これまで手に取ったこともなかった”東京人”なる雑誌を買った。表紙にでかでかと記されていた特集、「あの頃の熱をもう一度・フォークの季節」が気になったからである。まあ、よくあるオヤジ狙いの懐旧企画だろうと想像はついたが、そして私の青春のメインに”フォーク”はなく、ストーンズやアニマルズといったイギリスのビートグループに夢中だった”あの頃”であったのだが、”フォークの季節”には。
ただ、私がその時代の青春を生きた人間であるのは確かであるし、それなりに懐かしい話も読めるだろうと、まあ”出るつもりもない同窓会の招待ハガキを、一応は読んでみる”みたいな気分で、その雑誌を手に取ったのだ。
読んでみると、それなりに心に引っかかる部分もあるし、突っ込みどころもさまざまあり、いずれ、気が向いたときに何ごとか書いてみようと思っているのだが。いや、”その一”とか言っておきながら何も書かずに終わるかもしれないが。なにしろもう、ずいぶん前に終わってしまったオハナシである。
とりあえず、一番気になって開いてみたのは中村とうよう氏へのインタビューである。ともかくいまだに氏の自死の理由というものに見当が付かず、困惑している私なのであって。なにか理解へのヒントになるようなことが語られていないか。
インタビューのページを開いてみたのだが、氏が亡くなった事実についてさえ記されていない。亡くなる前に刷られたものであるのか、それとも編集部の方針で、それには触れずにおかれているのか。
インタビューがなされた日付けも記されていない。自死の直前になされたとも、5年前になされたとも10年前になされたともとれる、インタビューの内容だ。すでに、とうの昔に出てしまった結論を、氏は訊かれ、語っているのである。
「今の日本でメッセージ性の強い歌が生まれてくる可能性は」とか、インタビュアーは”その方向”に話を持って行こうとするが、とうよう氏は「歌に託さねばならない問題がないでしょう」と、取り合わない。それはそうだろうね。
ワールドミュージック的に面白いのは、氏がフォークソング運動の出自をハリー・ベラフォンテに求めている事実。私もあの方面には何ごとかあると感じていたので、わが意を得た、みたいな気分になったのだが、その先の話はもう聞くことは出来ない。ラテン文化圏の中にポツポツと浮かぶ”英語”の島々。そこにラジオの電波等に乗って届けられるアメリカ合衆国の大衆音楽。
インタビュアーはだが、その現象を理解できずに、やはり「当時の若者たちは歌が社会を変えうるという幻想を持っていましたが」とか、そちらの方に話を持っていってしまう。
同じフォークにおけるワールドものネタとして、とうよう氏が岡林信康の”エンヤトット”路線を評価していたことを知り、こいつは意外だった。私は岡林のあのタグイの歌を、「日本人なのだから日本のルーツ・ミュージック的なものを自らの音楽に取り入れねばならない」なんて意識で作られたわざとらしい作品という気がしていたし、なによりカッコ悪い歌だと感じていたんだが。
もう一つ、高田渡との確執もよく分からない。まあ、「高田渡がお気に入りだった」と言われたら、それはそれで意外だったろうが、あそこまで嫌う必要もなかっただろうとは思う。
などとブツブツ言いながら、中村とうよう氏の青春期(という感じになってくる、「勝ち抜きフォーク合戦」の審査員当時の話などされたら)を読んで行くと、とうよう氏が音楽評論家を志した当時の、まだのどかだった日本の街角などがモノクロの画像で私の脳裏になぜか浮かんできて、来るべき未来を思い、あるいは高揚しあるいは途方にくれて立ちすくむとうよう青年の姿など、ふと見えた気分の私なのだった。