”哀愁波止場”by 美空ひばり
今日も時間の使い方をミスってしまい、日課のウォーキングを夜の10時にはじめる羽目になってしまった。別に忙しい日々を送っているわけでもなく、堂々、昼寝なども行なっていはするのだが。
しかしこれで本当に体に良いのか?と疑いつつも海岸の遊歩道に出て歩き出す。
さすが連休の中日(?)とて、国道を行く車の数は多い。あんなに張り切って登り車線を行くのはつまり、さっきテレビの道路情報が伝えていたUターン・ラッシュの渋滞にこれから参戦せんとする剛の者なのだろうか。たまらんなあ。これからじゃ、家に帰り着くのは何時頃なんだい?
薄くライトアップされた砂浜には、家族連れやら若者たちの群れが三々五々出て、はしゃぎ声を上げている。今年の気候ではさすがに、まだ泳ぎ出すお調子者はいないが。いや、いつもは時々いるんだよ、季節でもないのに”ノリ”でその場で全裸になってしまい、海に飛び込む奴ってのが。
いつもはこんな時刻には閑散としている海岸遊歩道も、あちこちのベンチで若いカップルが腰を下ろしていたりして、もしかしたら我が斜陽の観光地にも明日があるのではないかと信じかけるが、この人々は、まるで金を使って行かない客なんだよなあ。
歩き続け、湾の外れ港に出る。もうとっくに島巡りの観光船は索に繋がれ、桟橋のあちこちで夜釣りの人々が小さな明かりを燈している。チャポ、と波が岸壁に寄せる静かな水音が聞こえる。
そんな風にして港から見る夜景は、いつもならなんとなく血が騒いだり切なくなったりでこちらの気分を映し出すのだが、今日は街が賑やかだった分、逆に、その輝きの前に、こんな時間に一人でウォーキングなんかやっている自分のうらぶれた自画像が炙りだされるみたいな気分になってきて、あまり良い気分ではない。
ふと、美空ひばりの”夜の波止場にゃ”なる歌を思い出した。いや、思い出したもなにも、”夜の波止場にゃ~誰もいない~♪”って、この部分しか私は記憶していない歌だが。
この歌がリアルタイムで流行っている頃、多分私は頑是無いガキをやっていて、当時、この歌を聞いてしまうのは、なんとなく禁忌だった。妙にやりきれないくらいうら寂しい気分でこちらを押し包んでしまう歌だったから。
それはたとえば幼い頃、深夜、ふと目が覚めてしまって寝付けないまま、一人で布団の中で聞いた夜汽車の汽笛の音に匹敵する、圧倒的な孤独の響きがあった。
”夜の波止場にゃ~誰もいない~♪”
この歌声のむこうに、静まり返った波止場を吹き抜ける冷たい風の気配があって、そこで船を見送った人、船に乗って行き、ついに帰って来なかった人たち、彼らが残していった岸壁に染み付くような孤独がシンと息を殺している、そんな感触が指に触れるくらいのリアルさで感じられるように思えた。
別にその時点では単なるそこら辺のガキでしかなかった私は、どんな別れの体験もあるわけではなかったが。
昔はそんな感傷に身を引きちぎられるような思いをしたものです、で終われたら良いのだが、なんとそいつは、もう何十年も歳を経たこの身の奥の奥に姿を潜めて、昔のままの姿で、いつでも出番の来るのを待っていると知れた。別にこれも、今はじめて知ったわけでもないのだが。
高度成長があり、石油ショックがあり、バブルがあり。そんな間、あの黄色い波止場のランプの明かりはずっと、そのうら寂しい光を夜の波間や舫ってある漁船の上に投げかけていた。それは、我々が過ぎ去った後もきっとずっと変わらずに、そのままそこにあるのだろう。
しばらく見ていたが、船着き場の隅で釣り糸を垂れている人々の影は動かず、魚の釣れる気配も見えなかったので、私はまた歩き出し、家に帰った。