まりっぺのお気楽読書

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ボヘミア王ヴァーツラフ1世妃 クンフタ

2018-02-22 21:37:13 | ボヘミア王妃
                Jarmily Haldovéさん作

どさくさでお葬式をあげてもらえず…
ヴァーツラフ1世妃 クンフタ・シュタウフスカー


1202〜1248/在位 1230〜1248

オタカル1世の後、オタカルの叔父さんにあたるブレチスラフ3世(ジンドリフ)が
一瞬ボヘミア公になりました。
この方はプラハで司教をしていたみたいで、未婚のようです。
        

次にオタカルの弟ブラジスラフ3世がボヘミア公になります。
ヘイルヴィダ(?)という妃がいましたが、詳細はわかりません。

                
             この方らしいです Jarmily Haldovéさん作          

で、王位を継いだのはオタカル1世の王子ヴァーツラフ1世でした。

お妃はドイツ王フィリップの王女クンフタでした。
お母さまはビザンツ皇女イリーナで、姉に神聖ローマ皇后ベアトリーチェがいます。

6歳ぐらいの時に父親が殺害され、数ヶ月後に母親が出産で死去します。
その時にはすでにヴァーツラフと婚約していたみたいで
両親の死後すぐにプラハに向かいました。
結婚は、それから16年後…長いあいだ婚約者だったんですね。
        
1230年に王妃になりました。
これまでの王妃同様、いくつか修道院を建てました。

1247年に、後継者である長男ヴワディスワフが亡くなったのですが
その翌年、次男オタカル(2世)が、不満を抱えた貴族たちにかつがれて
ヴァーツラフ1世に反乱をおこしました。
後継者に決まったのに、なぜ待てなかったのかしらね?

クンフタはその反乱の最中、プラハで亡くなりました。
46歳ですね… 病気なのか、息子の反乱にショックを受けてかよくわかりません。
息子に対してどんなアクションをおこしたのか知りたいところですね。

なにせ反乱の最中だったもので、夫も息子も葬儀を行おうとしませんでした。
どちらかが喪主になったとしても、もう片方は出席できないよね? かわいそう…

反乱は、クンフタの死去後、ヴァーツラフ1世が息子を投獄して終わりました。
せめてその後でもいいからお葬式をあげてあげればよかったのにね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと平昌オリンピックコーナー
4年に一度しか見ないような競技が多いのですが、やはり燃えますね! メダルも過去最多だそうでおめでたいですね
でも、まったくスポーツができないわたしから見ると、出るだけでもすごいですよ〜 選手のみなさん
メダルが取れなくて悔しがるのはいいのですけど、落ち込んだりしないでね


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