ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

出版不況を学術面から分析した単行本「本を生み出す力」を読みました

2011年04月29日 | イノベーション
 2011年2月に発行された単行本「本を生み出す力 学術出版の組織アイデンティティ」(発行は新曜社)を読みました。この単行本は、ある大学教員の方のお薦めで知り、最近読みました。内容は、ここ10年間の日本での深刻な出版不況の実態を、出版社の編集者の仕事を通した学術的な事実確認によって解明するものです。

 この単行本は、先週日曜日の4月24日発行の朝日新聞紙の書評欄に取り上げられており、筆者が出版事業を左右するキーマンとして名付けた“ゲートキーパー”(門衛)に見いだされた“幸運な本”になっています。



 この単行本の著者は、一橋大学大学院商学研究科の教授の佐藤侑哉さん、上智大学総合人間科学部の教授の芳賀学さん、早稲田大学大学院文学芸術院の教授の山田真茂留さんの3人です。約10年間の学術研究成果を、世の中に広く伝えるために発行した単行本と思います。このため、価格は定価が4800円(消費税を含めると5040円)と高価で、総ページが約600ページと分厚いのです。

 以下は、まったくの個人的な感想です。発行元の新曜社の担当編集者の方は、著者である大学の教員の希望をかなり受け入れたようです。単行本のタイトル、表紙のデザイン、価格などの“単行本設計”は、筆者が伝える「集団的自費出版」そのもののようです。ごく一般の方は、この本を書店で目にしたとしても、まず買う気にはならないのではと思います。迎合することなく孤高を保ち、出版不況による学術書の実態を知りたいと考える読者が読んでくれれば、本望という装丁です。少し業界的な感想ですが、白を基調にした表紙デザインを担当編集者が認めた点が不思議です。特に白色である意図が分かりませんでした。

 一般の方にとっては学術的で堅い内容の単行本は、同じような研究分野の研究者同士(主に大学教員)が互いに購入し合うという「集団的自費出版」という相互支援によって、1000部ぐらいは販売できるようです(教養を高める動機の本好きの方の購入可能性も含めた数字です)。この結果、発行した出版社は発行経費を回収できるようです。価格が高価なのは、少ない販売部数で発行経費を回収するのが狙いだと推定しました。筆者たちは、本書を“研究書”ではなく、啓蒙性を含めた“学術書”として書いたようにようですが、その狙いを想定読者が受け入れるかどうかは、現時点では読めません。

 さて中身です。白眉は出版社の事例研究(ケーススタディー)です。一人出版社のハーベスト社、社長を含めて総勢12人の新曜社、中堅出版社の有斐閣と東京大学出版会の専門書を発行する出版社4社が専門書を発行する工程やその意志決定の仕方などを、筆者は主にインタビュー形式によってデータを得て、解析していきます。4社すべての出版社は東京都内にあります(この辺が“人脈資産”の現れです)。大学教員である筆者たちが、文部科学省系の科学研究費補助金や21世紀COE(センター・オブ・エクセレント)、グローバルCOEなどの各プロジェクト研究費を獲得して10年以上にわたって研究したものの総集編です。当然、筆者たちは、研究成果として研究論文を多数書いています。

 示されたデータとして再確認し、少し驚いたのは、ハーベスト社の編集者1人が1年間に約10冊、新曜社の同7人が同40~50冊、有斐閣の同56人が190~240冊、東京大学出版会の同20人が同120~130冊も発行していることです。各研修者は第一関門のゲートキーパーとして、大学教員が書いた、多くの原稿を読んで、発行するかどうかを決め、内容を編集・校正し、制作するなどの工程を、まさに職人芸でこなしています。筆者が指摘するように、各編集者は出版する権限を持つ、“一人事業者”として仕事をこなしています。

 問題は出版不況によって、単行本などの本としての寿命が短くなっているために、逆に発行点数を増やしている実態です。書店での読者の目に留まる確率を高めるという戦術です。何が実際に売れるかどうか読めない要素が増え、とにかく出版点数を増やし、動いていないと倒れる“1輪車”事業になっていることです。2輪の“自転車”操業ではなく、とにかく車輪を動かし続ける1輪車操業です。

 出版社の中には、かなり堅い内容の売れそうもない単行本を出す戦略を取っているケースもあります。豊かな文化を支える良心的な出版社というメッセージを伝えるために、売れそうもない単行本を「象徴資本」として発行するようです。これによって、同社のイメージが向上し、別の売れる本という「経済資本」によって、結果的に出版事業の収支を高める戦略です。

 本書を読んで一番興味深かったのは、東京大学出版会の成長記録の部分です。この部分は他の出版社の編集者にも参考になるものが多いと思います。また、「イン・デザイン」という編集・組み版ソフトウエアの普及によって、縦て組みの日本語でのデスクトップパブリッシング(DTP出版、要はパーソナルコンピューターを活用した制作手法)が高度にやりやすくなり、編集者の職人芸の度合いが高まったとの指摘部分は参考になりました。でも、出版不況は止まりそうもない様子が一番印象として残りました。

名古屋市の徳川園は大輪のボタンの花が満開です

2011年04月27日 | 旅行
 名古屋市東区徳川町にある徳川園は、ボタン(牡丹)の花がちょうど、見ごろを迎えています。新緑になり始めた森に囲まれた徳川園は、午前9時30分の開園と同時に、多くの方が入園しました。お目当ては牡丹園です。

 春に咲くボタンの花は、今年2月上旬に訪れた時には冬牡丹園だったところに、そのまま咲いていました(2011年2月5日のブログをご参照ください)。“冬の牡丹園”が“春の牡丹園”に変身していました。



 豪華な大ぶりのボタンの花が競って咲いています。赤色、ピンク色、白色などと、合計約1000株が早咲きから遅咲きまで次々と咲き続けているそうです。





 大輪の花はどれも見事の一言に尽きます。大輪の花は重いために、支柱などを見えないように入れて支えています。牡丹園の一番端に、黄色のボタンが1株植えられていて、蕾がかなり大きくなっていました。黄色はあまり見たことがありません。

 牡丹園に接する一角に藤棚が設けられており、フジの花が咲き始めていました。まだ、薄いふじ色の感じです。



 もうしばらくすると、フジの花穂が伸びて、満開になりそうです。アブがもうフジの花に集まり始めていました。

 徳川園は、龍仙湖(りゅうせんこ)を中心とした池泉回遊式の日本庭園です。ニシキゴイ(錦鯉)が優雅に泳いでいます。



 四季折々に、いろいろな花が咲いて季節を感じさせてくれます。名古屋市の“オアシス”のような存在です。

山口大学とコクヨが共同開発した“研究記録用ノート”を頂戴しました

2011年04月26日 | イノベーション
 山口大学とコクヨS&T(大阪市)が共同開発した「リサーチラボノート」のエントリーモデルをいただきました。両者は2005年に日本国内向けに「リサーチラボノート」のユニバーサルモデルを共同開発し、コクヨが販売しました。その共同研究相手の山口大学知的財産部門からエントリーモデルを頂戴しましや(以前には、ユニバーサルモデルも頂戴しています)。

 このユニバーサルモデルに対して、「もう少し安価なリサーチラボノートがほしい」という研究開発者などユーザーの意見を反映させて発売したのが、今回のエントリーモデルです。2011年2月に発売されました。



 エントリーモデルは本体が100ページで希望小売価格480円(本体)です(これに消費税がかかると同504円になります)。これに対して、ユニバーサルモデルのスタンダード版は本体152ページで同1400円です。ハード表紙版は本体152ページで同2800円です。

 「リサーチラボノート」とは、“研究ノート”などとも呼ばれる研究記録用ノートです。この研究ノートが重視されるようになった理由は、特許を権利化する際の証拠になるからです。この“証拠”とは、特に米国で特許を獲得するために必要不可欠となる点がややこしい話になっています。

 国際的に研究開発競争が激しくなっている現在、研究開発成果を特許として権利化することがどんどん重要になっています。この場合に問題になるのが、米国で特許を獲得するには、当該特許の基になる“発明”を、いつしたのかを証明する研究記録用ノートでの研究記録が必要になることです。米国での特許などの知的財産の係争などに使えるようにするには、法的に証明する仕組みが必要です。研究開発の同僚や上司などが、研究開発者本院がその研究記録を書き込んだことを、その時点でサインして認証することで、発明時期を証明する仕組みになっています。

 現在、米国だけが「先発明主義」という特許の審査制度を唯一、採用しています。日本や欧州などの他の国は、特許の出願書類を先に出した方に、当該特許の権利を与える先出願主義を採用しています。この結果、米国では、特許出願の書類を先に出したからといって、そのままでは特許の権利を獲得できるとは限りません。ほぼ同様の発明内容の特許出願書類が他人・他機関から提出されると、研究記録用ノートによって誰が最初に発明をしたのかを、証明する必要があるからです。

 米国の市場は巨大で、かつ米国市場での製品化は国際市場への影響も大きいケースが多いために、新製品開発には欠かせない市場です。このため、日本で研究開発を行っても、米国でその研究開発成果を特許化するには、特許係争に備えて研究記録用ノートに発明した日を、法的に使えるように記録する必要があります(実は、米国でも国際的に標準になっている先願主義に移行するとの発表が何回かありましたが、実態はまったく進んでいません)。

 このために、研究記録用ノートは各ページを後で入れ替えられないように、糸がかりで綴じる工夫が重要です。各ページの入れ替えができないようにしっかり綴じられています。また、表紙は耐薬品性や耐水性などに優れた耐久性を持たせています。これが、ユニバーサルモデルが高価になる理由です。本体の髪質もペンやボールペンで書きやすいものになっています。

 これに対して、今回、コクヨが新発売したエントリーモデルは無線綴じという比較的安価な綴じ方を採用しています。各ページに書いた記録した文字が裏抜けしないように工夫されています。このエントリーモデルは安価なので、大学の学生などが研究記録用ノートを使う習慣をつけるのに適しています。

 最近は、大学と企業が共同開発するケースも増えています。数年後に共同研究成果を基に特許出願をした際に、その特許の権利の持ち分を決める際に、お互いの研究記録用ノートが法的な証拠になるケースも増えています。今後、都的財産戦略が国内・国外でも一層重要になります。この点では、研究記録用ノートの出番が増えるという見通しが高まっています。

 日本は知財立国を目指しています。この点では研究記録用ノートをつける習慣が大切です。4月は、大学や公的研究機関、企業などで新しい研究開発テーマが始める節目の時期です。研究記録用ノートについて、学ぶ重要性が高まっています。

秩父市郊外にある古民家を売り物にした蕎麦屋に行きました

2011年04月25日 | グルメ
 埼玉県秩父市の郊外にある農家の古民家を利用している蕎麦屋に行きました。秩父市の街中の混雑を避けるために、国道140号の裏道になる県道を抜けました。荒川を挟んで対岸を通る県道を行くと、寺尾という場所で「本格手打そば 本家 原」という案内を見かけました。以前にも、一度寄ったことがある蕎麦屋でしたが、その時は残念ながら休業していました。

 県道から脇道に入って少し進むと、農家の立派なつくりの長屋門のところに「本格手打そば 本家 原」の看板が掛かっていて、その周りに乗用車が何台も駐車しています。

 お店は明治初め(1870年ごろ)に養蚕住宅として新築されましたものでした。約140年前の古い民家の居間と応接間をお店に利用しています。養蚕のために暖房用にたいた囲炉裏(いろり)の煙によって、太い梁(はり)や天井がが黒光りしています。お店の方は「あめ色」と表現しています。





 お店の中は満席でした。ご近所の方も来てるようで、挨拶しています。

 お品書きは「もりそば」「ざるそば」を基本としています。今回は「天もりそば 」と「合鴨せいろそば 」を注文しました。





 鴨肉、山菜、野菜などが入った具だくさんの温かい付け汁で食べる、合鴨せいろそばの方が田舎風のそばの美味を引き出していると感じました。

 この“本家 原”は屋号で、名字は小池さんという方です。何と、戦国時代に甲斐武田家が織田・徳川連合軍に敗退し、それから約100年後の1681年に山梨県と埼玉県の県境にある雁坂峠を越して、秩父にたどりついたそうです。その後は、養蚕を基本とする農家を本業にされたとのことでした。明治初期に養蚕住宅として新築した民家をもとに、2010年6月に蕎麦屋を開業したのだそうです。そば打ちの職人の方は20年以上、修行した方だそうです。

 秩父地方は雁坂峠を通して甲斐(山梨)や信州につながっています。明治17年(1884年)に秩父地方の数万の農民が“困民党”を結成して武装蜂起した秩父事件では、10日後には明治政府の警官隊と軍隊により鎮圧されてしまいます。この時に、農民たちは雁坂峠を抜けて佐久市付近まで逃げます。地元の農民は行政の区切りに関係なく、生活を求めて行き来しているようです。

秩父市の荒川地区ではミズバショウが見ごろになっています

2011年04月24日 | 季節の移ろい
 埼玉県秩父市の荒川地区は奥秩父の入り口に当たる、山村の面影を残すひなびたところです。旧荒川村の荒川地区は秩父の山々に囲まれているため、ミズバショウやカタクリ、ニリンソなどの野草が咲く山村です。秩父鉄道の武州日野駅近くのある水芭蕉園を訪ねました。

 水芭蕉園は山間(やまあい)と平地の境に設けられています。社団法人秩父観光協会の荒川支部が地主から土地を借りて、ミズバショウを保護し、増やしているそうです。木道を設け、ミズバショウの株を保護しています。

 ミズバショウはちょうど見ごろでした。



 

 ミズバショウの株の間をゆっくりと流れる清水にはトノサマガエルのオタマジャクシが多数、泳いでいます。

 現在はミズバショウを2300株まで増やしたそうです。種をつけさせ、一部は株分けするなど、人間が手を入れないと、増えないそうです。山の端からの湧き水も枯れかけているため、山の上から谷川の冷たい清水を引いています。この水は、水芭蕉園のすぐ下にある花蓮園にも引いています。

 水芭蕉園の背景になっている山里部分は、ヤマザクラの花がかなり散って、葉が出ています。木々の新芽が鮮やかな若緑色になっています。



 今回の本当のお目当てはカタクリでした。この水芭蕉園のすぐ背景にそびえる弟富士山(おとふじさん)の斜面のカタクリは「先週で咲き終わった」と、秩父観光協会の方が教えてくれました。

 もう少し山奥にある“大塚カタクリの里”では「まだ咲いているかも」と伺い、杉林の中を登ってみました。山道の入り口には、イノシシなどが里に下りてこないように門が設けてあり、ここを開けて入ります。杉林の中の小川沿いに遊歩道が設けられており、この遊歩道の急斜面を登りました。大塚カタクリの里は杉林の中に切り開かれた急斜面に、約1万株のカタクリが生えています。残念ながら、花は終わってしぼんでいました。しぼみかかった1株だけが何とか花を感じさせるものでした。



 秩父鉄道の武州日野駅近くはリンゴ園を営む農家が多いとのことです。各農家はハナモモの木を植えている方が多く、農道沿いは華やかでした。



 この旧荒川村の荒川地区は、明治時代までは養蚕が盛んでクワを植えた農家が多かったそうです。その後、養蚕の不振によって一時は寂れかけた村では、ソバを植えて“ソバの里”による観光事業やリンゴなどの果樹の農業に乗り出したのだそうです。山奥でも、産業振興策によるイノベーションが不可欠です。