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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ブルースターに耳をふさいで

2012-06-25 04:00:44 | いわゆる日記

 気がつけばいつごろからか、NHK総合テレビで宇宙の渚とかいう科学ドキュメンタりィのシリーズをやっている。地球に降り注ぐ放射線とか、数え切れないほどの流星とか、オーロラとかの話。いや、まだ番組に気がついて見始めたばかりだからちゃんとしたテーマは知らないのだが。

 そもそも今日の宇宙開発テーマの話は、アホらしくて耳を傾ける気にもなれなかったのだ。
 まあこれは以前より何度もしている話だが、私が子供の頃読んだSFとかの中では、21世紀ともなれば月や火星に人類はとうに到達していて、植民都市なんかを作っているのではなかったか。
 にもかかわらず今日の我々の”宇宙開発”の姿は、未だに地球の周囲をグルグル回るのがやっとであり、その一方では核の恐怖なんていう、SFのテーマとしては古過ぎてカビの生えてしまったような現実から立ち上がることもできずにいる。なんてブザマな21世紀だ。

 だが、宇宙を大海になぞらえ、地球の大気が宇宙空間と出会うあたりを波打ち際ととらえ、なんて視点は好きで、”地球礁”なんて小説のタイトルも好きだったので、なんとなく付き合ってやってもいいような気もしてきている。
 そういえば”宇宙ショー”というのか、例の金環日食とか天文ネタの見世物がこのところ多い。とはいえ、どれもなんだか乗れない気分で、その種のもので感動したのはなんといっても、探査船ボイジャーが送ってきた”木星の大赤斑が動く姿”だったなあ、もうずいぶん前の話だが。木星の赤斑の姿は子供の頃から見慣れてはいたが、それがどんな具合に動くのか、リアルに見た嬉しさというものは。

 直接見た物件では、あの”大接近”時の火星の姿だった。あれも何年前になるんだろう。
 時刻はそろそろ深夜に至り、いつものようにダラダラとネットをやっていたら、「なにやってんの!あなたが見ておくべきものでしょ?」とのメッセージを突然もらい、慌てて外に出てみると、近所のホテルの駐車場の真上に、肉眼ではっきり見える大きさで、静まり返る街の風景を睥睨するように強い光を放つ、その星があったのだった。
 やっぽりその時の心に基調として響いていたのは、挫折のテーマだたんだけどね。人類は宇宙に行けていないが、自分自身も、一体どこに行き着けたのだろう、ただ馬齢を重ねるばかりで、何を成し得たのだ、みたいな無念さ。そんなものを噛み締めながら、生涯、もう二度と浴びることもないであろう、赤い星の光の中に立ちすくんでいたのだった。

 宇宙テーマのエレキ・ギター・インストものと言えばシャドウズの”ブルースター”にとどめをさす。なんか、好きな女に打ち明けたいのだがどうして良いのか見当もつかない青少年が途方に暮れて見上げる空に星ひとつ震えている、みたいな青臭い恋慕と、未知の遥かな星々への憧れがないまぜとなった切なさがいいよなあ。
 You-tubeを探してみたのだが、いろいろな人によるカバー演奏の貼り付けはあっても、オリジナルのシャドウズの演奏によるものがない。
 こりゃまたどういうわけだ。権利上の問題でもあるのか。

 そんなわけで探すのも面倒くさくなったんで、もうなんだっていいやあの曲ならと、「シャドウズ・ブルースター」と検索かけて一番最初に出てきた奴を、下に貼ってやったぜ。どうだ、ワイルドだろう~♪



アイドル好きの明けない夜明け

2012-06-22 04:38:29 | いわゆる日記

AKB48の「歌声」ってのは、誰と誰の声によって構成されているのかなあ?とか疑問に考えてみる。
 いや、そりゃ全員(と言っても何人が参加しているのやら)によるコーラスがリフレインのところに来ると聞こえてくる訳だが、歌の導入部分では、確かに数人だけが声を合わせて歌っているわけでしょう。それは誰と誰なんだろう?女の子のコーラスものとしては、若干、低い音域が特徴かと思う。あれは個性付けとして設定しているのか、それともメンバーの声域上の都合から成り行きでそうなっているのか。
 そんな具合に、確かに一度聞けば区別のつく”AKB48の声”ってのはあるわけで、シングルでは毎度、グループの歌声担当ってのがいるらしいのは、それでわかるんだが。大島優子とか高橋みなみとか、あのへんなのかなあ、普段の会話の音域から推測するに。

 などとふと思ってしまったのは、さっき聴いていたラジオから流れて来た前田敦子のシングル曲の声が、あんまりAKB48全体の歌声の中で聞いた覚えもないような気がしたんで。彼女、中心メンバーの中の、そのまたど真ん中なんでしょ?それにしては聴き慣れない声だなあ、ってのもおかしいでしょ。
 なんてことを書くとマニアの人から「何も分かっておらん。あれは誰と誰の声だと、普通に聞いて丸分かりではないか」と軽蔑されるかもなあ。
 まあ、それもしょうがないです。私も若き日にはおニャン子クラブの”歌声”に含まれる新田恵利要素と国生さゆり要素との聞き分けを楽しんだり、キャンディーズのコーラスの中にラン、スー、ミキの声を聞きとるのは造作もないことだった。
 そのへんが分からなくなってるってのは、やっぱりアイドル世界は遠くなりにけり、いい年してポップスファンやってるなよ、ってな感じなのかなあ。

 なんてぇ話題から含蓄のあるワールドミュージック話に持って行ければいいんだけど、このところ日常の雑事に追われて心がヒラヒラしっぱなしでね、物事をあれこれ考えてみる余裕もなし、いやあ、情けないですなあ。ほんと、ろくなことがないんだよ、このところ。

 ところで私の”推しメン”は、佐藤亜美菜ちゃんであります。以前、ラジオであの子が喋ってるのを聞いて、「うわあ、これ、片岡聖子の再来だ」とか、驚かされちゃったんで。片岡聖子ってのはもちろん、あの”オールナイターズ”で”おあずけシスターズ”をやっていた子です。うん、結構あの子のファンだったんですわ。面目ない、
 だってさあ、ラジオで声だけ聴いてると、声質、喋り方、そっくりに聞こえたんですわ、聖子と。以来、推しメンです。それが証拠に、私の札入れには車の免許証と一緒に、それとそっくりな作りの亜美菜公式ファン証が入っている。恐れ入ったか。以上。




引き潮の街で

2012-06-18 06:50:15 | いわゆる日記

 「父の日」絡みということなんだろうか、この二日ほどにキヨシローの「パパの歌」などという歌がラジオから流れるのを何度か聞いた。そのたびに不愉快な気分になった。
 家庭における父親はトドのように寝転がっているばかりでだらしないことこのうえないが、昼間の彼はちょっと違う、輝いているのだ、とかいう歌だ。
 なんで輝いているかというと、会社へ行って仕事をしているからだという。いい汗をかいているという。昼間のパパは男だぜ、と賞賛してみせる。
 本気でお前はそんなことを考えていたのか歌っていたのかと、呆れるくらいしか反応のしようのない歌だが、こんなものもキヨシロー信者にはありがたいものなのだろうか。
 こんな具合に”まっとうな暮らし”を賛美してみせる俺って、渋いだろう、オトナだろうとキヨシローは自慢だったのだろうか。なに、歳をとって本当らしい嘘が自分にも他人にもつけるようになった、というだけの話じゃないのか。

 日曜の深夜だ。海岸の遊歩道のあたりを散歩してみた。
 昨夜までの、週末の観光地を彩ったネオンサインは、多くが点けられておらず、祭りのあとのうら寂しさを歌いながら夜風に吹かれている。もう観光客たちは街に帰ってしまったのだろう、スカスカの客室やマイクを握るもののいないカラオケを満たしている妙に寒々しい空気の感触が、夜の街角まで流れ出てきているように感じられる。
 いつまで経っても現れない客を、それでも待つしかない客待ちのタクシーの列が夜の中、遊歩道の脇に続いている。
 売れない演歌歌手の、何年も前に出た”新曲”のポスターが潮風に曝され、変色しかかっている。ポスターには、キャバレー回りの果てに、この街にいつのまにか居着いてしまった歌手自身による、手書きのスケジュール告知が貼り足してある。うら寂しい街ばかりを歌って歩いているんだよなあ。
 なじみの飲み屋はどこももう、店をやめてしまった。空家となった店舗には、次なる借り手は現れないままのようだ。
 かってそれらの店で、一緒に飲んで騒いだ友人たちもとうに街を去り、消息を知らせる便りもいつか絶えた。

 毎度お馴染み、休日の終わりの哀感。明けて明日からはまた、きつい日常が続いて行くのだ。
 遊歩道の向こう、ヨット・ハーバーのどこかで、悲しげな鳴き声のようなものが長い尾を引いて聞こえた。ような気がした。
 海獣のものかと思ったが、ここは気楽にアザラシのタグイが訪れるような湾でもない。ヨットの持ち主が連れ込んだ飼い犬かなにかか。あるいは訳ある深酒で悪酔いした人間の呻きか。
 暗いの水の広がりを眺めながら耳を澄ましていたが、それきり声は聞こえることはなかった。



K神社の暴虐の下で

2012-06-12 05:17:55 | いわゆる日記

 どうも最近はヤサグレ気分で、ブログ更新もトビトビとなっていて情けない次第。いやあ、現実生活ではろくでもない毎日でして。

 私の住む街には各町内に20数年に一度、廻ってくる災難といいますか、いい加減迷惑な習慣があります。当番町内とかいいまして、それにあたる年には一年間、神社の行事をメインになって執り行わねばならないってんで。
 たとえば何かと言えば、神社の境内で行われる節分の豆まき大会であるとか、夏祭りの進行であるとか。それらを主催者として取り仕切る。それが大変な作業であるのはもちろん、それらに関わる費用もすべて、こちら持ちですぜ。そいつを神社当局はふんぞり返って、もう「やらせてやってる。どうだ、ありがたいだろう」ってなノリで高みの見物ですわ。
 こんなもんさあ、神社が勝手にやりゃあいいじゃねえかと思うんだが、昔からの習慣だからとて、皆、唯々諾々とそれに従っている。なんてえんだろうなあ、もう私なんかは神社を爆破してやりたい気分なんだが。

 うん、つまり、その「当番町内」ってやつに、今年は私の住む町内が当たってるんですわ。まあ近所付き合いってものもあるから、そのろくでもない神社の行事の実行に嫌々私も付き合ってるわけで。情けねえなあ。
 ここで夢見るんだけどね、何かのきっかけで意識改革が起こって、「こんなのやっちゃあいられねえぜ!」ってんで各町内暴動起こす。で、神社なんかは焼き払い、もう、跡形もなくしてやったらどんなに気持ちがいいだろうと。
 形としては、そうですな、町内の慰安旅行でどこかアラブ方面に出かけ、観光気分で覗いてみたイスラム教の儀式に感動して、町内会全員、イスラムに改宗して戻ってくる。で、「神道などという異教の習俗には従えない」なんてそっぽを向き、日々、メッカの方角に敬虔な祈りを捧げる、なんてのもいいですわな。あ、いけね、イスラムになっちゃうと酒が飲めなくなるな。

 とか、こんないい加減な文章を書いていていいもんですか。ともかく今年いっぱい続く神道地獄への怒りでまともにモノを言う気にもなれん。お許しを。
 いやほんとに、町内にはクリスチャンの人もいて、しかし文句も言わずに、このくそいましましい神道からの押しつけ仕事を一緒にこなしてるんだが、どういう気分なのかなあ。
 ともかくうんざりであります。おい、我が街の神社よ。俺はさあ、お前ら神社なんてものがこの世からなくなっても全然全く困らないんだからな、それだけは頭にいれとけ。くそ。




ブラッドベリのいない夏

2012-06-08 16:18:08 | いわゆる日記

 例えば彼の作品に「マチスのポーカーチップの目」というのがあり、この作品名を目にするたび、私の頭の中には南欧風の海岸が広がり、光まばゆいその海の水平線のあたりに巨大なポーカーチップが浮かんでいる、なんてシュール関係の画家が描いたみたいな風景が広がるのだが、まあ、小説の中身はこの夢想とはなんの関係もないものだ。

 先日来のネット上の知人たちの書き込みで、SF作家のレイ・ブラッドベリが亡くなった事を知った。まだ直接に死亡記事など読んでいないので死因等、詳しいことは知らないのだが、相当の年齢でもあったことだし、遅かれ早かれ、というところでもある。急いで詳細を検める気もない。何年か経ってから詳細を知り、「あ、そうだったのか」と思うんでも構わないじゃないか。死者相手の急ぎの用事があるわけでもなし。などとうそぶいては見るのだが、死亡記事をあえてみたくもない、という気分なのかも知れない。

 彼の作品は、熱狂的なSFファンだった中学生の頃から、当然、愛読していた。「好きな作品は?」と問われれば、「どれも」とでも答えるしかないが、どちらかと言えば、功なり名を遂げてからの文学性高いファンタジィよりも、若書きというのか、いかにもいかがわしい安雑誌にホラー味の高い怪しげな短編を書き飛ばしていた、”うさんくさいパルプ作家”だった頃の、異世界に向けた歪んだ情熱が窺える作品が好きだ。

 彼が日本のSF雑誌のインタビューを受けた際のエピソード。談話は楽しく進み、その終わりに彼は満面の笑みを浮かべて言ったのだそうな。
 「ねえ、日本とアメリカはこんなに仲がいいんだから、日本はアメリカの一部になってしまえばいいのに」
 なんの裏の意図もない発言である。ブラッドベリの諸作品から読み取れるように、彼に政治への関心は皆無である。日本びいきの彼の、まったくの好意から出た発言なのであろう。「ねえ、こんなに仲がいいんだから一緒になってしまえば、もっと楽しいよ」 
 もう”大作家”と呼ばれるようになってからの発言である。この果てしなき幼児性の発露よ。

 今年も夏がやってくる。ブラッドベリの夢想の中で鳴り響いていた、駆け回る少年たちのバスケット・シューズが謳う永遠の夏が。が、彼が「ロケットの夏」と名付けた、あの星々へと通ずる夏はどこへいった?
 私が彼の作品を読みふけっていた頃、今日のこの日付けあたり、もうとうに月や火星に人類の植民都市は出来ていたはずだった。

 いや。我々が地球でグズグズしているがゆえに、火星の人々は、昔と変わらぬ平和な暮らしを営んでいられるのだろう。今日の天文学では存在しないことになっている火星の運河に、水晶の船を浮かべて。
 何十年ぶりかで火星に帰りついたブラッドベリの魂は、火星人たちに優しく迎えられているだろうか。昔ながらのブラスバンドが奏でる「海の宝石コロンビア」の演奏を聴き、とうにこの世のものではないはずの懐かしい人々と、積もる話をしているのだろうか。



ドヨ~ン日記

2012-06-05 05:00:39 | いわゆる日記
 明けて5日は町内のドブ掃除だ。そんな行事に出たい筈はないが、これも近所付き合い、出なきゃならない。というか、これに関する役所との交渉係も、昨年から仰せつかっている。うっとうしいなあ。この種のものから解き放たれる道とか、誰も語ってないよな、思想家は。けっ。

 今、テレビで爆笑問題の太田が言っていたのだが、昔の子供は未来社会を描けと言われると、機械文明溢れる大都市を描いたが、今の子供は緑の木々に覆われた世界を描くと。それでいい、それで正しいんだが、正し過ぎて気持ち悪い気もする。

 どういう経緯だったか無駄話の最中に「松崎しげるの愛のメモリー」に話が及び、が、メロディを歌ってみようとすると「クリスタルキングの大都会」とか「尾崎紀世彦のまた逢う日まで」なんてのばかり出てきてしまうのだった。要するに「なんか派手な曲」とだけ認識されているのか。

 「野田改造内閣」なんてのを、さも大事件みたいな扱いで報道するマスコミに呆れる。そんなもの、臨時ニュースになんてする価値があるのか。
 そして、終息なんかしていない原発事故のその後を放り出したまま行われてしまう気配の、原発再稼働。

グダグダなる日録

2012-05-25 05:44:14 | いわゆる日記

 先日、某通販サイトにCDを注文した訳です。で、ほどなく「発送した」とのメールが届いた。が、その後、待てども待てども現物が到着しない。
 まあ、注文内容はしがないCD一枚、メール便だから遅いのもしょうがないかと気長に待ってみたんだが、気が付けば2週間以上経過していた。さすがのんきな私も、これはおかしいと感じて宅急便屋に電話したのですわ。

 すると、帳簿ではもうとっくに配達済みになっているとのこと。おい、それはおかしいだろうと通販サイトのカスタマー・サービスにメールを出すと、「こちらからも宅配屋に連絡を取っておいた。後はあなたと宅配便屋とで話し合って欲しい」との、まるでひとごとのような返事がやって来た。

 なんだこりゃ?こちらはちゃんと発送したのだからあとは知らん、というのかね?勘違いしてないか?商品が顧客の手に渡るまで、あなたがたの責任ある仕事じゃないのか、それは。
 あきれ果てたねえ、××Vよ。

 そして×M×よ、私は料金だけ取られてCDは送ってもらえない状態なのだが、これ、どう収拾するつもりだい?このままなの?

 なにやら音楽について書く気でいたが、この不愉快な返答のおかげで何を書きたかったのか忘れてしまい、いや、どのみち、この不愉快な気分で、たいしたものも書けまい。

 ボッとしていたら深夜のテレビが伊丹十三の生涯をドキュメンタリー化したものを放映しはじめた。これはいいやと、文章を書くのは諦め、視聴に専念する。
 高校から大学くらいの頃、伊丹のエッセイは愛読してた。自室に自閉して伊丹のエッセイを何度も読み返すのが至福の時に思えた。暗い青春?うん、暗いがどうした。

 なに、ここで書いてる文章だって、実は伊丹エッセイの下手くそな真似事が根っこにあるのだった。あんな文章を書きたかったのだ、私が文章を書き始めの頃。特に一冊目のエッセイ集、「ヨーロッパ退屈日記」はミーハーに憧れた。
 その後、映画を撮り出してから彼は私には「あんまり関係ない人」になっていってしまったが。さらにその後、ご本人が自らの手で自分をこの世と関係のない人としてしまったが。

 ちょうどその映画第一作のあたり、これから彼の人生、派手になるぞというところで番組はプツリと終わり、「次回に続く」となってしまった。全く計画性のない私、何らかの偶然に恵まれない限り、気になる次回以降は見損なうのだろう。

 見損なうと言えば、明けて明日、25日にBSで奄美の城南海ちゃんの番組もやるらしいが、大丈夫だろうなあ、見損なわないだろうなあ。え?ビデオに撮ればいい?ああ、そうすることを忘れてしまうのさ。

 さてここらでと立ち上がり、サンダルを突っかけて家を出た。
 こんな具合にパソコン前に座り込んで夜を過ごしていると、エコノミー症候群と同じ症状になる、なんて話も聞くし、夜半過ぎのオシッコはあえて家を出て、近くの海浜公園のトイレに行くことにしている。気休めかもしれないが、まあ、それなりに歩けば、少しは運動になるのではないか。

 海浜公園はもう完全に夜明けとなっていて、薄い朝焼けの海が非常に美しかった。国道を、長距離トラックが行き交い始めていて、初期のトム・ウエイツの世界だね。



月は今でも明るいが

2012-05-08 05:02:50 | いわゆる日記

 先日は、スーパー・ムーンなんて現象が空では起こっていたんだそうで。そういうことには疎い私も、皆のネット上のやりとりを読んでいるうちに、部屋に座り込んでいるのも惜しい気がしてきて、夜風の吹く海岸通りにうろつき出たのだった。
 スーパー・ムーンがどのような原理か知らないが、月の光の下を歩いていると、このくらいの月の大きさが丁度いいな、という気がして来た。月は大きめの方が心が落ち着く感じだ。

 ふと思いだしたのが、イタリアの小説家、イタロ・カルビーノが著した幻想小説、「コスモコミケ」だった。かって地球の一部だった月が、ゆらゆらと戻ってくる。粘り気のある液体状になってボタボタと地球の上に落ちてくる。そのすっとぼけてのどかな破滅のイメージは、月の美しい初夏の夜にはなんとも似合いの気がする。
 オールディスの「地球の長い午後」なんてのもあったな。とてつもなく長い時を経、すっかり年老いた地球と月が、巨大クモの織り成す糸によって繋がってしまい、クモたちがのんびりと宇宙空間を糸伝いに行き交う、そんな風景。

 ブラッドベリの「火星年代記」に、バイロンの詩だったかを口ずさむシーンがあった。もう、どんなストーリーの流れの中だったかも覚えていないが。
 「月は今でも明るいが、我らはもはやさまようまい。月の光のその中を」
 そこでその一節が読み上げられる意味はよくわからなかったが、詩の発散する甘やかな喪失感とでもいうのか、そんなものが気に入ってしまい、いまだにこの部分だけ忘れられずにいる。

 月とエンタティメントと言えば落とせないのが、あれはなんだったのだろうな、私がほんの子供の頃、アメリカ製の漫画映画が頻繁にテレビから流れていたが、そのエンディングに、「主人公が空飛ぶ月に追いかけれられて走って逃げるが、いつの間にか月は黒人歌手の顔に変化していて、その顔はニヤニヤ笑いながら空から歌を歌いつつ、やはり主人公を追い続ける」といったものがあった。
 その漫画シリーズのエンディングは毎回そうだったが、意味が分からなかった。あれにはどういう意匠があったのか。また、今にして思えば”もっとしっかり見ておけばよかった”というレベルの歌手が”月の顔”をやっていたのでは?という気がして、これはなんとも気になるところだ。

 月の歌、となるとなぜか私の場合、カントリー・ミュージックの開祖、ジミー・ロジャースを思い出してしまう。彼ののんびりとした声で歌われるアメリカ南部の空に浮かぶお月様の姿。
 エイモス・ギャレットが”ジェフ&エイモス”のアルバムでカバーしていた”キャロライナ・サンシャイン・ガール”などをまず、口ずさみたくなる。空に上がった月に別れた恋人の面影を歌いかける曲。”ロールアロング・ケンタッキームーン”とかもあった。また、彼の代表作、”ウエイティング・フォー・トレイン”なんかも、歌われる風景にはずっと月の光が見守っている感じだ。
 これが今日の歌い手、たとえばトム・ウェィツあたりの歌に出てくる月は、やはりちょっと狂気の影が差してしまう感じだな。




雑音の彼方に

2012-04-28 06:23:54 | いわゆる日記

 昨夜、ここにアート・リンゼイとか貼ったら、なんだかまとめてアバンギャルド方向の音を聴きたくなっちゃったなあ。大破壊的サウンドの出物はないですかねえ。
 アート・リンゼイのあの騒音っぽいギター・ソロとか、ああいうアバンギャルドっぽい音楽は音楽ファンの初期時代からすでに好きで、以来、フリー・フォームのグシャグシャのサウンドは時に”渇望”というレベルで聴きたくなったりする。

 どのくらい初期からかと言えば、ロックファンの身分ながら、おずおずとジャズのアルバムなども聴き始めた高校生の頃、ESPとかフォンタナ・ニュージャズシリースとかの前衛ジャズのレーベルに出会い、そのシュールなジャケ群にすっかり魅せられちゃったあたりから始まるんだろうか。サン・ラの「太陽中心世界2」とか、スティーブ・レイシーの「森と動物園」とか、見ているだけでドキドキしてくるジャケじゃないか。

 まあこれもジャケ買いの系譜なんだが、ジャケのデザインには惹かれるものの、中身のサウンドに関してはなにやら難しげな解説がなされており、これに腰が引けた。ジャケのデザインが気に入ったからって、手に入れてみたら肝心の音楽が楽しめなかった、では意味ない。
 で、おずおずと聴いてみたそれらのアルバムなんだが、これがなんの障害も感じず、普通に楽しめちゃったのであった。最初から。

 そのグロテスクにデフォルメされた楽器の音やら、覚えて歌えるようなところなど一切無しの、不安をあおるようなメロディラインやら、でたらめに叩いているようなドラムス、などなどがそれぞれ好き勝手に暴れまわっているサウンドは、しかし、拍子抜けするほどあっけなく私の心に馴染んだ。

 こうして私は3秒とかからずに前衛ジャズのファンになっていたのだった。未だにこれがなんで難解なサウンドとされているのかが分からない。うん、今回の文章の”言いたいこと”はこの部分。なんでアバンギャルドな音楽って”難解”ってことになっているんだろう?
 心にそのまま入ってこないか?”理解”なんてする必要はない。素直に聞いてりゃそのまま楽しめるはずなんだがなあ・・・と一応書いてみるけど、こんな話が通じない人がほとんどであるのは、もちろん知っている。

 そこであなたにお願いなだが、下に貼った音楽を、「音楽とはかくのごとくのものである」みたいな先入観を捨てて聴いてみていただけないだろうか?ごく普通に、熱い魂が脈打つのをお楽しみいただけると思うんだが。いや、やっぱり無理か???



夜の物音

2012-04-04 05:23:59 | いわゆる日記

 夜半を過ぎても風の音は収まらなかった。轟々と音を立てながら、その見えない流れは街を覆い、いずこへかと通り過ぎて行く。
 今回の”春先の台風もどき”騒ぎでは被害らしい被害もなかった(とはいえ、宿泊客のキャンセル相次ぎ、ホテル関係は大打撃だが)この街の住人としては、それにあれこれ言うのも申し訳ない気分だが。とりあえず当方、意味なく深夜の散歩に出ている。
 潮風吹き抜ける深夜の国道には、たまに、酔客をネグラに送り届けるために呼びつけられたタクシー以外、行き交うものもいない。風は街のあちこちの辻に走り込み、いつもなら聞くこともないような奇妙な声を上げ、静まり返った夜の街の情景をますます奇怪に演出する。

 そうそう、真夜中に聞く、事情の分からない物音の不思議、というのが幼少時の記憶にはあったものだ。どの不思議も解決はされぬままに、ただ忘れ去られているのだが。
 忘れようにも強烈過ぎて忘れられないものもあり、例えば”殴打される女性”というもの。
 それは深夜、表通りから一辻だけ裏通りに入った、つまりは私の家なかの明かりの消えた裏口あたりで、突如として起こる。「ふざけんじゃねえよ、ばかやろう!」といった男のありがちな罵声がまず発せられ、そしてドカドカとちょっと洒落にならないくらい力の入った拳が人にブチ当たる音がして、それから女性の悲鳴が起こる。
 男女とも声からするとまだ若い、20代くらいかと思われるが、しかし、ただの恋人同士の痴話喧嘩とは、あまりに殺気立っていて、とても思えなかったのだ。あれは確かに、”生きるために行われていた”色恋とは関係の無い暴行事件だった。

 男の側はともかく怒っている。なにをやったか知らぬが、とにかくその女性の何らかの所業に対して、激怒している。その怒りが命ずるままに、彼はその女性をなんの遠慮もなしに殴りつけている。女性はただひたすら、男に謝り続けている。
 何をもめているのか、その事情は全く分からぬものの、あそこまで容赦なく殴られては、そのうち女の人は死んでしまうのではないのか、などと私は自分まで息苦しい恐怖にとらわれ、が、なすすべもなくただ、布団の中で震えていた。
 そこに通りかかってしまった、一杯機嫌の観光客、といったシーンが一度だけあった。女性はその人物に、「このままでは、私はこの男に殴り殺されてしまいます。助けてください。病院に連れていってください」そんなことを行っていた記憶がある。でも、”警察を呼んでください”とは言わなかったような気がする。

 今になってそれは例えば、水商売で働かせていた自分の女が何ごとか彼の気に入らない行動に及び、それを”成敗”するために若いヤクザが行なっていた暴力沙汰であったのかとも想像する。
 こいつは漫画家の花輪和一も以前、ほとんど同じような少年時代の体験として書いていた。彼の故郷は確か北海道だったから、私の故郷とはなんの関係もない。とすると、このような深夜の殴打行為は当時、日本中で行われていたのだろうか。高度成長経済に向かって走り始めたばかりの、まだまだ日本の貧しかった頃の話だ。

 真相の分からぬまま、そのようなことは、少なくとも目に付くような形で行われることもなくなり、人は年老い、街は時の中で古びていった。女が悲鳴を上げていた裏通りは整備され、古い旅館は打ち壊されて小洒落たリゾート・マンションが立ち並んだ。
 防波堤から望む水平線の向こうに朝はまだ来ず、風はまだ吹き続けている。