まりっぺのお気楽読書

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サルディーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世妃 アンナ・マリーア

2009-08-09 00:47:18 | イタリア王・公妃
華やかな宮廷から質素な宮廷へお嫁入り
ヴィットーリオ・アメデーオ2世妃 アンナ・マリーア
                    ディ・オルレアンス


1669~1728/在位 1720~1728

イタリアはねぇ~、詳しいことは分からんのだがミラノ公国とかナポリ王国とか
小さな国に別れてまして、他の中世ヨーロッパのように熱烈に統一しようという
意志がなかったのか小分けのまま統治されてたのよね。
あとはブルボン家とかハプスブルク家に虫食いで支配されてまして
イタリア王国として統一されたのはつい最近(1861年)です。

てなわけで、イタリア半島を統一してイタリア王になったサヴォイア家を
サルディーニャ王になったところから …

この当時のイタリアは、ヨーロッパの2大勢力ブルボン家とハプスブルク家に
見事に巻き込まれていて家系図はけっこう複雑で面白いです。

アンナ・マリーアはオルレアン公フィリプ1世の娘で
フランス王ルイ13世と、イングランド王チャールズ1世の孫にあたります。
15歳の時、サヴォイア公だったヴィットーリオ・アメデーオ2世と結婚しました。
この結婚はヴィットーリオの母で摂政のマリーア・ジョヴァンナがアレンジしたものです。

マリーア・ジョヴァンナはヴィットーリオが9歳の時から摂政についていましたが
一度握った権力を離したくなくて、息子は政治にタッチさせず放任していました。
ヴィットーリオは母に反抗することはなく、女性にうつつを抜かして暮らしていました。

が、実はこれは仮の姿で、結婚と同時に親政に乗り出し母の口出しを許しませんでした。
ヴィットーリオはフランスから嫁いできた母のフランス追従の政治が納得できず
母親にも、新たにフランスからやってきたアンナ・マリーアにも秘密主義で
本心を打ち明けたことは一度も無かったそうです。

1713年、スペイン継承戦争終結のユトレヒト条約で
シシリー王に即位したヴィットーリオですが、5年でハプスブルク家に引き渡し
変わりにもらったのがサルディーニャ王国でした。

サルディーニャ王とは言っても宮廷はピエモンテのトリノにありました。
トリノの宮廷は厳格で質素で、炭や灯りも節約したため
華やかさがまったくなくて寒さが身にしみたそうです。
あの豪華絢爛なフランス宮廷と比べたらギャップがすごそうよね。

ヴィットーリオとの夫婦関係は猜疑心に満ちていたし
6人の子供も王太子以外は早く亡くなりました。
アンナ・マリーアはあまり幸せな王妃ではなかったみたいです。
1728年に亡くなりました。

ところで一時期アンナ・マリーアはジャコバイトによって
イングランド僭称王の後継者に指名されていました。
イングランド王家はハノーヴァー家になってジョージ1世が即位していましたが
スチュワート家のジェイムズ・フランシスがジェイムズ3世を名乗っていて
次に継承権があるのがアンナ・マリーアだったのです。
1720年にチャールズ・エドワードが生まれたので後継者からは外されました。

      



王が初めて相談した相手
ヴィットーリオ・アメデーオ2世妃 アンナ・テレーザ
                    ディ・クミアーナ


生没年不詳/在位せず

アンナ・マリーアの死後2年でヴィットーリオは貴賤結婚をしました。
ヴィットーリオは彼女のことを信頼していたようで
彼女には悩みを打ち明けたことがあったそうです。

ヴィットーリオは再婚した年に突然退位してサヴォイアに隠退しましたが
1年ほどで表舞台に返り咲きたくなりトリノに向かいました。

息子のカルロ・エマヌエーレ3世は従おうとしましたが宰相たちが阻止したため
復位は失敗、失意で老け込み翌年亡くなりました。

(参考文献 藤沢道郎氏『物語イタリアの歴史』 Wikipedia英語版)

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