まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スペイン王アルフォンソ13世妃 ビクトリア・エウヘニア

2009-05-30 11:13:44 | スペイン王妃・王女
王国の終焉を見た王妃
アルフォンソ13世妃 ビクトリア・エウヘニア・デ・バッテンベルク


1887~1969/在位 1906~1931

ビクトリア・エウヘニア(以下エナ)の父ヘンリーは貴賤結婚で生まれた子で
バッテンベルク爵位は母ベアトリスヴィクトリア女王王女だったことで得た称号でした。
1896年のアフリカ遠征の際に父親が死亡したので
母とともにヴィクトリア女王のもとに身を寄せて少女時代を送っていました。

      

1905年にアルフォンソ13世が英国を訪問した際
伯父エドワード7世主催の晩餐会が開かれまして、若きスペイン王がエナに目を留めます。
晩餐会の会席者は、アルフォンソ13世がコンノート公女パトリシアに求婚していたのを
知っていましたが、あきらかに彼の心がエナに移ったことに気がつきました。
アルフォンソ13世は即エナに求婚しはじめましたが
スペインに帰ってからも熱烈な手紙を送り続けました。 素早い変わり身…

しかし王太后マリア・クリスティネは息子が選んだ相手が気に入りませんでした。
まずは家柄、王太后はバッテンベルク一族は王侯貴族ではないと見なしていました。
それから宗教、スペイン王家は代々カトリックですがエナはアングリカンでした。
またエナの兄が血友病でエナの体調や遺伝のことが心配されました。

1年かけて説得しましたがアルフォンソはあきらめません。
とうとう根負けした王太后は自らペンを取り、エドワード7世とエナの母ベアトリスに
息子の気持ちを伝える手紙を送りました。
エナがカトリックに改宗したり英国の王位継承権を放棄したりという取り決めがあり
1906年、晴れてアルフォンソ13世とエナは結婚することになりました。

アルフォンソ13世はダンディで人当りもよく、人気はあったらしいのですが
スペインは急速な都市化によって貧富の差が広がり、不満分子を多く抱えていました。
結婚式から宮殿に帰る馬車に爆弾が投げ込まれ、王と王妃は無事でしたが
警護兵が亡くなり、エナのドレスにも血の跡が残ったそうです。

手荒い歓迎で始まったエナの王妃生活ですが、人々にあまり人気がなく孤立しがちで
王子が生まれるまでは好転しませんでした。
しかし翌年生まれた長男は危惧されたように血友病で、その後生まれた6人の子女のうち
末子が血友病を、次男が障害を抱えていました。

アルフォンソ13世は結婚前の熱烈ぶりが嘘のように冷たくなり浮気を繰り返します。
相手の中にはエナのいとこのベアトリーチェもいたらしいですよ …
エナは慈善活動に打ち込むようになっていきました。

1931年、左派の躍進によって共和制が始まりアルフォンソは廃位されます。
追放された王一家はフランス、イタリアなどで過ごしていましたが
ほどなくエナとアルフォンソは別居するようになり、エナはイギリスへ向かいました。

ところが1939年に第二次世界大戦が始まるとエナは英国から出ていくよう言われます。
スペインは参戦はしていなかったのですが、国内でファシズムが台頭していて
ナチス・ドイツ寄りだと見られていたのです。
エナはスイスのローザンヌに移りました。

エナはスペインへは一度だけ一時帰国しただけで、1969年に亡くなりました。
エルコリアルの夫や子供たちの側に埋葬してほしいと望んでしましたが叶わず
ローザンヌの教会に埋葬されました。

              
                 こちらがお写真です

スペインに嫁にいかなければねぇ… 英国で平穏な人生が送れたかもしれないのに。
でも渦中の人から熱烈な求愛をされるというのは若い女性にとっては嬉しいものです。
あとさき考えずにほだされちゃうってのは分からないでもありませんね。

スペインは、エナの死から6年後の1975年、孫にあたるファン・カルロス現王が即位して
王政が復活し、1978年から立憲君主国になりました。

(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)

六つの国の王家の終焉を描いた一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



             
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スペイン王アルフォンソ12世妃 マリア・クリスティネ

2009-05-29 00:34:22 | スペイン王妃・王女
前妻の影を乗り越えて・・・
アルフォンソ12世妃 マリア・クリスティネ・デ・アウストリア


1858~1929/在位 1879~1885

アルフォンソ12世はメルセデスの死後、一時は死に直面するほど打ちのめされたのですが
なんとか持ち直したということで、首相は「そろそろ新しい妃を…」と言いだしました。

首相が推したのはメルセデスの8歳年上の姉マリア・クリスティネで
なんでもメルセデスに酷似しているところが多いということでした。
そこで彼女との婚約が調ったのですが
なんてこと 彼女も婚約中に結核で亡くなってしまいました。

そんなわけで、傷心のアルフォンソ12世は遠縁のマリア・クリスティネとの縁談が
持ち上がった時には「もうどうでもいいよ」という感じでそっけなく承諾したそうです。
ふたりはアルフォンソの亡命中にウィーンで出会っていたかもしれませんが不明です。

      
アルフォンソ12世は母親イサベル2世と違って人望もあつく、難しい時期にあった国政も
上手く舵をとった名君でしたが、27歳で、やはり結核で亡くなってしまいました。
遺されたのは王女ふたりとマリア・クリスティネのお腹の中にいた子だけでした。

王位の継承は保留になって、マリア・クリスティネが摂政につきました。
生まれる子が王子なら王になり、王女ならば長女のマリア・メルセデスが女王につきます。
(しかし長女に前妻の名をつけられちゃうあたり、ムッとしたりしなかったのかしら?
 貴族の世界はけっこう忍耐がいりますね)
半年後王子が生まれてアルフォンソ13世として即位し、マリア・クリスティネも
引き続き摂政として表舞台に留まりました。

これといってエピソードがないところを見ると、若くして未亡人になった王妃にありがちな
寵臣との色恋沙汰や権力の濫用みたいなことはなかったのかもしれないですね。

1902年に摂政を退きましたが、息子アルフォンソ13世はちょっと頼りない王だったらしく
ヤキモキしたんじゃないかしら?
1929年に71歳で亡くなり、アルフォンソ12世の眠る王家の墓所に葬られました。
2年後の息子の退位や共和制への転換を見ずにすんで幸せだったかもしれません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王アルフォンソ12世妃 マリア・デ・ラス・メルセデス

2009-05-27 01:54:13 | スペイン王妃・王女
初恋を実らせた王妃
アルフォンソ12世妃 マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス


1860~1878/在位 1878

この方、名づけ親はイサベル2世なんですが、すっっっごく長い名前がついてます!
本当はアルファベットで350~400字ぐらいあるんです。 ジュゲム状態…

それはさておき、マリア・メルセデス(以下メルセデス)はフランス公女ですが
マドリッドで生まれてセビリアで幼少時代を送りました。
父のモンパンシェ公アントワーヌがイサベル2世の妹ルイサと結婚してから
スペインで暮らしていたためです。 マスオさん?
イサベル2世の時にも書きましたが、アントワーヌは王座を狙っていたので
スペインで暮らしていたものと思われます。

しかしその物欲しさがミエミエだったのか王宮に招かれることはめったになく
メルセデスもセビリアから出ることはなかったようです。

      

1868年にイサベル2世が失脚するとモンパンシェ公一家もパリに移りましたが
その時にいとこ同士のアルフォンソ(15歳)とメルセデス(12歳)は
初めてちゃんと会ったらしく、いきなり恋におちちゃいました

イサベルは本当はマドリッド公女ビアンカと結婚させたかったのですが
アルフォンソは「好きでもない女と結婚するぐらいなら一生結婚しないぜ!」という
さすが十代!な熱い言葉をのこしてスペインへ発ってしまったため
メルセデスとの結婚を許しました。

1878年、ふたりは晴れて結婚しました。
メルセデスは “ アンダルシアの闇夜のような漆黒の瞳と黒髪を持つ美しい貴婦人 ” と
大絶賛されたそうです。

             
             こちらがお写真です。ちょっと地味ですね

そんな幸せいっぱいのふたりでしたが、ハネムーンから帰ってしばらくすると
メルセデスが結核にかかります。
6ヶ月後に流産をしますが、それが命取りになってしまいました。
(なんだか…スペイン王妃の死因、結核が多くない?
 スペインて暖かそうで結核なんて無縁な病の気がしますが…)
アルフォンソ12世は死にものぐるいで医師団を鼓舞したそうですが
メルセデスを救うことはできず、あと2日で18歳の誕生日という日に亡くなりました。

アルフォンソ12世は悲嘆のあまり命が危なくなったそうですよ。
メルセデスは嫡子を生まなかったため王家の墓所に葬られなかったんですけど
アルフォンソは王様なんだからさぁ、そういうのなんとかできなかったのかしらね。
そんなに愛していたのなら…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王アマデオ妃 マリア・ビクトリア

2009-05-26 01:23:01 | スペイン王妃・王女
一瞬の王座
アマデオ妃 マリア・ビクトリア・デ・ボッツォ


1847~1876/在位 1870~1873

成り行きが良く分からんのですが、イサベル2世が失脚すると反対派は
イサベルの息子アルフォンソではなくて、サヴォイア家からアマデオを迎えました。

なぜかしら? 家系図を辿っていってるんですけど私には繋がりが見いだせません。
アマデオの父ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はイタリア統一を成し遂げていますが
その手腕が買われて息子に白羽の矢がたったのかしら?
それともナポレオンがらみ?

しかし混乱状態のスペイン、1870年に即位したアマデオは
3年でリタイアしてイタリアに去りました。

即位前の1863年にチステルナ公子の公女マリア・ビクトリアと結婚しています。
式にはイタリア中の名だたる人たちが集まったらしいですよ。

スペインからイタリアに戻って3年、29歳で亡くなりました。

      



             
ナポレオン一族というだけで・・・
アマデオ妃 マリア・レティシア・ボナバルテ


1866~1926/在位せず

この方、Wikipediaの英語版がなくてフランス語じゃさっぱり分からないので
書くことがないんですけどナポレオン一族ということは分かりました。

母クロチルダはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の王女で
アメデーオとは伯父と姪の関係になります。 1888年に結婚したらしいです。

ところで、この時期名だたる名家の子女たちがナポレオン家に嫁いでいます。
初婚もいれば再婚の場合もありますが、たぶんヨーロッパを席巻したナポレオンが
我が家にハクをつけるためにいろいろと縁組みしたものだと思います。

選ばれちゃった家はいやだったでしょうねぇ~
あんな成り上がりに! と思いつつ恐ろしくて断れないし…
誰を嫁に出すかでかなりもめたんじゃないかしら?

* その後英語版が登場してました
  今さら、って気もするので機会があればご紹介したいと…(2010.5)

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン女王 イサベル2世

2009-05-26 01:20:38 | スペイン王妃・王女
偉大な名を持つ愚王
スペイン女王 イサベル2世


1830~1904/在位 1833~1868

フェルナンド7世の死によって3歳で即位したイサベル2世ですが
ちびっ子ですので政治は摂政である母マリア・クリスティネが仕切っていました。
しかし、それでなくても女王&母親摂政という権力を確立するには弱いパターンなのに
身分違いの結婚をしたマリア・クリスティネへの風当たりは強くなるし
王弟ドン・カルロスとの継承戦争もあって、スペイン宮廷は伏魔殿となってしまいました。

7年続いたカルリスタ戦争はイサベル2世が勝利し、マリア・クリスティネは国を去り
名将エスパルテロが摂政になって国政は落ち着いたように見えましたが
議会はすでに立憲君主制に向けて動き始めていました。

     

イサベル2世は16歳の時に甥にあたるカディス公フランシスコ・デ・アシスと結婚。

実は、カディス公は同性愛者として名高かったみたいで
きっと子供ができないんじゃなかろうか?
そうすると王位は妹ルイサにまわってくる、ってことで、各国ざわめきます。
フランス王ルイ・フィリプ1世は、息子のアントワーヌとルイサを結婚させました。

ところがイサベル2世はそんな他人の思いをよそに子供を12人も生んだんですよね。
これについてはカディス公の子じゃないと各方面から非難があがりましたが
そんなことは知るかいな! 王太子アルフォンソ(後の12世)という嫡子も得ました。

さてさて、女王としてのイサベル2世ですが、わがままで気紛れで
手に負えない君主だったようです。
先祖にはイサベル1世という名高い女王がいますし、英名にすればエリザベスという
これまた女王として一時代を築いた君主の名を持ちながら、あまり評判がよくないですね。

議会は各派が目まぐるしく主導権争いをしていましたが
女王は保守派の軍人や政治家など自分のお気に入りばかりを引き立てていました。
絶えず不正を働き不埒な行いを繰り返す取り巻きたちは女王の評判を落としていきます。

その上イサベル2世は自分の存在感をアピールしようと議会を無視して
フランスとイギリスが押し進めるメキシコ皇帝擁立に加担することにしました。
ハプスブルク家のメキシコ皇帝が処刑されたこの事件は
フランスのナポレオン3世夫妻の立場を危うくしたのですが
イサベル2世も人ごとではありませんでした。

加えてアメリカ大陸での不毛な戦争、モロッコでの戦争などがかさなり
1868年、とうとうクーデターがおこります。
パリの母親の元へ身を寄せたイサベルは1870年に正式に息子に王位を譲りました。
(実際の即位は4年後)

ところで旦那様は?
カディス公とイサベルはとっくに別居だか離婚だかして一緒にはいませんでした。
でもパリに渡ってからは親交を深め良き友人となったらしいです。

             
                そして晩年のイサベル2世
                   いやはや…亡命中とは思えない貫禄


息子アルフォンソ12世の即位後もスペインへは数回訪れただけで
フランスで余生を過ごし1904年に73歳で亡くなりました。
死後はスペインに葬られています。

世が世ならどんな王様でもたいして文句は出ないもんなんですけどね
タイミングが悪かったんだと思います。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王フェルナンド7世妃 マリア・クリスティネ

2009-05-24 09:17:48 | スペイン王妃・王女
再婚が身を滅ぼす
フェルナンド7世妃 マリア・クリスティネ・デ・シシリアス


1806~1878/在位 1829~1833

マリア・クリスティネの母はフェルナンド7世の妹なので
またまたまた伯父と姪の結婚です。
      
45歳で3人目の妃を亡くしたフェルナンド7世には嫡子がいませんでした。
かなり焦ったのか、マリア・ヨーゼファの死から7ヶ月で4度目の結婚です。

マリア・クリスティネは23歳で、若い妃に比べればからだがしっかりしてたんですかね?
すぐに身ごもり立て続けに王女が誕生しました。

長女イサベルが3歳の時、フェルナンド7世が亡くなりました。
イサベル2世が即位して、マリア・クリスティネは摂政になりますが
フェルナンドの弟ドン・カルロス・マリア・イシドロが異議を唱えます。
ブルボン家はフランス王家と同じく女性を王にしないサリカ法を用いていると言うのです。
けれどマリア・クリスティネが、イサベルが生まれた時に王を説得して
サリカ法を破棄させていたことが分かり、イサベル2世の王座は正当なものとされました。

これをうけて、スペインは継承権を争うカルリスタ戦争に突入します。
戦いは7年後にイサベル2世の勝利で終わりますが
ドン・カルロスもスペイン(カルリスタ)王を名乗って、以後何代か続くことになります。

さてマリア・クリスティネですが、フェルナンド7世の死後3ヶ月
警護兵アウグスティン・ムニョスと再婚します。
26歳ですから恋もしましょうが、これはちょっと考え無しの行動ですね。
この早さ、王女たちは本当にフェルナンド7世の子供なの? と疑いたくもなります。

マリア・クリスティネはこの身分違いの再婚をひた隠しにしました。
しかし翌年娘が生まれたことで人々の知るところとなって顰蹙をかいます。
しかもカルリスタ戦争終結後、援護してくれた民主派を手のひら返しで裏切ったことから
議会に見放され、軍部から辞任要求をつきつけられてしまいます。
国外退去を命じられたマリア・クリスティネはフランスに腰を落ち着けました。
1868年にはクーデターにあった娘イサベラ2世も合流します。

美男子ではなかったけれど、優しく好人物だと言われていた夫ムニョスは
1873年にル・アーブルで亡くなりました。

1874年、孫のアルフォンソ12世が即位すると(戴冠式のためか)帰国を許されましたが
スペイン滞在の許可は一時的なもので、またフランスに戻りました。

1878年に夫と同じくル・アーブルで亡くなると、王の未亡人として、また王太后として
スペインのエル・エスコリアルの王家の墓所に葬られましたが
本当はムニョスの隣が良かったのではないかしら?

ムニョスは政治に野心はなかったと言われています。
エクアドルの王冠を蹴って、土地や証券の投機でマリア・クリスティネの国外生活を
支えたそうで、してみると地位ねらいで王の未亡人に近づいたのではなく
純粋に愛し合った上での再婚だったのでしょうか?
マリア・クリスティネは、身分的には落ちぶれたかもしれませんが
生き方の面では最良の選択をしたのかもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王フェルナンド7世妃 マリア・イサベル

2009-05-21 00:59:54 | スペイン王妃・王女
あまりといえばあまりな死に方…
フェルナンド7世妃 マリア・イサベル・デ・ポルトゥガル


1798~1818/在位 1816~1818

マリア・アントニアを亡くした時、フェルナンドは22歳だったのですが
この後スペイン国内はカルロス4世への反乱やナポレオンの侵攻などがあり
再婚どころじゃなかったみたいです。
1808年には退位したカルロス4世に変わって一瞬即位しましたが
3ヶ月足らずでナポレオンの兄ホセに王位を奪われてしまいました。

ホセの失脚によって再度即位したフェルナンド7世は
1816年に姪にあたる18歳のマリア・イサベルと再婚しました。

       
マリア・イサベルは20歳の時ふたり目の子供を身ごもりましたが
その出産で命を落とすことになります。(長女マリア・ルイサは5ヶ月で夭逝)
こ、これは今なら間違いなく医療裁判でしょ!

出産はひどい難産で、どうやら子供は死産のようでした。
マリア・イサベルの呼吸も止まり、医師団は王妃は死亡したという判断をく下して
子供を取り出すためか防腐処理のためだか、すぐに腹を切り裂き始めました。
しかし医師の判断は間違いで、彼女は突然大声で叫ぶと痛さのあまりうずくまりました。
結局これがもとで数日後亡くなりました。
(肖像画は老けてますが)20歳ですよ! こんな風に死んでしまうなんてひどい!!

中世の医療は王侯貴族の担当医といえどもひどいものだったようです。
簡単な手術の失敗で死亡している王や王妃もいますし、薬もかなりいいかげん。
フランス王ルイ13世は医師団に「貴様らがいなければ長生きできたものを!」と言って
亡くなっています。

出産時の死亡や子供の夭逝は膨大な数にのぼります。
なんでもベッドや器具自体が使い回しで不潔だったらしいんですよね。 おそろしい…
医学の進歩以前に、病気や出産に対する姿勢がなってなかったみたいですね。




              
書くことなにもない・・・
フェルナンド7世妃 マリア・ヨーゼファ・デ・サホニア


1803~1829/在位 1819~1829

フェルナンド7世はマリア・イサベルの死の翌年、姪の子にあたる
マリア・ヨーゼファと3度目の結婚をしました。
やはり嫡子がいないことに焦っていたのでしょう。
         

新しい王妃はなんたって16歳!
若いしうぶだし純粋だし、フェルナンド7世はぞっこんだったようです。
が、不幸なことに子供は生まれないまま26歳の時に亡くなりました。

(参考文献 エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wkipedia英語版)
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スペイン王フェルナンド7世妃 マリア・アントニア

2009-05-20 00:34:12 | スペイン王妃・王女
女の争い勃発!!
フェルナンド7世妃 マリア・アントニア・デ・シシリアス


1784~1806/在位せず

マリア・アントニアの母シチリア王フェルディナンド1世妃マリア・カロリーネは
ルイ16世妃マリー・アントワネットの姉で、彼女はその叔母の名をもらいました。

可愛らしく繊細な上に賢くて17歳で数カ国語が堪能だったそうです。
祖母である女帝マリア・テレジアの血を受け継いでいるともっぱらの評判でした。
      
あいかわらずスペインを取り巻く状況は厳しくて
フランスのブルボン家も信用ならないしっ! ということか
カルロス4世は王子フェルナンドと姪のマリア・アントニアを結婚させることにしました。
同時に王女マリア・イサベルとシチリア王太子フランチェスコの縁談もまとまりました。

1802年、18歳のマリア・アントニアはスペインに嫁ぐやいなや母に宛てて
“ フェルナンドは醜男で下品なの ” という失望の手紙を書き送っています。
(後年ふたりはとても仲睦まじかったと言う人が現れますけど…)

マリア・カロリーネがよしゃあいいのに友人に宛てて書いた手紙には
“ フェルナンドってすごく醜いうえにずんぐりむっくりらしいわ。
それからひどく退屈で鈍くてバカなの。妹(息子の嫁のことか?)とおんなじよ 。
娘を一時もひとりにしておいてくれないんですってさ ” てなことが書かれていました。

広そうで狭いヨーロッパ貴族の世界、この悪口が耳に入ったのか、
あるいは過去に男の取り合いでもしたのか、フェルナンドの母マリア・ルイサ
“ とにかく性悪な女よ!死にかけのカエルみたいで邪悪な蛇みたいなんだから!” と
愛人ゴドイへの手紙でマリア・カロリーネをコキおろしてます。

もちろん、マリア・アントニアだって黙っていません。
母から疎まれて寂しい少年時代を過ごしたフェルナンドを言いくるめて
マリア・ルイサとゴドイに敵対するグループをつくり勢力争いを行います。

フェルナンドはもともと母を嫌っていたようですが
かなり優柔不断で人の影響を受けやすかったみたいです。
ナポレオンが侵攻してきた時も彼についたり裏切ったりしているし
王になってからも “ ひとり自民党 ” 的に政策を覆したりしました。

スペイン宮廷内の嫁姑戦争はそんなに激しかったのか
母マリア・カロリーネも心配になったようです。
マリア・アントニアに“ シチリアに帰ってくる?” と手紙を出しています。

そんな勇ましいマリア・アントニアだったのですが、22歳の若さで結核で亡くなりました。
マリア・ルイサとゴドイが毒殺したのだという噂が広く流布されましたが真相は闇の中です。
マリア・カロリーネはこれを信じ、シチリア王フェルディナンド1世は
スペインの支配下にあったナポリを併合しました。

もう少し大人の嫁だったらうまく立ち回ったのかもしれないですね。
18歳の生意気盛りで、まわりの大人たちに利用されてしまったのかもしれません。
よく考えたら叔母のマリー・アントワネットもヴェルサイユで同じようなことを
やってるわけで…祖母マリア・テレジアより彼女の血をひいていたのかもしれません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王ホセ妃 マリア・フリア

2009-05-18 00:44:54 | スペイン王妃・王女
これぞ妻の鏡なのか?
ホセ王妃 マリア・フリア・クラリー


1771~1845/在位 1808~1813

マリア・フリア(フランス名ジュリー)は裕福な絹商人の娘で
1794年にナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフと結婚しました。
これがきっかけでジュリーの妹のデジレ・クラリーはナポレオンの恋人になりますが
いきなりふられてしまい、その後ベルナドット家のジャン=バプティスト
(後のスウェーデン王カール14世ユーハン)に嫁ぎました。

        

ジョゼフは1806年に弟が侵略したナポリでジョゼッペとして即位し、その2年後
やはりナポレオンのおかげでスペイン王ホセとして即位しました。
もちろん、スペイン国民に歓迎されるわけは無く反撥は大きかったのですが
政治は真面目に行っていたようで、いくつか近代的な改革も行っています。
その一方で女性に目がなく次々と愛妾を作ったみたいです。
ジュリーは逐一新しい女性についての報告を聞いていたらしい…

1813年にナポレオン軍が連合軍に敗れると、当然ホセにもとばっちりはくるわけで
連合軍によって廃位されました。
この時ジュリーはフランス軍に与えられたレマン湖畔の城へ娘を連れて移りました。

1815年にワーテルローでナポレオンが敗れると
ジョゼフはアメリカのデラウェア近郊の土地を高値で買い取って移住しました。
ジョゼフはこの時スペイン宮廷から多くの美術品を持ち出しています。
そのくせジュリーと娘はヨーロッパに残して行ってしまいました。

とり残されたジュリーは娘たちとフランクフルト、ブリュッセルなどを点々とし
気候の良いフィレンツェに落ち着きました。
妹デジレの夫カール14世ユーハンはスウェーデンに滞在してほしいと言いましたが
暖かい所が良かったみたいですね。

1840年、ジョゼフはアメリカを発って妻に会いに行こうと決心します。
彼はまだ彼女が自分を愛しているはずだ、と確信していました。
なんで~ ? なんでそう思える? 26年前に捨てたくせに
手紙でも送られてきたのかしら?

ところがどっこい、彼は間違っていなかったみたいです。
ジュリーは帰って来たジョゼフとフィレンツェで一緒に暮らし始めました。
4年後にジョゼフはジュリーの腕の中で亡くなりますが
その時彼女は「愛しい旦那様」と囁き続けていたそうです。(ほんとに?)
それから8ヶ月後、ジュリーも74歳でこの世を去り、夫の側に葬られました。

貞淑なのは分かるけど、ちょっとお人好しすぎやしませんか?
お互い70歳越えてるから茶飲み友達気分で一緒に暮らすにはいいかもしれませんけど
私なら、今さら帰って来られたってさ~ って思っちゃうわ。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王カルロス4世妃 マリア・ルイサ

2009-05-17 00:30:11 | スペイン王妃・王女
祖父の血を受け継いだ?
カルロス4世妃 マリア・ルイサ・デ・パルマ


1751~1819/在位 1788~1808

マリア・ルイサは1765年、3歳年上の従兄カルロス(後の4世)と結婚しました。
14歳の新妻で本当なら初々しいはずなのですが、なんと スペインにつくなり
宮廷で目についた男性たちと浮気を始めました。

敬虔な父王カルロス3世は破廉恥な嫁に怒り爆発! 浮気相手を見つけては追放しましたが
マリア・ルイサはテバ伯、フェンテス伯、ランカストレ伯など次から次へと
お相手を見つけてきます。
不貞 → 追放 → 不貞 → 追放、のいたちごっこは続きます。

マリア・ルイサの母方の祖父はフランス王ルイ15世です。
もしかしてお祖父様の淫乱な血を受け継いじゃいましたかね?
なんでもマリア・ルイサはなかなか満足できず、お相手も大変だったそうですよ
      
ところが不思議なことに夫のカルロスはまったく平気でした。
“ 鈍感なスポーツ馬鹿 ”と言われている人ですので気がつかなかったのかもしれませんが
父王は再三「ちゃんと見張っとけ!」と叱っていますので知っていたと思いますけどね。
もしかすると自分の健康のために、あえて他の男性におまかせしてたとか…
(モーパッサンの短篇に疲れ知らずの妻を持つ男性の話があるんだけどね)

1788年にカルロス3世が亡くなると、愛人のマヌエル・ゴドイという8歳年下の近衛兵を
カルロス4世に頼んでアルクディア公爵にし、平和公という称号まで与えています。
その上、王と王妃とゴドイは3人で暮らしているといっても過言ではないほど
常に3人一緒でした。 むかし “ ドリカム状態 ” って言葉があったんだけど、あれかね?

マリア・ルイサが生んだ9人の子供のうち、下の2人はゴドイにそっくり!ということで
カルロス4世にそれとなく助言する人もいたようですが、王は自分たちのことを自ら
“ 地上の三位一体 ” なんて言っちゃって 宮廷中を呆れさせます。
ゴドイも相当の女好きで、片っ端から手をつけていたらしく
マリア・ルイサとの喧嘩も絶えませんでした。どっちが本当の夫婦だか分からんね

欧州はナポレオンの怒濤の侵略で激動の時代に入っていました。
カルロス4世は狩猟が大好きで政治に興味が無く、王妃とゴドイにお任せしていましたが
ふたりは国政を巡って王太子フェルナンドと対立していました。
結局、カルロス4世は国民の反乱によって退位に追い込まれ
フェルナンド7世が一瞬即位しましたが、ナポレオンによって失脚し王位は他家へ移ります。

1813年にはナポレオンが敗退し、再度息子フェルナンド7世が即位しました。
けれども親子関係があまり良くなかったため、スペインには帰国しませんでした。

カルロスとマリア・ルイサはコンピェーニュやローマで暮らしました。
あいかわらず側にはゴドイがいました。
1819年にマリア・ルイサが肺炎で亡くなった時も、側に付き添って看病したのはゴドイで
カルロスは弟ナポリ王のところへ狩猟に行っていて留守だったという…
お元気そうなカルロスだったのですが、数週間後にポックリ亡くなりました。

ちなみに、カルロスはマリア・ルイサが亡くなるとゴドイに出ていくように言ったそうで
本当は嫌々3人でいたのかもしれませんね? そりゃそうだろうよ…
尻に敷かれていたんですねぇ、きっと… これから好きにできるって時にねぇ…

ちなみにちなみに、パトロンを失ったゴドイは
フェルナンド7世によって遺産も称号も放棄させられて帰国も許されず
パリに渡って晩年を暮らしたそうです。

マリア・ルイサは画家ゴヤの肖像画で有名です。
ゴヤは何枚も彼女を描いていますが、裏で「王をあやつるるとんでもない女だ!」など
ものすごく悪く言っていたみたいです。
きっといいパトロンだったと思うので、本人の前では言わなかったでしょうけどね。

(参考文献 エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)

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スペイン王カルロス3世妃 マリア・アメリヤ

2009-05-16 01:58:21 | スペイン王妃・王女
嵐の前の良妻
カルロス3世妃 マリア・アメリヤ・デ・サホニア


1724~1760/在位 1759~1760

マリア・アメリヤの父ザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト2世は
ポーランド継承戦争を勝ち抜いてポーランド王アウグスト3世として即位すると
今度はボヘミア王位も手に入れようとして継承戦争に参加した欲張りさんでした。

     
カルロス3世とマリア・アメリヤの縁談は
ポーランド継承戦争で敵国同士でありながら勝者だった両国
(ヴェッティン家はポーランドを継承、スペイン=ブルボン家はナポリ・シチリアを獲得)
の和平のためかもしれませんし、きたるべき戦いに供えて
ハプスブルク家に対抗するための措置かもしれません。
(アウグスト3世妃マリア・ヨーゼファはハプスブルク家出身ですけどね)
この時代のヨーロッパはまさに “ 虎視眈々 ” ていう言葉がぴったりですね。

マリア・アメリヤは1738年、14歳で22歳のナポリ・シチリア王カルロ5世に嫁ぎました。
政略結婚でしたがふたりはとても仲睦まじく、13人の子だくさん夫婦になります。
母后イサベルはスペインにいたので、他の妃よりのびのびできたかもしれないですね。

スペインの国そのものは斜陽の時代でしたけれども
カルロスはナポリとシチリアを取り戻していますし
気さくな善人で国民に人気があったみたいです。
あの母(イサベル・デ・ファルネシオ)からなぜこの子が?って感じですけどね。

一方ドイツ方面出身のマリア・アメリヤは芸術に造詣が深かったらしく
ナポリに陶磁器をもたらし、カゼルタ宮殿の建設では陣頭指揮をとるほどの勢いでした。
(もちろんデザイン的にね。現場監督をしたわけじゃないと思うが…)

1759年にフェルナンド6世が嫡子を遺さずに亡くなったため
カルロはカルロス3世として即位しました。
マリア・アメリヤは王とともに子供たちを残してマドリッドへ向かったのですが
その1年1ヶ月後、結核で亡くなりました。
カルロス3世は「結婚生活22年、王妃は初めて余の気に障ることをした」という
小粋なコメントを残しています。

結核との因果関係は(スモーカーの私としては)無いと思いたいのですが
彼女はかなりのヘヴィ・スモーカーだったらしいです。
中世では煙草は高貴な女性の嗜みだったんですもんね!(嘘かもしれない

この後息子カルロス(後の4世)がとんでもない嫁を迎えることになり
舅のカルロス3世は怒り心頭に達します。
マリア・アメリヤがひときわ恋しくなったことでしょうね。
カルロス3世は再婚することなく、28年後の1788年に亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王フェルナンド6世妃 バルバラ

2009-05-15 01:20:20 | スペイン王妃・王女
音楽で愛を育んだ王と王妃
フェルナンド6世妃 バルバラ・デ・ポルトゥガル


1711~1758/在位 1746~1758

ポルトガル王ジョアン5世にはなかなか(といっても3年)嫡子ができず
神に誓いをたててやっと生まれたのがバルバラでした。
ジョアン5世は約束どおり感謝を込めてマフラ修道院を建立しました。

     
後に弟がふたり生まれたので王位後継者からは外されましたが
小さな頃から恵まれた教育を授けられました。

特に音楽は彼女自身大変な力の入れようで、10歳ぐらいから4年間
高名なハープシコード奏者ドメニコ・スカルラッティに師事していました。
バルバラがフェルナンドに嫁いだ時にはスカルラッティがマドリッドまで付き添い
彼女のために『100台のハープシコードによるソナタ』を作曲しています。
100台ってすごいね… 正月の大正琴の競演みたいになっちゃうんじゃない?

スペイン継承戦争からこっち、なにかと敵が多いスペインは
せめて隣国とは仲良くしようと思ったのかしらね?
それともまたポルトガルを狙っていたのかしら?
いずれにしてもフェルナンドと2歳年上のバルバラは1729年に結婚しましたが
スペイン宮廷には我が物顔のフェリペ5世妃イサベル・デ・ファルネシオが君臨して
なんとか我が子を次の王にと頑張っていました。
フェルナンドの嫁が可愛いはずもなく、冷た~い態度で臨んだに違いありません。

バルバラは決して美しい方ではなかったようで、初めて彼女に紹介された時
フェルナンドはショックを隠しきれなかったと(失礼な )言われています。
けれどもバルバラの影響で音楽を学び始めたフェルナンドは、音楽に情熱を注ぐうちに
彼女を深く愛するようになりました。

1746年にフェルナンド6世が即位してバルバラは王妃になりました。
義理の母イサベルはグランハ宮殿へ遠ざけられたのですが
バルバラもあまり宮廷がお気に召さなかったのか
大好きなのアランフェス宮殿で頻繁に舞踏会や音楽会を催しました。

夫婦仲は良かったようなのですが、なかなか子供ができませんでした。
さてはイサベル・デ・ファルネシオの呪いか?

バルバラは若い頃から肥り始めて、喘息に悩まされました。
結局子供は生まれないまま1758年に亡くなりましたが
45歳のフェルナンド6世は打ちのめされてしまって翌年に亡くなりました。
やはりイサベルの呪いなのか

            
                 後年のバルバラ
                     貫禄充分になりまして…


政治には興味無かったみたいですね。
子供が生まれず宮廷ではかなり厳しい立場に立たされたことと思いますが
打ち込めることがあって、何より王に愛されたというのが幸せだったのではないかしら。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王ルイス妃 ルイサ・イサベル

2009-05-14 01:21:04 | スペイン王妃・王女
きっとスペインはお嫌いでしょう…
ルイス王妃 ルイサ・イサベル・デ・オルレアンス


1709~1742/在位 1724

肖像画だとふてぶてしそうに見えるんですが、可哀想な女性なんです

ルイサ・イサベルの母フランソワーズは、ルイ14世と愛妾モンテスパン夫人の娘です。
身分違いと言われながらオルレアン公フィリプ2世と結婚したものの夫婦仲が悪く
オルレアン公は浮気に夢中、フランソワーズも遊びに大忙しというわけで
ルイサ・イサベルはたいした教育も受けずに放ったらかしで育てられました。

たいして身分の良くない貴族の子息と結婚するものだと思われていたのですが
1720年に人生の転機が訪れます…それもあまり良くない方に。

オルレアン公は1715年からルイ15世の摂政を務めていましたが
1718年にフランスとスペインの同盟関係は破られて戦争が始まりました。

1720年、フェリペ5世は分が悪いと考えたのか和平を申し入れますが、その条件の中に
スペイン王子ルイスとオルレアン公の娘の誰か、という縁談が含まれていて
未婚で年長のルイサ・イサベルが嫁ぐことになったのです。
同時にルイ15世とスペイン王女マリアナ、スペイン王子カルロスと妹フィリピーネの
縁談もまとまりましたがこれらは後に破談になっています。

なにしろ仲が悪くてさぁ  もとをたどれば同じブルボン家なのになぜ?

     

ルイサ・イサベルはスペイン王家に(特に義母イサベルに)冷ややかに迎えられました。
今までの身分とは不釣り合いの高い称号が与えられ
やることなすことが厳しく見張られるようになります。
きっと意地の悪~い目に違いない

高い教育を受けていない彼女は失敗を怖れて次第に圧し潰されていきます。
とうとう裸で歩き回ったり、公の場でゲップやため息をつくなどの振る舞いを
繰り返すようになってしまいました。

1724年にフェリペ5世が気紛れから退位してルイスが即位しましたが
わずか7ヶ月で天然痘に罹り亡くなりました。
スペイン宮廷は15歳の未亡人ルイサ・イサベルを温かくいたわるどころか
あいかわらず冷たい態度で臨みました。
死ぬまでこんな環境で暮らさなければならないと考えたらどうにかなりそうですね。

母親のフランソワーズはさすがに可哀想になったのか
娘を返すようにと願い出てスペインもこれを了承しました。
本当であれば王妃の未亡人としてルイサ・イサベルには毎年60万リーブルの年金が
支払われるはずなのですが、スペインは結婚を無効にして一切支払いませんでした。

マリア・ルイサはフランスに帰国すると「平穏に暮らしたい」と宮廷には顔を出さず
父が遺したリュクサンブール城とヴァンセンヌ城をひっそり行き来していました。
1472年、誰からも忘れられたルイサ・イサベルはリュクサンブールで亡くなり
弟のルイ・シャルルが司教を務めるサン=シュルプス教会に葬られました。

             
              こんなに可憐な時代もあったのに…

華々しく嫁いだものの、しきたりの違いや宮廷での力関係に疲れて
体調や精神のバランスを崩してしまう王妃は決して少なくないのよね…
(もちろん王様の浮気なんてのもあるのよ!)
有名どころではシシィ(エリーザベト)なんかいますけど。
かといって、負けないように自分を強く持とうとすれば
「ワガママだ」とか「王を差しおいて」なんて言われてしまうのよ!
どうしろって言うんじゃい!

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王フェリペ5世妃 イサベル

2009-05-13 01:08:33 | スペイン王妃・王女
ザ・イメージ・オブ・まま母
フェリペ5世妃 イサベル・デ・ファルネシオ


1692~1766/在位 1714~1724、1724~1746

妻としか関係を持たないと決めていた信心深い30歳のフェリペ5世は
マリア・ルイサの死後10ヶ月ほどで21歳のイサベルと再婚しました。
我慢の限界だったのですかね?

フェリペ5世に絶大な影響力を持つウルシノス夫人の同意を得て
枢機卿アルベローニがまとめた縁談でしたが
カルロス2世の強烈な恐妻マリアナの姪にあたるイサベルは、これまたパワフルな
“ Going My Way ” な王妃でして…

イサベルは淑女になるべく母ドロテア・ソフィアにかなり厳しく教育されて
隔離に近い状態で少女時代を過ごしました。
これを教育と呼ぶか虐待と呼ぶかは現代でも意見の分かれるところでしょうが
イサベルは清楚で従順になるどころか、傲慢で強欲な女性になってしまいました。
     
国境でウルシノス夫人に厳かに迎えられたイサベルは、フェリペ5世に引き合わされると
すぐに影響力を持ってしまい(フェリペ5世って優柔不断だったのかしらね?)
自分には邪魔だと思われるウルシノス夫人を追放してしまいました。

その後イサベルはガンガン政治に口をだしますけど
だいたいがアルベローニの考えによるものでした。
それはサルディーニャやシシリーをスペイン領にしようとするもので
フランス軍がピレネー山脈まで迫った時には勇敢にも自分で軍を指揮したりしています。
勝ってりゃジャンヌ・ダルクみたいに英雄視されたかもしれませんけどね。
結局負けましたのでアルベローニは追放されてしまいました。

また、自分の王子を王にしたいイサベルは、先妻マリア・ルイサの王子が大嫌いでしたが
1724年、フェリペ5世はいきなり退位を決めてしまい、イサベルが止めるのも聞かずに
王位を長男ルイスに譲ってしまいました。
7ヶ月後ルイスが亡くなり、フェリペ5世は復位しましたが病がちで
王妃イサベルは再び好き勝手に国を治めました。
1736年には我が子カルロスがパルマ・シチリア王になりましたが
イサベルはこんなもんじゃ満足しません。

1746年、フェリペ5世が亡くなり、憎たらしいフェルナンド6世が即位しましたが
彼には嫡子が無かったので、イサベルの「我が子をスペイン王に!」の野望は消えません。
継子の王からやんわりと宮廷から追い払われた彼女は、グランハ宮殿で今か今かと
その時を待ちわびます。

待つこと12年、フェルナンドは嫡子が無いまま亡くなり、我が子カルロスがついに
カルロス3世としてスペイン王に即位しました。
けれど67歳のイサベルは既に衰えがはげしくて王宮へはもどらず
グランハ宮殿とアランフェス宮殿を行ったり来たりして過ごし、1766年に亡くなりました。

“ 大奥 ” でもありましたねぇ、自分の息子を殿にする… やっぱりそうなりますか?
母親の業なのでしょうか?
まあ、毒殺しようとしなかっただけ人道的とも言える…

当時の王の再婚は当たり前で、先妻の子を可愛がる立派な王妃もいたんだけど…
うちの母方のおばあちゃんは継母でしたけどすごくいい人だったし
母もそのことでイヤな思いをしたことは一度もないと言ってます。
『白雪姫』とか『シンデレラ』がどうも悪いイメージをつくっちゃったわよね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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スペイン王フェリペ5世妃 マリア・ルイサ

2009-05-12 00:34:09 | スペイン王妃・王女
東奔西走の王妃
フェリペ5世妃 マリア・ルイサ・デ・サヴォイア


1688~1714/在位 1701~1714

マリア・ルイサはサルディーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世王女です。
1700年に即位したばかりのフェリペ5世が、翌年マリア・ルイサと結婚したのは
イタリア半島を狙うハプスブルク家への牽制があったのかもしれません。

      

カルロス2世(ハプスブルク家)は嫡子を遺さずに亡くなりました。
死の間際にカルロス2世は、またいとこのフィリプ(ブルボン家)を
後継者に指名すると遺言書に署名していたため、フェリペ5世が即位したのですが
ブルボン家の勢力拡大を見過ごせない欧州列強は
ルイ14世が精神薄弱のカルロス2世を唆して書かせたものだと言って
1701年、徒党を組んでスペインに争いを仕掛けました。
“ スペイン継承戦争 ” といわれるこの争いは、その後アメリカ大陸に飛び火して
植民地の奪い合いに発展していきます。

結婚するやいなや戦時下の大局にたたされた王妃マリア・ルイサはたったの13歳。
まだまだオシャレや遊びに夢中なお年頃ですが、彼女は政府を取り仕切り
議会に働きかけて、戦費や兵隊集めにも自ら奔走しました。
フェリペ5世の宮廷には、ウルシノス夫人というかなり影響力がある老婦人がいましたが
マリア・ルイサは次第に彼女を凌いで地位をかためていきました。

立派ですね…さすが激動のヨーロッパ王家育ちです。

あと2年で継承戦争も終結するという1714年、マリア・ルイサは結核で亡くなります。
この時、死にゆく王妃に対してフェリペ5世がとった行動が…

フェリペ5世はとても敬虔なクリスチャンで、妻以外の女性と関係を持つことは大罪だとして
当時の王には珍しく浮気をしませんでした。
それはそれで立派なことではあるのだが、王妃が死んだら当分できないと思うと我慢できず
病に臥せっているマリア・ルイサのベッドに幾度となく入り込んだという…オイオイ

死を前にしてこんなことされちゃった王妃はどう思っていたのでしょうね?
献身が報われたと思ったのか、「困った人だね」と呆れたか…計り知れません。
私なら「あ~!せからしかっ!!」(博多弁です)って言って突き落とす!

(参考文献 エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
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