性格、変わってしまいました
フレデリク8世妃 ルイーセ・ユーフェミア・アフ・スヴェリエ
1851~1926/在位 1906~1912
スウェーデン王カール15世は、ルイーセを他の少女のように押さえつけず
まるで男の子のように育てました。
ルイーセは自信に満ちあふれた、親しみやすい王女になりました。
母のオランダ王女ルイーセは淑女にしたかったみたいですけど
カール15世は「よしよし」って感じで男の子並みに手荒く接していました。
ルイーセは自ら “ ストックホルムのわんぱく小僧 ” と呼んでちょうだい!と言い
驚いた叔父が慌てて止めたというエピソードもあります。
カール15世には他に成長した子供がいなかったので
ルイーセにスウェーデンとノルウェー王位を継がせたかったのですね。
議論は繰り返されましたが、法改正の必要もあり
また、叔父に息子が生まれたことで難しくなりました。
1869年、ルイーセはフレデリク(後の8世)と結婚します。
カール15世は汎スカンジナビア構想を持っていて、デンマークとの連合を考えていました。
そこで緊張関係にあった両国間の親交を築くことが、この結婚の狙いでした。
ふたりの結婚は新しい北欧のシンボルと言われて、壮麗な式が挙げられたものの
実はスウェーデンでは飢饉がおこっていて、持参金には特産品があてられました。
何かしら? 持参金に匹敵する特産品て?
ところが、デンマーク国民には歓迎されたルイーセは王室では不人気でした。
ルイーセのチャームポイントであるフレンドリーで飾らない人柄は
グリュックスブルク家の家風にはそぐわなかったみたいで
夫の家族、特に女性陣と上手くいきませんでした。
女性陣とは、やはり姑さんのルイーセ・アフ・ヘッセン=カッセルかしら? 保守派だし…
フレデリクも自由な思想の持ち主だったといわれています。
ルイーセを庇ってもよさそうなものを、あまり助けてはくれませんでした。
やっぱり母親には頭が上がりませんかね…
デンマークとスウェーデンの関係にもあまり変化は見られず
なんのために嫁いできたんだか…
そんなわけで、デンマークで過ごすうちにルイーセの性格には変化が表れます。
内気で頑なな女性になって、信仰にものめりこんでいきました。
子供たちのことは非常に厳しく教育しました。
父カール15世が見たらなんというかしら?
お顔立ちが険しくなられました?
ルイーセの唯一の喜びは実家への里帰りでした。
そこでは懐かしい家族や友人の前で自分らしく振る舞えたのかもしれませんね。
なのに…1905年のノルウェー独立によってデンマークとスウェーデンの緊張が高まり
里帰りもままならなくなってしまいます。
国民にも敬虔な王太子妃として知られるようになっっていたルイーセは
1906年に王妃になると、公式な行事はあまり気にかけなくなります。
芸術と文学を深く愛し、独自の慈善活動に精を出します。
王妃時代も、1912年に未亡人になってからも思慮深い生活を送り
1926年に亡くなりました。
人の性格って、そう簡単には変わらないと申しますけど
追いつめられると知らず知らずのうちに順応してしまうものなのかしら?
王室のあり方に変化が見え始めた時期だからこそ
ヴァイタリティーのある王妃が求められていたような気がするけどね。
でもまわりが夫の家族ばかりじゃねぇ…多勢に無勢ってことかしら
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
フレデリク8世妃 ルイーセ・ユーフェミア・アフ・スヴェリエ
1851~1926/在位 1906~1912
スウェーデン王カール15世は、ルイーセを他の少女のように押さえつけず
まるで男の子のように育てました。
ルイーセは自信に満ちあふれた、親しみやすい王女になりました。
母のオランダ王女ルイーセは淑女にしたかったみたいですけど
カール15世は「よしよし」って感じで男の子並みに手荒く接していました。
ルイーセは自ら “ ストックホルムのわんぱく小僧 ” と呼んでちょうだい!と言い
驚いた叔父が慌てて止めたというエピソードもあります。
カール15世には他に成長した子供がいなかったので
ルイーセにスウェーデンとノルウェー王位を継がせたかったのですね。
議論は繰り返されましたが、法改正の必要もあり
また、叔父に息子が生まれたことで難しくなりました。
1869年、ルイーセはフレデリク(後の8世)と結婚します。
カール15世は汎スカンジナビア構想を持っていて、デンマークとの連合を考えていました。
そこで緊張関係にあった両国間の親交を築くことが、この結婚の狙いでした。
ふたりの結婚は新しい北欧のシンボルと言われて、壮麗な式が挙げられたものの
実はスウェーデンでは飢饉がおこっていて、持参金には特産品があてられました。
何かしら? 持参金に匹敵する特産品て?
ところが、デンマーク国民には歓迎されたルイーセは王室では不人気でした。
ルイーセのチャームポイントであるフレンドリーで飾らない人柄は
グリュックスブルク家の家風にはそぐわなかったみたいで
夫の家族、特に女性陣と上手くいきませんでした。
女性陣とは、やはり姑さんのルイーセ・アフ・ヘッセン=カッセルかしら? 保守派だし…
フレデリクも自由な思想の持ち主だったといわれています。
ルイーセを庇ってもよさそうなものを、あまり助けてはくれませんでした。
やっぱり母親には頭が上がりませんかね…
デンマークとスウェーデンの関係にもあまり変化は見られず
なんのために嫁いできたんだか…
そんなわけで、デンマークで過ごすうちにルイーセの性格には変化が表れます。
内気で頑なな女性になって、信仰にものめりこんでいきました。
子供たちのことは非常に厳しく教育しました。
父カール15世が見たらなんというかしら?
お顔立ちが険しくなられました?
ルイーセの唯一の喜びは実家への里帰りでした。
そこでは懐かしい家族や友人の前で自分らしく振る舞えたのかもしれませんね。
なのに…1905年のノルウェー独立によってデンマークとスウェーデンの緊張が高まり
里帰りもままならなくなってしまいます。
国民にも敬虔な王太子妃として知られるようになっっていたルイーセは
1906年に王妃になると、公式な行事はあまり気にかけなくなります。
芸術と文学を深く愛し、独自の慈善活動に精を出します。
王妃時代も、1912年に未亡人になってからも思慮深い生活を送り
1926年に亡くなりました。
人の性格って、そう簡単には変わらないと申しますけど
追いつめられると知らず知らずのうちに順応してしまうものなのかしら?
王室のあり方に変化が見え始めた時期だからこそ
ヴァイタリティーのある王妃が求められていたような気がするけどね。
でもまわりが夫の家族ばかりじゃねぇ…多勢に無勢ってことかしら
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)