BLIND LEMON JEFFERSON ; KING OF THE COUNTRY BLUES
19世紀の終わり頃、テキサスの田舎町で生まれたレモンは、生まれつき目が見えなかったから、街角に立ってギタ-を抱えて歌を歌い、小金を恵んで貰うしか生活の手段がなかった。幸運を求めてシカゴへ出たが、うまい話はない。プロレスのリングにまであがった。(にわか作りの、目の不自由な黒人レスラ-のために、リングの上に用意されている役回りって、想像がつくだろう?)
古いSP盤の中からブラインド・レモンの歌が聞こえてくる。どうしても舞い戻ってしまう監獄の冷たい壁や、つまらない勝負に命をかける流れの博打打ちの物語。安いウィスキ-のもたらす、命を削り取るような酔いのために、なけなしの金を使い果たす悲しみについての歌。
そしてある日、冷たい北風の吹く冬の朝、シカゴの公園でのたれ死んでいたブラインド・レモン。生きてるやり切れなさに心が凍りつきそうな冬の夜には、残された歌と、それから酒とともに、あいつの魂を飲み干してやっておくれ。
なんて事をブツブツ呟きながらブルースの輸入盤を扱っている店を探して慣れない東京の街を歩き回っていた青春時代、なんてものが私にはあるのだなあ。吹きつける北風に、あの頃流行っていた長過ぎるコートと長髪をなびかせつつ。冬になるとたまに思い出すのよなあ、別にブルースを聴いていたのは冬だけのことじゃないのに。
当時はまだ今みたいに個性的な輸入盤店もないころで。やっと見つけたヤズーとかバイオグラフとかの戦前ブルースのリイシュー・レーベルのアルバムの、昔の広告写真をそのまま使ったジャケが宝物に見えたものだった。
SPから起こした雑音だらけの盤の向こうで歌っている、ずっと昔に生きたブルースマンの歌声は、子供の頃に深夜、一人で目覚めた時に見た夢の残滓の中で響いていた、遠い夜汽車の響きに通じるものがあった。と思えた。
しかし、地味だっつーのよ、我が青春時代。この歳になっても、ふと”ルーツのようなもの”に還るつもりで弾いてみたフレーズが、戦前ブルースからのいなたいフレーズのコピーだってのは、なんなのかね。いやまああの頃は、そんな地味な世界に浸りこむのがカッコよく思えたんだけどね・・・
レモン・ジェファソンじゃなくて、チャーリー・パーカーだったら、チャーリー・パーカー~広沢虎蔵~ワイポッ・ペッチャスパンと話が出そうですが。。
ありましたねえ、そんな話が。一番はぶりがよかった頃は、運転手付きの(それはそうだけれど)自家用車を紅灯の巷に乗り付け、札びら切って遊びほうけた、なんて話が。そしてレモンの風貌は、どう見ても笑福邸鶴瓶にそっくりなのでありました。