ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

何なんだ、この夢は

2012-10-21 23:02:24 | いわゆる日記

 先日来、妙な夢に襲われている。

 夢の舞台は現代アメリカの、地方小都市のようだ。そこに7~8人の子供たちを持つ、貧しい黒人の一家があり、夢の中で私は、その兄弟の長男のようだ。地味なスーツにネクタイなど締め、どうやら真面目な会社員として、一日の家計を支えているようだ。
 窓の外に田園風景が広がる古びた家に住むその一家だが、ある日、その子供たちのうちの次男と三男が、自分たちの兄弟、両親、祖父母など、ともかく一緒に暮らしていた家族全員を惨殺してしまったのだ。そしてそこに、仕事を終えて、何も知らない長男たる自分が帰宅する、という夢だ。

 血の池と化した居間や玄関、無残な死体となって転がる家族たち。虚ろな目をして呆然と立ちすくむ”犯人”たる、まだネィーン・エイジャーの次男と三男。彼らの手には凶器となった血まみれの刃物などが握られたままだ。
 お前たちはなんということをしてしまったのだ、と怒鳴りつけたいのだが、こうしてしまった彼らの気持ちもわかる、みたいな感情が、夢の中の自分にはある。こうして文章を書いている私には、なんの事情もわからないのだが。
 家の惨状、この状況をどうすればいいのだと途方にくれる自分、などといったシーンの断片が何度も繰り返し夢に出てくる。時間はとりあえず、夢の中ではそのシーンのまま、進んでいないようだ。

 ・・・という夢。夜の夢の中に、これは出てくることはない。日中、退屈している時間、あるいは食後の満腹状態でウトウトしている時など、うたたね状態のつかの間の夢の中に、この悪夢は現れる。相当の緊迫感を持って。目が覚めると、「ああ、夢でよかった」とホッとするくらいの。
 なんだろうねえ、この夢。サスペンス映画かホラー映画のオープニングみたいな感じがあるのだが、こんな映画は見た記憶もなし。夢判断で言えば、どうなるのだろうか。

 先日来、ちょっと風邪気味で、これ以上悪化しないといいなあ、などと思っているのだが、体調不良のせいかなあ、こんな夢を見るのは。

もう登るまい、アッツ山には

2012-09-24 03:44:33 | いわゆる日記

 夕食後、ぼんやりテレビを見ていたらふと居眠りしてしまった日曜日の夜。目を覚ましたら「岳」とかいう登山がテーマの映画がテレビから流れていた。チャンネルを切り替える気力も出ないままぼんやりその映画を見ていたら、なんともうんざりしてしまったのだった、その内容に。
 映画に関する知識はろくにない。評価の高い映画かもしれない、ファンの多い映画かもしれない。それゆえヒンシュク買うかも知れないが、もう一回言っておきたい、あんな映画は嫌だ。

 要するに「山はいいなあ、山の仲間はいいなあ」と言っているだけのストーリー。そこに、湿っぽい自己犠牲の精神やら友情の証しやらが繰り返し、聖なるものとして歌い上げられる。
 登場人物は、何かというと吠える。叫ぶ、というレベルではない、嬉しいこと、悲しいことがあるたびに、空に向かって声を限りに吠えるのだ。それはある種の宣言のように聴こえる。「我々は感情の存在しか認めない。理性的な判断など、断固拒否する」という。
 なんかうそ寒い気分、というのはこういうものを指すのかねえ。「死を恐れていて山岳救助隊が務まるか」みたいなセリフが出てきていたが、オノレが遭難して、なんの救助隊か。そもそもその救助費用なるもの、かならずしも登山なんかに興味のない一般市民の払った税金から捻出されているのではないか。自己陶酔している権利なんかあるのか。

 ニュースなどを見ていると、そのような山の遭難の現実としては、驚く程高年齢の登山者たちが遭難の当事者として登場してくる。私なんかよりもちょいと上のダンカイの人々とか、それら高齢者たちが「山登り」が青春だった世代なのだなあと、シミジミ知らされたりするのだ。
 そういえば、その世代の人たちが歌っていた”古典的日本のフォークソング”にも、何曲も山と遭難に関わる歌が歌われていたのだった。「山よお前は憎い奴、友の命を奪っていった~」とかいう歌詞が私などの記憶に残っているくらいだから、そこそこラジオなどからも流れたのだろう。”反戦フォーク”なんてものがわが国でも歌われるようになる直前の時期にあたるだろうか。そういえば高石友也なんて人のデビュー曲も、広義の山の歌、スキーに関する歌だった。

 それら歌のテーマとして提示される、美化された死のイメージ。なんだかそれが私には、第二次世界大戦中の「アッツ島玉砕」のエピソードなどに直結するものと思われて仕方ないのだ。すべての山の遭難を美化する作業、それらは根を同じくするものではないのか。そんな風にして続いていたんだよね、”戦前”は戦後になっても。

 大日本帝国の敗戦色が濃厚となったその頃、その島の守備隊の玉砕の美化の成功、それがすべてを変えた。
 もう「大本営発表」において負け戦を勝ちと虚偽の報道をする必要もない。戦いにおいて敵に敗れ、全員が命を落とすことは美しいことなのだ。お国のために死ねることの栄誉をありがたく受け取れ。そして兵士でもない人々までが、俘虜として恥を晒すよりはと沖縄の崖の上から身を投げていった。そんな風にして第二次大戦の後半は、”アメリカ軍と日本政府の合作による日本市民の大虐殺”の残虐劇の場となって行った。

 もういい。死ぬことは美しくなんかない。もう登るまいアッツ島によく似た山などには。何年経っているのだ、あの戦いが終わってから。



影を引かれた夜

2012-09-21 16:24:51 | いわゆる日記

 昨夜、つけっぱなしにしていた机の上のラジオが「宇崎竜童作曲作品集」なんてのを流し始めた訳です。
 まあ、そういうものかと聞き流していたんですが、何曲か続くうち、それらの曲に付けられた阿木耀子のペンになる歌詞というものが無性に腹立たしくなり始めた。なんか、それらの歌詞のテーマやら言葉使いやらが気に障ってならない。
 そのいらだたしい思いは、研ナオコの「愚図」なる歌が流れ始めたあたりで頂点に達した。

 「えーい、つまらないことにグダグダ耽溺して、チマチマ文章を塗り上げ腐って!いいかげんにしろっ」

 一瞬、ラジオを爆破しそうになったんですが、幸いなことに、手元にダイナマイトのたぐいがなかった。
 まあ、昔の歌謡曲を聴いて、ムキになって怒ってみてもしょうがないんですが。しかし、なんだって私はあの時、あんなに腹が立ったのだろう。それらの曲が流行歌としてリアルタイムで街に流れていた頃は、特に気にもせず、聞き流してきたはずなのに。

 まあ、浅く考察してみるに、ですね。私が、あるいは今日の日本が、「それはもう解決済み」ということで時の流れに置き去りにしてきた何らかの想いというのですかね、理念というのですかね、そんなものがあったんじゃないか。
 そんなものを阿木作品が、「解決していない。あのことが忘れられない」と指摘しているように、あの時の私には感じられたんではないか。とりあえず物情騒然とするこのご時勢に、ですね。過ぎたことにいつまでもこだわりやがって。そんな気がするんですがね。

 まあ、普通の精神状態ではない深夜のひと時、気まぐれに生まれ、夜の闇に消えていった想いの正体などあれこれ考えてみるのも、それこそ”つまらないことにグダグダ耽溺”でありまして、閑話休題、とかいってそのまま終わったらダメですか、この文章。
 その番組の後半で、その月の歌かなんかで流れた吉田拓郎の新曲かなんか。こちらは逆に歳月の流れも感じさせない十年一日の如き能天気な歌で。お前は呑気でええのう、などと奮然たる気持ちでオシッコして寝てしまった夜だったのでした。

流れ行く日々

2012-09-11 05:21:32 | いわゆる日記

 「煙が出ましたが、いつものことなんで気にしないでください」の米軍のオスプレイだが、ちょっと前までは「事故とは言っても、皆、人為的ミスなんで大丈夫です」の方向に話を持って行こうとしていたな。
 あれって、「ああ、人為的ミスか。それならいいや」ってなものでもないと思うんだが。もしろ、もっと危険だろ、人為的ミスの方が。なんでそこに突っ込まないんだ、反対運動している人たちも。
 
 「消臭力」のCM。例のミゲル君とか言ったっけ、CMソングを歌っている外人の男の子。彼が人気となり来日などして、というところまでは普通の話だが、最近はそのCMフィルムにゲスト出演というか強引に割り込んできた「TMナントカの西川某」とかいう男がやたらに出番が増えているのが異様である。
 この頃ではミゲル君そっちのけでこの男が写っている場面の方が多いし、歌声も、西川の無神経なドラ声の方が圧倒的に大きく収録されていて、肝心のミゲルくんはもはや、CM内では背景程度の存在でしかなくなっている。
 こんな本末転倒も珍しく、しかもそれがあたり前みたいな顔して放映されているのが不思議だ。ミゲルくんファンからは苦情が出ていないのだろうか?そもそも西川は、なんであんなに優遇されているのだ?
 このCM、どうやら文句を言わないみたいなミゲル君ファンたちも込みで、いかにも妙ちきりんな物件として今日も街に流れる。

 ヘンテコな結末になりそうな尖閣諸島の問題だが、「石原さんにしか売らない」みたいなことを言っていたくせに突然手のひらを返した「地権者」が、うさんくさいなあ、いかにも。
 あと、国は20億円で買うとか言っているが、そんな金の使い方をするなんて話、俺は全く聞いてないがね。税金をさ、国民になんの相談もなしに勝手に使っていいのかね。

 先日、深夜のラジオから、昔風のシャンソンの日本語訳版、みたいな曲が流れてきた。女性歌手の、いかにも「下町の人生模様を歌っております」みたいなもっともらしい語り口で一人の女の人生が歌われるのだが、聴いていれば要するに何やらの病気で同棲相手の男が死んでしまいました、というオハナシ。「我が麗しき恋物語」とかいうタイトルで、どうやら昔のシャンソンの大家、バルバラのレパートリーの日本語化のようだ。
 でもねえ。それって今、映画やテレビドラマに溢れかえっている難病ネタじゃないか。日々、画面の向こうで、どれだけの美男美女がわけのわからない病気で命を落として行くことか。とうの昔に見飽きた風景となっているのだが。テレビ番組のプロデューサーはスタッフに、「もっとほかに死にそうな奴はいねえのか!探してこい」と激を飛ばしているって話を聞いたことがあるよ。
 そんな歌を歌手が真面目くさって歌っているのがいかにも滑稽で、なんともバカバカしい気分になってしまったのだが、古い歌のようだし、作られた時には今日のような状況ではなかったのだろうからしょうがないんだろうなあ。
 とはいえ、このような状況下でそのような素材をあえて演題に加えてしまうセンスは、やっぱり当方の立場として嘲笑の対象とさせていただくよりないだろう。まあ、難病ファンは感動して聴くのかもなあ、ああいうものを

 さらにラジオは流れ続ける。シンガー・ソングライターで尼さん、とかいう人がゲストで出てきて東北の被災地を訪れた際のエピソードなど話し始めた。
 それはいいのだが、その人の喋る言葉のアクセントが妙に気に障る。「××なんです」とかの語尾の「す」音がスッと上がるのだ。それがいかにも、その人の「素朴で無垢で善意の人」を自己演出せんがための作為、みたいにわざとらしく感じられてたまらなくなってしまったのだ。なんでこの人、こんな喋り方をするのかなあ。
 東北のナマリなのかな、と思ったがご本人、奈良の生まれで今も奈良在住というんだから、そうでもないんだよね。
 ああ、こんなこと書いていると叱られるんだろうけどさ、「東北の被災地に応援に出かけている善意の人を、お前は悪く言うのか」とか。いや、そのことに文句をつける気持ちなんかまったくありません。ただ、彼女の喋り方がわざとらしく感じて気に障ったというだけの話です。いや、あれが彼女の自然な話し方なのかも知れないしね、それはそうなんだけどね。まあ、嫌なものは嫌だ。

虎の威を借る・・・

2012-09-05 06:09:52 | いわゆる日記
 昨夜、ツイッターを覗いていたら、どこからかリツィートされて漂ってきた下のような文章に出会い、「こういう物言いも問題あるよなあ、と首をかしげてしまったのだった。あるミュージシャンに対する評価に関して、の話題のようだったけれど。

 ~~~~~
 僕みたいな無名ライターが絶賛しても半信半疑なのはわかるけど、松山晋也さん北中正和さん関口義人さんピーターバラカンさんサラーム海上さんがこぞって賞賛してるのにまだ信じない人ってどうなの
 ~~~~~

 「信じない人ってどうなの」って?どうもこうもないのであって、そりゃ、信じる人も信じない人もいるでしょうよ。
 ところがこの論者氏はそれでは納得できないらしい。”そうそうたる先生方”の名が上がっているにもかかわらず、その権威にひれ伏さない者がいるとは。何たる不遜なる態度だ、とでもいいたいのですかね、「信じない人ってどうなの」ですから、文章の締めくくりが。
 そりゃちょっとおかしいんではないのかなあと、私は、まあ、余計なお世話と思いつつも、下のように返信してみました。

 ~~~~~
有名ライター陣が”こぞって賞賛”しているから信じるって発想もいかがなものか。
 ~~~~~

 すると発言者氏から、下のような反応があったのです。

 ~~~~~
 それぞれの皆さんがどういうお仕事されてるかご存知ないようですね。知名度の問題ではありません。あなたなら誰を信じますか?
 ~~~~~~

 この冒頭の一行を読み、私はなんだか”水戸黄門”の一場面を見るようで笑えてきてしまったのですがね。「え~い、これだけの名のある方々が揃っておるというものを。恐れ入る、ということを知らぬのか。無知なお前は、この方々がどれほど偉い方々なのか、分かっておるのか!」とか、慌てふためく木っ端役人、みたいな有様じゃありませんか。
 まあ、”それぞれの皆さん”がどういうことをしているか、とりあえず私は知っていますが、それが何か?という奴ですね。誰であろうと知ったことではない、私は私が信ずるところのものを信じます。「偉い人が言っているから信じる」とか、そんな価値観は持ち合わせませんし。

 そもそも、最初の文章の冒頭で「僕みたいな無名ライターが絶賛しても半信半疑なのはわかるけど」と言っておきながらこの人、よくも「知名度の問題ではありません」とか恥ずかしくもなく言えたものだなあ。
 とりあえずこの論者氏、とびきりの権威主義者であるのは誰でもわかりますね。せっせと”先生方”の名を並べてみたり、「この方々が、どのように偉い方々なのか、貴様には想像をつくまい」みたいな文章掲げてみたり。
 最後には「あなたなら誰を信じますか?」とか言って、もう宗教めいて来ている。

 その後も、「よく知らない分野の音楽だから、他分野の多くの人の意見を参考にしたいから」なんて、微妙に論旨を変えた自説フォローをはじめてるようですが、「他分野の人々の意見を参考にする」その結果が、「こぞって賞賛してるのにまだ信じない人ってどうなの」て、他人に賛同を強制するような文言に帰着してしまうって、それこそどうなの、それは、ですな。
 まあ、ネットにはいろんな人がいます。

ピアニッシモ

2012-08-20 21:21:39 | いわゆる日記
 ずいぶん前から探してるんだけど、”ピアニシモ”という曲に関する情報が見つからないんですわ。いや、そう聞いてあなたが思い浮かべられたその曲ではなくて。多分、別の曲です。
 なんか同名異曲の多い曲みたいで、検索かけても、題名は同じだけど全然違う曲がゴロゴロ出てくる。けど、私の探しているその曲の話題がさっぱり出てこない。まあ、古い曲だから忘れられてるんだろうけど、しかし、どこかに一つぐらい記事があってもよかろうに。You-tubeにも、上がってないみたいだなあ。

 私の探している”ピアニシモ”は、多分ヨーロッパのどこかの国(イタリアのような気がするんだが)の曲で、若い女の子がピアノの伴奏で歌っている。清楚な印象のクラシックぽい静かな曲、とはいえその声はか細くて消え入りそうで、それこそピアニシモだった。
 初めて聞いたのは遥か昔、さすがの私もまだガキの頃でした。深夜、眠られぬままにベッドの中でラジオに耳を傾けていると、ふと聴こえてくる。そんなふうにその曲とは付き合った。歌っているのがどんな人なのか、もちろんわからない。ヒットした曲なのかどうかも。

 ともかく深夜のラジオで、忘れかけた頃にひょっこり聞こえてくる、そんな状態がしばらく続いて、その後、全く聞くこともなくなった。この年になって思い出したら、妙に懐かしい。こんなふうに思い出してみると、まるで夜の静けさの中から生まれでて、また夜の中に帰っていった、そんな曲にも思えてくる。
 こういう曲はむしろこのまま、何もわからないままにしておいたほうが良いような気もする。ただ、もう一度聞いてみたい気もするなあ。

 昔、ヤング・マーブル・ジャイアンツなるニュー・ウェーブのバンドがデビュー時、「夜、ラジオに耳を澄ませていると、遠くの名も知らないラジオ局が懐かしい曲をかけているのが聞こえてくる、そんな感じの音を出したい」とかバンドのコンセプトを語っていて、ラジオ主義者としては非常に気になった。そのイメージするところ、すごくわかるから。
 この”ピアニシモ”って曲も、まさにそんなふうに聞こえてくるのがふさわしい曲なのである。
 その歌手のアルバムを手に入れてみると、全曲、”ピアニシモ”みたいな曲が収められていて。なんて空想をしてみると、ちょっと血が騒ぐんだけどね。

ラジオ主義者の明けない夜明け

2012-08-19 03:12:33 | いわゆる日記

 昨夜、ツイッターで以下のように発言していた人がいた。

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時々オーディオに否定的な意見を言う人がいるが、生では一生聴けないであろう秘曲や死んでしまった人の名録音をより良い音で聴きたいというだけのことなのだが。そういった欲求がおかしいとでもいうのだろうか。
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 さらに、それに対してこのように共鳴した人も。

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好きな音楽なら少しでも「良い音」で聴きたいと思うのは、ごく自然な人情だと思います。
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 まあ、人がどのような価値観で音楽を聴こうが勝手なのであるが、普遍的な「良い音」といったものが存在する、との認識があり、それを是とするのが自然な人情なのだ、と結論が出されてしまったら嫌だなあ、と思った。
 会話を交わしている方々はオーディオ・マニアの側面も持つ音楽ファン同志のようだが、高級なオーディオの生み出す音が良い音、なんて定説が出来上がるのはうんざりである。
 で、とりあえず下のようなコメントを発しておいたのだが。

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私は「ラジオ的な音」が好きです。いわゆる「オーディオ的な良い音」は、ちょっと私にはやかまし過ぎるんですね。まあ、「良い音」の概念も人それぞれかと思います。
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 以前も書いたが、私はそのような”ラジオ主義者”である。あまりにも装置が巨大すぎて玄関壊して自宅に運び入れた、なんて逸話を持つような超高級なオーディオの生み出す分厚い音響より、窓辺においたちっぽけなラジオから偶然好きな曲が流れ出た瞬間を愛したい音楽ファンである。

 そんな自分の特性に気がつかないでいた青春の日、マニアな人からは笑われるレベルではあろうが、それなりのオーディオ・セットをやっとのことで買い込み、聴いてみたのだが、どうも音が仰々しくて馴染めない、なんて体験をした。
 しょうがないからつまみを回してまず、最も鬱陶しく感じた低音域をカットした。それでもうるさいから高音域をカットし、さらに中音域をカットした。さらにボリュームも大幅に落としてみて、「しかしこれ、意味ないだろ?」と首をかしげた。
 時代は移り、世にラジカセなるものが流通するようになった。早速手に入れた私は、お気に入りの盤を外出時にも持って出られるとは便利なりと、愛聴していたアナログLPをカセットに落とし、そいつを出先で聴いてみたのだが。あっと驚いた。そこから流れ出たのがまさに、”私の理想としているレコード再生装置”の音であったから。

 うわあ、なんだい、私が求めていたのは、大層なオーディオ装置ではなく、はるかに簡素なラジカセの、つまりはラジオの音だったのである。そしてこの志向は今でも変わっていない。音楽を聴くのは常にちっぽけなCDラジカセ経由である。
 このような感性を持つに至ったのは、音楽ファンのなりたての頃、ひたすらラジオの洋楽ヒットパレード番組を追いかけて聴いていたからとか、もっと幼少時、針仕事をする母がいつも傍らに置き、聴いていたトランジスタ・ラジオの音色に馴染んでしまったから、とかいくつか仮説を立ててみたのだが、真相は分からず。そういえば思春期に熱中していた海外からの日本語放送傍受も、ラジオ趣味全開と言えるよなあ。さらには、私の”AKB48メンバーの中の推しメン”は、ラジオのトークを大得意とする佐藤亜美菜ちゃんである、という具合。
 いや、ラジオってホントに素晴らしいですねえ、と、つまらない締めの言葉しか思いつけないのが申し訳ないが。

 ラジオといえば先日のNHK・ラジオ深夜便が快感だった。第一部のジャズサックス特集は、ソニー・ロリンzスやスタン・ゲッツといったジャズ街道ど真ん中のプレイヤー連発で、いやあ、そんなにストレイトなジャズをこのところ聴いていなかったので、実に新鮮な驚きがあった。ジャズが一番かっこよかった時代のジャズを久しぶりに堪能した次第。
 また、司会のアナウンサーが良かったなあ。ジャズマニアであることを隠そうともせず、イヤミの一歩手前まで”通っぽさ”を押し出したトークは、深夜にジャズを聞くことの快楽を”秘儀”にまで至らしめてくれた。
 そもそも、あの番組で喋っているアナウンサーたちの素性って、どんなんだろう?日常、放送で馴染んでいる連中とは、なんかまとっている空気が違う。
 何十年も前に深い事情あって冷凍処置を施された者たちが深夜だけ蘇生を許され、地下の倉庫から這い出て喋っているみたいな響きを帯びている、そんなふうに感じてしょうがない時があるんだが、私には。

 そしてその日の第2部が笠置シズ子特集で、それは彼女の名前も歌も聞いた事はあるけれど、実はきちんとまとめて聴くのはこれが初めて、の私は、もう夜明けが近い部屋の中で一人、「ロックンロール!」などと見当違いな掛け声かけて一人盛り上がったのだった。凄い歌い手だったんだね、彼女。いやあ、まいった。

 ラジオ主義者の病は深い。癒えることはない。夜を飛び交うすべてのラジオ電波に栄光あれ。



折れたる日々

2012-08-08 06:13:18 | いわゆる日記
 例の「高校生が、イジメで腕に20数箇所も”根性焼き”された」事件。その被害者の方を退学させようとした不思議な学校の事、あちこちのテレビのニュースで報道されたが、なぜか学校名はどの局もふせたままだ。
 これはこのまま伏せた状態で行く気なのかね?それとも、高校野球で仙台育英高校が敗退するまでは伏せておこう、ってことなのかね?

 デブタレの石塚英彦が最近出した「キュッコロリンの歌」ってのが聞こえてくると腹が立って仕方ないんだが、あなた、そうでもないですか?
 なーにが「おむすびが美味しいのは優しい気持ちが詰まってるから」だ、わざとらしい。あれを聞いて心温まれと言うのか、ええおい、レコード会社よ?

 もう聞くこともあるまいと思われるアナログ盤をまとめて中古レコード店に送っておいたのだが、今日、その買取り査定額を知らせる手紙が来た。
 CDならともかくLPであるのだし、あのような盤を聴く人ももうあるまいなあとあまり買取額に期待はしなかったのだが、それほど悲惨な額でもなかったので、やれありがたい、などと。
 で、明細を見てゆくと、その買取額の半分以上は、送付したうちの3枚のLPの値段であると知り、ちょっと驚く。うへえ、あの盤、そんな価値があるのかあ。知らんかった、知らんかった。いつの間にか出世していた知り合いの消息を知るみたいな感じだ。それらは一体、いくらぐらいで店頭で売られるのか、ちょっと見に行きたいくらいの気分である。まあ、見たってしょうがないんだが。

 一時、好きだったあるグラビアアイドルの写真集が急に欲しくなり、通販サイトをあちこち巡ってみたのだが、どこでも売り切れ。まあ、出てからだいぶ時間が立っているからしょうがないよな、と諦めたのだが、サイトの表示をよく見ればそれらは、もう20年も前に出版されたものなのである。もう、売ってるわけないんだよ、はじめから。文学作品なら文庫本化もされようが。
 それにしても、知らないうちに勝手に流れ去っていた時の流れに、というかその事実に気がつかずに過ごしてきた自分の人生の迂闊さに唖然とする。

 クソ暑いわ、しょうもない事ばかりいろいろ起こるわで、どもならん日々である。

くそったれめ

2012-07-15 04:17:52 | いわゆる日記

 さる6月12日にこの場に、「K神社の暴虐の下で」なる文章をすでに書いておりますが、この夏、街の神社の祭りを我が町内が運営せねばならないことになっています。
 これはこの街の各町内には20数年に一度、めぐってくる神社への奉仕義務となっておりまして、いや、大変な災難。結構大規模な祭りなんで、手間も金もかかるのです。「あれさえ無事に終われば、うまい酒が飲めるんだがなあ」と例年であれば祭り好きの連中も今年ばかりは頭をかかえております。

 ちなみに夏祭りは、もう目前に迫っている訳であります。おいおい。当日は朝7時なんて時間から動員されて神事の仕切りから、宮神輿の行列に付いて町中を回り、交通整理から食事の手配まで。終わるのは夕方ってんだからひどいもので。奴隷ですわ、これは奴隷の仕事。
 やっぱ神社爆破、これしかないですわなあ。毎年、順番の回ってきた町内はパニック状態で一年過ごす(夏祭りばかりじゃなく、節分の豆まき大会から、ともかく一年間の神社の行事すべてを担当させられるのです)のでして、これまでにも頭にきて祭りなんか吹っ飛ばしてしまおう、なんて夢見た奴っていなかったのかなあ?

 だってさあ、私、神社なんか明日、消えてなくなっても何も困りませんよ。街の多くの人にとってもそうだろう。あれ、なんの役にたってるの?神社が我々住民にこれまで、何か良いことをしてくれたことなんかあるのだろうか。そんなもののために、なんだってこんな奴隷の日々を。頭くるよなあ、まったく。

 なんて文書しか頭に浮かばない今を、まったく残念です。




正義が座っている

2012-07-10 05:44:08 | いわゆる日記
 さっきラジオで聞いた意見広告なんだけど。

 朝、混み始めた電車で、シルバー・シートに座り込んだ男の子がいた。その子の母親が「その席は、あなたが座っちゃダメなのよ」と咎めると、男の子はこう答えた。

 「ボク知ってるよ。ここは、お年寄りや体の具合の悪い人のための席でしょ。でも、いつもここには若い人が座っていて、お年寄りが困っているの。だからボクはおじいさんおばあさんが来るまで、この席を守っておいてあげるんだ」

 そして男の子は、次の駅で乗り込んできたおじいさんに自分の座っていた席をゆずったのでした。というオハナシ。

 この広告を制作した側は、さも「いい話」みたいなニュアンスで放送しているわけだが、何か変じゃないか、この話は?どこか基本的なところで勘違いしていないか?
 そもそもそのガキ、次の駅でも、その次の駅でも年寄りの客がその車両に乗ってこなかったら、満員の電車の中で、そのシルバー・シートにずっと座り続けるつもりだったのか。その時彼は、正義を行使する誇りに頬を上気なんかさせてるんだろうか。

 こういうCMを作る奴の日常ってどんななんだ?なにを考えて生きている?と首をひねってしまうのだが、まあ、自分が正義の使徒であると信じ込んで生きている奴の気色悪さ、始末の悪さ、なんかはよく出ていると思うけどね。

 え?どこのCMかって?そりゃ、ご想像通り、”3・11”以来、おなじみとなった、あそこですよ。