まりっぺのお気楽読書

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ポーランド王ジグムンド1世妃 ボナ

2015-08-06 19:43:08 | ポーランド王妃
The スフォルツァ家の女性! って感じ(思いこみだけど)
ジグムンド1世妃 ボナ・スフォルツァ


1493~1557/在位 1518~1548

愛しいバルバラ・ザポリャを若くして亡くしたジグムンド1世なんですが
後継ぎの王子もほしいし…いつまでも悲しんでいるわけにはいきませんね。
というわけで、3年後に再婚したのはイタリアのスフォルツァ家のボナでした。

ボナは、ミラノ公ジャン・ガレアツォ・スフォルツァの公女でした。
           
父ジャンはミラノ公といえ、大叔父で摂政のルドヴィーコから領地を取り上げられ
成人に達してからもその状況は変わりませんでした。
そのためジャンの子供たちも、ジャンが25歳で亡くなるまで
ルドヴィーコの保護下におかれていました。

ジャンの死はルドヴィーコの毒殺だという噂が流れる中
ルドヴィーコはジャンの妻子をミラノから遠ざけることにして
ボナの母イサベッラ・ディ・ナポリにバーリの領地を与えます。

バーリで政治力の強化と以前の領土を取り戻そうとしていたイサベッラは
強力な後ろ盾がほしくてボナの婿選びに本腰を入れます。
(長女と次女はお年頃になる前に亡くなりました)
ジグムンドとの縁談は1518年に実現しました。

さてボナなんですけど、父ジャンが亡くなったのは1歳の時なので
母イサベッラの意向だと思うのですが、かなり高い教育を与えられていました。
歴史・法律・経営学・神学など、後継ぎの男の子が学びそうなことばかり。
ボナは13歳にして経済観念があり、人々への影響力も持っていたといいます。

そんなだから、結婚後もさっそくポーランドで政治的なポジションを得ようとします。
ジグムンドが穏やかで静かだったのにくらべ、ボナは精力的で短気でした。
自分好みにポーランドのしきたりを変えようとして、ジグムンドと気が合わず
何度も諍いをおこしました。
ボナは自分の意志を実行するために自ら莫大な資金調達をしていますし
時には王そっちのけで外国と交渉したりしています。

仲悪そう… とはいっても、当時の王と王妃の最大の仕事は後継者を作ること!
ボナは結婚から8年の間に5人のお子様を生んでいます。
ただ王子はジグムンドのみ… これでは心細いですね。

で、1527年、再び妊娠したんですが、馬に乗っていて落馬し男の子を死産しました。
ボナはこの後子供が生めないようになってしまい、継承者はジグムンドに絞られます。

1529年、ボナは、自分が奔走して手に入れたリトアニアで息子ジグムンドを戴冠させました。
これにはかなりのポーランド貴族が反発したようです。

どうやら夫を尻に敷き子供にも影響力大だったと思われますね。
ジグムンドが、自分が気に入らないバルバラ・ラジヴィウヴナと再婚した時は
先頭に立ってラジヴィウ家を批判していました。
後にバルバラが亡くなった時にはボナが毒殺したのでは? と疑われました。

1548年、ジグムンド1世が亡くなると、息子ジグムンド2世が即位しましたが
ボナはマゾヴィアへ移り8年ほど暮らした後、故郷バーリに戻りました。

バーリに戻ってから1年後、ボナは信頼していたジャン・ロレンツォ・パッパコーダに
毒を盛られて亡くなります。
これは、スペインのフェリペ2世が、ボナに負っていた多額の借金を返したくないなぁ…と
パッパコーダに毒殺を命じたためだそうです。
さてはボナがやっていた資金調達って高利貸しとか?

ポーランドではなく、バーリの聖ニコラス教会に葬られました。

ちなみに、ボナの長女イザベラ
ハンガリー対立王サポヤイ・ヤノーシュ妃になっています。
            
四女カタジナは、スウェーデン王ヨハン3世妃です。

             
            美しい乙女だったボナも、激しい政争のせいか…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことクラフトコーナー
いとこ二人に相次いで女の子が誕生したので、お祝いにじんべいを作ってみました
小さいからちょちょいっとできちゃうかと思ったら、パーツが多くて裁断から時間かかった… でも小さいものって可愛いね

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