まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『イワン・デニーソヴィチの一日』昨日も、今日も、明日も…

2009-11-14 01:43:44 | ロシアの作家
ОДИН ИЕНЬ ИВАНА ДЕНИСОВИЧА 
1962年 アレクサンドル・イサエヴィチ・ソルジェニーツィン

この物語は素晴らしい!! と、いくら私が書いたところで
その素晴らしさを伝えるのはどだい無理だと分かっています。
しかし書かずにはいられない。

政治犯として収容所に服役しているイワン・デニーソヴィチ(シューホフ)の
朝5時の起床から夜10時過ぎの就寝までを描いた、本当にたった一日のお話なのです。

極寒のソ連の収容所がどんなに過酷か? 私には分かりません。
零下何十度の荒野、つぎはぎだらけの囚人服、ほとんど実の無いスープの食事…
人が思い描けるだけの無慈悲さは存分に書かれています。
賄賂、密告、たかりなどの呆れた行状だって驚くには値しません。

胸にぐっとくるのは、こんな一日がずっと続いてきたことと
これからもずっと続いていくのが分かっていることです。

服役囚のほとんどは、政治犯とはいっても戦争中捕虜になっていたことや
たったひとこと不用意な発言をした、反政府派にミルクを運んだだけ、という
些細な理由で10年(途中から25年)の刑をくらっている人たちです。
刑が終わっても運が良くなければ再び収容されたり流刑になる恐れは充分にあります。

今日を生き抜くためだけを考えて過ごす一日の恐ろしさ… 想像できません。
ましてやそんな日が何年も続くなんて、考えただけでどうにかなりそう。

それなのにシューホフは一日の終わりにベッドの中で
「今日は幸せな日だったなぁ」と思うのです。

上手くやって朝も夜も一皿(水みたいなスープを)多く食べられました。
ブロック積みの仕事も楽しくはかどりました。
営倉(独房)にも入らずにすみました。

“ 美しい ” と言ってはいけないかしらね?
それでも、何日も風呂に入っていない男たちが繰り広げる日常を淡々と書き綴った
この物語が清らかに思えてなりません。

人は生きることを選ぶ、生きるためにはなんでもやる、という
ギリギリの日常が展開されているにもかかわらず
必死さの裏にある心のゆとりや労働の喜びに胸うたれます。

テレビ等で目にする強制収容所の、救いの無い映像が脳裏にちらつきつつ
どっこい俺たちは生きてるぜ! という主人公たちのたくましさに
小さな希望と喜びが見いだせた物語でした。

だからといって強制収容所があっていいということにはなりませんけどね。

イワン・デニーソヴィチの一日 新潮社


このアイテムの詳細を見る

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世妃 アウグスタ

2009-11-14 01:43:30 | ドイツ系王妃
ビスマルクを敵にまわした皇后
ヴィルヘルム1世妃 アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマール


1811~1890/在位 1861~1888

ヴァイマール=アイゼナハ大公カール・フリードリヒと
ロシア皇帝パーヴェル1世の皇女マリア・パウローラを両親に持つ公女アウグスタは
画家から絵を習ったり、指揮者から音楽を学んだりと幅広い教育を与えられた少女でした。

15歳の時に従兄弟のヴィルヘルムと会っています。
その時ヴィルヘルムははとこのエリーゼと愛し合っていたので
縁談はでなかったのではないかと推測しますが
アウグスタはヴィルヘルムに想いを寄せたみたいなのね

        

ではなぜアウグスタにヴィルヘルムとの縁談が舞い込んだかと言うと
兄の王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後の4世)になかなか跡継ぎが生まれず
ヴィルヘルムに王座がまわってくる可能性がでてきたからです。

そうすると一介のポーランド貴族の娘エリーゼではプロイセン王妃には不十分という
父王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の考えでアウグスタに白羽の矢がたったわけです。

アウグスタは幸せ一杯で結婚を承諾したのですが
ヴィルヘルムはエリーゼに心残りがありました。
妹のロシア皇帝ニコライ1世妃アレクサンドラ に宛てた手紙には
“ エリーゼは心から愛せるただひとりの女性。
 アウグスタは可愛らしく聡明だが熱くなれない ” なんてぇことを書いています。

しかもエリーゼは他の男性と婚約した後亡くなっちゃうのよ。
男性にとっては一生の心の恋人ですよね?
こんな女性を抱えている男性はやっかいですよー

1829年、18歳のアウグスタは32歳のヴィルヘルムと結婚します。
ヴィルヘルムの愛妾や多大な圧力からか、やはりハッピーな結婚ではなかったようで
アウグスタは1840年頃から狂乱状態になることがありました。

アウグスタは政治への関心が高くて自由主義を好んでいました。
革命後のコブレンツ滞在中には進歩主義者や革新派と親交を深め
1861年にヴィルヘルムが即位すると多くの知人が入閣しました。

でもそれもビスマルクが表れるまで…
即位から数ヶ月後、ヴィルヘルムは自由主義中心の議会を解散し内閣を組閣します。
首相はオットー・ビスマルクで、王から政治的信頼を得ていた人物。
アウグスタはビスマルクを敵視するようになります。

案の定ビスマルクはアウグスタに批判的な意見を議会で述べるようになり
妻のヨハンナも皇后に対して無礼な態度をとったりします。
夫ヴィルヘルムまでが首相に同調したことでアウグスタの狂乱は重くなりました。

それでも、孫のヴィルヘルムは見込みあり!と思ったのか自ら教育しようとしました。
また戦争が嫌いで、ナイチンゲールの意見を取り入れて全国婦人連合を設立しました。
活動的な女性だったみたいですね。
政治には口を出さず慈善とか教育や芸術の振興など
王妃らしい活動に力を入れていたら、ビスマルクも黙っていたかもしれないですね。

1866年と1870年の戦争を経てヴィルヘルムはドイツ皇帝になり
アウグスタも皇后になりましたが、ビスマルクによって葬り去られていました。
そんな彼女がふたたび表舞台に姿を表したのは1888年、孫のヴィルヘルム2世即位後です。
夫ヴィルヘルム1世は1888年に80歳で亡くなり
息子フリードリヒ3世が即位したものの、99日後に癌で亡くなってしまったのです。
ヴィルヘルム2世は、「気が合わない!」ということでビスマルクを早々に追いやりました。

1890年、69歳で亡くなったアウグスタ。
愛する孫の戴冠も見られたし、27年におよんで自分を追いやっていた
ビスマルクもいなくなって、最後の最後は幸せだったんじゃないでしょうか?

ただアウグスタには幸せでも、それがドイツのために良かったのかどうかは… つづく

(参考文献 阿部謹也氏『物語ドイツの歴史』 Wikipdia英語版)

物語 ドイツの歴史 中央公論社


このアイテムの詳細を見る

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする