逃亡をこころみた王妃
アレグザンデル妃 ヘレナ・モスキエヴスカ
1476~1513/在位 (リトアニア大公妃)1495~1506 (ポーランド王妃)1501~1506
ヴワディスワフ3世の後を継いだヤン1世は未婚だったのか王妃の名が発見できず
いずれにしても嫡子がいなかったので、弟のアレグザンデルが継承しました。
そんなアレグザンデルの妃になったのは、モスクワ大公イヴァン3世公女です。
ヘレナの母親ソフィーヤ・パラエオロジナは
ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティン11世の姪にあたるという由緒正しさです。
幼い頃のヘレナについてわかっているのは、モスクワ育ちだということと
教養があるとても美しい子だったということぐらい。
8歳の時に一度、ポーランド王カジミェシュ4世王子との縁談がもちあがりました。
相手はまだ未定でしたけど…
ポーランドはオスマントルコに対抗するための同盟国を探していて
ロシアに目をつけたわけですね。
1942年にカジミェシュ4世が亡くなると、ロシアはリトアニア大公国に侵攻を開始します。
ポーランドはヤン1世が、リトアニアはアレグザンデルが継承していました。
アレグザンデルは和平のためにヘレナと結婚することにします。
ヘレナはロシア正教の敬虔な信者で、カトリックへの改宗を拒んでいます。
イヴァン3世も、リトアニアのヴィリニュス城にロシア正教の教会を建てるように
条件を出していて、アレグザンデルはこの条件を呑んだようです。
アレグザンデルはカトリック信者ではないヘレナとの結婚のために
ローマ教皇アレクサンデル6世から特別な許可を得ました。
結婚式はカトリックとロシア正教のミックスで行われたようで
ヘレナはロシアの民族衣装を着て式に出ています。
でもアレグザンデルの母エルジェピタ・ラクシャンカは、この頑固な嫁が気に食わなかったか
わざと結婚式に遅れたりしています。
早くも垣間見える嫁姑の諍いの兆し… こわいわ~
戴冠式はカトリックの儀式にのっとって行われるため、ヘレナは戴冠していません。
義母エルジェピタはヘレナに改宗するように圧力をかけ続けますが、ヘレナはこれを拒否。
たぶん、嫁ぎ先より実家の方が力が上だという奢りもあったんでしょうね。
エルジェピタは、言うことを聞きやしない嫁だけでなく、一緒に説得しようとしない
息子アレグザンデルにも怒りをぶつけます。
アレグザンデルにしてみりゃ「めんどくさいなぁ~、もうっ」って気分だったしょうね。
一方でヘレナは、カトリック貴族や聖職者たちと争う気はありませんでした。
静かに好きな祈りをあげさせてあげればいいじゃないね。
幼い頃は父親の言いなりだったらしいヘレナに対してイヴァン3世は
政治的策略渦巻く手紙を送りつけてきましたが、ヘレナは手を貸すことはしませんでした。
アレグザンデルに対しては忠実で従順な妻だったみたいです。
もともと素直で従順な人だったようですね。
エルジェピタに対してだけ頑なだったのかしら?
しつこかったんじゃないの~? エルジェピタ。
ヘレナは2回妊娠しましたが両方とも流産してしまい、子供が生めなくなりました。
当時の王だったら、それを理由に離婚することもできたと思うんだけど
アレグザンデルはそうしませんでした。
政略結婚ではありましたが、夫婦の仲は良かったみたいです。
アレグザンデルもなんとなく寡黙で争い嫌いなタイプに見えるものね。
戦争弱かったみたいだし…
1506年、アレグザンデルが45歳の若さで病になり亡くなりました。
30歳のヘレナは、モスクワに帰ることを希望しましたが、ポーランド貴族たちは
恰好の人質であるヘレナを帰そうとはせず、ワルシャワに住まわせました。
アレグザンデルの後は、弟のジグムンド1世が継いでいました。
ヘレナとジグムンドの付合いは冷えきっていて儀礼的なものでした。
絶対に兄嫁としていたわっていたとは思えないわ。
ジグムンドがそうだったってことは、他の宮廷人もそうしてた可能性が大きいですよね。
かわいそうに… 帰してあげなよぉ
1511年、ヘレナは再びモスクワに帰ることを願い出ましたが
ジグムンドは許しませんでした。
当時はリトアニアとモスクワの間がまたまた緊張していたんですけど
モスクワ大公はヘレナの兄ヴァシーリィ3世でした。
ヘレナはこっそりモスクワに帰ろうと決心して計画を立てましたが
これが失敗に終わり、トラカイで捕まってしまいました。
おぉぉ~、どうなってしまうの?
ヘレナはアレグザンデルの死後もヴィリニュス城で暮らしていましたが
脱走失敗後はトラカイやビルシュトナスで足止めさせられました。
この待遇に、兄ヴァシーリィ3世が激怒したため収監はされませんでしたが
やはり帰してもらうことはできませんでした。
たぶん、監視とかついて幽閉生活を送らされていたんじゃないかしら?
1513年、ヘレナは急に亡くなります。
リトアニアの廷臣による毒殺だと言われています。
お金を盗もうとして殺されたという説もあります。
どちらにしても、ありえないわけじゃないし、せつない話しですが
ヘレナが殺されたのじゃなくて、ストレスから急死した聞かされても驚かないわ。
ヴィリニュスのセオトコス大聖堂に葬られました。
アレグザンデルはヴィリニュス大聖堂に葬られています。 二つは別ものみたい。
せっかく同じ土地なんだから、一緒に葬ってあげられなかったのでしょうか?
ヘレナみたいな王妃はたぶんたくさんいたはずです。
そういう王妃は、記録が無かったり、かなり短い記述で終わっている場合が多いので
少しでも晩年の不幸な様子が残っていてよかったです。
よかった… というのもなんですが、少しでも慰めてあげることができるものね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことK-POPコーナー
テソンのヘアスタイルが… 歌っている時はステキなんだけど、しゃべってるとワカメちゃんみたいに思えてきて…
かわいいんですけどね… LOSERのMVは痛そうで痛そうで何度見ても涙が出ちゃうよ
アレグザンデル妃 ヘレナ・モスキエヴスカ
1476~1513/在位 (リトアニア大公妃)1495~1506 (ポーランド王妃)1501~1506
ヴワディスワフ3世の後を継いだヤン1世は未婚だったのか王妃の名が発見できず
いずれにしても嫡子がいなかったので、弟のアレグザンデルが継承しました。
そんなアレグザンデルの妃になったのは、モスクワ大公イヴァン3世公女です。
ヘレナの母親ソフィーヤ・パラエオロジナは
ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティン11世の姪にあたるという由緒正しさです。
幼い頃のヘレナについてわかっているのは、モスクワ育ちだということと
教養があるとても美しい子だったということぐらい。
8歳の時に一度、ポーランド王カジミェシュ4世王子との縁談がもちあがりました。
相手はまだ未定でしたけど…
ポーランドはオスマントルコに対抗するための同盟国を探していて
ロシアに目をつけたわけですね。
1942年にカジミェシュ4世が亡くなると、ロシアはリトアニア大公国に侵攻を開始します。
ポーランドはヤン1世が、リトアニアはアレグザンデルが継承していました。
アレグザンデルは和平のためにヘレナと結婚することにします。
ヘレナはロシア正教の敬虔な信者で、カトリックへの改宗を拒んでいます。
イヴァン3世も、リトアニアのヴィリニュス城にロシア正教の教会を建てるように
条件を出していて、アレグザンデルはこの条件を呑んだようです。
アレグザンデルはカトリック信者ではないヘレナとの結婚のために
ローマ教皇アレクサンデル6世から特別な許可を得ました。
結婚式はカトリックとロシア正教のミックスで行われたようで
ヘレナはロシアの民族衣装を着て式に出ています。
でもアレグザンデルの母エルジェピタ・ラクシャンカは、この頑固な嫁が気に食わなかったか
わざと結婚式に遅れたりしています。
早くも垣間見える嫁姑の諍いの兆し… こわいわ~
戴冠式はカトリックの儀式にのっとって行われるため、ヘレナは戴冠していません。
義母エルジェピタはヘレナに改宗するように圧力をかけ続けますが、ヘレナはこれを拒否。
たぶん、嫁ぎ先より実家の方が力が上だという奢りもあったんでしょうね。
エルジェピタは、言うことを聞きやしない嫁だけでなく、一緒に説得しようとしない
息子アレグザンデルにも怒りをぶつけます。
アレグザンデルにしてみりゃ「めんどくさいなぁ~、もうっ」って気分だったしょうね。
一方でヘレナは、カトリック貴族や聖職者たちと争う気はありませんでした。
静かに好きな祈りをあげさせてあげればいいじゃないね。
幼い頃は父親の言いなりだったらしいヘレナに対してイヴァン3世は
政治的策略渦巻く手紙を送りつけてきましたが、ヘレナは手を貸すことはしませんでした。
アレグザンデルに対しては忠実で従順な妻だったみたいです。
もともと素直で従順な人だったようですね。
エルジェピタに対してだけ頑なだったのかしら?
しつこかったんじゃないの~? エルジェピタ。
ヘレナは2回妊娠しましたが両方とも流産してしまい、子供が生めなくなりました。
当時の王だったら、それを理由に離婚することもできたと思うんだけど
アレグザンデルはそうしませんでした。
政略結婚ではありましたが、夫婦の仲は良かったみたいです。
アレグザンデルもなんとなく寡黙で争い嫌いなタイプに見えるものね。
戦争弱かったみたいだし…
1506年、アレグザンデルが45歳の若さで病になり亡くなりました。
30歳のヘレナは、モスクワに帰ることを希望しましたが、ポーランド貴族たちは
恰好の人質であるヘレナを帰そうとはせず、ワルシャワに住まわせました。
アレグザンデルの後は、弟のジグムンド1世が継いでいました。
ヘレナとジグムンドの付合いは冷えきっていて儀礼的なものでした。
絶対に兄嫁としていたわっていたとは思えないわ。
ジグムンドがそうだったってことは、他の宮廷人もそうしてた可能性が大きいですよね。
かわいそうに… 帰してあげなよぉ
1511年、ヘレナは再びモスクワに帰ることを願い出ましたが
ジグムンドは許しませんでした。
当時はリトアニアとモスクワの間がまたまた緊張していたんですけど
モスクワ大公はヘレナの兄ヴァシーリィ3世でした。
ヘレナはこっそりモスクワに帰ろうと決心して計画を立てましたが
これが失敗に終わり、トラカイで捕まってしまいました。
おぉぉ~、どうなってしまうの?
ヘレナはアレグザンデルの死後もヴィリニュス城で暮らしていましたが
脱走失敗後はトラカイやビルシュトナスで足止めさせられました。
この待遇に、兄ヴァシーリィ3世が激怒したため収監はされませんでしたが
やはり帰してもらうことはできませんでした。
たぶん、監視とかついて幽閉生活を送らされていたんじゃないかしら?
1513年、ヘレナは急に亡くなります。
リトアニアの廷臣による毒殺だと言われています。
お金を盗もうとして殺されたという説もあります。
どちらにしても、ありえないわけじゃないし、せつない話しですが
ヘレナが殺されたのじゃなくて、ストレスから急死した聞かされても驚かないわ。
ヴィリニュスのセオトコス大聖堂に葬られました。
アレグザンデルはヴィリニュス大聖堂に葬られています。 二つは別ものみたい。
せっかく同じ土地なんだから、一緒に葬ってあげられなかったのでしょうか?
ヘレナみたいな王妃はたぶんたくさんいたはずです。
そういう王妃は、記録が無かったり、かなり短い記述で終わっている場合が多いので
少しでも晩年の不幸な様子が残っていてよかったです。
よかった… というのもなんですが、少しでも慰めてあげることができるものね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことK-POPコーナー
テソンのヘアスタイルが… 歌っている時はステキなんだけど、しゃべってるとワカメちゃんみたいに思えてきて…
かわいいんですけどね… LOSERのMVは痛そうで痛そうで何度見ても涙が出ちゃうよ