継承のためなら!の歳の差婚
オタカル2世妃 マルケータ・バーベンベルスカー
1204〜1266/在位 1253〜1260
父王ヴァーツラフに対して反乱をおこし、投獄されたオタカルでしたが
1253年にめでたく王に就くことができました… 5年ぐらい待てばよかったのにね。
結婚は2回しているのですが、1回目のお相手は26歳年上 の
オーストリア公レオポルト6世公女マルケータでした。
すごいね! 26歳年下… 見てるだけでいいや。
実は21歳ぐらいで、ドイツ王ハインリヒ7世と結婚していました。
けれども、オタカル同様、ハインリヒも父親の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に対して
反乱をおこし、失敗して1242年に亡くなりました。
マルケータはその後静かに隠遁生活を送っていたのですが
そうもしていられなくなりました。
ちょっと入り組んでるから、上手く説明できるかどうか… いきますよ!
マルケータの弟フリードリヒ2世が、1246年に嫡子無しで死去したため
オーストリア公領とシュタイアーマルク公領に対して
マルケータか姪のゲルトルード、どちらの夫も権利を主張できる立場になりました。
そこでヴァーツラフ1世は、長男ヴワディスワフをゲルトルードと結婚させて
この継承争いにくいこんでいきました。
ところが、結婚の翌年の1247年にヴワディスワフが亡くなります。
ゲルトルードの再婚相手バーデン辺境伯ヘルマン6世が1250年に亡くなると
ヴァーツラフ1世の野望は再燃します。
次男オタカルとゲルトルードを結婚させる作戦だったのですが
オタカルが兄の未亡人との結婚を断固拒否しました。
倫理上の問題なのか、兄さんのおさがりなんて!! というプライドだかはわかりませんが
7歳年上のゲルトルードとの結婚を断り、26歳年上のマルケータとの結婚を承諾しました。
1252年に結婚はしてみたものの、マルケータはもうすぐ50歳(一説には50歳以上)です。
嫡子が生まれるわけない! ということで、オタカルは
1254年、マルケータの侍女だった愛妾アニェス・クネリングとの間に生まれた息子を
教皇に認めてもらおうとします。
これに失敗すると、オタカルはマルケータとの結婚の失効を訴え、1260年に許されました。
でもさ、オーストリア・シュタイアーマルク公領は手放さないのよ、どう思う?
(後にドイツ王ルドルフ1世に奪われます)
結婚を無効にされたマルケータは、オーストリアに帰っていきました。
帰国後は “ ローマ王妃 ” と呼ばれていました。
没年は1266年か1267年で、希望どおり父親が建てたリリエンフェルト修道院の
父の隣に埋葬されました。
静かな生活から引っぱり出しといてなんなのよ!
26歳年上ってことは、最初からわかってたじゃないか!!
マルケータ自身がどう思っていたのか、まったくわからないのが残念ですね。
何度も言うけど、わたしは見てるだけでいいです。 できたら歌って踊ってほしい…
Jarmily Haldovéさん作マルケータ
(参考文献 Wikipedia英語版)
オタカル2世妃 マルケータ・バーベンベルスカー
1204〜1266/在位 1253〜1260
父王ヴァーツラフに対して反乱をおこし、投獄されたオタカルでしたが
1253年にめでたく王に就くことができました… 5年ぐらい待てばよかったのにね。
結婚は2回しているのですが、1回目のお相手は26歳年上 の
オーストリア公レオポルト6世公女マルケータでした。
すごいね! 26歳年下… 見てるだけでいいや。
実は21歳ぐらいで、ドイツ王ハインリヒ7世と結婚していました。
けれども、オタカル同様、ハインリヒも父親の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に対して
反乱をおこし、失敗して1242年に亡くなりました。
マルケータはその後静かに隠遁生活を送っていたのですが
そうもしていられなくなりました。
ちょっと入り組んでるから、上手く説明できるかどうか… いきますよ!
マルケータの弟フリードリヒ2世が、1246年に嫡子無しで死去したため
オーストリア公領とシュタイアーマルク公領に対して
マルケータか姪のゲルトルード、どちらの夫も権利を主張できる立場になりました。
そこでヴァーツラフ1世は、長男ヴワディスワフをゲルトルードと結婚させて
この継承争いにくいこんでいきました。
ところが、結婚の翌年の1247年にヴワディスワフが亡くなります。
ゲルトルードの再婚相手バーデン辺境伯ヘルマン6世が1250年に亡くなると
ヴァーツラフ1世の野望は再燃します。
次男オタカルとゲルトルードを結婚させる作戦だったのですが
オタカルが兄の未亡人との結婚を断固拒否しました。
倫理上の問題なのか、兄さんのおさがりなんて!! というプライドだかはわかりませんが
7歳年上のゲルトルードとの結婚を断り、26歳年上のマルケータとの結婚を承諾しました。
1252年に結婚はしてみたものの、マルケータはもうすぐ50歳(一説には50歳以上)です。
嫡子が生まれるわけない! ということで、オタカルは
1254年、マルケータの侍女だった愛妾アニェス・クネリングとの間に生まれた息子を
教皇に認めてもらおうとします。
これに失敗すると、オタカルはマルケータとの結婚の失効を訴え、1260年に許されました。
でもさ、オーストリア・シュタイアーマルク公領は手放さないのよ、どう思う?
(後にドイツ王ルドルフ1世に奪われます)
結婚を無効にされたマルケータは、オーストリアに帰っていきました。
帰国後は “ ローマ王妃 ” と呼ばれていました。
没年は1266年か1267年で、希望どおり父親が建てたリリエンフェルト修道院の
父の隣に埋葬されました。
静かな生活から引っぱり出しといてなんなのよ!
26歳年上ってことは、最初からわかってたじゃないか!!
マルケータ自身がどう思っていたのか、まったくわからないのが残念ですね。
何度も言うけど、わたしは見てるだけでいいです。 できたら歌って踊ってほしい…
Jarmily Haldovéさん作マルケータ
(参考文献 Wikipedia英語版)