まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ポーランド王カジミェシュ3世妃 ヤドヴィカ

2015-03-29 15:29:05 | ポーランド王妃
             ヤドヴィカは肖像画を見つけられなかったので
                   孫娘のヴワディスワフ2世妃アンナ


ポーランドの行く末を担わされた王妃
カジミェシュ3世妃 ヤドヴィカ・ジャガンシュカ


1350~1390/在位 1365~1370

ヤドヴィカは1365年頃にカジミェシュ3世と結婚しました。
カジミェシュ3世は神聖ローマ皇帝カール4世との繋がりを強くしたいと思って
ヤドヴィカとの結婚を望んでいました。
問題は二人目の妃アデレージャと三人目の妃クリスティーナが存命中ってこと。
       
けれどもどうしても王子が欲しかったカジミェシュは結婚を強行。
家系図は省略しますが、カジミェシュとヤドヴィカは四等親にあたります。
カジミェシュは教皇の特免をもらわずに結婚に踏み切ります。

アデレージャの味方だった教皇インノケンティウス6世は異議を申し立てました。
だけど次のウルバヌス5世は、1368年に二人の結婚生活を認めています。
ウルバヌス5世もなにかと大変だった時期だけに
「四等親でしょ? もーどーでもいいよ」の境地に陥っていたのかもしれません。

何度も言うけど、この後王家間ではいとこ同士だのおじと姪だのの結婚が目白押しよ!
四親等で騒ぎ立ててるのが可笑しく思えるよ。

カジミェシュが焦っていたわけとは、もしヤドヴィカが子供を産まないと
ハンガリー王ラヨシュ1世が母親のエルジェピタ(カジミェシュの姉)の権利で
ポーランド王になってしまいます。
王家がピアスト家から離れてアンジュー家へいってしまうのね。
そうなると再び王座が戻ってくることもなさそうです。

だけどさ、カジミェシュは55歳で急がなきゃいけないかもしれないけど
ヤドヴィカは15歳ですよ!!
無理に子供なんか産んだら自分の命まで危なくなっちゃう。
子供優先ならどうして適齢期の女性を選ばないかしらね。

結局、結婚の翌年からたてつづけに3人の子供が生まれたのですが
カジミェシュの期待虚しく王女ばかりでした。

死を前にして王子をあきらめたカジミェシュは、後継者をラヨシュにしていました。

1370年にカジミェシュが亡くなると、ラヨシュがルドヴィクとして即位し
エルジェピタが摂政になります。

未亡人になったヤドヴィカはというと、すぐに次女を亡くし
故郷のジャガンに戻って兄ハインリヒ6世の宮廷で過ごすことになりました。

エルジェピタのパワーに圧されたか?
もしヤドヴィカが気の強い女性で、娘に婿を迎えて対抗してたら
この後のポーランドの王位継承も変わっていたかもしれないですね。
たぶんおとなしい女性だったのでしょう。

22歳の時にレグニツァ公ルプレヒトと再婚しました。
まだまだお若いものね。
二人の娘が生まれ、18年の結婚生活を送ったのち40歳で亡くなりました。

カジミェシュとの結婚で生まれた長女アンナの娘アンナが
後のポーランド王ヴワディスワフ2世・ヤゲウォの妃になります。
なんとか王座には関わっていってますが、ピァスト家による王位継承は
カジミェシュ3世で途絶えることになります。

ルドヴィク妃マルガリェタとエルジェピタ二人については
ハンガリー王妃編で書いたので割愛しますね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことお花見コーナー
お天気はいまいちだったのですが、今日を逃すと行けないかもと思って、毎年恒例近所の公園への花見に行って来ました
お弁当も毎年恒例のおにぎり&からあげ&タマゴ焼き。 満開ではなかったですが綺麗でした
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ポーランド王カジミェシュ3世妃 アデレージャ

2015-01-27 23:13:40 | ポーランド王妃
15年間ほっとかれた王妃
カジミェシュ3世妃 アデレージャ・ヘスカ


1324~1371/在位 1341~1356
カジュミェシュ3世は、アルドナ・アンナの突然の死から2年後
ヘッセン辺境伯ハインリヒ2世の娘アデレージャと再婚しました。

アルドナ・アンナと結婚した時は反ドイツ同盟のためでしたが
再婚はドイツとの関係構築のためでしょうか?
政治は刻々と変化していたわけですね。
        
しかし、この結婚はアデレージャにとって大変不幸なものでした。

アデレージャは17歳で32歳のカジュミェシュ3世に嫁いでいます。
若いお嫁さんをもらって、なんでも言うことを聞いて可愛がりそうなものですが
カジュミェシュは結婚後すぐにアデレージャと別居します。

すぐに帰してあげればアデレージャにも再婚の機会がゴロゴロあっただろうに
政治情勢がそれを許さなかったのか、別居したまま結婚はダラダラと15年続きました。
離婚後、アデレージャは故郷ヘッセンに帰されましたが、32歳で帰されてもね…

ここまで、この結婚に対してどんなアクションをおこしていたのか
なにひとつエピソードが無いアデレージャでしたが、離婚から14年後の1370年に
カジュミェシュが亡くなると、自分の財産の権利を守るために戦った…ということです。

耐えて耐えて耐え忍んだ15年間の見返りはもらわなくっちゃね!!
けれども、たぶん、カジュミェシュの死から1年後、47歳ぐらいで亡くなったらしいです。
ちゃんと勝利してから亡くなったのかしら? 最後ぐらい高笑いをさせてあげたかったよ。



不倫は不倫だからいいのかもよ・・・
カジュミェシュ3世妃 クリスティーナ・ロキザーナ


1330~1365/在位 1356~1363

可哀想なアデレージャの離婚の元凶となったのがクリスティーナです。

クリスティーナはもともとプラハの商人ニクラス・ロキザン(?)の妻でしたが
夫はものすごいお年寄りで、若くして未亡人になりました。

なんでも、肌は雪のように白く、不思議な美しさと気品を持つ女性だったそうです。
なんか愛妾のコーナーで何回も書いた文章のような気がするわ。

二十歳をちょっとすぎたぐらいのクリスティーナには、その後幸運が転がり込みます。
神聖ローマ皇帝カール4世の宮廷の侍女になることができたのです。
美貌となにかしら技を使ったんじゃないかと思われるが… これは想像。

1356年、カジュミェシュがプラハを訪れた時、クリスティーナを一目見て
その時に結婚を約束した… っていうかできちゃったわけなのね。

カジュミェシュはもともと浮気者で、相手をした女性もたくさんいたそうですが
結婚までは考えてなかったんですよね。
それが、クリスティーナとは即座に結婚の決心をしたところをみると
やはりかなりの美人か、かなりのやり手だったと思えますね。

そしてカジュミェシュは、国に帰るやいなや離婚したという流れです。

この結婚には、アデレージャ支持者の教皇インノケンティウス6世が異を唱え
別れるように申し渡したそうですが、カジュミェシュはこれを無視しています。
よく破門されなかったもんだ。

けれども、こんなにスキャンダルをまき散らした末に結ばれた二人は
あまり長続きしませんでした。

クリスティーナの不妊と皮膚病が原因だと言われていますが、さてどうでしょう?

もともと浮気好きのカジュミェシュが、今までの相手とは違う! とのめりこんで
結婚したのかもしれないけど、やっぱり愛妾が似会うタイプの女性だったんじゃない?
愛妾でいたら、カジュミェシュを惑わし続けて、贅沢三昧の一生が送れたかもしれないね。

1363年には宮廷を追い出されちゃったみたいですが、その2年後まではポーランドで
生存していたらしい… ということです。

生没年は不明ですが、1800年代に出た書物には、クリスティーナのことを
高い教養をもって、カジュミェシュの遺産で裕福に過ごしていた女生と記しているそうです。
いつも微笑みを絶やさず、唇を開くよりも瞳の方が雄弁だったそうで…

たぶんカジュミェシュに捨てられた後も讃美者は後を絶たなかったとみえますね。
めでたし、めでたし。

ちなみに、カジュミェシュの没後までクリスティーナが生きていたのだとしたら
カジュミェシュの4度目の結婚は重婚ということになります。
また、クリスティーナの身分が低いことから、この結婚は無効だと見る向きもありました。
そうなると、クリスティーナ、4人目の妃ヤドヴィカのどちらかが、もし子供を産んでも
後継ぎとしては認めないと意義を申し立てることができます。

これによって各国、自分の国にポーランドの王冠が転がり込むのではと
アンジュー家あたりが浮き足立つのですが、それはまた次回…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことクラフトコーナー
職場の異動にあたり、Tさんの息子さん(!)が編みぐるみを編んでくれたのでこんなことを…
     
だんな呆れるのまき… でも周りにはウケた
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ポーランド王カジミェシュ3世妃 アルドナ・アンナ

2015-01-25 20:25:08 | ポーランド王妃
NO MUSIC,NO LIFE,な王妃
カジミェシュ3世妃 アルドナ・アンナ・ゲディミノヴナ


1309~1339/在位 1333~1339

在位も長く、国内の紛争をおさえ、領土を拡大して大王とよばれたカジミェシュ3世は
4回結婚していますが、一人目のアルドナ・アンナが一番妻らしかった妃ではないかしら?

アルドナ・アンナはリトアニア大公ゲディミナスの王女です。
同い年の二人は15歳か16歳の時に結婚しました。

お決まりの政略結婚で、ポーランドとリトアニアの反ドイツ連合を強化するために
組まれた縁談です。
カジミェシュはこの結婚のためにボヘミア王女のユッタとの婚約を破棄しています。
ボヘミアもポーランドを狙っていて、味方につけておきたい国だったと思われますが
それよりもアルドナ・アンナとの結婚の方が重要だったということでしょうね。

        

この結婚でゲディミナスはリトアニア国内にいた25,000人 ( ! ) のポーランド人の囚人を
釈放して帰国させました。
25,000人て… 囚人というより捕虜ってことかしらね?

二国間の同盟は1326年のブランデンブルク辺境伯との争いで実行されましたが
その後は消滅の道を歩みます。

けれどもアルドナ・アンナの生存中は、ポーランドとリトアニアの間に紛争は無く
アルドナ・アンナがどれほど夫や政治に影響力があったかはわかりませんが
とりあえず、この結婚がちゃんと抑止力になっていたみたいですね。

そんなことより気になるのは、彼女がものすごく音楽好きだったらしいということ。
アルドナ・アンナはどこへ行くにも宮廷ミュージシャンを引き連れていたそうです。
今みたいにスマホ持ってきゃいいというわけでなく、団体を連れてくんですからね。
莫大なコストを投じて音楽聞いてたわけです。

それから、リトアニアの異教徒にも目の前で演奏させたりしたそうです。
何事も宗教が絡む当時、いくら音楽的に魅力があるからって
異教徒を侍らせるなんて危険すぎる!

ローマ教皇に破門されちゃう怖れあり、神聖ローマ皇帝にいちゃもんつけられる怖れあり
それが原因で離婚されちゃうかもしれないよ。
英王太子チャールズがスパイスガールズのファンで観に行っちゃったっていうのとは
レベルが違いますから!

敬虔な女性だったというだけにビックリしちゃいますが
音楽は世界をひとつにする!! という近年の風潮を(かなり)早い時期に
取り入れていたわけで、平和を望む思いが彼女を音楽に走らせたのかもしれないね… って
かなり無理矢理まとめてみました。

カジミェシュ3世との間には二人の王女が生まれています。
長女のエルジェピタはポメラニア公ボジスワフ5世に嫁いで、二人に生まれたエリーザベト
後に神聖ローマ皇帝カール4世妃になります。

1339年に急死しています。
この “ 急死 ” っていうのが、この後のカジミェシュ3世を見てると怪しいんだが…
クラクフに葬られたということなので、たぶん王廟のヴァヴェル大聖堂だと思われます。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことドラマコーナー
韓国版『銭の戦争』は観よう観ようと思ってて観てなかったんだけど、日本版のダイジェスト観たら面白い~
久々に日本のドラマを録画予約しちゃった。 つよぽんは上手いなぁ… でもパク・シニャンの方も観たいなぁ… やっぱり
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ポーランド王ヴワディスワフ1世妃 ヤドヴィカ

2015-01-12 20:50:07 | ポーランド王妃
夫唱婦随で国をつくった王妃
ヴワディスワフ1世妃 ヤドヴィカ・ボレスワヴォヴナ


1266~1339/在位 1320~1333

しばらくプシェミスル家に王座をもっていかれていたピアスト家でしたが
ヴァツワフ3世の死から16年後に、大公だったヴワディスワフ1世が王位獲得に乗り出し
1320年に王座につきます。

ヴワディスワフの血統はこんな感じ。

          

ブワディスワフとヤドヴィカが結婚したのは1293年です。
ヤドヴィカは27歳ぐらいです。
当時としては晩婚ですが、なにかわけがあったのかしら?

        

結婚した当時はヴァツワフ2世がポーランド王で、王座を狙えるブワディスワフは
潰しておきたい相手ですよね?
そんなわけでヴワディスワフの一家の毎日は危険に充ちたもので
ヤドヴィカと子供たちは隠れて暮らさなければなりませんでした。

即位したブワディスワフは、戴冠式でヤドヴィカが被る王妃の冠を新たに作りました。
「苦労をかけたね」っていう、ブワディスワフの気持ちでしょうか?
この冠はその後代々ポーランド王妃に受け継がれました。

ブワディスワフ1世の即位は、ポーランド国内でおきていた分裂を弱め
国の新たな再統一への一歩となりました。
まだまだ先は長いんだけどね…

また、ポーランドはボヘミアなどの介入を防ぐために
国外に盟友を増やす必要がありました。
そんなわけで王女エルジェピタがハンガリー王カーロイ1世に嫁いでます。

ヤドヴィカは夫の治世中は積極的に政治に参加したらしく
夫の死後は摂政なんかもしたみたいなんですけど、エルジェピエタは母の血をひいたかね?

ヤドヴィカはブワディスワフの死から6年後の1339年に亡くなりましたが詳細は不明。
スタリ・ソンチの修道院に葬られました。
なぜに夫と同じヴァヴェル大聖堂ではないのでしょう?
「墓だけは別にして!」っていう、近頃の奥さまと同じ考えだったりして…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことドラマコーナー
野村萬斎~? って思ってた『オリエント急行殺人事件 三谷幸喜版』 楽しかったさ。あの名前のこじつけ方
これから二夜目です。 犯人もわかっちゃったところからどう二時間もっていく気か? ワクワクですね
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ポーランド王ヴァツワフ3世妃 ヴィオラ・エルジュピタ

2014-11-18 22:40:05 | ポーランド王妃
              肖像画がないので義理の妹エルジェーベトで…

美貌ゆえに?  身分違いの結婚
ヴァツワフ3世妃 ヴィオラ・エルジュピタ・チェシンシュカ


1291~1317/在位 1305~1306

ヴァツワフ2世とグータの王子で、短命に終わったヴァツワフ3世の妃は
チェシン公ミェシュコ1世の公女ヴィオラです。

チェシン公は、決して王侯貴族と対等な立場ではなかったらしく
父のミェシュコ1世は、敵が多いヴァツワフの、数少ない忠臣の一人でした。

なぜにチェシン公の娘を?という理由がはっきりしていないのですが
近年の歴史家の中には、ヴィオラがずばぬけて美しかったという方もいるようです。

ただ、ポーランドとボヘミアの間にあるチェシンの立地からみて
美しいからってだけでお嫁さんにしたわけでもなさそうです。
       
1305年、16歳のヴァツワフと14歳のヴィオラは結婚。
ヴァツワフは幼い頃からハンガリー王アンドラーシュ3世の王女エルジェーベトと
婚約していましたが、ヴィオラとの結婚の4日後に破棄しました。
おいおい! 後ですか? 前でなく?

ヴィオラは結婚後にエルジュピタに改名しました。
若い二人の新婚生活は、あまり幸福ではなかったようです。

もともと基盤が危ういのに、ヴァツワフはかなり自由気ままで
ボヘミアの貴族たちと激しく敵対していました。
そんなわけで結婚から10ヶ月後、ヴァツワフはオロモウツで暗殺されます。

15歳で未亡人になったヴィオラは、財産も無く身よりもいないという状態で
義理の妹アンナとエルジェーベトとともに修道院に身を寄せました。

二人の義妹はその後結婚し、ボヘミア王座をめぐる争いに加わりますが
ヴィオラはポツネンと捨て置かれていました。

時は流れ… エルジェーベトと夫のボヘミア王ヤン・ルクセンブルクは
当時絶大な力を持っていた貴族ペテル・ローゼンブルクを取り込もうとし
ヴィオラを差し出すことにしました。
ペテルはハインリヒ・フォン・Lipaの娘と婚約していましたが
これを破棄して、1316年にヴィオラと結婚しました。

このハインリヒ・フォン・Lipaがリクザと暮らしていたハインリヒと同一人物かは
わかんないんですけど、たぶん同じ人だと思ふ…

再婚からたった1年後の1317年、ヴィオラは亡くなり
ローゼンブルク家の墓所に葬られました。

墓所だけでもわかっていてよかったです。
政治の道具として生きた短い人生で、個人的なエピソードはまったく無し!
絶世の美女といわれていたヴィオラが、十代半ばから二十代半ばまでの
一番輝かしい時間を、修道院で無為に過ごしていたことをどう思っていたか
ぜひ知りたいところです。

せめて肖像画が見たかったですね。
しかたなくエルジェーベトの肖像画を使いましたが、当時のボヘミアの王侯貴族の女性は
みんなこんな風に描かれてるから、ま、いっか、ってことで…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことマンガコーナー
『ヴェルサイユの薔薇』の新刊が出たんですって!! ルイ16世とマリー・アントワネットはともかく
オスカルとアンドレも死んじゃってなかった? どう続く? ナポレオンとジョゼフィーヌ登場?
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ポーランド王ヴァツワフ2世妃 リクザ

2014-10-25 02:26:42 | ポーランド王妃
最後は愛する人の隣へ
ヴァツワフ2世妃 リクザ・エルジュピタ


1286~1335/在位(ヴァツワフ2世妃)1300~1305 (ルドルフ1世妃)1306~1307

後継者が混乱を極めるポーランドで、プシェミスゥ2世が殺害されると
俄然注目を集めるようになったのが、二人目の妃リクサが生んだ
たった一人の王女リクザでした。
ポーランドの王座をねらう国内外の老若男たちがリクザとの結婚を望みますからね。

子供の頃に継母マルガリェタの兄オットーと婚約しましたが
オットーが1299年に亡くなってしまいました。

1300年にヴァツワフ2世と結婚しました。
ヴァツワフはこの時29歳で、リクザの15歳上だから、そんなに無茶な縁談じゃないけど
なにせ最初の妃グータが遺した10人ものお子がいるじゃない?
ただ、1300年時点で生きていたのは5人だんですけど、やはり子だくさんの家に嫁ぐのは
14歳の少女にはけっこう過酷よね。
会うことはあまりないかもしれませんけどね。
     
リクザが若いから…ということで挙式は1303年になりました。
しかし結婚生活は短く、1305年にヴァツワフ2世は肺炎で亡くなります。
子供は王女アグニェシュカのみでした。

リクザは、ヴァツワフ2世の死後王位に就いたヴァツワフ3世の摂政を
2ヶ月だけですが努めています。
19歳でしっかり者ですね、しかも実の子じゃないのに… さすが王女。

でも若い未亡人ですもの… まだまだ引く手数多って感じですね。
1306年、やはり王座をねらうハプスブルク家のルドルフと再婚しました。
ねらっていたのはどちらかというとポーランドよりボヘミアの王座だけどね。

ヴァツワフ3世は1306年に16歳の若さで亡くなり、ルドルフが継いだような継いでないのか
よくわかんないのだが、仮に継いだとしておいて、たった7ヶ月で赤痢で亡くなりました。

もうここからは、王座ねらいがウジャウジャ寄ってきますよ!
結婚した王女たち(グータの子ね)の夫たちも登場してきます。

リクザは21歳、まだまだ再婚しようと思えば楽勝だったと思うのですが
そんなゴタゴタがいやになったのか、再婚はしませんでした。

リクザはプラハを離れ、フラデツ・クラーロヴェーに落ち着き
恋人とされたハインリヒ・フォン・Lipaと暮らしました。
リクザとハインリヒは1319年に結婚したとも言われていますが定かではありません。

この後、政治の争いにハインリヒの名がでてきますが同一人物だろうか?
後継者の鍵を握る人物ですもの、長閑な隠遁生活というわけではなかったんんでしょうね。
ともあれ、ハインリヒが亡くなるまでの10年鑑、二人は幸福に暮らしていたということです。

リクザはその後、信心に目覚めてえ教会やシトー派の修道院を建てたり
讃美歌集の編纂に貢献しました。
1335年に亡くなると、愛するハインリヒの隣に葬られました。
王妃として葬られるより、愛する人の隣で眠る方が、本人は幸せだったのでしょうね。

それより、国王の娘として生まれ、短命の二人の王に嫁いだ女性なら
もう少し波瀾万丈なエピソードがあってもよさそうなものですが
リクザのパーソナリティーはほぼ垣間見えませんね。 残念です。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
行ってきましたよよぉ、埼玉文化センターのSHINee ホールツアー! まったくコンサート会場という高揚感のない外観…
 この事務的な看板に脱力  本当にSHINeeが出るのか疑ったね
でもすごく楽しかった~ ステージ近い~ パワフルなステージを見せてもらえて感謝感激!でした
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ポーランド王ヴァツワフ2世妃 グータ

2014-09-16 22:24:57 | ポーランド王妃
どっちかっていうとボヘミア王妃
ヴァツワフ2世妃 グータ・フォン・ハプスブルク


1271~1297/在位 (ボヘミア王妃)1285~1297 (ポーランド王妃)1291~1297

カジミェシュ2世の血をひくヴワディスワフ(1世)と争ってポーランド王についた
ヴァツワフ2世のひとり目の妃は、ドイツ王ルドルフ王1世の王女グータです。

         

ヴァツワフ2世の父オトカル2世と、ドイツ王ルドルフ1世は
神聖ローマ皇帝の座を争っていましたが和平条約を結び、子供同士の結婚が決まりました。
でもヴァツワフもグータも5歳なのよ! 結婚すると言ってもね…
というわけで、婚約は8歳の時で、結婚は14歳の時でした。

しかし、挙式のすぐ後にルドルフ1世はグータをすぐにドイツに連れ帰りました。
理由は「若すぎるから」… そんなことわかってんじゃないのよぉ!
しかも14歳で嫁いだ王妃は少なくないと思うけどね、良い悪いは別にして…

オトカル2世は、二人の結婚の1年前に戦死していて
ヴァツワフは13歳の若さで王についていました。
立場の強さを利用して、娘を少しでも長くそばにおいておきたかったのかもしれませんね。

それから、実際は母親のクニグンダが摂政としてボヘミアを取り仕切っていたのですが
ルドルフ1世は、クニグンダと一緒に国政を牛耳りこっそり結婚までしていた
フランケンシュタイン卿Zavishを嫌っていました。
「こんな淫らな宮廷に娘をおけるか!」という思いだったのかもしれません。

いずれにしても、グータが不参加だったせいで、ヴァツワフの戴冠式は中止になりました。

父王のZavish嫌いはグータにも伝わったらしく、グータも彼を嫌っていました。
クニグンダの死から5年後のZavishの裁判と処刑もバックアップしています。

ヴァツワフ2世は、もともとボヘミア王で、ポーランド王といっても名ばかり…
ほとんどポーランドにはいませんでした。

だからグータもほとんどポーランドにはいなかったってことで…
プラハの宮廷のドイツ化に努め、文化的に向上させることに励みました。
政治的には、兄のアルブレヒト1世とヴァツワフ2世を和解させることに成功し
ヴァツワフのポーランド王位継承も強く支持していました。

なかなか精力的な女性のようですね。
それにとても美しく、高貴で貞淑な女性だったそうです。 悪いとこなし!

さらに健康にもなんの問題もなかったそうなのですが、なにせ10年続けて妊娠してまして
そりゃあ疲れるってば… 10人目の子供の出産の時に亡くなりました。
中世には珍しい相思相愛の夫婦だったのかもしれませんけどね。

28歳の若さだし、とても美しかったということですから
かなり惜しまれて世を去ったのではないでしょうか? だとしたら救われますね。

余談なんだけど、ヴァツワフ2世の母クニグンダの妹グリフィナから
かなり時がたっているような気がしたけど、20年ぐらいしかたってないですね?
王様変わりすぎじゃないか? いつまでたってもポーランドが終わんないよぉ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
Kちゃんのお誘いでU-KISSの日本武道館に行ったんだけど、なんとまたアリーナ10列目… なんか運良すぎでこわい
ニュー・マンネも噂のヨジャダンサーズも見れたし、ケビンはかわいーし! 楽しかったです
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ポーランド王プシェミスゥ2世妃 マルガリェタ

2014-09-10 22:35:30 | ポーランド王妃
                 肖像画が無いので苦肉の策…
                   祖母のクリストファ1世妃マルグレーテ


久々の王妃だけど家系図だけ・・・
ポーランド王プシェミスゥ2世妃 マルガリェタ・ブランデンブルシュカ


1270~1315/在位 1295~1296

プシェミスゥ2世の三人目の妃は、肖像画もないし、個人的なエピソードもあんまりないけど
家系図だけは描き甲斐がありました。

最初の妃リュドガルダは後継ぎを遺さず、二人目の妃リクサが生んだのは王女だけ…
ということで、後継ぎが欲しかったプシェミスゥ2世は三度目の結婚に踏み切ります。

再婚相手に選ばれたマルガリェタは
ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯アルブレヒト3世と
デンマーク王クリストファ1世の王女マチルダの娘です。

しかし、プシェミスゥ2世もマルガリェタもボヘミア王オットカル1世の曾孫だったので
ローマ教皇の特免状が必要でした。

いつも思うんだが、この “ 親戚関係だから特免状が必要 ” っていうのは
当時の王侯貴族なら誰でもひっかっかったんじゃないのかしらね?
うるさく言われる結婚とそうでもない結婚の差はどこに…?
ローマ教皇に目をつけられてるとか、よその国が黙ってないとか、そういうこと?

で、家系図です。
             
描かなかったけど、家系図内のミェシュコ3世とヘンリク2世は遡ると
ボレスワフ2世で繋がります。
ヘンリク2世は一人目の妃ズビシュワヴァの息子ブワディスワフ2世の子孫で
ミェシュコ3世は二人目の妃シャロメアの息子です。

マルガリェタは、リヘザ・ロタリンスカ以来のポーランド王妃でしたが
その在位は1年と短いものでした。
なんと! プシェミスウは1926年に、マルガリェタの実家の家臣に誘拐され
殺害されてしまいます。
これもポーランド国内の権力争いが絡んでて、実家が敵方についたからなんだけど
娘を嫁がせた相手を殺しちゃうっていうのは… 中世ですわね。

マルガリェタはしばらくポーランドに残っていましたが故郷に戻り
ロストック卿ニコラウスと婚約しました。
しかし、この縁談は中止され、1302年にザクセン公アルブレヒト3世と結婚します。
マルガリェタは32歳ですが、その後二人の男の子を生んでいます。
当時の初産としては高齢出産ではなかったのでしょうか?

1308年にアルブレヒト3世が亡くなってから7年後に亡くなり
ラッツェンブルク大聖堂に葬られました。

けっこう激動の人生だったのはわかりましたが、彼女のパーソナリティは
なにひとつ垣間見えませんね。
ひとつでもエピソードがあれば、そこからどんどん妄想しちゃうんだけどなぁ…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことテレビコーナー
デヴィッド・スーシェ出演のポアロ・スペシャルは、本当によかった~! さすが世界の人気テレビシリーズ!!
それなのに~ファイナルシーズンの第一話を録画し忘れるという大失態 すぐ再放送してくれないかね?
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ポーランド公ヘンリク4世妃 マティルダ

2014-07-13 20:57:02 | ポーランド王妃
略奪婚?妄想が膨らむ妃
ヘンリク4世妃 マティルダ・ブランデンブルシュカ


1270~1298/在位 1288~1290

モヤモヤを残しつつ表舞台から去っていったコンスタンツィアと離婚後か死別後に
ヘンリク4世が再婚したのは、ブランデンブルグ=ザルツヴェーデル辺境伯オットー5世の娘
マティルダです。
         
同じくオットー5世の娘でマティルダの姉あたるベアトリクスが
マティルダに先立ってピアスト家のシュフィドニツァ公ボルコ1世に嫁いでいます。
このことがマティルダの縁談を大きく後押ししました… ってことなんですけど
一説によれば、ヘンリクとマティルダは結婚前から関係があったということです。

ボルコ1世とベアトリクスは1284年に結婚しています。
マティルダがその時にポーランドを訪ねたとして、ヘンリク4世の目にとまっちゃったとして
誘惑に負けちゃって… どんどん想像が膨らんじゃうわ…

ヘンリク4世とコンスタンツィアが離婚した年ははっきりしていませんが
もし、1284年以降だとすると略奪婚の可能性は大きいですね。

姉も嫁いでいるぐらいですから両家の政治的な思惑は十分あったでしょうけど
正妻を陥れて離婚させ王妃の座に座るなんて、悪女伝説にもってこいですよね。
特にコンスタンツィアが、語りつがれているように惜しまれて亡くなったとすると
悪役にもってこいのキャラクターですけど… 肖像画はそう見えませんね。

1290年にヘンリク4世が突然亡くなりました。
これは毒殺らしいです。

マティルダは結婚後2年ほどで未亡人になり、故郷に帰りました。
まだ20歳前後の若さだったと思うのですが再婚した形跡はなく、1298年に亡くなりました。

悪女としてでもいいから、何かエピソードが残っているとよいんですけどね。
本人はイヤかもしれないけど…


幸福でなによりです
プシェミスゥ2世妃 リクサ・シュヴェシュカ


1273~1293年/在位 (王妃)在位せず (公妃)1290~1293

ヘンリク4世の遺言により最高公の座を継承したプシェミスゥ2世は3回結婚しています。
一人目の妃は、メクレンブルク家のリュドガルダで、1273年に結婚しました。
しかし10年後リュドガルダは急死しまして、これはプシェミスゥの仕業という説もあります。
ずっとお子様ができなかったのね…

その2年後の1285年にスウェーデン王ヴァルデマーの王女リクサと再婚しました。
           
なーんのエピソードも残っていないのですが、言い伝えでは幸せな結婚生活だったそうです。

没年は不明ですが、1293年にプウシェミスゥがリクサの碑文を発注したそうなので
そのあたりではないかと言われています。
ボズナンの大聖堂に葬られました。
墓所だけでもわかっていてよかったですね。

プシェミスゥ2世は久々にポーランド王の座についた君主ですが
即位が1295年なのでリクサは即位していません。

リクサはプシェミスゥ2世に唯一の子供、リクサ・エルジェビエタを残しています。
エルジェビエタは、ボヘミア王ヴァーツラフ2世に嫁いだ後未亡人になり
同じくボヘミア王のルドルフ1世と再婚するんですけど、このボヘミア王二人は
プシェミスル家とハプスブルク家と、家系が違う王様です。
エルジェビエタも中世らしい複雑な人生を歩んだ王妃と言えそうですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
今さら…なのですが、この前私が働いている商業施設にVIXXがイベントで来てて、なんと!スタッフ通路で2回も遭遇
キレイな顔でした~やっぱり。 あまり詳しく知らないのですが、親近感がわいたのでまずは名前から覚えようっと
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ポーランド公ヘンリク4世妃 コンスタンツィア

2014-04-15 22:00:32 | ポーランド王妃
            肖像画はマネッセ写本のヘンリク4世のところに描かれていた
             女生(と思われる画)から、花持って一番目立ってる人を選んでみました


なんだか漠然としている王妃
ヘンリク4世妃 コンスタンツィア・ヴォジスワヴスカ


生年不詳~1351/在位せず

レシェク2世とグリフィナにお子様がいなくて、後継者でまたまたもめたポーランドで
最高公になったのは、文武両道の誉れ高いヘンリク4世です。

ヘンリク4世は短い生涯の中で2回結婚していて、一人目がコンスタンツィアです。
           
ただし、コンスタンツィアについては詳細に記されたものが無く
名前もコンスタンツィアではないという意見もあるそうです。

オポーレ公ヴワディスワフ・オドニツァの公女なのですが、姉妹であるマルガリェタ、
あるいはグジェミスワヴァと混同されているという説もあります。
生年月日も不明です。

結婚した年も不明で、おそらく、1277年から1280年の間だとされています。
ヘンリク4世が投獄された1277年が有力だそうですが
一説によると、コンスタンツィアの兄が「妹は若すぎる」という理由で
結婚の延期を申し入れたということで、1265年前後の生まれでは? と推測されています。

だいたい、結婚したかどうかも定かじゃないのだが
オポーレ公が、ヘンリク4世を「義理の息子よ」と呼んでいたという記録があって
それで、オポーレ公の公女と結婚してたのではないか? ということになったそうです。
でもさ、よくお気に入りの若者を「息子よ」とか「娘よ」って言う人いるじゃない?
そのパターンだったらどうするのでしょう? この説台無し…
ちゃんと記録されているということは、本当に義理の息子だったということかしら?

もちろん政略結婚なので、めんどくさいことは省きますけど
ヘンリク4世がドイツのルドルフ1世にしかけた戦争が関係しているようです。
オポーレ公はヘンリク4世支援派でした。

ところが、オポーレ公が1281年か82年に亡くなりました。
これを機にヘンリク4世がコンスタンツィアを遠ざけるようになります。
本当かどうかはわかりませんが、コンスタンツィアが不妊ということも理由になって
早々に離婚されてしまいました。
ちなみに、ヘンリク4世と再婚相手のマティルダの間にも子供はいません。

離婚された年も不明ですが、ヘンリク4世が1287年前後に再婚しているので
それまでには別れていたってことになりますね。

離婚されたのではなく、結婚後しばらくして亡くなったという説もありますが
離婚後は、兄のラチブシュ公ミェシュコ1世からヴォジスワフの領地をもらって
1351年まで暮らしていたとも言われていて… どっちが正しいのでしょうね?

1351年まで生きていた説を信じるとすると、離婚後のコンスタンツィアは
ラチブシュの統治者と見なされていて、かなり尊敬を集めていたらしいです。
言い伝えでは “ ヴォジスワフの貴婦人 ” と呼ばれていたらしく
現在では、コンスタンツィアの名がついた通り・学校・記念樹などがあり
市場にはコンスタンツィア像が建っています。

コンスタンツィアは再婚はせず、1351年に亡くなりました。
死因はペストです。
しかしながら墓所も不明。
1992年にラチブシュの修道院を発掘した際、40歳前後の女性が納められた棺が見つかり
碑文には感染症で亡くなったと書かれていました。
だからって、これがコンスタンツィアかどうかははっきりしていません。

中世初期には、完全に身元不詳の妃も多いし、伝説の粋を出ない妃もたくさんいますが
コンスタンツィアの場合、ある程度まではわかっているのに
「いや、そーじゃない、あーじゃない」という説がついてまわり、なんかモヤモヤしますね。

私としては、離婚後は立派に領土を統治して、尊敬されながら亡くなったという説を
強く推したいですね! 根拠はないけど…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことゲームコーナー
先日始めた “ ほしの島のにゃんこ ”  買うべきものはほぼ手に入れ、今は土地を増やすのに夢中です
そのためににゃんこを不眠不休で働かせてる状態… なんだか昔の領主の気持がよくわかるっていう…
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ポーランド公レシェク2世妃 グリフィナ

2014-02-24 19:46:26 | ポーランド王妃
肖像画で損してるかもしれない…
レシェク2世妃 グリフィナ・ハリツォカ


1248~1309/在位 1279~1288

コンラト1世とヘンリク2世の血をひくレシェク2世の妃は
ハールィチ公子ロスチスラフとハンガリー王ベーラ4世王女アンナの公女グリフィナです。
        
ボレスワフ5世がアレンジして、1265年に結婚しました。

レシェク24歳、グリフィナ17歳ですね。
むちゃくちゃな年の差で結婚させられてしまう王女たちがいることを考えれば
バランスがとれている夫婦だと思うのですが、この二人、6年後には別居します。

グリフィナは「夫が不能なので!」と公式に断言しました。
これに対してレシュクは「そんなことない!!」と完全否定。
国を巻き込んでの大がかりな夫婦喧嘩ですが、他の理由にしとけなかった?

結局、ボレスワフ5世が4年後に二人を強制的に復縁させたわけですが
恥ずかしいことを公言しちゃった嫁と仲良くできるわけないと思うけど…

1285年、レシェク2世に対する反乱の時には、グリフィナはクラクフのヴァヴェルに避難して
市民の保護下に入りました。

1287年、モンゴルの三回目の侵攻の時には
レシェク2世とグリフィナはハンガリーに逃亡しました。

いろいろありましたが、度重なる大きな危機に
「こりゃ夫婦喧嘩してる場合じゃないな」と、関係が修復されたのかもしれませんね。
ただ、グリフィナの言ったことが正しかったのか嘘かは別にして、二人にお子はいません。

1288年にレシェク2世が亡くなると、グリフィナの甥にあたるヴァーツラフが
ポーランドの後継者争いに名乗りを上げました。
この件にグリフィナが絡んでいるのかどうかは不明です。

グリフィナは未亡人になると、スタリソンチのクレア派の修道院に入りました。
この修道院の院長は聖キンガです。
家系図は省いたけど、聖キンガは、グリフィナの母アンナのお姉様にあたります。
キンガの死後はグリフィナが修道院長になりました。

1300年、甥のヴァーツラフと婚約したプシェミスル2世の王女リクサ・エルジェビエタの
監督役としてボヘミアまで付き添いました。

グリフィナの没年ははっきりしていませんが、たぶん、1509年と言われています。
ポーランドではなく、プラハのクレア派修道院に葬られました。

肖像画はなんだか恐ろしそうな女性に見えますね。
だけどこれは、レシェクとケンカしてる場面の絵なのでしかたないと大目に見てほしい…
いくら伯母がいるからって、清貧がモットーのクレア派修道院に入っているあたり
無欲で心優しい人だったかもしれないじゃない?

それにしても、 ハンガリー・ポーランド・チェコと、東欧の王侯家の関係は
どんどん複雑さを増していきますね。
さらに、ロシアやドイツも加わり、家系図に書ききれない… 頭の中がぐちゃぐちゃ~

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
少女時代と2NE1の同時カムバック、目が離せないわ! 各音楽番組も華やかになりそうですね
SMとYGから所属アーティストが応援にかけつける…なんてことないかしら?
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ポーランド公ボレスワフ5世妃 聖キンガ

2014-02-03 00:11:02 | ポーランド王妃
でた! 清い身を守った敬虔な妃
ボレスワフ5世妃 聖キンガ


1224~1292/在位 1243~1279

ヘンリク2世の死後最高公に即位したのは、同じくボレスワフ3世の血をひく
ボレスワフ5世でした。

ボレスワフは即位する4年前の1239年に結婚しました。
お相手は、ハンガリー王ベーラ4世の王女キンガです

      

お母さまはマリア・ラスカリズ
家系図は省いたけど、妹のヨレンタもポーランドに公妃として嫁いでいます。

結婚した時キンガは15歳で、いやいや嫁ぎました。
ボレスワフは年下の13歳でしたが、なんと、二人は結婚する時に
「生涯清い仲でいましょうね」と誓ったそうです。
で、それを守り通したそうですよ。

ボレスワフはさ、誓った時は幼かったからどうだってよかったかもしれないが
いくら誓ったといっても、思春期、青年期にさしかかったらねぇ…
もしかしたら、何度かキンガに「どうかな?」って言ったかもしれないよ。
でもキンガが断固拒否したんじゃないかと、勝手に想像してみました。

すみません… 罪深いこと考えちゃって…  
きっと誓いは守られたにちがいない!
ボレスワフは浮気した形跡もありませんし、さすが “ 純潔公 ” と呼ばれるだけありますね。

中世には、こういう頑な妃が何人か見あたりますね。
たしか… 神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世妃聖クニグンデもそうでした。
そういえば、キンガの別名もクニグンダですね。
叔母に聖エルジェーベトがいるし、祖母のアンドラーシュ2世妃ゲルトルード
ヘンリク1世妃聖ヤドヴィカの妹です。
聖人の道を歩むべくして生まれてきたのかも…
ちなみに、キンガの妹マルギットも聖人になっています。

キンガは口先だけで信仰を誓うのではなく、行動でも示しています。
とにかく貧乏な人々のもとを訪問し、ハンセン病患者を助ける活動もしました。

1279年にボレスワフ5世が亡くなると、キンガは所有物を全て売り払い
貧しい人々に寄附してしまいました。
キンガはまだ55歳、これからどうやって生きていくのよぉ?

キンガはドロドロした政治の世界には目もくれず、クレア派の修道院に入りました。
クレア派の修道院というのは、よく貴族の子女や未亡人が入る
ゴージャスな修道院ではありません。
1292年に68歳で亡くなりましたが、残りの人生を祈りの中で過ごしました。

心から敬虔な人だったようですね。
1999年(おお、最近!)ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
スマホをiPhoneに変えたはよいが使いこなせずイライラ~
K-POPもうまくダウンロードできず、結局前のスマホを持ち歩いてる状態…早く慣れねば!
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ポーランド公ヘンリク2世妃 アンナ

2014-01-17 20:46:06 | ポーランド王妃
さすが妻!すごい秘密で亡き夫を探す
ヘンリク2世妃 アンナ・プシェミシュルデカ


1204~1265/在位 1238~1241

若い頃から賢公として知られ、ポーランド再統合を目指していたヘンリク2世の妃アンナは
ボヘミア王オットカル1世の王女で、母親はハンガリー王ベーラ3世王女コンスタンツェです。
        
12歳ぐらいでヘンリクと結婚しました。

当時の入り組んだ中欧情勢の中、もちろん政略結婚だったと思うのですが
特にエピソードは残っていないけど、仲睦まじかったのではないかと思われます。
お子様が10人生まれています。

当時、中欧にはモンゴル軍が侵攻していました。
他国に先駆け戦いに出向いたヘンリク2世は、援軍を得られないまま
レグニツァの戦いでモンゴル軍に惨殺されました。

その殺害のしかたっていうのがひどい! 詳しく書きませんけどね。
あまりのひどさにヘンリクの遺体は見分けがつかなかったようですが
アンナは、ヘンリク2世の左足には指が6本あるという驚くべき特徴を伝え
夫を探すように伝えました。

想像なのですが、当時身体的に変わった特徴があったとしたら
神聖なもののシンボルとして崇められるか、異端として迫害されるか
なにかしら世間のリアクションがあったと思うんですよ、特に王族なんかは。

この特徴もものすごい秘密で、親と嫁以外誰も知らなかったかもしれないですよね。
きっと夫婦で「変わってるだろ? 俺の足の指」「あら、すっごーい、触らせて」なんて
イチャイチャしていたかもしれない…(想像じゃなくて妄想?)
だとしたら、夫の遺体を探すための拠り所になってしまうなんて、むごいことです。

ヘンリク2世の遺体は見つかり、アンナによってヴロツワフの修道院に埋葬されました。
この修道院は、ヘンリク2世が建設を始めたものです。
アンナが夫の遺志をついで1242年に完成させました。

義母聖ヤドヴィカとともに、レグニツァのレグニツキエ・ポレにも修道院を創設しました。
ヘンリク2世が戦死したところでしょうか?
追悼の意味が込められていたのかもしれませんね。

ヘンリク2世は勇ましい男性だったとお見受けしますが、アンナの性格はよくわかりません。
ただ、二人の間に生まれたクラクフ公ボレスワフ2世の残虐な性格に
非常に悩んでいたらしいので、心優しい人だったのかなぁ?
義母ヤドヴィカや、後述の聖キンガがそうだったように
特に慈善に励んだというエピソードはないのですけどね。

公女のうち3人は他家のポーランド公妃になりました。
他国との争いを避けるための政略結婚あり、国内の権力維持のための政略結婚あり…
当時の王侯貴族の娘さんたちは、本当に大きな役割と責任を担っていたんですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
KARAはニコルとジヨンがいなくなってしまうのね。特にKARAが好きというわけではないのですが、寂しいですね。
熾烈なK-POP界でせっかくここまで頑張ってきたのにもったいないなぁ…と思って
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ポーランド公ヘンリク1世妃 聖ヤドヴィカ

2013-10-15 22:09:52 | ポーランド王妃
後世まで国民のよりどころだった妃
ヘンリク1世妃 聖ヤドヴィカ・シュラスカ


1174~1243/在位 1232~1238

Illustratorが復活したので久々に家系図を作成…なのですが
間があきすぎててポーランドの流れを忘れちゃってるよぉ
思い出し思い出し書いてみます。

ヘンリク1世はしばらくぶりにポーランドを拡大した君主として名高いようですが
その妃もその前後の妃と比較すると高名です。

父親はメラニア公ベルトルド4世で、妹にフランス王フィリプ2世妃アニェス
ハンガリー王アンドラーシュ2世妃ゲルトルードがいます。
この二人とはあまり性格が似ていないみたいですが、末の妹のマティルダはヤドヴィカと
一緒にキッツィンゲンの修道院で教育を受けていて後にそこで修道院長になっています。
ちなみにゲルトルードの王女でヤドヴィカの姪にあたるエルジェーベトも聖人ですね。
         
本当は信仰をしながら静かな生活を送りたかったんじゃないかと思うのだが
12歳という若さでヘンリクに嫁ぐことになってしまいました。

その後は君主の座をめぐるゴタゴタに巻き込まれていくわけなのですが
長くなるのでヤドヴィカに関係してることだけ書きますと…

1229年にヘンリクは対立するモスヴィア公コンラト1世にプウォツク城で
捕らえられるのですが、タドヴィカは自らプウォツクに出向いて救出しました。
1232年にヘンリクが最高公になると、ノヴゴロドのアウグスティン派や
テンプル騎士団に寄付をするなどして夫の治世を助けました。

妻としての務めを果たすかたわら、宗教活動も活発に行っていました。
1202年にヘンリクにお願いしてトシェブニツァ教会を建てています。
ヘンリク1世は1238年に亡くなるとこの教会に葬られました。
この教会は現在は聖ヤドヴィカ教会と呼ばれているようです。

ヘンリク1世とヤドヴィカには7人の子女が生まれていますが
5人が幼かったり若くして亡くなっています。

公子ヘンリク2世は父親の後を継ぎましたが、1241年にモンゴルの侵攻にあった際
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の応援を待っているうちに戦死しました。

ヤドヴィカはヘンリク1世の死後宮廷に残って勢力をふるうようなことはせず
三女ゲルトルードが院長を務めるトシェブニツァ修道院に移り住みました。
宗教活動は衰えず、神聖ローマ帝国から聖職者を招いてシロンスクに居住区を造ったり
ヘンリク2世妃アンナと共にレグニツァにベネディクト派の修道院を建てています。

ヘンリク1世とヤドヴィカはとても敬虔な生活を送っていました。
ヤドヴィカは常に貧しい人を助ける活動を行い、全財産を教会に寄付しました。

言い伝えによるとヤドヴィカは冬でも裸足で
ヴロツワフの司教に靴をはくように勧められたということです。

ヤドヴィカは1243年に亡くなり夫と同じトシェブニツァ教会に葬られました。
列聖って、死後けっこうたってから、たとえば100年とか200年とか経ってから
されるものだと思っていたら、ヤドヴィカは1267年にされています。
これはヘンリク2世とアンナの公子でザルツブルクの大司教だった
孫のヴワディスワフが推したらしいですよ。

時は流れて、1742年にプロシアのフリードリヒ2世がシロンスクを併合しましたが
1773年にはベルリンにシロンスクの上流社会の移民たちのために
聖ヤドヴィカ聖堂が建てています。

聖人だけあって肖像画がたくさんあるので、もう1枚の載せとくね。

              

いつまでたってもポーランドのカトリック信者のよりどころだったのですね。
強いカリスマ性や存在感で国を守った妃のエピソードはよく取り上げられますね。
それはそれで、もちろん賞讃に値するのでしょうが
慈愛の力で国民を守ろうとした妃たちのことも忘れてはなりませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
録画してた韓流フォンデュを見てたらチョ・ヨンピルのライブシーンがあったのよぉ
『Hello』が流行ったのは知っていたが、激しく動きまわる姿を見てビックリした! 過去の日本でのイメージが強すぎて…
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ポーランド公ヴワディスワフ3世妃 ウツェヤ

2013-07-03 23:41:09 | ポーランド王妃
               こちらはコンラト1世妃アガフィア

けっこう長生きなのにエピソードひとつだけって・・・
ヴワディスワフ3世妃 ウツェヤ・ルギシュカ


生没年不詳/在位 1202~1206、1227~1229

ミェシュコ3世の二人目の妃エウドクシャの子で贔屓されてたらしいヴワディスワフの妃は
デンマーク王クヌート5世の孫娘にあたるウツェヤです。
           
1186年に結婚しているのですが、亡くなるまでに残っているエピソードは
ヘンリク1世と聖ヤドヴィカの末っ子の洗礼式に夫婦揃って出席したということ、ただひとつ。
(聖ヤドヴィカはこれから登場します)
お子様もおりませんので、母親としてのエピソードもありません。

夫婦で公の場に出たのが1回だけ? まさかね…
ヴワディスワフ3世は愛妾がたくさんいたらしいので夫婦仲が悪かったんですかね?

没年は不詳ですがヴワディスワフよりは長生きしたそうで、1131年頃だといわれています。
墓所も不明… 当時としてはけっこう長生きだと思うのですが
存在感が無い人だったんだろうか?

で、最高公が入れ替わり立ち替わりの合間に1210年から1年だけ最高公になった
ミェシュコ4世の妃ルドミワは、父親も不明なので割愛します。
ルドミワ(ルドミラ)という名はボヘミア系で、当時この名の女性がいたのは
プシェミスル家だけだったそうですが、キエフから嫁いできたって説もあり…



夫の信頼を失墜させた妃
コンラト1世妃 アガフィア・スヴァトスワヴナ


1190~1248/在位 1229~1232、1241~1243

ブワディスワフ3世の後を継いだコンラト1世妃はリューリク家の流れをくむアガフィア。
ということはキエフ方面ですかね?
ものすごく良い家柄とも思えないが、悪くもなさそうです。
       
もはや国内は敵だらけ…国外に味方を見つけようとするポーランドの継承者たちを
周辺の大国がほっとくわけないですよね?

アガフィアの父親はコンラトの兄レシェク1世の味方で
さらにポーランドにくい込もうとしていました。
そんなわけで二人は1207から1210年の間に結婚しました。

お子様も10人生まれ、結婚生活は順調だったようですが
1239年、一家に暗雲がたちこめました。

コンラトとアガフィアの公子カジミェシュは、ヘンリク2世の公女コンスタンチアと
結婚したのですが、これに対し、長年一家に尽くし、子どもたちの家庭教師もしていた
ヨン・ハロン(?)がいい顔をしませんでした。
さらにはコンラトの統治にも不満を表すようになります。
さてはコンスタンチアが好きだったの? ま、まさかカジミェシュのことが…?

ハロンはどうやら謀反をおこしたみたいで、有罪になります。
拷問 → 公開縛り首という、The 中世な刑が行われたわけですが
判決から処刑、さらに処刑後のアガフィアの行動がすごかったみたい。

あまりの酷さにグニェズノ大司教はコンラトとアガフィアに破門を言い渡しました。
二人はミサにも行けず、国内での宗教行事にも参加できませんね。
当時の王侯貴族にとって破門ほど恐ろしいことはありません。

コンラトは信頼も人望も失ってしまいました。
困り果てたのか、グニェズノまで出向き赦免を手に入れています。

それでなくても敵の多いポーランドの君主継承権争い…
夫が暴走したら諌める方にまわらなければならないのに、夫より目立っちゃダメね。

10人の子どものうち5人は公子ですが、誰ひとり最高公についていません。
さてはこの件で後援者を失ったか?

没年は不詳ですがコンラトよりは長生きしたそうです。

良いエピソードではありませんが、少しは存在感がある妃がいて良かったです。
そうじゃないとずーっと、エピソードが無いって書き続けなければならないからね。
それはそれでつらい…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
SHINeeのさいたまスーパーアリーナ! 横浜から3日間通ったわよ!! そしてすごくすごーく良かったわよぉ
終わっちゃって今脱力中… 名古屋の追加が出たら応募しようと真剣に考えてます。 旦那は猛反対中
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