ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

日本経済新聞紙の「文化」欄のコラム「仏像 美のひそむ場所 十選」を楽しみに拝読しています

2019年09月13日 | 日記
 最近発行された日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄に掲載されているコラム「仏像 美のひそむ場所 十選」を楽しみに読んでいます。

 このコラムの筆者は、京都国立博物館の連携協力室長の浅沼毅さん(正確には「あさぬま」さんの表記は旧字)です。

 2019年10月11日の第8回では、京都市の永観堂禅林寺のご本尊である「阿弥陀如来立像」を解説しています。

 この“見返りの阿弥陀”像は、本来ならば正面を向き、拝むものに相対すべきところを、左を振り返っている阿弥陀像です。


 
 この画像は、阿弥陀像の頭の付近だけの部分のものです。印刷物の日本経済新聞紙の朝刊最終面「文化」欄には全身が見える画像が載っています。

 永観堂禅林寺の本尊として伝えられる「見返りの阿弥陀」は本来ならば正面を向き、拝むものに相対すべきところ、左を振り返っているのであると解説されています。

 日本経済新聞紙のWEb版である日本経済新聞 電子版でも「仏像 美のひそむ場所(8) 永観堂禅林寺「阿弥陀如来立像」」と掲載されています。



 この永観堂禅林寺は京都市内のモミジの紅葉の名所です。実は、紅葉見物には何回か行っていますが、このご本尊である「阿弥陀如来立像」のことは知りませんでした。

 このご本尊がふだん、公開されているのかどうかは分かりません。

 平安時代から鎌倉時代までの武士の台頭などによる、いくらかの戦乱時に仏教に頼る、その象徴の仏像にたよる願いが強く感じられます。

 同時に、運慶や快慶などの仏像を作製する仏師の集団・チームの工房ができ、優れた仏像が多数つくられた時代を迎えていました。

 2019年10月10日の同コラムは第7回です。ここでは京都府宇治市の平等院のご本尊である「阿弥陀如来立座像」を取りあげています。

 平安時代の当時は、末法の世になるとされた1052年のすなわち末法元年(まっぽうがんねん)が近づいてくるといわれ、当時の人々の間では「もうすぐ末法の世とやらに突入してしまう」と信じられて、庶民は精神的に狼狽えていたそうです。

 そこで、藤原頼通は宇治平等院を建てて、その翌年に鳳凰堂と呼ばれている阿弥陀堂を建てました。その阿弥陀堂の中に、この「阿弥陀如来立座像」を配置しました。



当時の藤原頼通をはじめとする人々は、この「阿弥陀如来立座像」によって、末法の世に何とか対応しようとしたようです。切実な願です。

(追記)弊ブログの今回のコメント欄に、自然観察名人のイケリンさん がご指摘なさっているように、
京都市内の永観堂禅林寺のご本尊が「正面を見てなく、左を振り返っている」姿勢の謂われは。このコラムでは「浄土念仏の寺とした永観(1033年から1111年)が、念仏を唱えながら阿弥陀如来像の周りを巡っていたところ、如来が先導するように一緒に回り始めます。このことに驚いた永観が立ち止まると、阿弥陀如来は『永観おそし』といって、その姿が元に戻らなかった」という伝承があると、このコラムでは解説しています。