシエーターとの印象を受けました。笑顔を絶やさず、好感度の印象を与えつつ、私の質問に言葉を選びながら分かりやすく答える姿の中に、難問を粘り強く解決する人物と感じたのです。

 当時は、日本のベンチャーキャピタルが大学発ベンチャー企業に盛んに投資していたころです。この「大学発ベンチャー企業」は日本独特の表現です。ベンチャー先進国の米国では、新規事業起こし・新産業振興を担うベンチャー企業の基となる事業シーズを大学から持ってきた場合でも、特に“大学発”という冠は付けません。ベンチャー企業はいろいろな所から事業シーズを持ち込み、それを事業に仕立てる所に意味があるからです。

 これに対して日本が“大学発”を付ける理由は以下のことからです。1990年代に“失われた10年”に入り、企業は事業利益を上げられず、産業振興が滞る時代を迎えました。新事業を起こし、新産業振興を図る新しい仕組みを考えた行政は、米国のベンチャー企業の隆盛に着目しました。そして、ベンチャー企業をつくる事業シーズの供給先として着目したのが日本の大学・大学院や公的研究機関だったのです(以下、「大学」は「大学・大学院」の一体を意味します)。

 日本の研究者の3人に1人は大学と公的研究機関で研究開発しています。日本の大学は社会に人材を供給する教育機関としての役目を果たしていました。これに対して、「研究」は研究を通して研究のやり方を学生に習得させる教育の一環と考えられてきました。優れた研究成果は学会などで発表して終わっていました。大学教員・研究者は学術的に高い評価を受けることを目指したものでした。

 当時でも、一部の独創的な研究成果は特許などになりましたが、その特許の権利は知り合いの企業に渡すことが多かったのです。日本では、研究成果から生まれた特許を誰が所有するのという課題はあまり関心が払われない情況が続いてきました。

 1990年代後半に経済産業省や文部科学省などは、大学・大学院の優れた研究成果を企業に技術移転する仕組みをつくり、新産業振興を図ろうとしました。新産業振興のタネを大学・大学院の研究成果から見い出そうと考えたのです。このために、大学・大学院の優れた研究成果を特許などの知的財産として権利化し確保する仕組みをつくりました(いろいろ問題があるのですが、ここではその議論を棚上げします)。この結果、経産省と文科省は1998年に大学等技術移転促進法(TLO法)をつくったのを受けて、有力大学はTLO(技術移転機関)を設立しました。この経産省と文科省の支援を受けるTLOは「承認TLO」と呼ばれています。

 大学・大学院の研究成果を特許などの「知的財産」に変換して技術移転することを始める一方、大学・大学院の独創的な研究成果を直接事業化するやり方として、大学発ベンチャー企業という仕組みも考案しました。この結果、有力大学は多くの大学発ベンチャー企業をつくりました。経産省が実施した平成20年度(2008年度)「大学発ベンチャーに関する基礎調査」実施報告書によると、大学発ベンチャー企業は平成21年2月の調査時点で1809社が活動中と報告されています。設立された累計数は2121社にも達したそうです。

 大学発ベンチャー企業は優れた研究成果を基に新しい製品・サービスを実用化し、新規事業を起こそうとします。大学教員・研究者は研究のプロですが、事業のプロではありません。このため、事業の仕組みを開発できる人材を経営人に加えます。大学の教員・研究者は本来、研究者のネットワークは持っていますが、経営人材のネットワークは一般的には持っていません。こうした場合に、その教員や研究者の研究成果に新規事業の可能性を感じたベンチャーキャピタリストは経営人材の紹介などを図ります。場合によっては、自分が投資先の大学発ベンチャー企業の取締役に就任し、事業企画や事業運営、財務などを支援します。ウオーターベインの黒石さんも投資先の2、3社の取締役を務めているとのことです。

 黒石さんは仲間3人のパートナーとウォーターベインの経営チームを組んでいます。3人のパートナーもそれぞれ最初は大手企業や大学などに就職され、その仕事を通して実務を学んだ後に、転職を経てベンチャー企業への投資業務の実務者になっています。黒石さんがベンチャーキャピタリストになった直接的なきっかけは、米国のニューヨーク大学大学院の経済学修士(MBA)のコースに入学し、インキュベーションの講義を受けたことだとのことです。ベンチャー企業の経営者が教員を務める、その授業は新規事業起こしの仕事内容を具体的に教えるものだったそうです。

 新規事業起こしの面白さに目覚めた黒石さんは、コンピュータシステム開発会社大手のCSK(現・CSKホールディングス)がベンチャーキャピタルを創設することを偶然知り、参加したいと考えたそうです。1996年12月に黒石氏は転職してCSKベンチャーキャピタルに入社し、取締役・産学インキュベーション室長に就任しました。同社はバイオテクノロジー系の大学発ベンチャー企業数社に投資しました。ここで実績を上げ、黒石さんの実力が業界に知れ渡りました。

 当時の多くのベンチャーキャピタルはバイオテクノロジー系の大学発ベンチャー企業に投資ししました。バイオテクノロジー分野は大学の研究成果から生まれた特許などの知的財産が強みを発揮する分野だったからです。黒石さんは、大学発ベンチャー企業をしっかり育成するには、投資先の大学発ベンチャー企業と長く付き合い、新規事業をうまくつくれるように、しっかり議論したそうです。その場合に、お互いに信頼感を持つように務めたようです。

 大学発ベンチャー企業と長く付き合いには、「意志決定が迅速にできる独立系ベンチャーキャピタルの方が継続的な投資ができる」と考えた黒石さんは、独立系ベンチャーキャピタルとして、ウォーターベイン・パートナーズを仲間3人と創業します。2002年9月のことです。

 ここまでの黒石さんの行動を考えると、自分がやりたいと思ったことを実現し続けています。自分の生きたい人生設計通りに節目ごとに決断し、実行しています。この点で、努力し続けるタフなネゴシエーターであることが分かります。その実現のためによく考え、多くの汗をかき、何とか解決策を見い出します。このことは、難問が次ぎ次ぐと出てくるベンチャー企業の経営に通じるものがあると思います。

 5月14日午前に黒石さんにお時間をいただき、インタビューした最後に、「元の大手企業にいた方が生涯賃金は多かったのでは」と意地悪な質問をすると、「生涯賃金はその方が多かった可能性はあるが、自分の人生はやりたいことをする方が楽しい」と言葉を選んで答えてくれました。1回きりの人生は楽しくやりたいことをするのに限るとお答えになった気がします。ベンチャーキャピタリストほど楽しい商売はないともお答えになった気がしました。

 ここ数年は多くのベンチャーキャピタルが大学発ベンチャー企業に投資過ぎたと考え、その反動で投資額を少なくしているといわれています。こうした時こそ、独立系ベンチャーキャピタルは長期的な視点で、投資を継続的に実施し、大学発ベンチャー企業を育成し、新規事業を成功に導いてをいただきたいと考えています。苦しい時こそ、知恵を絞り、解決策を見い出してほしいと思います。明るい気持ちで、困難に立ち向かうイノベーター(起業家)がこれからの日本を救います。そのためには、イノベーターのネットワークを適時強化し、人的な“新結合”による突破口をつくることが重要と考えています。


ベンチャーキャピタリスト話のイントロです

2010年05月24日 | イノベーション
 今回は、やや小難しい話です。でも、近未来の日本が国際市場でどうやって稼いでいくかを考えると、とても重要な話です。新規事業、新産業振興をどうやって実現していくかという仕組みとして、米国のようにベンチャー企業を起点に新規事業をつくり、新産業振興を図ることが有力なやり方と考えています。

 例えば、先日、ある音楽CDをCDショップに探しに行ったのですが、もう売り切れて入手できないとのことでした。そこでAmazonサイトで調べたら、まだ売っていたので購入できました。このほしいモノが簡単に買える便利な事業は米国のAmazon.com(ワシントン州)が実用化したものです。同社も元ベンチャー企業です。当初はインターネットシステムを基にした書籍の“通信販売”事業を始めました。今は、多様な製品を販売しています。こうした新しい販売事業のやり方をいち早く実現することと、また物流センターなどのシステム投資額を確保することは大変だったと思います。

 さて、ベンチャー企業が新規事業を始める時に運営資金を提供する「ベンチャーキャピタル」(Venture Capital、略称VC)という組織、あるいは「ベンチャーキャピタリスト」という職業について、どの程度ご存じでしょうか。お友達やお知り合いにベンチャーキャピタルにお勤めの方はおられますか。日本では、新聞や雑誌、Webページなどで名称は知っていても、実際にどんな仕事をしているのかをご存じの方はあまり多くないと想像しています。

 私も「産学連携」を取材するようになって、初めて知ったり職種の一つです。ベンチャーキャピタリストが使う言葉は「イグジット」「ハンズオン」などのカタカナ語(本当は米語)が多く、最初はチンプンカンプンでした。仕事内容の説明も基礎的なことを知らないため、理解しにくかった記憶があります。周りの同僚もベンチャーキャピタリストの仕事の内容を具体的に知っている人は少なかったと思います。

 少し調べてみました。例えば、村上龍氏が2010年3月25日に上梓した「新 13歳のハローワーク」(幻冬舎発行)をパラパラとみても、ベンチャーキャピタリストの記述はありませんでした。


 この単行本は、中学生に職種をわかりやすく説明してベストセラーになった「13歳のハローワーク」の続編です。中学生向けには、ベンチャーキャピタリストは特殊な職業と判断し、説明が必要な上位には入らないと考えたようです。

 ベンチャーキャピタリストは比較的新しい職業です。分野横断型の幅広い知識を必要としながら、ある部分は専門性が強く求められる高度な専門職です。このため、仕事内容を分かりやすく説明するのが難しい職種です。大人にとっても、仕事面でのつながりがないと表面的な理解で終わってしまう、あまり馴染みがない職種です。私も10年前は、例えば「融資」と「投資」の違いを知りませんでした。金融面での根本的なことを知らないと、ベンチャーキャピタリストの仕事内容を理解するのは予想以上に難しいです。

 そこで、Webサイト「Wikipedia」で調べてみました。Wikipediaによれば、「ベンチャーキャピタル(Venture Capital、略称VC)とは、ハイリターンを狙ってアグレッシブな投資を行う投資会社(投資ファンド)のこと。その仕事内容は、高い成長率を有する“未上場企業”に主に投資することだ。投資と同時に、投資先ベンチャー企業などに経営コンサルティングを行い、投資先企業の価値向上を図る」――などと説明されています(原文の文章をいくらか修正しています)。結構、小難しい内容です。

 ベンチャー企業は将来、こんな新規事業が成立するだろうと考えたイノベーター(起業家)が設立します。一般の方が想像もしなかった新しい事業を思いつき、ベンチャー企業をつくります。例えば、インターネットが現在、これだけ普及したのは、「ブラウザー」という“閲覧”ソフトウエアの普及版(だれでも使えるもの)を開発し、多くのWebユーザーに受け入れられたからです(正確にはWorld Wide Web(WWW)、つまり現在ご覧になっているWeb(ウェブ)を普及させたのですが、説明が小難しいので省略します〕。

 そのブラウザーソフトウエアを最初に事業化したのは、ネットスケープ・コミュニケーションズ (Netscape Communications Corporation、カリフォルニア州) という米国のベンチャー企業です(設立時の社名は違います)。1994年4月設立され、事業を大発展させ、有名になり、1998年に米国のAOL(現AOLタイムワーナー)に買収され、社名が消えました。多くの方がたぶん忘れてしまった企業です。経営陣がIPO(新株上場)で稼いだ金額は巨額です(IPOとは何かをあまりご存じない方は巨額を稼いだことに着目してください)。

 同様に、米国のシスコシステムズ(Cisco Systems, Inc、カリフォルニア州)はコンピューター・ネットワーク機器を普及させた元ベンチャー企業です。1984年に設立され、「マルチプロトコルルーター」を最初に商業的に成功させた会社です。

 ベンチャー企業は独創的な発想に基づく構想によってつくられます。問題は、創業直後は運営資金を持っていないことです。現在は普及していない製品やサービスを開発し、事業化するには優秀な研究開発者を雇い、新規事業を企画する優れた経営者やプロジェクト・マネージャーなどを雇う必要があります。人件費と研究開発費などを数年分確保しないと、そのベンチャー企業は活動を続けられません。こうしたベンチャー企業に運営資金を投資するのが、ベンチャーキャピタリストなどです(「など」には深い意味がありますが、これはいずれ後で説明させていただきます)。

 ここまで長いイントロを述べてしまいました。
 ベンチャー企業をつくり、新規事業が成り立つように努力している起業家の経営陣は寝食を忘れて精進します。似たような発想で、別の起業家がその新規事業を実現するかもしれないからです。日々の決断が大事なのだそうです。以前に、日本の大企業からスピンアウトしたベンチャー企業を経営している方は「前の企業では、大きな決断を経営陣に仰ぐ必要があり、決定に時間がかかりすぎた。スピンアウトして良かったのは、自分たちで即断即決できる点だ」と言っていました。

 こうした寝食を忘れるほど新規事業起こしに専念しているベンチャー企業の経営陣(起業家)に、ベンチャーキャピタリストは運営資金を投資します。まだ価値が付いていない未上場株などを交換に受け取りながら、一般的に数千万から数億円を投資します。数百万円のこともあるようです。投資する前から、外部の専門家として冷静な視点で事業計画などを助言します。どうしたら事業が成立するか、利益を上げられるかを支援します。毎日多忙なために、見落としてしまいがちなことまで助言します。ベンチャーキャピタリストは投資先企業が新規事業起こしに成功してもらい、未上場株が価値を持つようにします。

 このため、起業家とベンチャーキャピタリストはお互いに信用できるかどうかを慎重に判断します。少し前まで赤の他人だった者同士が呉越同舟(ごえつどうしゅう)の運命共同体になれると信用し合うことが重要です。元々、我々は一人では新規事業を起こせません。同士と思える人間が集まってベンチャー企業をつくります。気の合うメンバーによるチームづくりが出発点になります。
 
 次回は、独立系ベンチャーキャピタルのベンチャーキャピタリストとお目にかかった話を展開します。