名高い愛妾たちの影で・・・
ルイ15世妃 マリー・レクザンスカ
1703~1768/在位 1725~1768
マリーがルイ15世の妃に選ばれたのは「国際紛争に巻き込まれない相手を」という
ルイの要望でブルボン公ルイ・アンリが探しだしたからです。
またマリーの家系はヨーロッパ貴族の中では多産で名高かったそうです。
マリーの父はポーランド王になりましたが、代々王の家系だったわけではなく
スウェーデン王の後押しで傀儡王として即位し、5年で退位しました。
その後はアルザスに亡命し、ルイ15世摂政のオルレアン公フィリプ2世の
保護を受けて暮らしていました。
ルイ15世は11歳の時、従姉妹にあたるスペイン王女マリー・アンヌと婚約していて
彼女は3歳でフランスに渡り教育されていたのですが
ルイの成年と同時に婚約は破棄されました。
マリー・アンヌはスペインへ帰されます。
かくしてオルレアン公がマリーに王との縁談を申し入れし、1725年に結婚しました。
マリーはルイの7歳年上の22歳でした。
結婚生活は順調で、マリーは評判どおり次々と子供を生みました。
しかし8年目、うーん 危険な感じですね… ルイ15世は浮気を始めます。
なんでも、マリーは結婚当時「ヨーロッパで最も退屈なふたりの貴婦人のうちのひとり」と
言われていたらしく(もうひとりはマリーの母)、倦怠期も重なって
ルイ15世も少し退屈してきたのかもしれません。
1744年、ジャンヌ・アントワネット、すなわち後のポンパドゥール夫人が登場します。
もう王の心も宮廷も彼女のものです。
その上政治欲旺盛なポンパドゥール夫人は王をさしおいて政治の表舞台で力を発揮し
王はやることなし、1752年にはハレム “ 鹿の園 ” までつくってもらってご満悦…
愛妾たちに溺れ始めます。
見せかけなのかあきらめが早いのか、マリーは王の浮気をよそに趣味に没頭します。
熱心なローマン・カトリックの信者だったマリーは、週1回ポーランド語による
賛美歌コンサートを開催し、ポーランドスタイルのガウンを好んで着ていました。
このガウンは “ ローブ・ア・ラ・ポロネーゼ ” として流行したそうです。
またモーツァルトを何度も招いたり、ヴォルテールと文通をしたりしていました。
後年は王太子の嫁と嫁姑問題などもありましたが、概ね家族に愛されていたマリーは
ルイ15世に先立つこと6年前の1768年に亡くなりました。
既にポンパドゥール夫人は亡くなっていましたが、1769年にはデュ・バリー夫人が登場して
宮廷内の女性陣と対立し、ヴェルサイユはワヤクチャになります。
女性陣の筆頭に立たされたのは若き王太子妃マリー・アントワネットでしたが
マリーが生きていたら、本人の意思に関係なく巻き込まれていたでしょうね。
そんな目に遭う前に亡くなったのがせめてもの救いでしょうか?
(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
ルイ15世妃 マリー・レクザンスカ
1703~1768/在位 1725~1768
マリーがルイ15世の妃に選ばれたのは「国際紛争に巻き込まれない相手を」という
ルイの要望でブルボン公ルイ・アンリが探しだしたからです。
またマリーの家系はヨーロッパ貴族の中では多産で名高かったそうです。
マリーの父はポーランド王になりましたが、代々王の家系だったわけではなく
スウェーデン王の後押しで傀儡王として即位し、5年で退位しました。
その後はアルザスに亡命し、ルイ15世摂政のオルレアン公フィリプ2世の
保護を受けて暮らしていました。
ルイ15世は11歳の時、従姉妹にあたるスペイン王女マリー・アンヌと婚約していて
彼女は3歳でフランスに渡り教育されていたのですが
ルイの成年と同時に婚約は破棄されました。
マリー・アンヌはスペインへ帰されます。
かくしてオルレアン公がマリーに王との縁談を申し入れし、1725年に結婚しました。
マリーはルイの7歳年上の22歳でした。
結婚生活は順調で、マリーは評判どおり次々と子供を生みました。
しかし8年目、うーん 危険な感じですね… ルイ15世は浮気を始めます。
なんでも、マリーは結婚当時「ヨーロッパで最も退屈なふたりの貴婦人のうちのひとり」と
言われていたらしく(もうひとりはマリーの母)、倦怠期も重なって
ルイ15世も少し退屈してきたのかもしれません。
1744年、ジャンヌ・アントワネット、すなわち後のポンパドゥール夫人が登場します。
もう王の心も宮廷も彼女のものです。
その上政治欲旺盛なポンパドゥール夫人は王をさしおいて政治の表舞台で力を発揮し
王はやることなし、1752年にはハレム “ 鹿の園 ” までつくってもらってご満悦…
愛妾たちに溺れ始めます。
見せかけなのかあきらめが早いのか、マリーは王の浮気をよそに趣味に没頭します。
熱心なローマン・カトリックの信者だったマリーは、週1回ポーランド語による
賛美歌コンサートを開催し、ポーランドスタイルのガウンを好んで着ていました。
このガウンは “ ローブ・ア・ラ・ポロネーゼ ” として流行したそうです。
またモーツァルトを何度も招いたり、ヴォルテールと文通をしたりしていました。
後年は王太子の嫁と嫁姑問題などもありましたが、概ね家族に愛されていたマリーは
ルイ15世に先立つこと6年前の1768年に亡くなりました。
既にポンパドゥール夫人は亡くなっていましたが、1769年にはデュ・バリー夫人が登場して
宮廷内の女性陣と対立し、ヴェルサイユはワヤクチャになります。
女性陣の筆頭に立たされたのは若き王太子妃マリー・アントワネットでしたが
マリーが生きていたら、本人の意思に関係なく巻き込まれていたでしょうね。
そんな目に遭う前に亡くなったのがせめてもの救いでしょうか?
(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
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