こちらはウルビーノ公ロレンツォ妃マッダレーナでございます
メディチ家、不遇時代の妃
ジュリアーノ妃 フィリベルタ・デ・サヴォイア
1498~1524/在位 1515~1516
ロレンツォを継いだのは、長男ピエロ・イル・ファトゥオ(愚か者)です。
ハンサムだったらしいのですが、まったく政治家に向かなかったらしく
ヴァロア家とハプスブルク家がイタリア争奪戦を繰り広げる激動の中で
1494年、フィレンツェから永久追放されてしまいました。
1498年に結婚した妻アルフォンシーナはオルシーニ家出身です。
それ以上はわからず… ロレンツォ妃クラリーチェとは親戚なんでしょうね?
その後共和制が続いたフィレンツェに1512年、次男ジョヴァンニ(後の教皇レオ10世)と
三男ジュリアーノが帰って来ました。
ジョヴァンニは教皇になってからもジュリアーノを通じてフィレンツェを支配します。
フランス王フランソワ1世の叔母フィリベルタとジュリアーノの縁談は
レオ10世がまとめたものです。
1515年に結婚して、ジュリアーノはヌムール公の称号を与えられたものの
翌年亡くなりました。
詳細はわかりませんがフィリベルタも1524年に26歳の若さで亡くなっています。
フランスを牛耳った王妃の母
ロレンツォ2世妃 マッダレーナ・デ・オーベルニュ
1501~1519/在位 1518~1519
心優しく繊細なジュリアーノが亡くなると、愚か者よばわりされたピエロの息子で
享楽好きの暴れん坊、ロレンツォがフィレンツェ支配者の座につきました。
1516年、メディチ公国を夢見る教皇レオ10世の命によりウルビーノ領を攻め落とし
ウルビーノ公の座につきました。
1515年、レオ10世とフランス王フランソワ1世の同盟強化のため
甥ロレンツォとフランソワ1世の血縁マッダレーナの縁談がまとまり
1518年に結婚しました。
ロレンツォは自ら彼女を迎えにフランスに出向いています。
式もとても盛大なものでした。
一年ほどして娘のカテリーナが生まれましたが、マッダレーナは亡くなり
その1週間後にロレンツォも(たぶん梅毒で)亡くなりました。
カテリーナは教皇クレメンス7世が後見人になり
後にフランス王アンリ2世の妃になります。
この方、娘カテリーナを生んだ他はほとんどエピソードが無いのよね。
若くして亡くなられてるから仕方がないかもしれないが…
さて、ピエロ&ウルビーノ公ロレンツォ親子は、芸術家肌でなかったらしく
パトロンとしてあまり目立った動きはありません。
逆に、ヌムール公ジュリアーノは、政治の場にいるよりサロンにいる方が好き!
という文芸肌の宮廷人でして、フィレンツェの芸術を支えた方でした。
中でも有名なのは、このおふたり。
ラファエロ ダ・ヴィンチ
“ モナ・リザ ” にはフィレンツェの有力者フランチェスコ・ジョコンドの夫人や
ミラノ公妃イザベラ・ダラゴーナという説がありますが
ジュリアーノの愛妾コンスタンツァ・ダヴァロスという説もあります。
(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
言い訳
ワールドカップと『天国の階段』鑑賞タイムのおかげで
ブログの草稿書きが滞っている今日この頃です。
次回、フィレンツェ公アレッサンドロ妃はちょいと先になるかも…
メディチ家、不遇時代の妃
ジュリアーノ妃 フィリベルタ・デ・サヴォイア
1498~1524/在位 1515~1516
ロレンツォを継いだのは、長男ピエロ・イル・ファトゥオ(愚か者)です。
ハンサムだったらしいのですが、まったく政治家に向かなかったらしく
ヴァロア家とハプスブルク家がイタリア争奪戦を繰り広げる激動の中で
1494年、フィレンツェから永久追放されてしまいました。
1498年に結婚した妻アルフォンシーナはオルシーニ家出身です。
それ以上はわからず… ロレンツォ妃クラリーチェとは親戚なんでしょうね?
その後共和制が続いたフィレンツェに1512年、次男ジョヴァンニ(後の教皇レオ10世)と
三男ジュリアーノが帰って来ました。
ジョヴァンニは教皇になってからもジュリアーノを通じてフィレンツェを支配します。
フランス王フランソワ1世の叔母フィリベルタとジュリアーノの縁談は
レオ10世がまとめたものです。
1515年に結婚して、ジュリアーノはヌムール公の称号を与えられたものの
翌年亡くなりました。
詳細はわかりませんがフィリベルタも1524年に26歳の若さで亡くなっています。
フランスを牛耳った王妃の母
ロレンツォ2世妃 マッダレーナ・デ・オーベルニュ
1501~1519/在位 1518~1519
心優しく繊細なジュリアーノが亡くなると、愚か者よばわりされたピエロの息子で
享楽好きの暴れん坊、ロレンツォがフィレンツェ支配者の座につきました。
1516年、メディチ公国を夢見る教皇レオ10世の命によりウルビーノ領を攻め落とし
ウルビーノ公の座につきました。
1515年、レオ10世とフランス王フランソワ1世の同盟強化のため
甥ロレンツォとフランソワ1世の血縁マッダレーナの縁談がまとまり
1518年に結婚しました。
ロレンツォは自ら彼女を迎えにフランスに出向いています。
式もとても盛大なものでした。
一年ほどして娘のカテリーナが生まれましたが、マッダレーナは亡くなり
その1週間後にロレンツォも(たぶん梅毒で)亡くなりました。
カテリーナは教皇クレメンス7世が後見人になり
後にフランス王アンリ2世の妃になります。
この方、娘カテリーナを生んだ他はほとんどエピソードが無いのよね。
若くして亡くなられてるから仕方がないかもしれないが…
さて、ピエロ&ウルビーノ公ロレンツォ親子は、芸術家肌でなかったらしく
パトロンとしてあまり目立った動きはありません。
逆に、ヌムール公ジュリアーノは、政治の場にいるよりサロンにいる方が好き!
という文芸肌の宮廷人でして、フィレンツェの芸術を支えた方でした。
中でも有名なのは、このおふたり。
ラファエロ ダ・ヴィンチ
“ モナ・リザ ” にはフィレンツェの有力者フランチェスコ・ジョコンドの夫人や
ミラノ公妃イザベラ・ダラゴーナという説がありますが
ジュリアーノの愛妾コンスタンツァ・ダヴァロスという説もあります。
(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
言い訳
ワールドカップと『天国の階段』鑑賞タイムのおかげで
ブログの草稿書きが滞っている今日この頃です。
次回、フィレンツェ公アレッサンドロ妃はちょいと先になるかも…