まりっぺのお気楽読書

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ポーランド公カジミェシュ1世妃 マリア

2013-02-10 20:56:46 | ポーランド王妃
出生の謎が歴史家の心をくすぐる
カジミェシュ1世妃 マリア・ドブロニェギエワ


1012~1087/在位 1040~1058

ミェシュコ2世から王位を奪ったボレスワフ1世の庶子扱いの長男ベスプリムは
未婚でお子様がいませんでした。

その後混乱のポーランドを再統一したカジミェシュ1世の妃マリアは
キエフ大公ウラジーミル1世公女です。

ウラジーミル1世は7回結婚していて、その上愛妾も幾人かいたようで
嫡子・庶子がワラワラおりました。
なのでマリアの母親ははっきりわかっていません。
正妻のお子様だとすると、生年からいって
7人目の妃、オットー大帝の孫娘がお母さまってことになるのですかね?

メルゼブルク主教の記録によると、カジミェシュの祖父ボレスワフ1世は
1018年にキエフに侵攻した際に、ウラジーミル1世の未亡人を誘拐したそうで
マリアはその人の娘?
ボレスワフ1世はウラジーミル1世の娘を愛妾にしてたりするんですが
戦争の勝ち負けによって女性を獲ったり獲られたり… ヒドい話しよね

長い間謎だった誘拐された未亡人は、近年シュヴァーベン公コンラート1世と
エディス・オブ・エセックスの公女ではないかと言う説があるそうです。
エディスはオットー大帝妃になる前にコンラートと結婚してたってこと?
オットー大帝と結婚したのが19歳だけど、その前に?
解決するどころか謎が深まってますな…
        
出生の謎はさておき、マリアは1040年頃にカジミェシュと結婚しました。
ミェシュコ2世亡き後右往左往している継承権を取り戻すため
キエフ大公ヤロスラフ1世と同盟を結んだためです。
この同盟のおかげでカジミェシュは継承権を取り戻すことができましたが
王にはなれませんでした。
神聖ローマ帝国が認めてくれなかったのかしらね?

1058年にカジミェシュ1世が亡くなって長男ボレスワフが王に即位します。
ボレスワフ2世はピァスト家の中で最も王の資質があると言われていたそうですが
ちょっと冷徹な人だったのね。
そこで反旗が翻り1079年に廃位・追放されました。

その後次男ヴワディスワフが継いでますので
異母兄妹の争いの場合と違い、マリアはポーランドから去らずともすんだようです。
1087年に76歳か77歳で亡くなりました。

マリアの周りの男性陣はかなり波瀾万丈な人生を送っているのですが
彼女自身のパーソナリティは、やはり全く垣間見えないですね。

夫も息子たちも王位をめぐって相当ハードな人生を送っているので
影で力強く支えた女性ってことにしときますか?

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
職場のRちゃんと、SHINeeの正規3集&日本語シングル『Fire』発売を指折り数えて待っている今日この頃。
3集のキー、テミン、ジョンヒョン、ミノは見たんだけど… オニュのイメージはまだかいな? 明日かな?

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2 コメント

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Unknown (エカテリーナ)
2013-02-12 00:32:00
歴史の謎って惹かれますよね。中世って資料が少ないし、その資料もあまり信憑性がないけど、逆に想像の余地がたっぷりありますし。まぁ、私は中世に詳しくないので何とも言えないのですが‥^^; マリアは、時代のわりに平穏な生涯だったようで、私もちょっとホッとしました。強さだけでなく、強運の持ち主だったようですね。
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こんばんわ (まりっぺ)
2013-02-13 22:23:35
エカテリーナさま、こんばんわ

本当に中世の女性については研究家になるとかラテン語が読めるとかじゃないと、一般人には資料がないですよね。
Wikipediaありがとう!

中世初期のお姫様たちは結婚も命がけだったのね…ということはなんとなくわかりました。
エピソードが少ない方が、もしかして幸せなお姫様だったのかもしれませんね。
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