ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

古き”スール”をまた彷徨う

2010-06-13 02:07:28 | 南アメリカ

 ”MANZI, CAMINOS DE BARRO Y PAMPA” LIDIA BORDA

 リディア・ボルダといえば、私がまだタンゴを聴き始めたばかりで右も左も分らない頃(今だって何も分っちゃいないが)出たばかりの彼女のデビュー盤と出会い、非常に新鮮な印象を受け、一発でファンとなってしまった人である。
 なにより、落ち着いたアルトの声でゆったりと古典曲中心に歌い上げるその姿勢が好ましかった。ラテンの女子の濃厚な情熱の発露より、やはりこの辺を好んでしまう、私も単なる日本人である。そんな事はどうでもいいのであって。

 このアルバムは昨年発売の、今のところリディアにとっての最新作。タンゴの歴史上の重要人物である作詞家のオメロ・マンシの作品集である。
 オメロ・マンシという人は1907年の生まれ、1952年に亡くなっている。タンゴの名曲”スール(南)”の作詞を始め、さまざまな名作を世に送り出している。”国民的作詞家”という奴だろうか。作詞のほかに政治活動でも知られ、1930年代に”民主主義の擁護”を行なったかどで投獄された、などと言う話も聞いた。短かった人生を全力で走りぬけた、なんて感じの生涯だったのではないか。

 今回のアルバムは、そんなオメロの、あまり知られていない民謡調の作品を主に取り上げたものだそうな。たしかに、バンドネオンむせび泣く、なんて感じのアレンジは出てこない。というよりそもそもバンドネオンは、ついでに言えばバイオリンなどもまったく遣われていない。ピアノでさえも数曲で聴こえるだけである。いわゆるタンゴの演奏形態は採用されていない。
 ほとんどの曲が高名なタンゴ・ギタリストであるリディアの兄のルイスとの演奏上の対話に、他の楽器が遠慮がちに加わる、といった形態で演奏されており、タンゴと言うよりはフォルクローレ的な感触が強い。

 リディアの歌声もルイスのギターも、いつもより強めの民族色を感じさせるものだ。特に2曲目のチャランゴ大活躍の曲など、リディア兄妹によって今日化されたフォルクローレと言うしかないもので、なかなかに血が騒ぐサウンドだ。
 歌詞内容すべてが分からないのがなんとも口惜しいが、タンゴの都会派の感傷の一典型である”スール(南)”を書き上げた作詞家オメロ・マンシの心の底に潜んでいた古きアルゼンチンの地霊が、ボルダ兄妹の奉納演奏によって長き眠りより覚め、ひととき現世をさ迷い歩く、そんな淡い幻想に引き込まれる感のある、ひときわ酔いの深い一枚になっているのである。

 それにしても、ジャケ写真として使われている、おそらくは戦前のブエノスアイレスの街角の、セピア色の風景写真には心奪われてしまった。雨に霞む、煤けた古きブエノス。数少ない自動車と共にメインストリートを行く馬車や手押し荷車たち。女性たちの古き優雅なドレス。街角に立つのは、ガス灯なんだろうか。強力な郷愁を感じてしまった。行ったことさえないんだが。