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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ポーランド公カジミェシュ2世妃 ヘレナ

2013-06-05 21:25:34 | ポーランド王妃
摂政は楽じゃない・・・1号
カジミェシュ2世妃 ヘレナ・ズノエムスカ


1141~1206/在位 1177~1194

異母兄弟に伯父・叔父入り乱れて権力の奪い合いが続いていたポーランドで
甥オド(兄ミェシュコ3世の長男)を助けると見せかけて~の権力奪取に成功した(憶測ね)
カジミェシュ2世の妃は、ズノイモ公コンラート2世の公女でした。
ズノイモっていうのはチェコらしいです。 ボヘミアとの関係強化ですかね?

ヘレナという名は、母方の叔母ヘレナ(イローナ)からいただいたらしいです。
         
1194年にカジミェシュ2世が(たぶん)心臓発作で亡くなると
ヘレナは幼い息子たちの摂政になりました。

一族入り乱れての権力争いまっただ中での摂政は楽じゃないですよね?
ヘレナは、さすがイローナの名をもらっただけあってとても賢明な女性だったそうですが
それでも母子はカジミェシュの兄弟だの従兄だの姉妹の婿だのに威嚇され苦労したようです。

中でもミェシュコ3世との争いは激しかったみたいですね。
四男レシェクは最高公の座をとったりとられたり… めんどくさいなぁ…
どちらかオトナになって我慢できなかったんですかね?
常識からいくと年少者が我慢すべきでしょうが、そうもいかないのが中世か?
国内で争っているうちに、隣の大国にやられちゃうぞ… と誰か教えてあげなきゃ!

1202年から1206年の間に亡くなりました。
その後もレシェクは廃位したり返り咲いたり…
こんなストレスいっぱいの争いがなければ、もう少し長生きできたかもしれませんね。



              
摂政は楽じゃない・・・2号
レシェク1世妃 グジェミスワヴァ


1185~1258/在位 1207~1210、1211~1227

父親一族と激しい権力争いを繰り広げ、三度目の最高公の座を手に入れた1年後の
1207年にレシェクが東方拡張策のために結婚したのは
キエフ大公ヤロスラフ2世の孫にあたるブジェミスワヴァでした。

その前に他の女性と結婚していたという説もあるらしいけど不明です。
         
あんまりエピソードはないんだけどさ…

1227年にレシェク1世が暗殺されると1歳の息子ボレスワフ(後の5世)の摂政になります。
ボレスワフはブジェミスワヴァが亡くなった後も母親の影響力から
逃れられなかったというから、かなりのスパルタママだったんじゃないかしらね?

ちなみに娘のシャロメアも母の影響を受けてか、深く宗教に傾倒していまして
1672年に福女に列福されています。

上の画を見ると必死で息子を守ろうとする摂政ママの悲哀が表れてますね。
そんなこともあって、ボレスワフは母親に反抗できなかったのかもしれないですね。

1258年に亡くなり、親交のあったザビホストのフランシスコ派教会に埋葬されました。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
そういえば、SHINHWAのCD来たんだけどさ… A4変形版厚さ4cmのカンカンに入ってるCDって初めて見たよ
クッキーの詰め合わせかと思っちゃったけど、CDはさすが大人の魅力いっぱいですね! 最近毎日聞いています。
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ポーランド公ミェシュコ3世妃 エルジェビエタ

2013-05-12 01:30:14 | ポーランド王妃
ちょー幼妻かもしれない
ミェシュコ3世妃 エルジェビエタ・ヴェギエルスカ


1128~1154/在位せず

兄ボレスワフ4世から最高公の地位を継承したミェシュコ3世という人は
何度も退位したり即位したりと忙しい人でした。

ミェシュコは、1136年頃ハンガリー王ベーラ2世の王女エルジェビエタと結婚しました。
この縁談にも母親のシャロメアの奔走ぶりが垣間見えますね。
息子の味方がいっぱいほしーよー!!というガッツが感じられます。

      
けれどもこの記録が正しいとするとエルジェビエタは8歳か9歳です。
いくら中世とはいえ若すぎ! ということで、ベーラ2世の娘ではなく姉か妹、
つまりクロアチア公アールモシュの公女では?という説もあるそうです。

どうなんでしょうね?
一番上の子は1149年以前に生まれてるらしい… エルジェビエタは20歳前後ですね。

1154年に26歳か27歳で亡くなったとされています。
やはり幼くして嫁いだのでしょうか?
現在なら小学生… いくら国益のためとは言っても
争いの絶えない異国に娘をやる親の神経もすごいものがありますね。



              
継母モード全開だったのかどうかは謎
ミェシュコ3世妃 エウドクシャ・イジャスワヴォヴナ


1131~1187/在位 1173~1177

ミェシュコはどうやら前妃エルジェビエタが亡くなるとその年のうちに再婚したみたいです。
お相手はキエフ大公イジャスラフ2世の王女エウドクシャです。
        
キエフもなんだか目まぐるしく大公が替わっている印象があるのですが
こまめに縁談をまとめていますね。
神聖ローマ帝国の介入が激しくなってきたこの時期
キエフ大公国はポーランドにとって重要な相手だったみたいですね。

ミェシュコは1173年に最高公に即位しましたが、1177年に退位しました。
これは前妃エルジェビエタが生んだ長男オドが「エウドクシャの子ばかりひいきする」と
叔父、つまりミェシュコの弟カジミェシュ(後の2世)の助けを借りて
反乱をおこしたためです。
ただの焼きもちじゃすまないのが王家のつらいとこ… 継承権がかかってますから。
カジミェシュもただの親切心だけで助けたわけじゃなさそうですね。

このえこひいきにエウドクシャの意思が関わっているのかどうかは不明です。
小さい子の方が可愛いから… とミェシュコがかわいがっていただけかもしれないしね。

結局(親子喧嘩の果てに)ポーランドからの逃亡を余儀なくされたミェシュコは
まずは長女のエルジェビエタの嫁ぎ先ボヘミアのソビェスラフ2世に助けを求め
そして、たぶん次女リュドミラか三女ユディスの嫁ぎ先のドイツへ向かい
最後に五女アナスタジアの嫁ぎ先ポメラニアのボギスラフ1世を頼りました。
ちなみに三女までは前妃エルジェビエタの子ね。

エウドクシャも同行していたようです。
前妃の娘たちとは上手くやっていけたのかしら?
もしも再婚後冷たくあたっていたとしたら居心地が悪かったでしょうね。

ミェシュコは1187年に領土を回復して1191年に復位しています。
エウドクシャは領土回復の時には生きていたと推測されていますが
復位の時には亡くなっていたとされています。

1187年以降の記録は無いようなのですが、1209年死亡説もあるそうです。
そうすると、ミェシュコの4回に渡る退位・復位に付き合ってるわけで…
ご苦労様です。

(参考文献 沼野充義氏『中欧』 Wikipedia英語版)

ひとこと韓流コーナー
私はイ・ソヨンという女優さんが好きで、BSで始まった『恋せよ、シングルママ』というドラマを見始めたのですが
20話までかと思っていたら50話まであるんだって! 長い…長過ぎる…でももうやめられない
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ポーランド公ボレスワフ4世妃 ヴィエショフスワヴァ

2013-04-28 01:12:23 | ポーランド王妃
アナスタシアっていうらしいよ
ボレスワフ4世妃 ヴィエショフスワヴァ・ノヴゴロヅォカ


1125~1162/在位 1146~1162

異母兄ヴワディスワフ2世を打ち負かし、最高公の座についたボレスワフ4世は
争いが激化する前の1137年頃に
プスコフ公フセヴォロドの公女ヴィエショフスワヴァと結婚しました。

プスコフ公領というのはロシアにあります。
ボレスワフ4世に反抗していたヴワディスワフの母シャロメア
ロシアを味方につけたくてネゴったらしいです。
       
エピソードはないのよね…

最初の王子ボレスワフを生んだのが結婚から20年後ぐらいっていうのが驚きですが
たぶん10代前半で結婚してるので30代前半の初産ですね。
現代なら驚くことないですね。

二人目の王女を生んだ時に亡くなったとされていますが
1158年、1160年、1162年説があります。
墓所もボレスワフ4世の隣らしい…ってことではっきりしていません。

ロシア出身ということで、お国ではアナスタシアという名前だったらしく
ヴィエショフスワヴァの死後ボレスワフがシトー派修道院に寄贈した銀の装丁の福音書は
“ アナスタシアの福音書 ” と呼ばれているそうです。


存在が謎すぎる
ボレスワフ4世妃 マリア


生没年不詳/在位 1162~1173

まず生没年がはっきりしてなくて、お父様もはっきりしていないの。
上の家系図にあるように、キエフ大公ロシチスラフ1世の大公女という説があります。

ボレスワフ4世の次男レシェクはマリアが生んだとされていましたが
以後発見されたコインから、レシェクが自分のことを “ アナスタシアの息子 ” と
称していたことがわかりまして、マリアが母説はあえなく崩壊…

墓所も不明です。
プウォツク大聖堂では? と言われているらしいのですけど… 誰も調べないのかしらね?

確かに君主とはいえ一領主の妃ですからねぇ…
詳細はわからないこともありましょうが、あまりにも不明ですよね。
存在自体疑わしい気もしますが、わざわざ再婚相手を創作するほどの状況でもないですね。
例えば、妃の評判があまりに悪いので死んじゃったって嘘ついて再婚したことにするとか
息子が急に王になったのでいい家の出の母親がいることにするとか…

シャロメアとかアグニェシュカにエピソードが多かっただけに寂しい気がします。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
SHINeeの『 Why So Serious? 』… CDでは歌っていますが、MVはジョンヒョンがいなくて寂しいですね
早くよくなりますように
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ポーランド公ヴワディスワフ2世妃 アグニェシュカ

2013-04-19 22:46:21 | ポーランド王妃
“ 雌トラ ” と呼ばれた王妃
ヴワディスワフ2世妃 アグニェシュカ・バーベンベルゲ


1108~1163/在位 1138~1146

ボレスワフ3世の影薄ーい一人目の妃ズビシュワヴァが生んだヴワディスワフ2世は
けっこう有能で王様の素質があったみたいなのですが、異母弟たちとの争いが絶えず
結局国をおわれて他国で没しました。

ヴワディスワフ2世の父ボレスワフ3世は領土を保持するために神聖ローマ帝国に反抗していて
神聖ローマ皇帝ロタール3世と敵対する強力な同盟者を手に入れようと探していました。
そこで、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世を祖父に持つロタール3世の宿敵バーベンベルク家の
アグニェシュカと王子ヴワディスワフの結婚を決めました。

二人は1125年に結婚しました。
ボレスワフ3世はお祝いに二人にシレジアを送っています。

    
1138年にボレスワフ3世が亡くなると、ポーランドは息子たちに割譲されましたが
ヴワディスワフは長男だったので、一応最高権力者になります。

しかし、ボレスワフ3世の二人目の妃シャロメアをはじめ弟たちは納得しないでしょ?
前項で書いたとおりシャロメアはボレスワフを失脚させようと必死に反抗します。

一方、アグニェシュカは長男である夫が単独の君主でないことに大きな不満を抱きます。

ドイツでは勢力のある家柄の出で、神聖ローマ皇帝の孫にあたるアグニェシュカは
非情に精力的で野心家で、クラクフ司教は彼女を “ 雌トラ ” と呼んでいました。

イングランド王エドワード2世妃イザベルも “ 女豹 ” なんて呼ばれてましたけど
虎の方が強そうですわね…
どうでもいいけど気の強い悪女タイプの女性を猫科の動物で呼ぶのはやめてほしいぞ。

アグニェシュカは「国を統一しなさいよ!」とヴワディスワフを煽ります。
ヴワディスワフもその気になってしまい、これがもともと不満があった弟たちとの
対立を深めていきます。

シャロメアが宮中伯を追いやる一方
アグニェシュカはシレジアの強力な領主ヴワストヴィクの失脚を謀ったりしています。
この時は目を潰して追放、なんて中世的な刑を与えました。

けれども、ヴワディスワフとアグニェシュカの専制的なやり方は裏目にでます。
家臣の忠誠心は弟たちに移ってしまいました。
結局1146年にヴワディスワフは弟たちに敗れボヘミアに逃れました。

アグニェシュカと子どもたちはその時クラクフにいて、しばらくは抵抗していましたが
やはり追放されてしまいました。

アグニェシュカの異父兄にあたるホーエンシュタウフェン家のドイツ王コンラート3世が介入し
ヴワディスワフはすぐ復権できそうな気配もあったのですが
ドイツ軍の遠征は失敗に終わります。

続いてアグニェシュカの要請でローマ教皇エウゲニウス3世が仲裁に入りますが
ヴワディスワフの弟たちは兄の帰国を断固拒否しました。
これでポーランドは教皇から破門という、当時としては恐ろしい罰をを言い渡されるのですが
これは逆に国内の教会の統一に役立って感謝されちゃう始末。

1155年に神聖ローマ皇帝がアグニェシュカの甥フリードリヒ3世になり
アグニェシュカは再び野心を燃やします。
ところが! フリードリヒはポーランド遠征を行い勝利したものの
ヴワディスワフの復権は認めませんでした。
やはり神聖ローマ帝国はポーランドを手中に収めておきたかったのね。

ヴワディスワフがフリードリヒ3世に臣下の誓いをし、年貢を納めることを条件に
シレジアがボレスワフ4世からヴワディスワフの息子に返還されることになって
やっとアグニェシュカはあきらめがついたようです。

このごたごたから2年後の1159年、ヴワディスワフが亡くなります。
アグニェシュカの没年ははっきりしていません。
1163年に次男ミェシュコがシレジアに戻って復権した時に同行していないので
その前に亡くなったのでは? と言われています。
これだけ名を轟かした女性の没年がはっきりしていないとは寂しいね。

それにしても、同時代にシャロメアとアグニェシュカという二人の野心家を抱えていた
ポーランド宮廷はすごそうですね!!
奸策、陰謀、権謀術数… いろ~んな悪だくみが渦巻いてた予感…
歴史ドラマにもってこいじゃないですか? 主役は二大 “ 肉食系 ”女優なのね。
ポーランドではドラマになっているのでしょうか? ちょっと興味あり…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
Infiniteの新曲『Man In Love』はすごい勢いですね!
私はミニアルバム 4曲目の『恋しさの届く場所に(ハングルが文字化けするので邦題です)』がすごく好きです
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ポーランド公ボレスワフ3世妃 ズビシュワヴァ

2013-03-09 22:19:59 | ポーランド王妃
影うす~い一人目の妃
ボレスワフ3世妃 ズビシュワヴァ・キョヴスカ


1085~1114/在位 1107~1114

ブワディスワフ1世のあとを継いだボレスワフ3世には
父王の一人目の妃とも愛妾ともいわれるプレゼクラヴァが生んだ異母兄ズビクニェフがいて
案の定、君主の座をめぐって争っておりました。

ズビクニェフのバックには神聖ローマ帝国がついてましたので
ボレスワフはキエフ&ハンガリーと手を組もうと考えまして同盟を結びました。
その際にキエフ大公スヴャトポルク2世の王女ズビシュワヴァと婚約し
1102年に結婚しました。
        
この方のエピソードといったら、王子ブワディスワフ(2世)を生んだことだけで
没年もはっきりしておりません。
ボレスワフが1115年に再婚しているので、1114年までに亡くなったと言われております。

がっかりしないで… 次の妃はパワフルですので。


                
子どものために(?)大奔走
ボレスワフ3世妃 シャロメア・ベルギェウ


1093~1144/在位 1115~1138

ボレスワフ3世の二人目の妃シャロメアはベルク伯ハインリヒの娘です。
母はフォーブルク辺境伯ディエポルド3世の姉か妹、あるいは
ハンガリー王シャロモンとユディタの王女ソフィアの孫と言われています。
ただこの説は否定的に考えられているそうです。
      
シャロメアの妹リキサがボヘミアのブラディスラフ1世と結婚してまして
ポメラニアまで領土を広げていたボレスワフがボヘミアと関係を築きたくて協定を結び
シャロメアとの再婚が決まりました。

前妃ズビシュワヴァは王子一人と王女一人を生んでましたが
シャロメアは13人のお子様を生みました。
      
前妃の子どもを可愛がったかどうかは不明だけど
人が生んだ子なんかかまってられないわよ! といったところじゃないかしら?

しかもシャロメアは子どもを育てるだけじゃなく
子どもたちの代理となってがんがん政治に介入しようとしました。
つまり、相続原理に従って前妃が生んだブワディスワフが王に就いて
我が子たちがそのおこぼれにあずかるなんて堪えられない!! ってことです。

シャロメアは力のあった宮中伯を辞職させ
反ブワディスワフ派のプファルツ伯を後がまに据えたりしています。
そんなことを許すなんて、ボレスワフはシャロメアの言いなりだったのかしら?

シャロメアの意志を尊重してか、自分の死後国をブワディスワフ一人に譲らず
子どもたちに分割して与えるようにしています。
各君主領土を拡大して自分の勢力を強めようと血眼になっているこの時期
ものすごーく浅はかな決断としか思えません。

シャロメアにも再婚しない、修道院に入らないという条件で領土が与えられました。
しかし、ちっぽけな領土では満足いかなかったとみえて
一応君主の座についたブワディスワフへの反抗を続けます。

味方を得るために、ブワディスワフへの相談は一切無しで
娘をキエフ大公フセヴォロド2世の王子スヴャトスラフと結婚させようとしました。
王家の結婚は政略ですからね… 君主を無視するとはけしからんことですよ。

ブワディスワフは速攻でキエフに働きかけ、この縁談は破談になりました。
代わりにブワディスワフの王子ボレスワフとフセヴォロド2世の王女が結婚しました。

野望は叶わないまま、シャロメアは1144年に領地で亡くなりましたが
その後彼女の王子ボレスワフが巻き返し、1146年に君主の座を手に入れます。

なんと! この時ボレスワフが手を組んだのは、シャロメアが追い出した宮中伯でした。
母親の頑固な意志を受け継いで立派に育ちましたね… と褒めるべきか…

その後二人の王子も君主になっております。
シャロメアのDNAを受け継いだ王子たち…
実の兄弟でありながらドロドロしそうな兆しですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
かわいらしいイメージも良かったのですけども、B.A.Pがワイルドになって帰ってきてくれてちょっと嬉しいよ
ヒムチャンが早くよくなるといいですね
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ポーランド公ヴワディスワフ1世妃 ユディタ

2013-02-25 00:56:53 | ポーランド王妃
久々にアクティブな奥さま登場
ヴワディスワフ1世妃 ユディタ・プレゼミシュリデカ


1056~1086/在位せず

ボレスワフ2世の廃位を受け、実の弟ヴワディスワフ1世がポーランド公に即位して
事実上の君主になりました。

ヴワディスワフには長男を生んだ一人目の妃プレゼクラヴァがいましたが
彼女は愛妾とも言われていまして、詳しいことはわかりません。

二人目の妃は、ボヘミア王ヴラチスラフ2世の王女です。
7歳の時に母のハンガリー王アンドラーシュ1世王女アデレードが亡くなり
継母になったのが、カジミェシュ1世王女シュヴィエトスワヴァでした。
ヴワディスワフは義理の伯父ということになりますかね?

      
ポーランドとボヘミアの同盟を強化するための縁談で
1080年頃に結婚しました。

ユディタはポーランドで慈善活動に精を出しました。
未亡人や孤児のために修道院に多くの金や銀を寄付しました。
また、囚人の環境向上も働きかけたそうです。
慈善に励んだポーランド初の妃じゃない? 記録されているということですけど。

1086年、ヴワディスワフとユディタが待ちにまった嫡子が生まれました。
当時長男ズビグニェフは庶子扱いで国外に出されていましたのでね。

当時の30歳が高齢出産にあたるのかどうかは不明ですが
ユディタは産後回復できず、4ヶ月後に亡くなりました。

ヴワディスワフはユディタの死から3年後
ユディタの伯父ハンガリー王シャロモンの妃だったユディトと再婚しました。
ユディトは前妃と区別するためにソフィアと改名しています。

ソフィアはけっこうやりたい放題だったみたいですからねぇ…
心優しいユディタが生きていたら、ボレスワフ2世の王子ミェシュコは
死なずにすんだかもしれない。

ヴワディスワフ1世はいくつか教会を建立してます。
ユディタの影響かもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
SHINeeの『Dream Girl』のMVはカラフルでとても楽しい気分になれますね!
ひっかかったりしないのかしら? とハラハラしちゃいますが、Come Back Stageを見たら…さすが!!
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ポーランド王ボレスワフ2世妃 ヴィシュズワヴァ

2013-02-23 00:52:25 | ポーランド王妃
まだまだ謎の王妃は続くのか・・・
ボレスワフ2世妃 ヴィシュズワヴァ・シュヴィアトスワヴヴナ


1047~1089/在位 1076~1079

王の資質高し!と言われながら冷酷すぎたために廃位されたボレスワフ2世…
政治ってわかりませんね。
群雄割拠の中世初期は程度の差こそあれ暴君ぞろいだったと思うんですけど
国を強く牽引できそうな人が辞めさせられるなんて。
王座に長くとどまれるかどうかは、資質というより運とタイミングだね。

        
そんなボレスワフの妃だと長らく言われていたのは
キエフ大公スヴィワトスワフ2世の王女ヴィシュズワヴァです。

結婚した年ははっきりしていませんが、1069年に唯一の嫡子ミェシュコが誕生してるので
その前でしょう、ということです。

1076年のクリスマスにボレスワフと戴冠したとされています。
しかし前述の通りボレスワフ2世は3年後に廃位されまして
一家三人はハンガリーに追放されました。

追放から2年後にボレスワフが急死します。 毒らしい… 中世ですな。
復位を恐れたポーランドサイド、持て余したハンガリーサイド、どちらの仕業でしょうね?

1086年、毎度廃位された王の息子がそうするように
ミェシュコも王座奪還のためにポーランドに戻りました。
ヴィシュズワヴァも同行しています。

ポーランドに戻って3年後、今度は息子がとっても影響力のある宮中伯によって毒殺されます。
親子揃って…食べ物に気をつけなきゃダメじゃない。
ヴィシュズワヴァは息子の葬儀に参列したようですが、これ以降の記録がありません。

ボレスワフ2世の墓所も不明なのですが、ヴィシュズワヴァも不明です。
息子が王になっていたら立派なお墓があったかもしれないですね。

ところで、ここまでヴィシュズワヴァのことを書いてきて元も子もないのですが
近年の歴史家たちはボレスワフ2世妃がヴィシュズワヴァという説に否定的で
プシェミスル家のアーグネシュが王妃では? と唱えているそうです。

あらら、今さらそう言われましても…
もったいない気がするのでこのまま載せときますけどね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
先週、今週とBIGBANGのテソンを日本のテレビで見られて嬉しい反面、歌を聴かせてほしいの…って思うの。
そんなわけで、出演予定となっている今日の Music Fair と明日の Music Japan が楽しみです。
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ポーランド公カジミェシュ1世妃 マリア

2013-02-10 20:56:46 | ポーランド王妃
出生の謎が歴史家の心をくすぐる
カジミェシュ1世妃 マリア・ドブロニェギエワ


1012~1087/在位 1040~1058

ミェシュコ2世から王位を奪ったボレスワフ1世の庶子扱いの長男ベスプリムは
未婚でお子様がいませんでした。

その後混乱のポーランドを再統一したカジミェシュ1世の妃マリアは
キエフ大公ウラジーミル1世公女です。

ウラジーミル1世は7回結婚していて、その上愛妾も幾人かいたようで
嫡子・庶子がワラワラおりました。
なのでマリアの母親ははっきりわかっていません。
正妻のお子様だとすると、生年からいって
7人目の妃、オットー大帝の孫娘がお母さまってことになるのですかね?

メルゼブルク主教の記録によると、カジミェシュの祖父ボレスワフ1世は
1018年にキエフに侵攻した際に、ウラジーミル1世の未亡人を誘拐したそうで
マリアはその人の娘?
ボレスワフ1世はウラジーミル1世の娘を愛妾にしてたりするんですが
戦争の勝ち負けによって女性を獲ったり獲られたり… ヒドい話しよね

長い間謎だった誘拐された未亡人は、近年シュヴァーベン公コンラート1世と
エディス・オブ・エセックスの公女ではないかと言う説があるそうです。
エディスはオットー大帝妃になる前にコンラートと結婚してたってこと?
オットー大帝と結婚したのが19歳だけど、その前に?
解決するどころか謎が深まってますな…
        
出生の謎はさておき、マリアは1040年頃にカジミェシュと結婚しました。
ミェシュコ2世亡き後右往左往している継承権を取り戻すため
キエフ大公ヤロスラフ1世と同盟を結んだためです。
この同盟のおかげでカジミェシュは継承権を取り戻すことができましたが
王にはなれませんでした。
神聖ローマ帝国が認めてくれなかったのかしらね?

1058年にカジミェシュ1世が亡くなって長男ボレスワフが王に即位します。
ボレスワフ2世はピァスト家の中で最も王の資質があると言われていたそうですが
ちょっと冷徹な人だったのね。
そこで反旗が翻り1079年に廃位・追放されました。

その後次男ヴワディスワフが継いでますので
異母兄妹の争いの場合と違い、マリアはポーランドから去らずともすんだようです。
1087年に76歳か77歳で亡くなりました。

マリアの周りの男性陣はかなり波瀾万丈な人生を送っているのですが
彼女自身のパーソナリティは、やはり全く垣間見えないですね。

夫も息子たちも王位をめぐって相当ハードな人生を送っているので
影で力強く支えた女性ってことにしときますか?

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
職場のRちゃんと、SHINeeの正規3集&日本語シングル『Fire』発売を指折り数えて待っている今日この頃。
3集のキー、テミン、ジョンヒョン、ミノは見たんだけど… オニュのイメージはまだかいな? 明日かな?
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ポーランド王ミェシュコ2世妃 リヘザ

2013-01-18 20:36:59 | ポーランド王妃
夫の死後大活躍?
ミェシュコ2世妃 リヘザ・ロタリンスカ


995~1063/在位 1025~1031

リヘザはプファルツ伯エッツォと神聖ローマ皇女マチルデの娘で
神聖ローマ皇帝オットー2世の孫にあたるわけですけれども、結婚まではエピソード無しです。
小柄でプロポーションが良かったってことぐらいでしょうか?

リヘザが5歳の時、母方の伯父オットー3世は、かねてから同盟関係があった
ボレスワフ1世の王子との縁談を決めましたが、自分には子供がいなかったので
姉のマチルデの7人の娘の中からリヘザを選びました。
           
なんだけど、その後オットー3世が急死しまして
次の神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がリヘザの実家ともめたりしたもので
結婚はリヘザが17歳になってやっと実現しました。

1025年にミェシュコが王に即位しますが、1031年に庶子である兄ベスプリムを後援する
ドイツとキエフの侵攻にあって、ミェシュコはベーメンへ逃亡します。
この時ミェシュコは投獄され、ベーメン公の命令で去勢されちゃったんですって! 中世…

ペスプリムは君主の座に就き、ミェシュコの支持者への迫害を始めました。
リヘザは王冠と財宝を抱え子供たちとともにドイツへ向かいました。

ドイツでは神聖ローマ皇帝コンラート2世の保護を受けました。
ちなみに、リヘザの祖父オットー2世や伯父オットー3世と
コンラート2世は家系が違います。

リヘザはドイツで、ポーランドと神聖ローマ帝国間の関係修復と和平のために重要な役割を
担ったってことになってたそうですが、この説は、近年は懐疑的に見られているそうです。

ミェシュコ2世とリヘザは、公式には離婚も別居も宣言していませんでしたが
結局二度と会うことはありませんでした。

1032年にベスプリムが暗殺されるとミェシュコはポーランドに戻り翌年復位しましたが
リヘザは戻っていません。
翌年ミェシュコが暗殺されて、その5年後息子のカジミェシュが継承権を得るために
ポーランドに戻りました。
この時リヘザも同行したことになっていたそうですが
こちらも近年は懐疑的に見られているらしい…

もしリヘザが1037年にポーランドに行っていたとしても、再びドイツに帰った後は
二度とポーランドに足を踏み入れませんでした。
でも自分のことはポーランド王妃と名乗っていたそうです。
この特権は、コンラート2世が与えていたってことです。

リヘザは息子のカジミェシュを王にするためにポーランドと争っていましたが
コンラート2世は最終的にこちらも援助したらしい… もしかしてリヘザに気が…

リヘザが大活躍をするのは、1047年に弟のオットーが亡くなって
財産の大半を相続してからです。

はしょっていくけど
兄のケルン大司教へルマン2世や姉のエッセン修道院長テオファヌと領地の再編を目論んだり
ヘルマン2世の死後ケルン大司教になったアンノ2世から没収されそうになった財産を
領地から運び出して抵抗したりして、手に入れた領地の大半の7カ所を
死ぬまで守り抜きました。

あまりエピソードはないのだが、王妃と名乗り続けたり財産を死守したりと
けっこう権勢欲が強かったのかしらね?
まぁ、領地が貴族の力の証しの時代、少しでも失うのは子孫に申し訳ないものね。

リヘザは1063年に亡くなる時、両親が建て、リヘザ自ら改装したブラウヴァイラー修道院の
母親の隣に葬ってほしいと希望していました。
しかし、アンノ2世はリヘザの死後「OKもらったから!」と聖マリア教会に葬りました。
この教会はヘルマン2世が着工しアンノ2世が完成させたそうで
自分が建てた教会に箔をつけたかったのかしらね?

いずれにしても、皇后でもなく、在位も短い王妃の遺体をめぐって一悶着あったということは
それなりに存在感があった女性だったのかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
ソンギュのソロとinfinite Hの輸入盤を買いましょー と思って新星堂に行ったけど無くって
ついLed Zeppelinのライブ盤とSTONESの記念ベスト盤を買っちゃったわよ! K-Pop以外のCD買うの久しぶり…
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ポーランド王ボレスワフ1世妃 エムニルダ

2012-11-26 22:16:49 | ポーランド王妃
               どうにもこうにも肖像画が無いので
           オダ・マイシェニエンスカの母方の祖母ヒルデガルディスの画を載せときます


寵愛された王妃でも・・・
ボレスワフ1世妃 エムニルダ・スウォヴィアンスカ


970~1017/在位 992~1017

ボレスワフ1世は二人目の妃ユディタ・ヴェギレリスカと離婚するやいなや
ラウジッツ領主ドブロミルの娘エムニルダと再婚しました。
        
ラウジッツとはドイツにある都市でして、確かに神聖ローマ帝国への足がかりには
なりそうですね。

エムニルダはとてもチャーミングな女性だったそうなので
ボレスワフは早くから目をつけていたのかもね!
しかもエムニルダは賢かったらしく、結婚後ボレスワフは妻に頭が上がらなかったらしい…

権勢欲が強かったんでしょうかね?
自分の息子ミェシュコをローマ神聖ローマ皇帝の重臣に加えてもらい
モラヴィアの統治者にしようと猛アピールもしていますし
前妃ユディタが生んだ長男ベズプリムから継承権も奪っています。
ペズプリムがイタリアに飛ばされたのもエムニルダの影響じゃないかと思うんだが…

ミェシュコの他に公子が一人、公女が三人生まれています。
公女のうち一人はマイセン辺境伯妃、一人はキエフ大公妃になりました。

しかし、そんなに溺愛されたエムニルダの没年は不明です。
1016年か1017年に亡くなったと言われています。
なぜなら、ボレスワフ1世が再婚しているのでね。

それに肖像画も見つからないのよね。
愛されていなかった妃の記録や肖像画が見つからないのはわかるんだけど、なぜ?


完全に政治の道具
ボレスワフ1世妃 オダ・マイシェニエンスカ


996~没年不明/在位 (公妃)1018~1025 (王妃)1025

ボレスワフ1世はエムニルダの死から1年か2年後に
マイセン辺境伯エッケハルト1世の娘オダと再婚しました。
エッケハルト1世の父親ギュンターはミェシュコ1世の妃ドゥブワヴァ
最初の夫と言われている人です。
それが正しい説だとすると、家系図はこういうことになります。
        
1018年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世とボレスワフ1世の間で
バウツェン和平条約が調印されました。
ボレスワフ1世はドイツ貴族との繋がりを深めるため再婚を決心。
オダが選ばれ、なんと! 調印から4日後に結婚しました。

30歳近い年齢差がある上に、ボレスワフは浮気癖が治まらなかったらしく
キエフ大公ウラディーミル1世の公女プラディスラヴァとの関係を続けていました。

詳細は不明ですけど、オダも結婚前に自堕落な生活を送っていたそうで
ボレスワフが嫌悪したか、オダが「また遊びたい」と考えたかはわかりませんが
とにかく、二人の結婚生活は不幸なものでした。

「相手は誰でもいい!」と急いだ結婚… 上手くいくとは思えないものねぇ
ま、上手くいけばものすごくラッキーだったということで…

1025年4月にボレスワフ1世が王に即位した時、一緒に戴冠したという説もありますが
推測の域をでないそうです。

しかもボレスワフ没後(1025年7月以降)のオダのその後は不明、墓所も不明。
いったいどんな生涯を送っていたのやら…

政治の渦に巻き込まれ、人知れず没するなんて…
表舞台では名が残らずとも、個人的にはハッピーな人生を送っていたことを祈ります。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
K-POP friend Nちゃんの尽力により、12月5日の東京ドームがアリーナ席だって~!
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ポーランド王ボレスワフ1世妃 ユディタ

2012-11-23 23:02:14 | ポーランド王妃
推測ずくしの王妃
ボレスワフ1世妃 ユディタ・ヴェギレリスカ


969~1030/在位せず

ポーランド公からポーランド王になったボレスワフ1世には4人の妃がいます。
一人目の妃はマイセン辺境伯リクダックの娘ハウニルダ(?)ですが離婚しています。

ユディタは二人目の妃で、985年にまだ公子だったボレスワフと結婚しました。
ハンガリー大公ゲーザとシャルロトの大公女、ということですが
近年では「誰の子かわからんが、とりあえずハンガリーの貴族の娘だったのでは?」 と
唱える学者もいるそうです。

       
この結婚は、 “ たぶん ” ボレスワフ1世の母方の伯父ボヘミア公ボレスラフ2世が
ネゴシエイトしたと言われています。
さてはボレスラフ2世が存在力を示すために、どっかの娘さんを大公女と偽って
嫁がせましたかね?
昔ならバレなかったかも… いや、さすがにバレるか?

二人の間には986年頃にベズプリムという王子が生まれていますが
ユディタは987年に離婚されています。 さてはバレた?
これは “ たぶん ” ポーランドとハンガリーの関係が悪化したからだと言われています。
結婚生活が長ければ、国同士が争っても別れずにいたのかもしれませんが
3年弱じゃね… まだ信頼関係が築かれていなかったのでしょうね。

ボレスワフ1世はすぐにエムニルダ・スウォヴィアンスカと再婚しました。
うって変わって妻を熱愛したボレスワフは、ユディタが生んだ長男ベズプリムに冷たく
継承権もエムニルダが生んだ次男ミェシュコ(2世)に与えてしまいました。
しかもペズプリムは16歳になるとイタリアに送られ、修道士にされてしまいました。
ひどいわね! 母親はどうであれ息子じゃないのさ!!

ユディタはハンガリーには戻らず “ たぶん ” ポーランド内に留まっていて
離婚後しばらくして亡くなったとされています。
なんどけど、1030年頃亡くなった説もあるんですよねぇ…

1031年にはペズプリムがミェシュコ2世を倒して(一瞬)王になっているので
その時まで生きていられれば辛い人生を華やかに終えられたのに…

1000年以上昔の話なのではっきりしないことが多いのもしかたないけど
たぶん、たぶん、って、両親も生没年も定かでないとは
王様の奥方にしては曖昧なことが多いですよね。

王の愛情が少ないお妃は記録も少ないということだろうか?

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
U-KISSは今までちゃんと聞いたことが無かったんだけど、同じ職場のSさんが貸してくれた
ミニアルバム Stop Girl があまりにも良くて、以前の歌を探しまくって聞いている今日このごろです。
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ポーランド公ミェシュコ1世妃 オダ

2012-10-02 21:37:37 | ポーランド王妃
        画像が無いのでピャスト家の人が改宗した時の絵から切り抜いてみました
                     修道女っぽく見えるし…


人物像で迷っています
ミェシュコ1世妃 オダ・ディトリコヴナ


955~1023/在位 978~992

ドゥブワヴァを亡くしたミェシュコ1世は、翌年か翌々年にオダと再婚していますが
その方法が… The 中世! って感じ。

オダはノルドマルク辺境伯ディートリッヒの娘で、カルベという町で成長し
そこで修道女になったと考えられています。

ところが、妃を亡くしたミェシュコがやって来てオダを連れ去り(!)即再婚。
美しいとかいう噂でもたっていたのでしょうかね?
それとも前々から狙っていたとか…
           
たしかハンガリーでも王様が娘さんを修道院から奪ってますが(ペーテル妃ユディト
流行り? ワイルドさのアピールとか?

オダは少なくとも3人の公子を生んでいますが、次男シュヴィエントペウク(?)は
ミェシュコ1世の存命中に亡くなっています。

ミェシュコ1世にはドゥブワヴァが生んだ長男ボレスワフ(1世)がいましたが
長男に領土全土を継承させず、オダが生んだ息子たちにも分け与えると書き記していました。
これはどうやらオダがせっついて書かせたものらしいです。

オダはミェシュコの死後、息子たちの地位がちゃんと保証されるようにしたかったんですね。
そりゃそうだろう…
異父兄が(実兄でさえ)国を継いだ後、酷い目にあってる王子たちがたくさんいるものね。

けれども、やっぱり、ボレスワフ1世はミェシュコ1世が亡くなると
オダが生んだミェシュコとランベルトと紛争を始めてます。
この争いは数週間で終わったとも3年ぐらいかかったとも言われていますが
いずれにしてもボレスワフ1世が勝利してミェシュコ1世の全ての領土を手に入れました。

オダはボレスワフ1世に追放されてドイツに戻り、クヴェードリンブルク修道院に入って
その後30年間修道女として過ごし亡くなりました。

パーソナリティがさっぱりわからず、唯一語られているエピソードが
ミェシュコにせっついて息子に領土を分けさせた、ってことになると
強欲でわがままな若妻… みたいな印象ですが、そうとも言いきれないわよね。

どうみても不利な立場にいる息子たちの将来を安泰にしてあげたいっていうのは当然の親心。
一生懸命お願いして書き残してもらったとも考えられますよね。

ポーランドにいる間以外はほぼ修道院にいて、しかも修道女として過ごしてるのですもの。
実はもの静かで控えめな人だったかもしれない…
だとしたら、連れ去ったりしないで静かに人生を送らせてあげればよかったものを…

権力欲の強い継母 ? 子供のためにと似合わぬ権力闘争に口を出した母の愛か?
どちらのタイプなのかさっぱり見えないですね。

ミェシュコとランベルトはこの争いで戦死したのか
ポーランドから追放されたかがちょっとわからないのですが
1032年に二人のどちらかの息子であるディトリックがポーランドに戻り
当時の君主ミェシュコ2世の失脚後、一部の領土を手に入れています。
1年後には奪い返されちゃうんだけどね…

他の王国の草創期同様、ポーランドもまだまだ混沌としている時代でした。
いくら王様といっても、危険が一杯の男性に嫁ぐのはいやですよねぇ…
お姫さまっていう身分も楽じゃない! って感じですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ポーランド公ミェシュコ1世妃 ドゥブワヴァ

2012-09-24 00:28:00 | ポーランド王妃
ポーランドにキリスト教をもたらした王妃
ミェシュコ1世妃 ドゥブワヴァ・プレゼミシュレデカ


940~977/在位 965~977

フランス王女編終了後、他の国を予定していたのですが
Wikipediaの訳が遅々として進まず焦っておりましたところ
以前訳しておいたものを見つけまして急遽ポーランド王妃編スタートです。

ただ、ハンガリーや北欧同様、名前や土地名の読み方がまったくわかりません
一応ポーランド語のアルファベットの読み方を参考にしていますが
間違いが多いと思いますので、見つけた方は是非コメントを… 随時修正いたします。

ポーランド王室って日本ではあまりポピュラーではありませんけど
中世創成期はかなり重要な位置にあったらしく、古くから幅広く婚姻を結んでおります。
そのかわり、各国の侵入、支配も多く受けています。 主にドイツあたりね。

とりあえず初代ポーランド王とされるミェシュコ1世から始めますが
正しくはポーランド公です。

このあとの君主も王だったり大公だったり公だったりしますが
ややこしいので家系図には王ってことで記しています。

さて、初代君主ミェシュコ1世の妃ドゥブワヴァ。
父親であるボヘミア公ボレスラフ1世とミェシュコ1世の間に同盟が成立した際に
結婚が決められました。
    
結婚当初ミェシュコ1世は異教徒でした。
ドゥブワヴァは離婚まで持ち出してミェシュコを説得し、ミェシュコの改宗に成功。
(結婚の条件がミェシュコの改宗だったとか、諸説あるんですけれどもね…)

そして、グニェズノに教会や修道院、ポズナンに聖母マリア教会を建てるなどして
ポーランド全土のキリスト教化を達成しました。

ドゥブワヴァは977年に亡くなりました。
生年は “ ミェシュコに嫁いだボヘミアのプリンセスは若くなかった ” という記述から
逆算されているもので不確かです。
さらに、これは結婚した時に19~25歳だったとされるミェシュコの再婚相手オダと
混同されているふしがあり、もしかしてもっと後で生まれているかもしれません。
しかし、19~25歳で若くないって、あんた…

結婚で強固になっていたポーランドとボヘミアの同盟はドゥブワヴァの死後弱まりをみせ
980年中盤に解消されました。

ドゥブワヴァには他にも不確かなことがいろいろありまして…
ミェシュコとの結婚前にメルゼブルク領主ギュンターって人と結婚してたって説。
これはギュンターの息子ギュンゼリン(?)がボレスワフ1世と異父兄弟だと
記されていたことがベースになっているそうですが、どうやらボレスワフ1世と
ギュンゼリンは義理の兄弟か従兄弟だというのが濃厚らしいです。

それから娘のスヴェトスワヴァがデンマーク王スヴェン1世妃シグリドだっていう説。
どうなんでしょうねぇ? 一応スウェーデンの貴族の娘ってことになってますけど…

ミェシュコを改宗させたというのも、教会のコマーシャルではないかと…
まあ、当時宗教を変えるというのはかなりの一大事だったと思うので
妻の宗教に合わせた君主っていうのは宣伝効果大ですよね! そりゃ使わねば!!

そんなドゥブワヴァの墓所は、1888年に出版された書物によると
グニェズノ大聖堂にあってシンプルな石の十字架が掲げられているだけとなっていましたが
現在ではどこにあるか不明だそうです。
キリスト教のために尽力したのに… ミェシュコは手厚く葬ってあげなかったんでしょうかね?
次の嫁がわりと強そうだからなぁ…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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