まりっぺのお気楽読書

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ポーランド公ヘンリク2世妃 アンナ

2014-01-17 20:46:06 | ポーランド王妃
さすが妻!すごい秘密で亡き夫を探す
ヘンリク2世妃 アンナ・プシェミシュルデカ


1204~1265/在位 1238~1241

若い頃から賢公として知られ、ポーランド再統合を目指していたヘンリク2世の妃アンナは
ボヘミア王オットカル1世の王女で、母親はハンガリー王ベーラ3世王女コンスタンツェです。
        
12歳ぐらいでヘンリクと結婚しました。

当時の入り組んだ中欧情勢の中、もちろん政略結婚だったと思うのですが
特にエピソードは残っていないけど、仲睦まじかったのではないかと思われます。
お子様が10人生まれています。

当時、中欧にはモンゴル軍が侵攻していました。
他国に先駆け戦いに出向いたヘンリク2世は、援軍を得られないまま
レグニツァの戦いでモンゴル軍に惨殺されました。

その殺害のしかたっていうのがひどい! 詳しく書きませんけどね。
あまりのひどさにヘンリクの遺体は見分けがつかなかったようですが
アンナは、ヘンリク2世の左足には指が6本あるという驚くべき特徴を伝え
夫を探すように伝えました。

想像なのですが、当時身体的に変わった特徴があったとしたら
神聖なもののシンボルとして崇められるか、異端として迫害されるか
なにかしら世間のリアクションがあったと思うんですよ、特に王族なんかは。

この特徴もものすごい秘密で、親と嫁以外誰も知らなかったかもしれないですよね。
きっと夫婦で「変わってるだろ? 俺の足の指」「あら、すっごーい、触らせて」なんて
イチャイチャしていたかもしれない…(想像じゃなくて妄想?)
だとしたら、夫の遺体を探すための拠り所になってしまうなんて、むごいことです。

ヘンリク2世の遺体は見つかり、アンナによってヴロツワフの修道院に埋葬されました。
この修道院は、ヘンリク2世が建設を始めたものです。
アンナが夫の遺志をついで1242年に完成させました。

義母聖ヤドヴィカとともに、レグニツァのレグニツキエ・ポレにも修道院を創設しました。
ヘンリク2世が戦死したところでしょうか?
追悼の意味が込められていたのかもしれませんね。

ヘンリク2世は勇ましい男性だったとお見受けしますが、アンナの性格はよくわかりません。
ただ、二人の間に生まれたクラクフ公ボレスワフ2世の残虐な性格に
非常に悩んでいたらしいので、心優しい人だったのかなぁ?
義母ヤドヴィカや、後述の聖キンガがそうだったように
特に慈善に励んだというエピソードはないのですけどね。

公女のうち3人は他家のポーランド公妃になりました。
他国との争いを避けるための政略結婚あり、国内の権力維持のための政略結婚あり…
当時の王侯貴族の娘さんたちは、本当に大きな役割と責任を担っていたんですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
KARAはニコルとジヨンがいなくなってしまうのね。特にKARAが好きというわけではないのですが、寂しいですね。
熾烈なK-POP界でせっかくここまで頑張ってきたのにもったいないなぁ…と思って

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2 コメント

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お久しぶりです (エカテリーナ)
2014-01-24 12:53:29
しばらくコメントできなくて…なんかすいません 遺体の見分けがつかないとなるととにかくひどい殺され方だったのがわかりますが…。アンナはそんな遺体を見て、しかも自分で夫だと確認して…ショックだったでしょうね。 早く流血の時代が終わればいいのですが、東欧はそうもいかないかな…
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こんばんわ (まりっぺ)
2014-01-24 22:40:50
エカテリーナさま、こんばんわ
お久しぶりです

コメントありがとうございます。
流血の時代はまだまだ続きそうです。

なにせ瀕死のカタツムリぐらいのろいペースでアップしているので、いつポーランドのコーナーが終わりを迎えるのか自分でもわからない状態です。
せっかく読んでいただいてるのにすみません…
返信する

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