まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『白い牙』真っ当な犬の一生

2010-06-03 23:19:02 | アメリカの作家
WHITE FANG 
1906年 ジャック・ロンドン

私は完全にネコ派で、子どもの頃数頭の野犬に追いかけられた経験から
今でも “ 猛犬注意 ” のシールにびびるわけですが、こんな犬なら…と
思わないでもありません。

とはいっても、ホワイト・ファング(白い牙)という名を持つ主人公は
ほぼオオカミなんです、¼だけ犬なのね。

野生に生まれたオオカミが、人間に飼われることによって、
また、飼う人物によってどのように成長していくかを描いた物語で
だったら生まれたところから書きゃいいわけだが…

冒頭、アラスカで犬ぞりを曳く二人の人間を幾晩も追って来るオオカミの群れが登場します。
犬が一匹づつやられ、そして人間も…ものっすごくスリリングです。
否応無しに物語への期待が膨らみます。

その群れの中でひときわ目を引く牝オオカミと、争いに精通した老オオカミの子が
ホワイト・ファングで、未亡人となった母オオカミと自然から様々なことを教わります。

このまま野生動物の厳しい世界を描くのかと思ったら
ホワイト・ファングはひょんなことから母子ともども人間に養われることになります。

一人目はインディアンのグレー・ビーヴァ、公平ではありますが残酷な支配者です。
犬たちにはこん棒で規律を教え、殴打で非を悟らせる、という昔ながらのご主人様です。

二人目はビューティー・スミスという醜い白人です。
残酷な気質を持つ臆病者で、グレー・ビーヴァから授けられたこん棒以上に非情な手段で
ホワイト・ファングを服従させます。

三人目はウィードン・スコットという鉱山技師です。
歪みきってしまい獰猛になったホワイト・ファングを創った人間の罪を償おうとします。

ホワイト・ファングはそれぞれの主人を “ 神 ” と考えて服従はするんだけど
それぞれに抱く感情はまったく違います。
言うことを聞いてるから好かれてると思ったら間違いなのね

グレー・ビーヴァだって酷いじゃないかと思う方がいるかもしれませんが
過酷な大地で食料と安全な寝床を与えられる変わりに服従して労働するという関係は
間違っていない気がします。
しかもアラスカの犬ってオオカミの子孫みたいじゃない?
集団で暮らすためにはそれなりの教育がいるんじゃないか、とも思えます。

そんな長い時間を経て野生動物が人間のパートナーになり
今のワンちゃんと飼い主さんの愛ある関係が形成されたのかもしれないし。

どんな感情を抱いても主人には服従し、忠誠を誓えば主人の財産を守り
命を賭けて救おうとするホワイト・ファングの姿勢は “ 真っ当な犬 ” という印象を与えます。
甘えたりべたべたしないだけに余計ね。

もちろん、愛でるために創造された小ころいワンちゃんは
お洋服を着て癒して下されば、じゅうぶんご主人に報いることができますとも!

主人によってこれだけ変わるか? というホワイト・ファングの内面。
これから何か飼われる方は読んでみられては?

私はいつか『野生の呼び声』を読もうと思っています。

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コメント (2)
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ポルトガル王ルイス1世妃 マリア・ピア

2010-06-03 22:21:26 | ポルトガル王妃
ふたつの顔を持つ王妃
ルイス1世妃 マリア・ピア・デ・サボイア


1847~1911/在位 1862~1889


マリア・ピアはイタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世と
王妃マリーア・アデライデの王女です。

        

15歳の時に9歳年上のルイス1世と結婚しました。

若くして外国に嫁にやられた娘には、気を紛らわすものが必要よね?
というわけで、マリア・ピアはパーティー、舞踏会、マスカレードに明け暮れます。
贅沢大好き!でオシャレにも目がありませんでした。
一晩の舞踏会で3回ドレスを替えたという記録が残っています。

たかが3回といっても、今とはお衣装の造りが違うものねぇ…
ティアラやアクセサリー、手袋から扇まで全て変えたはずよ。

ポルトガル議会は、王妃の過度な出費について審議したほどです。
しかし、マリア・ピアは「王妃にいてほしいんじゃないの? だったら当然の支出でしょ」
と答えたそうでございます。
言えたら気持ちがいいでしょうねぇ

他方、マリア・ピアはオシャレ同様チャリティーに夢中で
ほとんど政治には興味を示しませんでした。
お人好しで気前がよく、“ 慈善の天使 ” “ 貧しき者の母 ” とも呼ばれていました。
やっていることが両極端ですねぇ。

サルディーニャ公ジョアン・カルロと諍いを起こした時には
「私が王なら撃ち殺してやる!」と公式に言ったそうで、勇ましい方だったようですね。

1889年、ルイス1世が亡くなり未亡人となった後も、マリア・ピアはアクティブに活動。
社交界でも活躍し宮廷の中心人物でした。
王と王妃が不在の間に摂政も務めました。

しかしいくら気丈な女性といっても、やはり母親…
1908年に息子のカルルシュと孫のルイスが殺害されると急激に衰えを見せ
その後公の場には姿を現さなくなりました。

カルルシュの後を継いだマヌエル2世が革命で廃位されて第一共和制が始まると
生まれ故郷のイタリアへ帰り1911年に亡くなりました。

贅沢三昧とは裏腹なチャリティー精神…このタイプの王妃、王女は多いですよね。
本心から、義務感から、流行、名声欲しさと理由はいろいろありましょうけど
何もしないよりはまし…ですよね。

              
              ドレスのデザインが変わりましたね

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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ポルトガル王ペドロ5世妃 エステファニア

2010-06-03 22:20:33 | ポルトガル王妃
ワンポイント王 & 王妃
ペドロ5世妃 エステファニア・デ・ホーエンゾレルン=ジグマリンゲン


1837~1859/在位 1858~1859

エステファニアはホーエンツォレルン=ジグマリンゲン公カール・アントンの公女で
20歳の時に同じ年のペドロ5世と結婚しました。

        
ポルトガルは、相次ぐ戦争や革命ですでに疲弊していたはずなんだけど
エステファニアはかなりの贅沢品を与えられたらしくて
実家に “ ポルトガル人は贅沢のなんたるかを知ってるわ…気品は別にして ” てなことを
書き送っています。

結婚から1年半後、エステファニアはジフテリアで22年の生涯を終えました。

ポルトガルでは二大政党制が始まり、多くの公共事業が行われていました。
エステファニアも王妃に就いている短い間に病院を設立しています。
長生きしていたら、もっとたくさんの慈善を行っていた人かもしれません。

ペドロ5世も再婚しないまま、2年後にジフテリアで亡くなりました。

            
             書くことがあまりないのでお写真を…

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
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