まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世妃 ヘルミーネ

2009-11-19 02:01:46 | ドイツ系王妃
自称皇后
ヴィルヘルム2世妃 ヘルミーネ・ロイス


1887~1948/在位せず

父親は現在のチューリンゲン地方を治めていたグランツ=ロイス公子ハインリヒ22世で
20歳の時にシューナイヒ・カロラート公子ヨーハン・ゲオルクと結婚しました。
夫は14歳年上で、13年後に亡くなりました。

        
1922年、ヘルミーネの息子がヴィルヘルムにお誕生日のお祝いを送ったのね。
亡命中のヴィルヘルムは嬉しかったのか息子を母親とともに
オランダのドールンに招待しました。
もう、誰? 「息子Good Job! 」とか言うのは?

前年にアウグスタを亡くしていたヴィルヘルム(この時63歳)は
2年前に夫を亡くしていたヘルミーネ(この時34歳)にすぐに惹かれて
彼女との交際を非常に楽しみました。

ヴィルヘルムはすぐにヘルミーネとの再婚を決意しちゃったそうで
子供たちや支援者たちの軽蔑もなんのそのでその年のうちに再婚してしまいました。
でもその後ヴィルヘルムが亡くなるまで仲睦まじく暮らしたということです。
良かったですね。

ところで、ドイツ共和国はヴィルヘルムを戦争犯罪人として引き渡すように
申し入れたそうですが、オランダ政府は断固拒否したんですって。
オランダのおかげで幸せな晩年があったと言えますね。

        
           ヴィルヘルム2世とヘルミーネと連れ子のヘンリエッテ
                     お幸せそうでなによりです


亡命政府内では、たぶんそう呼ばれていたのかもしれないけれど
ふたりは『皇帝』『皇后』と呼び合っていたらしいよ。
しかしドイツ国内はナチスが治めており、返り咲く可能性はなかったと思うんですけどね。
ヘルミーネは1927年に『亡命中の皇后(直訳)』という本を書いてますけど…

1941年、ヴィルヘルムが亡くなるとヘルミーネは前夫の領地シュレージエンに帰り
6年後に亡くなりました。
ヴィルヘルムの前妃アウグスタも埋葬されている、ポツダム宮殿近くの
アンティーク寺院に埋葬されました。

ちなみに、上の写真に写っているヘルミーネの連れ子のヘンリエッテは
ヴィルヘルムの孫フランツ・ヨーゼフと結婚しています。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 Wikipedia英語版)
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ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世妃 アウグスタ

2009-11-19 01:58:44 | ドイツ系王妃
姑いじめが娯楽? ドイツ最後の皇后
ヴィルヘルム2世妃 アウグスタ・ヴィクトリア
               フォン・シュレスヴィヒ=ホルシュタイン


1858~1921/在位 1888~1918

アウグスタはホーエンツォレルン家の皆さんから“ ドナ ” と呼ばれていました。

ドナは23歳の時にヴィルヘルムと結婚しています。
結婚式は8時間にも及ぶものでした。

ホルシュタイン家ってそんなに悪い家柄だとは思えないんだが
ドナはヴィルヘルムの一家に見下されていたみたいなのね。
このクールな親戚付き合いはずっと続きました。

後にザクセン=マイニンゲン公妃になるヴィルヘルムの妹のシャルロッテは
とるに足りない領主の娘がヴィルヘルムの妃に、ひいてはドイツ皇后になるなんてっ!
というわけで、かなり冷たかったみたいですよ。

また、同じく妹のギリシャ王妃ゾフィアは、1890年に
ギリシャ正教への改宗についてドナに逆らい、ドナは逆上して流産してしまったそうです。

        

じゃあドナが可哀想かというと、そうでもない…

実は姑のヴィクトリアは、息子との関係が悪かったでしょ?
それをドナがとりなしてくれるんじゃないかと期待していたのですが
逆にドナは姑とのいざこざを楽しんでいました。

例えば、あるパーティーでヴィクトリア皇太后に
「どうしてわたくしが薦めたドレスを着ていないんですの?」とちくりと言ったり
娘のヴィクトリア・ルイーゼの名は(姑ではなく)祖母と曾祖母からとった名前だ、と
わざわざお知らせにあがったり、とか。

意地悪されたからってさらに弱い者をいじめるなんて、いかんじゃないか!
でも宮廷ではそうでもしないとストレスがすごいのかもしれないですよね。

そんなドナも、夫ヴィルヘルムが皇帝に即位して軍事に明け暮れるようになると
寂しくなってしまったのか皇太后と親しげにつき合うようになります。
仲良く馬車で出かけたり、ちょくちょく子供を連れて訪ねて行ったりね。
それでも(自由主義を吹き込まれると困るので)子供たちと皇太后だけにすることは
決してありませんでした。

皇帝になったヴィルヘルム2世は、それまでの慎重な外交を捨て
世界政策(強国政策)を打ち出していきました。
そんなつもりはなかったのかもしれないけれど、ことごとく英国に対抗するような政策は
次第に両国の関係を悪化させていきます。
また、ロシアとフランスを近づけ、敵に回すことにもなりました。

1914年のサラエヴォ事件を発端に勃発した第一次世界大戦に中央同盟国側で参戦しましたが
国内での反戦運動は革命になり、ついに1918年、ヴィルヘルムは退位し
オランダへ亡命しました。

退位と亡命にショックを受けて弱っていたドナに追い打ちをかけるように
1920年夏、皇子ヨアヒムが自殺します。
体調を崩したドナは1921年の春、オランダで亡くなりました。

ドナは亡骸となって、やっと、ドイツ(ヴァイマール)共和国から帰国を認められ
ポツダム宮殿近くの寺院に埋葬されました。
ちなみに夫ヴィルヘルムが再婚したヘルミーネも同じ寺院に埋葬されています。
ヴィルヘルムはドイツでの葬儀を禁止されたためオランダに埋葬されました。

               
                “ The Empress ” という感じですね

(参考文献 阿部謹也氏『物語ドイツの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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ドイツ皇帝フリードリヒ3世妃 ヴィクトリア

2009-11-18 00:49:24 | ドイツ系王妃
姑も嫁もパワフルで…
フリードリヒ3世妃 ヴィクトリア・フォン・サクス=コバーク=ゴータ


1840~1901/在位 1888

大英帝国女王ヴィクトリアの王女ヴィクトリアは、厳しい管理下で教育されました。
王太子アルバート(後のエドワード7世)は勉強が苦手とされていますが
ヴィクトリアは聡明で、5歳で読み書きができ、子守りからフランス語も学びました。

      

11歳の時、ロンドン博覧会を訪れていた王太子フリードリヒに出会い
お互いに恋心を抱いたようですね。
ヴィクトリアが14歳の時にフリードリヒがバルモラル城を訪れて求婚し
彼女も即OKしたそうです。

17歳の時に、ヴィクトリア女王の強い主張でセント・ジェームズ宮殿で挙式しました。
この結婚にはお互いの両親の大きな期待が込められていました。
まず、フリードリヒの母アウグスタは、ヴィクトリアが英国のリベラルな影響を
プロイセンにもたらしてくれると考えていたわけね。
また、ヴィクトリアの父サクス=コバーク=ゴータ公子アルバートは
ふたりの結婚でドイツ統一が実現できれば… と望んでいました。

ふたりはとても愛し合っていて、結婚生活は万々歳 と言いたいところですが
プロイセンでの生活はあまり愉快なものではなかったようです。

1861年、義父ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位します。
ヴィルヘルム4世はどちらかというと保守派で、ビスマルクも保守派、
急進的な自由主義は退けられていました。
フリードリヒとヴィクトリアのリベラルな考え方は受け入れられず
ふたりは孤立してしまいます。

また、皇太子ヴィルヘルム(後の2世)は英国的民主主義に基づいて教育され
リベラルな祖母アウグスタも目をかけていたというのに
なぜだかガチンガチンな権威主義者の家庭教師になついてしまいました。
長じるにつれてヴィクトリアとヴィルヘルムの親子関係はぎくしゃくしていきます。

次第にビスマルクに理解を示していくフリードリヒとヴィクトリアに
義母アウグスタもよそよそしくなり、特に嫁のヴィクトリアに対しては
「主義が無い」などと嘲るようになりました。

1871年、ビスマルクとフリードリヒの説得で父王がドイツ皇帝に即位し
フリードリヒが1888年に皇帝の座を継いで、フリードリヒ3世として即位しました。
ビスマルクは引き続き重用され、ドイツは大国間の危ういバランスの中で
平和的な政策を模索していました。

しかし、フリードリヒ3世が咽頭癌のため99日で亡くなります。
息子ヴィルヘルム2世が即位し、ドイツは次第に危険な道を歩みはじめました。

ヴィクトリアにしてみりゃあ、ビスマルクが退いて義母アウグスタは返り咲くし
嫁のアウグスタがさぁ、これまた上手くいかなくて…
ヴィクトリアは宮廷から退き、フランクフルトに近いクロンベルクに建てた
思い出の城に退きました。

皇太子妃時代にはベルリンに看護学校を建てたり、美術工芸のパトロンになって
産業芸術展を開催したりとアクティブに活動していたヴィクトリアですが
息子の代になってからは目立たずにいようと決心したようです。
まだ若いのに、惜しいことですよね。

ヴィクトリア女王は娘ヴィクトリアに3777通の手紙を送ったそうですが
娘からは4000通の手紙を母に送っています。
息子の統治下でのドイツを心配する内容が多かったそうです。

1899年、バルモラル城にヴィクトリア女王を訪問中、乳癌が見つかります。
すでに手遅れだったそうです。
苦痛による彼女の悲鳴がすごかったので、召使いや女中は他の棟に移ったそうですよ。
かわいそうに… モルヒネか何か、痛み止めはなかったんですかね?

1901年、母ヴィクトリア女王より7ヶ月早く、ヴィクトリアは亡くなりました。
夫フリードリヒ3世と夭逝した息子たちの側に葬られました。
繁栄を誇ったヴィクトリア女王の娘に生まれ、統一を果たしたドイツへと嫁いだ
華々しい経歴の女性でありながら、ひっそりと控えめな一生でした。

1914年には帝国主義を押し進めた息子フリードリヒ3世によって
ドイツは第一次世界大戦に参戦し、イギリスは敵国になります。
そんな両国の姿を目にすることがなくて、かえって幸せだったかもしれませんね。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 Wkipedia英語版)
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『学校の殺人』犯人、最初からみえみえ…だけど

2009-11-16 00:11:29 | イギリス・アイルランドの作家
WAS IT MURDER? 
1932年 ジェームズ・ヒルトン

ヒルトンと言えば『チップス先生さようなら』しか読んだことがない私ですが
古本市で推理小説を見つけちゃいましたよ。

推理小説なんでしょうね?
だって~、犯人が丸見えスケスケなんですもの

コリン・レヴェルという駆け出し詩人の青年が、母校の校長からの依頼で
ある少年の事故死を調査することになります。
少年は就寝中にガス灯が落ちてきて死んでしまったのですが
校長は事故死だとは思っていないのです。

結局事故だということになってロンドンへ帰ったレヴェルなのですが
半年後、今度はその少年の兄がプールで事故死したと知ります。
少年は夜、水の無いプールに飛び込んでしまったそうです。

レヴェルは自ら母校にかけつけました。
するとどうでしょう? 今度は校長、ぜんぜん怪しんでいない様子です。

レヴェルはおかまいなしに調査を始めるわけなんだけれども
最初から少年たちの従兄弟にあたるエリングトン教師が怪しい! と疑うのね。
だって、遺産ががっぽり入るんですもの… 誰が見たってそう思いますね?

教師のひとりランバーンも、捜査にやってきったスコットランド・ヤードのガスリーも
同じように考えているようでした。
あとは証拠だけ! と思っていたらランバーンが自殺してしまい
エリングトンの妻ロザマンドの恐るべき告白で事件は解決しちゃいました。
犯人はまったく違う人でした。

しかしレヴェルはエリングトンへの疑惑が消えません。
それに、エリングトンの可愛い妻ロザマンドがかわいそうに思えてきて
なんとか救ってやりたいと考えるようになりました。

レヴェルはやっと証拠をつかんだ!と思うのですが…

自慢じゃないが、本当に早い段階で犯人が分かったんですよ。
レヴェルもガスリーもなんで気がつかないわけ~? と思ってました。

でもさすがにスコットランド・ヤード。
この物語、事件を解決したのはレヴェルじゃなくてガスリーなんです。
しかも犯人が話したたったひとつの失言から真相に気がつくの。

レヴェル可哀想… とんだピエロです。
だけどそのおかげでガスリーは情報が手に入れられたんだから、気を落とさないでね。

あまりにもミエミエな犯人、クリスティならあえて他の人を犯人にしそうです。
推理小説としてはどうかな? というところはありますが
パブリック・スクールを舞台にした小説として読めばそれなりに面白かったですよ。
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『ホーソーン短篇小説集』心清き人のブラックサイド

2009-11-15 13:01:07 | アメリカの作家

ナサニエル・ホーソーン

天才と言われるホーソーンなんだが…
ユーモラスに書かれているにもかかわらず、徹頭徹尾堅苦しいのよね
特に前半のピューリタニズムをベースにした物語の数々は
信仰の強固さと物語の暗さが渾然一体となっていて、気が沈みます。

後半のファンタジーっぽい寓話も、なんだかぐったりする… 訳のせいなのかしら?
それでも前半よりは読みやすかったので、後半から3篇ほどご紹介します。

『デーヴィッド・スワン(David Swan)/1837年』
学業を終えて伯父の雑貨屋で働くためにボストンへ向かう若者デーヴィッドは
木陰の泉の側で馬車を待つうちに眠り込んでしまいます。
彼を見つけた裕福な夫婦、美しい乙女、悪党たちのことなど気づきもせずに…

自分を中心に展開している物語など知ることも無く無邪気に眠る青年を
ラッキーととるかアンラッキーととるかは読む人次第です。
木陰の泉のきらめきが目蓋に浮かぶ美しいお話だと思います。

『雪少女(The Snow-Image)/1850年』
小さな姉弟が雪で妹を作る様子を、窓辺から微笑ましく眺めていた母親は
いつしか見知らぬ少女が子供たちと遊んでいることに気がつきました。
現実家の父親は帰宅すると、子供たちが止めるのも聞かず
寒そうな少女を居間の暖炉で暖めてあげようと連れて来てしまいます。

子供の素直な心と、大人たちの頑な現実主義を対比させた物語です。
そうさなぁ… やっぱり暖めようとしちゃうかもしれませんね。
韮沢教授が古い外国人の写真を「宇宙人だ」って言うじゃない?
信じられない私はやはり現実派なんだろうか?

『大いなる岩の顔(The Great Stone Face)/1852年』
アーネストは少年の時から渓谷に浮かぶ岩の顔を見上げて育ち
いつか同じ顔を持つ偉大な人物がやって来ると信じていました。
何人かが岩の顔の男として凱旋しましたが誰もそうではありませんでした。
待ちわびるうちにアーネストは老人になっていきます。

信じることの美しさと強さが溢れ出ている素敵な物語です。
偉大な人は自ら喧伝しなくても、名を成していくということでしょうか。
確かに、そういう方にリーダーになっていただきたい!
アメリカに大統領の顔の岩がありますけど、あれがモデルなのかしら?

14篇収められていますが、前半の調子で続いていたら
途中で投げ出していたかもしれません。
宗教ベースとはいえ、あまり救いとか慈愛が感じられないんですもの。

前半の短篇は、人々の暗い側面をぎゅっと凝縮して物語を作り上げている感じ。
上手く言えないのですが、小さな望みもささやかな幸せも垣間見えない気がします。
でも厳格清廉なピューリタン的観点から見ればどうなのか? 私には分かりません。

当時の言い伝えや事件なども多く取り入れているようで
ピューリタンの研究とか時代考証として読むにはいいかもしれません。
現代人には受け入れにくい作風なのでは?と察しますが、どうなんでしょ?
アメリカではまだたくさん読まれているのでしょうか?
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『イワン・デニーソヴィチの一日』昨日も、今日も、明日も…

2009-11-14 01:43:44 | ロシアの作家
ОДИН ИЕНЬ ИВАНА ДЕНИСОВИЧА 
1962年 アレクサンドル・イサエヴィチ・ソルジェニーツィン

この物語は素晴らしい!! と、いくら私が書いたところで
その素晴らしさを伝えるのはどだい無理だと分かっています。
しかし書かずにはいられない。

政治犯として収容所に服役しているイワン・デニーソヴィチ(シューホフ)の
朝5時の起床から夜10時過ぎの就寝までを描いた、本当にたった一日のお話なのです。

極寒のソ連の収容所がどんなに過酷か? 私には分かりません。
零下何十度の荒野、つぎはぎだらけの囚人服、ほとんど実の無いスープの食事…
人が思い描けるだけの無慈悲さは存分に書かれています。
賄賂、密告、たかりなどの呆れた行状だって驚くには値しません。

胸にぐっとくるのは、こんな一日がずっと続いてきたことと
これからもずっと続いていくのが分かっていることです。

服役囚のほとんどは、政治犯とはいっても戦争中捕虜になっていたことや
たったひとこと不用意な発言をした、反政府派にミルクを運んだだけ、という
些細な理由で10年(途中から25年)の刑をくらっている人たちです。
刑が終わっても運が良くなければ再び収容されたり流刑になる恐れは充分にあります。

今日を生き抜くためだけを考えて過ごす一日の恐ろしさ… 想像できません。
ましてやそんな日が何年も続くなんて、考えただけでどうにかなりそう。

それなのにシューホフは一日の終わりにベッドの中で
「今日は幸せな日だったなぁ」と思うのです。

上手くやって朝も夜も一皿(水みたいなスープを)多く食べられました。
ブロック積みの仕事も楽しくはかどりました。
営倉(独房)にも入らずにすみました。

“ 美しい ” と言ってはいけないかしらね?
それでも、何日も風呂に入っていない男たちが繰り広げる日常を淡々と書き綴った
この物語が清らかに思えてなりません。

人は生きることを選ぶ、生きるためにはなんでもやる、という
ギリギリの日常が展開されているにもかかわらず
必死さの裏にある心のゆとりや労働の喜びに胸うたれます。

テレビ等で目にする強制収容所の、救いの無い映像が脳裏にちらつきつつ
どっこい俺たちは生きてるぜ! という主人公たちのたくましさに
小さな希望と喜びが見いだせた物語でした。

だからといって強制収容所があっていいということにはなりませんけどね。

イワン・デニーソヴィチの一日 新潮社


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ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世妃 アウグスタ

2009-11-14 01:43:30 | ドイツ系王妃
ビスマルクを敵にまわした皇后
ヴィルヘルム1世妃 アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマール


1811~1890/在位 1861~1888

ヴァイマール=アイゼナハ大公カール・フリードリヒと
ロシア皇帝パーヴェル1世の皇女マリア・パウローラを両親に持つ公女アウグスタは
画家から絵を習ったり、指揮者から音楽を学んだりと幅広い教育を与えられた少女でした。

15歳の時に従兄弟のヴィルヘルムと会っています。
その時ヴィルヘルムははとこのエリーゼと愛し合っていたので
縁談はでなかったのではないかと推測しますが
アウグスタはヴィルヘルムに想いを寄せたみたいなのね

        

ではなぜアウグスタにヴィルヘルムとの縁談が舞い込んだかと言うと
兄の王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後の4世)になかなか跡継ぎが生まれず
ヴィルヘルムに王座がまわってくる可能性がでてきたからです。

そうすると一介のポーランド貴族の娘エリーゼではプロイセン王妃には不十分という
父王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の考えでアウグスタに白羽の矢がたったわけです。

アウグスタは幸せ一杯で結婚を承諾したのですが
ヴィルヘルムはエリーゼに心残りがありました。
妹のロシア皇帝ニコライ1世妃アレクサンドラ に宛てた手紙には
“ エリーゼは心から愛せるただひとりの女性。
 アウグスタは可愛らしく聡明だが熱くなれない ” なんてぇことを書いています。

しかもエリーゼは他の男性と婚約した後亡くなっちゃうのよ。
男性にとっては一生の心の恋人ですよね?
こんな女性を抱えている男性はやっかいですよー

1829年、18歳のアウグスタは32歳のヴィルヘルムと結婚します。
ヴィルヘルムの愛妾や多大な圧力からか、やはりハッピーな結婚ではなかったようで
アウグスタは1840年頃から狂乱状態になることがありました。

アウグスタは政治への関心が高くて自由主義を好んでいました。
革命後のコブレンツ滞在中には進歩主義者や革新派と親交を深め
1861年にヴィルヘルムが即位すると多くの知人が入閣しました。

でもそれもビスマルクが表れるまで…
即位から数ヶ月後、ヴィルヘルムは自由主義中心の議会を解散し内閣を組閣します。
首相はオットー・ビスマルクで、王から政治的信頼を得ていた人物。
アウグスタはビスマルクを敵視するようになります。

案の定ビスマルクはアウグスタに批判的な意見を議会で述べるようになり
妻のヨハンナも皇后に対して無礼な態度をとったりします。
夫ヴィルヘルムまでが首相に同調したことでアウグスタの狂乱は重くなりました。

それでも、孫のヴィルヘルムは見込みあり!と思ったのか自ら教育しようとしました。
また戦争が嫌いで、ナイチンゲールの意見を取り入れて全国婦人連合を設立しました。
活動的な女性だったみたいですね。
政治には口を出さず慈善とか教育や芸術の振興など
王妃らしい活動に力を入れていたら、ビスマルクも黙っていたかもしれないですね。

1866年と1870年の戦争を経てヴィルヘルムはドイツ皇帝になり
アウグスタも皇后になりましたが、ビスマルクによって葬り去られていました。
そんな彼女がふたたび表舞台に姿を表したのは1888年、孫のヴィルヘルム2世即位後です。
夫ヴィルヘルム1世は1888年に80歳で亡くなり
息子フリードリヒ3世が即位したものの、99日後に癌で亡くなってしまったのです。
ヴィルヘルム2世は、「気が合わない!」ということでビスマルクを早々に追いやりました。

1890年、69歳で亡くなったアウグスタ。
愛する孫の戴冠も見られたし、27年におよんで自分を追いやっていた
ビスマルクもいなくなって、最後の最後は幸せだったんじゃないでしょうか?

ただアウグスタには幸せでも、それがドイツのために良かったのかどうかは… つづく

(参考文献 阿部謹也氏『物語ドイツの歴史』 Wikipdia英語版)

物語 ドイツの歴史 中央公論社


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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃 エリーザベト

2009-11-13 01:19:38 | ドイツ系王妃
双子姉妹の王妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃 エリーザベト・ルドヴィカ
                       フォン・バイエルン


1801~1873/在位 1840~1861

エリーザベトはバイエルン王マクシミリアン1世王女で
ヴィッテルスバハ=ツヴァイブリュッケン家出身、こちらも名家です。

       

双子の妹がおりまして、ザクセン王ヨーハン1世妃になっています。
ちなみにザクセン王家もヴィッテルスバハ家の家系です。

              
                こちら双子の姉妹アマーリエ
                一卵性だそうですが、画家によってちがうものですね…


小さくなってしまうので家系図からは省きましたが
エリーザベトの姉妹のうち、ゾフィーはオーストリア大公フランツ・カールに、
ルドヴィカはバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフにそれぞれ嫁いで
その子供同士、すなわち皇帝フランツ・ヨーゼフとエリーザベト(シシィ)が
後に結婚することになりました。
ホントに入り組んでて素敵な家系図が書けますね!

エリーザベトは22歳の時にフリードリヒと結婚しました。
当時の王女としては晩婚なのではないかしら?

エリーザベトは、フリードリヒの知的趣味や芸術活動の良き理解者でしたが
1840年に夫が即位して王妃になると、政治的なことにも関わるようになります。
特に、オーストリアとの間に友好関係を築こうと精力的に活動しました。

ドイツは父王の時代にウィーン会議で連邦国家になっていましたが
まだ統一されていたわけではありません。
これは、大国を作るまいとするオーストリアの意向で
これに対してドイツ連邦では統一運動がおこりつつありました。

フリードリヒは、小ドイツ主義による国家統一を目指している最中の
1857年に脳卒中で倒れます。
エリーザベトは王弟ヴィルヘルム(後の1世)に政治を任せ
献身的な看護で夫の世話をしました。

1816年、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が亡くなると表舞台からは身を引き
慈善に奉仕しながら静かに暮らしました。
ヴィルヘルム1世は義姉を真の友人として尊重していたそうです。

1873年12月、エリーザベトはドレスデンの妹アマーリエを訪問中に亡くなりました。
アマーリエは10月に夫のヨーハン1世を亡くしているので
慰めに行ってあげたんじゃないかしら?
ふたりとも未亡人になったし、これからは気兼ね無しで会えるわね!って
募る話しをしていたんでしょうに…

プロイセンに運ばれ、夫の側に葬られました。

              
                 こちらの肖像画もどうぞ
                「お前に食わせるタンメンは…」に似てる気が…


(参考文献 坂井榮八郎氏『ドイツ史10講』 Wikipedia英語版)
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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世妃 ルイーゼ

2009-11-12 01:42:03 | ドイツ系王妃
ナポレオンを手こずらせた王妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世妃 ルイーゼ・アウグステ・フォン
                  メクレンブルク・シュトレリッツ


1776~1810/在位 1797~1810

ルイーゼの母フリーデリケ・カロリーネはヘッセン=ダルムシュタット家出で
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃フリーデリケの叔母にあたります。
だからルイーゼはフリーデリケの…なににあたるのかしら? はとこ? いとこだ。

メクレンブルク家も大変な名家のひとつです。
ルイーゼは父方で英国王室と、母方でフランス王室と繋がりがありました。

       

1793年、ルイーゼはフランクフルトで王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムに会いました。
ルイーゼの美しさと高貴さに魅せられた王太子は彼女に求婚して
ふたりはその年のうちに結婚しました。
これまで不幸な王妃が続いていますから、幸せな王妃に登場してもらいたいところですね。

ちなみに妹のフリーデリケもプロイセン王子ルートヴィヒと結婚しています。

結婚から4年後にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が即位します。
ルイーゼは王妃になると国民の尊敬と愛情を一身に集める存在になりました。

しかし世は激動の時代です。
プロイセンは1789年のフランス革命の後、マリー・アントワネットの処遇に憤っていた
オーストリアと手を組んで1792年から戦争に突入していました。
一度は講和を結んで中立の立場をとったものの、ナポレオンの勢力が拡大していた
1806年、何を思ったか宣戦布告しました。

この戦争はプロイセンの大敗に終わります。
ルイーゼはなんとか講和の条件を良くするために、個人的にナポレオンに訴えかけようと
あの手この手を駆使しますが失敗します。
プロイセンはティルジット条約で国土の大半を失う事になりました。

しかしルイーゼの果敢な行いは国民から多くの賞賛を浴びたそうですよ。
ナポレオンは戦争中、影響力が強いルイーゼの評判を打ち砕こうと試みましたが
結局プロイセン国民の反感をかっただけでした。

故郷のシュトレリッツに父を訪問している最中の1810年
ルイーゼは夫の腕に抱かれて亡くなりました。
34年の短い生涯でしたが、夫にも国民にも愛され、幸福な人生だったのではないかしら?

プロイセンはこの後ロシアと手を組み、打倒ナポレオンを主導します。
ナポレオンの前にひれ伏していたヨーロッパ各国もこの戦いに加わり
1814年にはナポレオンからの解放を勝ち取りました。

きっとルイーゼもこの勝利を夫とともに喜びたかったでしょうね。
一緒に戦ってきたんですもの。

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は愛人を持ったことはありませんでしたが
ルイーゼの死後アウグステ・フォン・ハラハという女性と貴賤結婚しています。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』
      坂井榮八郎氏『ドイツ史10講』 Wikipedia英語版)
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『ブラームスはお好き』夢の “けんかをやめて” 状態

2009-11-11 01:21:35 | フランスの作家
AIMEZ-VOUS BRAHMS… 
1959年 フランソワーズ・サガン

アラフォーのみなさーん、どちらの男性が好きですか?

ひとりは40歳をすぎて少しぽっちゃりしてきた男性。
運輸関係の会社を経営していて、外食や小旅行が好きなのね。
女性に人気がないわけではなく、ほどほどに自由を謳歌しています。

もうひとりは15歳年下の誰もが振り返る美青年。
母親が大金持ちで、弁護士事務所に勤めているものの仕事嫌いでさぼりがち。
自分の美貌はたまに利用するけれどプレイボーイではありません。

美貌の青年は捨て難いけど、社長の方が安心できるし… 迷ってしまいますね

39歳のポール(女性)はディスプレー・デザイナーです。
6年越しの恋人ロジェはポールにとって全てなの
いつも家で電話を待ち、やって来るのを待ち、なにもかも彼に合わせています。
彼女はどれだけロジェを愛しているか彼に分かってほしいと思っています。

ロジェもポールをとても愛しているんだけど、自由は捨てられません。
まだアヴァンチュールは楽しみたいからね。
そんなわけで浮気もするし約束もすぐ破る、やって来るのは気が向いた時。
でもひとつ弁解しておくと、最後にはポールと結婚しようと考えているんですよ。

自分の想いを正直に告げられないポールは商談先でシモンという年下の青年に出会いました。
ものすごい美形のシモンは突然ポールに惹かれて彼女につきまといます。
ロジェがいようがおかまいなしで熱い目を注ぎ続けてきます。

なんだかんだ言って「やっぱり君しかいない」と言ってくれる心から愛する男性と
まるで女神のように崇めてくれて、自分を深く愛している青年との板ばさみ、
な、なんてマーヴェラス!なシチュエイションでしょうねっ!!

はたから見てれば羨ましいこんな状況も、本人にしてみたら苦しいらしい…
ポールはどちらを選ぶべきか苦悩します。
というより、もうどちらを選ぶかは決まっているのだけれど
どうしたらもうひとりにさよならができるかが分からなくなってしまうのね。

ポールは美しくてキャリアもあり、街を自由に闊歩するパリジェンヌに見えるのに
実はかなりおくゆかしい男性依存型タイプに思えるのよね。
ロジェのわがままには逆らわず、浮気も(涙をかくして)笑って許す
シモンの甘えも容認して、寂しそうな顔にはめっぽう弱い、という
男性にとっては天使のような女性… “ 都合がいい女 ” と言えなくもない。

でもはっきりさせなければならない時はやってきます。
ポールは自分にとってどちらが大切なのか、結論を出します。

相手を傷つけること無くお別れが言いたいし、できたら最後まで嫌われたくはない。
そして自分は幸せになりたい…
そんな女性好みのきれいごとを笑い飛ばすエンディング、に思えました。

サガンを続けて読んでいると、本気の恋愛に上手も下手もないものねぇ…
と考えさせられちゃうわ。
サガン、この時24歳。
酸いも甘いもよく分かっていらっしゃる…

ブラームスはお好き 新潮社


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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 フリーデリケ

2009-11-08 11:48:41 | ドイツ系王妃
風変わりな王妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 フリーデリケ・ルイーゼ・フォン
                    ヘッセン=ダルムシュタット


1751~1805/在位 1786~1797

フリーデリケは、またまたフリードリヒ大王が
エリーザベトと離婚したフリードリヒ・ヴィルヘルムの妃にと選んだ女性です。
ヘッセン=ダルムシュタット家… こちらも名家ですね。

      

再婚は離婚から数ヶ月に無理矢理行われたもので、またもや不幸なものでした。
フリードリヒ・ヴィルヘルムにはすでに多数の愛人がいて
とりわけヴィルヘルミーネ・エンケという強力な愛妾にのめりこんでいました。

フリーデリケは8人の子供と、前妃エリーザベトの娘の教育などに
力をそそいで過ごしたようです。

フリーデリケは一風変わった女性でした。
たとえば、幽霊や幻が見えると言って、昼間寝て夜は起きているという
昼夜逆転の生活を送ってたらしいですよ

それからまったく愛嬌が無かったとも言われています。
でもものすごく気前は良かったらしいのよね。
無愛想で気前が良い… 実はいい人っていうパターンかしら?

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の死から8年後にベルリンで亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 エリーザベト

2009-11-07 09:54:31 | ドイツ系王妃
駆け落ちを図った王太子妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 エリーザベト・クリスティーネ
          フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク


1746~1840/在位せず

エリーザベトの母はフリードリヒ大王の妹シャルロッテ・フィリッピーネで
大王直々に姪のエリーザベトを後継者の花嫁に選びました。
後継者のフリードリヒ・ヴィルヘルムも大王の甥でエリーザベトとはいとこ同士
舅と姑はおじ、おばという一族をあげての縁談でした。

       

けれどもこのふたりの結婚も不幸なものでした。

名君の後の王はしおしおになるパターンが多いのですが
フリードリヒ・ヴィルヘルムはポーランドも手中に収めるなど
強大なプロイセンをさらに強くしていきます。

戦争に強い英雄のご多聞にもれず、生涯に多数の愛人を持ちましたが
新婚当初から妻に不誠実だったようです。

フリードリヒ大王は早く嫡子を生めとやいのやいの言ってきますが
女の子が生まれたことでふたりにはさらにすきま風が…

夫から無視され、傷ついたエリーザベトは「わたくしも」と
音楽家やポツダムの将校たちと浮気を始めます。
夫に対抗して自分も浮気を…という妃は多いのですが
あまりいい結果をもたらしたことはないような気がするんですけどね…

エリーザベトは1769年に妊娠し一大スキャンダルになります。
しかも、駆け落ちをしようとした相手の男(不明)には裏切られてしまいます。

エリーザベトは離婚を言い渡されて、ポーランドのシュチェチン城に監禁されました。
居心地には配慮があったようですが監視がついていました。
娘のフリーデリケ・シャルロッテにはその後会う事はありませんでした。

1774年からは、夏になるとシロンスクの古風な修道院で過ごすようになり
1786年にはフリードリヒ大王が亡くなって監視はゆるむものの、ずーっと監禁状態です。
離婚したなら自由にさせてあげればいいじゃない?

1810年に町がフランス軍に占領されるとエリーザベトは市外の小さな村に移りました。

結局71年にわたり囚われの身で過ごしたエリーザベトは94歳で亡くなりました。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は40年以上も前に亡くなっていたし
兄弟姉妹もこの世にはいませんでした。

エリーザベトは誰とも一緒に葬られなくてすむように、自ら墓の準備をしていました。
希望どおり埋葬されたのですが、その後クラクフの大聖堂に移葬されています。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『レディたちのフィンバーズ・ホテル』昨日の私にサヨナラ

2009-11-05 01:38:23 | イギリス・アイルランドの作家
LADIE'S NIGHT AT FINBER'S HOTEL 
メイヴ・ビンチー/クレア・ボイラン/エマ・ドナヒュー/アン・ハヴァーティ
エリシュ・ニ・グウィヴナ/ケイト・オリオーダン/ディアドラ・パーセル

いざとなったら、男性より女性の方が思い切りがいいんじゃないかしら?と
思っているわたくしですが、この本はあたかもその考えを
証明してくださっているようです。

舞台はオランダ人のロック歌手とダブリン出身の妻フィオナによって
スタイリッシュに生まれ変わったフィンバーズホテル。
スタッフも一新し、客層もずっとアッパーになったようです。

『101号室 微妙な問題』
シアトルから飛んで来た大企業重役のサラが望むものは子供だけ。
そこで友人カーメルの夫ポウドリクから精子をもらうことにしました。
フィンバーズホテルで…しかもスポイトで…

『102号室 ジャジャジャ・ジャーン』
ニューヨークで成功したデザイナーポピーが、初めてアイルランドで開く展示会まで
あと2時間しか無いというのに、問題を山ほど抱えた父がやって来ます。
過去を振り返る旅の途中だと言う父は、狂気とともに居座るつもりでしょうか?

『103号室 債券取立屋』
結婚式を挙げるためニューヨークから帰国したロニーは、ロビーでばったり
昔の恋人ニールに会ってしまいました。
彼と同棲したためにボロボロになった彼女に、ニールはなれなれしく話しかけてきます。

『104号室 天の賜物』
修道女パッツィは、列車で会ったジムという男と会うためにホテルへやって来ました。
彼女は宝くじで大金を当ててから貞節の誓いを破り続けているのです。

『105号室 マスターキー』
オランダから帰国したデッタは、昔フィンバーズホテルでアルバイトをしていました。
彼女はその時愛し合ったコナーとの間に人知れず生まれた息子に会いに来たのです。
ところが、バーに行くと昔の従業員たちが集結しているではありませんか!

『106号室 ピュー夫妻の結婚』
エミリー・ピューは3ヶ月前まで幸せでした。
でも、夫の度重なる出張が嘘だと分かった時から不幸のどん底です。
エミリーは夫の部屋に入り荷物を調べることにします。

『ペントハウス ターザンのアイリッシュ・ローズ』
何十年も前にターザンのヒロインを演じたネリ・オマーラは
役を得るためになけなしの金をはたいてダブリンへ帰って来ました、が
バーで昔の恋人でターザン役のハーヴェイに遭遇すると
役は他の女優に決まったと聞かされました。

かなり強引な想像ですが、完全にリゾート目的のホテルならいざしらず
都会の高級ホテルには怪しくて不埒なことがうずまいていそうですよねっ?

前作の『フィンバーズ・ホテル』 より成功者や有名人が集っているようですが
やはり各部屋の宿泊者は悩みやトラブルを抱え、微妙に絡み合って
素敵な一夜を見せてくれます。

でも主役の女性たちは、どうやら翌日には悩みなど無かったかのように
パワフルに華麗にホテルから飛び出して行けそうです。
ハッピーエンドではなくてもポジティブエンディングって感じかしら?

けっして若くはない女性たちのアグレッシブな生き方、見習わないとね
とは言ってもすっかり腰が重くなっちまって…

小さな勇気をもらえるかも…
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


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プロイセン王フリードリヒ2世妃 エリーザベト

2009-11-04 00:15:50 | ドイツ系王妃
完全に無視された王妃
フリードリヒ2世妃 エリーザベト・クリスティーネ・フォン
          ブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ベーヴァン


1715~1797/在位 1740~1786

フリードリヒ2世は、父王から引き継いだ軍事力を用いて戦功をあげ
母ゾフィアから受け継いだアカデミックな部分も活かして学術を奨励しました。
また、農民保護、産業振興、税金政策、国土開発に入植政策などを行い
啓蒙専制君主として名高い人物です。

フリードリヒ大王とも呼ばれた名君。
だのに、女性に対しては学習能力がなさ過ぎじゃなくて?

フリードリヒ2世妃エリーザベトは、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公
フェルディナント・アルベルト2世の公女です。
名家同士の結婚式は、1733年、エリーザベトの父の地所であるザルツダーラムで
牧歌劇やオペラなども開催して盛大に行われました。

家系図からも分かるように兄弟姉妹3組が婚姻関係を結んでします。
双方に強い結びつきが必要だったようですね。

       

ところがフリードリヒはこの結婚には不本意でした。
式の後ふたりでラインスブルク城に移りますが、すぐにエリーザベトを無視し
その後もずっと相手にしませんでした。

1740年に父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が亡くなって即位すると
フリードリヒ2世は直ちに行動を開始します。
エリーザベトにショーンハウゼン宮殿を贈り別居しました。
どうやら恐ろしい父王に無理矢理おしつけられた結婚みたいですね。
積もり積もった反抗心をエリーザベトにぶつけたのかもしれません。

その後ふたりは訪ね合うことも無く、行事の場でしか顔を会わせませんでした。

オーストリアとの7年戦争の間、エリーザベトはザクセンのマグデブルクに
避難するように強いられました。
戦争後6年ぶりに会ったエリーザベトに対してフリードリヒがかけた言葉は
「太ったね」のひと言だけだっていうのよ! どう思います?

ひどいよね
ゾフィアが不幸な結婚生活に泣いている姿を目にしていながら
自分の妻を同じ目にあわせるとは、どういう神経の持ち主でしょ?
父王は横暴、フリードリヒはネグレクトと方向性は違うとはいえ
女性に対して冷徹ではありませんか?

エリーザベトは文学好きで、道徳に関する本をフランス語で書いたりしています。
それから絹の培養をプロイセンに広めました。
実は聡明で王のサポートも立派に果たせる女性だったんじゃないかしらね?

フリードリヒ2世が亡くなった1786年以降のことは詳しく分かりませんが
13年後の1797年に亡くなりました。

結婚から53年間、まったく夫に顧みられることのない毎日なんて悲しすぎる。
いやなら離婚すりゃあいいのにね!
そうしたらエリーザベトだって再婚できたのに。

ふたりの間には子供がいなかったので
フリードリヒ2世の弟アウグスト・ヴィルヘルムと
エリーザベトの妹ルイーゼの子、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が即位しました。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』
      坂井榮八郎氏『ドイツ史10講』 『Wikipedia英語版』)
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神田古本市に行ってきました

2009-11-04 00:02:07 | もろもろ
いつもながら、気がついたら最終日 というわけで
神田古本市に行ってきました。

掘り出し市は11月1日で終わっていたのですが
最終日ということで各店20~50%オフをやっていて燃えました。

いやがる旦那さんを無理矢理連れて行き、神田のじゃんがらラーメンで腹ごしらえ。
しかし、発売時の定価を上回るものには旦那の厳しいチェックが入りまして…

それからモンゴメリの『アボンリーへの道』の原作もあったのですが
なにしろ20冊ぐらいに(しかもハードカバーで)なるのであきらめました。
字がでっかいのよね~、字を小さくして冊数を減らしてほしいのよ。

てなわけで本日の戦利品です。
ゾラを探していたのですが安価で手に入ったのは『制作』だけ。
あとはヘッセとかドストエフスキー、歴史関係を2冊ほど購入。

あ、松下幸之助の本は旦那さんので、私は苦手なジャンルです
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