お若いのにしっかり者だったらしい
イジー妃 クンフタ・ゼ・シュテンベルカ
1425〜1449/在位せず
ラジスラフの後は「ハプスブルク家の王なんて許せるか!」ってなわけで
オーストリア軍を敗ったボヘミア貴族の中から王になったポジェブラト家のイジーです。
即位前に結婚したのが、ボヘミア貴族のスミル・シュテンベルクの娘クンフタでした。
結婚から3年後の1444年に、19歳にしてポジェブラティに病院を設立。
20世紀初頭までクンフタの名がついていいました。
若者の教育や学校建設、囚人の社会復帰などに尽力し、システムを確立したらしい。
ものすごく立派なお妃様にみえますが、エピソードが少ないですね。
どこかの王家の王女じゃないからでしょうか?
1449年、24歳の誕生日の翌日、双子の出産の後亡くなりました。
お子様は6人で、次女カテリーナはハンガリー王マーチャーシュの妃になりました。
いよいよ最終回
イジー妃 ヨハナ・ズ・ロジェミタール
1430〜1475/在位 1458〜1471
クンフタを亡くしたイジーは翌年、ヨハナと再婚しました。
20歳のヨハナは、イジーをものすごくサポートし、国事にも打ち込みました。
けれども子供が生まれてからは母親の役割を優先したようです。
1470年、義理の娘カテリーナの嫁ぎ先だったハンガリーのマーチャーシュが攻めてきました。
ヨハナはチェコ軍を率いたそうですよ!
たぶんイジーも戦いに明け暮れていたと思うので、夫が不在の時はわたくしが!と
奮闘していたのでしょうね。
1971年、イジーが死去しました。
ヨハナは、ボヘミア王の未亡人が代々隠遁してきたムニェルニークに移り
1475年に亡くなりました。
死後は、庶民の教会に葬ってほしい、あるいは、聖ヴィトゥス教会のイジーの隣がいい…と
希望していたそうですが、どこに埋葬されたんでしょうね?
ヨハナの葬儀の喪主は息子のザクセン公ヴィルヘルム3世ではなくて
次の王になるハンガリー王ウラースロー2世でした。
一応イジー支持派から選ばれて王になったようなのですが、他所者なので点数稼がねばね!
Jarmily Haldovéさん作ヨハナ
この後ボヘミア王位はヤゲロン家、そしていよいよハプスブルク家へ…
続きはそちらからどうぞ
(参考文献 Wikipedia英語版)
イジー妃 クンフタ・ゼ・シュテンベルカ
1425〜1449/在位せず
ラジスラフの後は「ハプスブルク家の王なんて許せるか!」ってなわけで
オーストリア軍を敗ったボヘミア貴族の中から王になったポジェブラト家のイジーです。
即位前に結婚したのが、ボヘミア貴族のスミル・シュテンベルクの娘クンフタでした。
結婚から3年後の1444年に、19歳にしてポジェブラティに病院を設立。
20世紀初頭までクンフタの名がついていいました。
若者の教育や学校建設、囚人の社会復帰などに尽力し、システムを確立したらしい。
ものすごく立派なお妃様にみえますが、エピソードが少ないですね。
どこかの王家の王女じゃないからでしょうか?
1449年、24歳の誕生日の翌日、双子の出産の後亡くなりました。
お子様は6人で、次女カテリーナはハンガリー王マーチャーシュの妃になりました。
いよいよ最終回
イジー妃 ヨハナ・ズ・ロジェミタール
1430〜1475/在位 1458〜1471
クンフタを亡くしたイジーは翌年、ヨハナと再婚しました。
20歳のヨハナは、イジーをものすごくサポートし、国事にも打ち込みました。
けれども子供が生まれてからは母親の役割を優先したようです。
1470年、義理の娘カテリーナの嫁ぎ先だったハンガリーのマーチャーシュが攻めてきました。
ヨハナはチェコ軍を率いたそうですよ!
たぶんイジーも戦いに明け暮れていたと思うので、夫が不在の時はわたくしが!と
奮闘していたのでしょうね。
1971年、イジーが死去しました。
ヨハナは、ボヘミア王の未亡人が代々隠遁してきたムニェルニークに移り
1475年に亡くなりました。
死後は、庶民の教会に葬ってほしい、あるいは、聖ヴィトゥス教会のイジーの隣がいい…と
希望していたそうですが、どこに埋葬されたんでしょうね?
ヨハナの葬儀の喪主は息子のザクセン公ヴィルヘルム3世ではなくて
次の王になるハンガリー王ウラースロー2世でした。
一応イジー支持派から選ばれて王になったようなのですが、他所者なので点数稼がねばね!
Jarmily Haldovéさん作ヨハナ
この後ボヘミア王位はヤゲロン家、そしていよいよハプスブルク家へ…
続きはそちらからどうぞ
(参考文献 Wikipedia英語版)