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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

パンソリ・ブルース・ライド・アゲイン

2011-03-06 01:49:42 | アジア
 ”려 (Scent of Trot)”by 유지나( Yujina )

 という訳で、もはや我が一推しの韓国トロット演歌歌手と成りました、ユ・ジナ女史の新譜であります。国楽パンソリで鍛えたハガネの喉を武器に、パワフルな演歌を真正面から叩きつける彼女の迫力に私、すっかり参っておるのであります。あ、”最愛の”という表現は、もう少し歌の頼りなくて若い女の子の歌手のためにとっておきますが。ひひんひん。”レインボウ”のボラちゃん、早く次のアルバムを出さないかなあ。

 まあ、それはそれとして。私が勝手な事を言うのは良いのですが、ユ・ジナの肝心の韓国での人気はどうなっているのか?などと思っておりましたが、ここに登場した最新盤、ジャケなどちょっとした写真集仕立ての豪華変形ジャケでありまして、ユ・ジナもさまざまに衣装を替え、こちらの目を楽しませてくれます。
 肝心の音のほうも、バックにストリングスつきフルバンドをハッシと従え、期待通りの堂々の歌唱を聞かせてくれます。冒頭の温泉小唄調、”善男善女”なる曲が楽しい。

 ともかく非常に安定した出来上がりという感じで、一瞬、このまま安定成長を続けると人畜無害な演歌のオバサンになってしまうんじゃないかと危惧の思いも過ぎったんだけど、大丈夫だ。6曲目、ちょうど半分まで行った所に収められた、同じレコード会社のボデイコンイケイケ姐ちゃん、キム・ヤンのヒット曲カヴァー、”愛のショショショ”あたりから様子が変わってきて、ポンチャク的というか、なんでもありの雰囲気になってきた。
 ユ・ジナもそれまでの悠然たる歌いっぷりをかなぐり捨て、次の”情深い女”では情緒纏綿たる絶唱を、民謡調の8曲目、”スリラン”では得意のパンソリっぽい唸りも聴かせてくれる。なんか前半が公式サイド、後半が本音サイドって気もするな。

 そしてどうやらヒット曲になったらしい9曲目、”空の星を探して”だ。良い曲です。日本では昭和30年代以来死に絶えたみたいな、悠然たる股旅演歌の王道を行く曲。

 寄る辺ない放浪者、今夜はどこに体を横たえる。
 布団は空、枕は夜露。疲れた体で眠りにつく。
 朝日の前に夢の中でお前の星を探すがいい。

 アバウトな訳詞なんで突っ込まないように。なんか”生活の柄”みたいな歌詞内容でおかしいね、と言いたかっただけだから。
 そして最終曲の”祈る女”、これこそパンソリの流れを汲む地を這うようなスローバラード恨み節、血を吐くような絶唱演歌でありまして、うっわー聞いてるうちに、猛烈に酒が飲みたくなって来た!突然ですが、これで終わらせていただきます。




ロックシティ・バンコックの幻

2011-02-25 01:48:11 | アジア

 ”SHADOW MUSIC OF THAILAND ”

 1960年代、タイにおいて英国のインストロックバンド、シャドウズ”に憧れて”エレキでゴーゴー”な青春を送っていた連中が残したレコーディングを集めたものだそうだ、このアルバム。CDを手に入れた時点ですでに、聴き所は現地タイの民俗系の音と流行りのエレキギター・サウンドの激突部分、との情報は入っている。

 まあこの種のものは、収められているサウンドの奇天烈ぶりに脳天くらくらさせられるスリルを楽しむもの、と相場が決まっているようだが、一聴、私は、「ありゃ、このサウンド、聴いた事があるぞ。それも我が日本のバンドマンによる代物をリアルタイムで」と、そっちの方向でのけぞり気分となってしまったのだ。
 どこで聞いたかといえば、私なんかより前の世代、いわゆる団塊の世代の人々がベンチャーズなんかに狂い、空前のエレキブームだった60年代当時に、彼ら相手に出版されていたエレキバンド教本、その付録についていた模範演奏のソノシートで、こんなサウンドは展開されていたではないか。

 その種のものには定番として”十番街の殺人”であるとか”ウォーク・ドント・ラン”なんて本来のエレキものの曲と一緒に、ベンチャーズ調に編曲された”ソーラン節”とか、民謡調の曲が入っていたものだ。
 あれらはいったいなんで入っていたのかね、そもそも?当時、エレキ・インストやってた連中は、そういえば確かに、その種の曲をレパートリーに入れていたような記憶がある。あれはバイトで村祭りなんかで演奏をする際、押さえておかねばならない結構重要なレパートリーだったのだろうか?

 話が余計な方に行ったまま入り組んで長くなりそうだから無理やりやめるが、それらの演奏、このアルバムに収められた、エレキ・インスト調にアレンジされたタイの民俗ポップス演奏に、結構似ていたじゃないか。びっくりしないよ。意外と言うより、ある種、懐かしいサウンドなんだから、これは。いや、例外にも中華風やらインド風など、エキゾティックな意匠を凝らした素っ頓狂な代物も当然、飛び出しては来るのだが。

 それでも違いは当然あり、タイ側はどうやら、ここに収められている”民俗調エレキ”が演奏の主幹をなすものであり、爺さん婆さん受けに片手間にやっていたわけではないようだ。なにしろちゃんと聴いて行くと、そのアレンジの本気度、結構なものがあり、アルバム中盤で聴ける低音民俗楽器の動きを模したらしいベースの異様な動きとか、民俗調メロディの”エレキバンドのリフ”への取り込み方のアイディアなど、結構ドキッとさせられないでもないのだ。

 これがほんとに60年代半ばのタイの連中が達していたレベルなら、ワールドミュージック的興味で見るならば、ではあるけれど、かなりのものではないかなあ。取りあえず私は、アルバム後半に至り相当本気で聴いていたし、ラストの、夜闇に浮ぶは街の灯りか星屑か、ヘッドライトに火影も蒼い、ああ切ないメロディだわな、の”Bangkok by Night”に、すっかりセンチになってもいたのだった。

 それにしても、こういった連中と、彼等が切り開いた道ってのはその後、どうなってしまったんだろうね?アフリカ辺りの70年代ロックの再発なんかを聴いていても思うことなんだけど。独自の道をそのまま突き進むという例はあまり聞かない。いつの間にか消滅してしまって、また一からアメリカあたりの流行りの音を真似し直すばかりってのも、なにやら悔しいじゃないか。




トロット戦線7年目

2011-02-19 02:23:14 | アジア
 ”BORN AGAIN”by HAN HYE JIN

 韓国のトロット演歌歌手、ハン・ヘジンの昨年出たアルバムであります。
 ジャケにやや大きめに”7”の文字が。「この数字には今回、思い入れがあるのよ、お客さん」と言わんばかりだが。実際、このアルバムが彼女にとっては7枚目・・・というのは彼女がそこそこキャリアのある人、というのが分かるだけの話だが、”7年ぶりのリリース”でもあるという事実はただ事ではない。

 ゼニになりそうな才能の持ち主にはガンガン仕事をさせて儲けるだけ儲け、あとは使い捨て、なんて論理で動いてるんじゃないかなと想像するかの地のトロット・シーンで7年間も動きがなかったなんて、そりゃ実質、引退同然だったんじゃないのか。何があったのか知らんが。
 実際、彼女はこの7年間、ろくにアルバムも出せない不遇な状態が続いていて、おもいあまって自分でアルバム製作の費用を捻出しようとしたりなどの苦労もしたようだ。何でそんなことになったのか、検索してもまるで情報が引っかかってこないが。

 (同姓同名の女優がいて、そちらの情報の山にも見込まれたみたいで、何も見つからない。ちょっと話はずれるが、韓国ではこの同姓同名問題がやたら多い気がする。芸能界に同じ名前の歌手が三人、俳優が二人、とか平気で存在しているのだが、後からデビューした奴が違う芸名にしたりとか、何らかの工夫があってもいいんじゃないのか。この辺も国民性というか、そうは行かない何かがあるんだろうか)

 ともかく彼女も、やっとのことで再デビュー、という気分だったのだろう、タイトルも”ボーン・アゲイン”と再生を謳い、ジャケ写真だって根性が入っているぞ、ちょっとエッチだ(裏ジャケも中ジャケもこんなんだぞ!)そして内容はといえば、当然、7年間の冷や飯食らいの怨念を晴らさんが如く、もう頭来たかんね、の情念の世界が期待されるんだが。

 冒頭、アップテンポのファンク・アレンジされたド演歌で幕を開けるが、韓国の演歌歌手に多い野太い声帯を生かした、タフなだみ声を叩きつけるヘジン女史の迫力はたしかに”恨7年”の恨み晴らさずにおくものか、といった思いが込められている感じで、こいつは痛快である。
 が、2曲目は、今回の再デビューを応援してくれた男性歌手と想像するんだが、彼としっとりと歌い上げる美しいラブ・バラードだったりする。う~ん・・・
 まあ、それは違うんだよなあ、とかいう私のほうが変な期待をしすぎなのかも知れない。

 とはいえ、かなり棘のあるハスキー・ボイスの持ち主であるハン・ヘジン、辛口に凄みを利かせて歌うナンバーの方が断然魅力的なんだなあ、やっぱり。綺麗なバラードとか懐メロっぽいおとなし目の恋歌などしおらしく歌っても、なんか物足りなく思える。ちなみに、ハード演歌はアルバムの半分強を占めます。韓国の人たちも、この辺が好きだと思うんだが。そればっかりでも困るんだろうか。

 なんて次第で、まるでボクシング観戦しているみたいに「行け!もっと行け!」とか妙な方向に焦れつつ、アルバムを鑑賞する私でありました。



ルラーちゃんのドリームワールド

2011-02-18 01:14:44 | アジア

 ”Twist”by Lula

 タイの新進ポップス歌手(もうこれが3枚目のアルバムらしいから、新人とも言えまい)の、ルーラちゃんの昨年出た最新作であります。いや、タイだからこれで”ルラー”と読むのかな。
 ウクレレ片手に飄々と独自のポップス世界を展開してみせるコでありまして、これはなかなかユニークで良いんではないか。
 ともかく音本体を聴く前に圧倒されてしまうのがこの変形ジャケの仕様。ハードカバーの童話本っぽい”表紙”を開けると、”飛び出す絵本”の要領でルラーちゃんのお部屋が立体的に目の前に広がるのでして。

 ウクレレを持っているからといってハワイアン調と言うわけではなく、冒頭、聴こえてくるのはボサノバであります。夕暮れの浜辺のちょっぴり切ないけだるさの中で、失ったばかりの恋の思い出が歌われて行きます。いや。タイ語は分からないんで、そんな歌詞かどうか知りませんが、なんかそんな雰囲気なんでね。
 その他、カントリー・ロックっぽく迫る曲など取り混ぜつつ、ルラーちゃんのピンク色のモヤに包まれた切なく物憂いウクレレ・ボサノバは続きます。サウンドもあくまでもアコースティックなカラーを全面に押し出した洗練されたもので、まるでルラーちゃんがディズニーランドの一角にでも住んでいるかのような、ひとときの夢の時間を演出します。

 この辺の、現実から一歩離れた感じがタイのお洒落階級のトレンドなんだろうか。甘くのほほんとしたルラーちゃんの歌声は、ピンクのネオン輝く夢の国に流れて行くのでありました。
 しかし、手書きのタイ文字が踊り、その上に同じく手書きのギター・コードまで付された歌詞カードには恐れ入りました。嬉しいだろうなあ、ファンはこういうの。




銃剣と歌声

2011-02-17 03:18:45 | アジア

 ”南仁樹”

 何となくつけたテレビで、韓国のある歌手とその人生のある時期に関するのドキュメンタリーをやっていた。

 戦前から戦後にかけて活躍した韓国の歌謡曲歌手がいる。南仁樹。1938年に空前の大ヒット、「哀愁のセレナーデ」を放ち、その歌謡界における地位を不動のものとした。 韓国において近代的ビジネスとしての歌謡曲歌手をはじめて成立させた人と、まあ経済の面から言えばそのような存在であるらしい。もちろん、韓国の民衆が彼の歌を愛したから、そのような事が可能になったのだが。”歌謡皇帝”の異名を取っていたとか。
 彼自身は1960年代に亡くなっているのだが、彼の歌と思い出を懐かしむ人々が毎年、南仁樹を偲ぶコンサートを行なってきたようだ。

 ドキュメンタリーは、その集いが妨害を受けるところで始まっている。当然ながら韓国全土から集まってきていたお年寄りたちは納得できず、会場になっている野外特設ステージを囲み、口々に不満を述べている。
 妨害は、現地の民族団体が行なっていた。「南仁樹は第二次大戦当時、若者たちに、日本の軍隊に志願入隊せよと呼びかける歌を歌っていた。そのような反愛国的行為をなしたものを記念する集会を行なうとは何事か」というのが、彼らの言い分のようだった。

 これは、南仁樹ファンのお年寄りが「あの当時、”親日的”な行動をしなかった人はいませんでした。そうしたくはなかったが、しかたなかったのです」と番組のインタビューに答えて述べている通り、無茶な言いがかりでしかない。
 当時の朝鮮半島の住人が、支配者である日本の軍隊から「戦争の遂行に協力せよ」と強要されれば、逆らうすべもなかったろう。銃剣を背に突きつけられたら歌うより仕方あるまい。戦争協力の歌と分かってはいても。
 このような”親日狩り”は当時、韓国のあちこちで行なわれていたが、それはその頃の韓国大統領、ノムヒョンの意向に沿う形で行なわれていたようである。あの御仁、都合が悪くなると日本叩きを演出して、韓国国民の目をそちらに逸らしていたからなあ。
 それにしても、この世を去って30年以上も経ってから、いきなり被告席に引きずり出されるとは、ナンギな話ではある・・・

 この番組を見た後、南仁樹に興味を持ち、その人柄を調べたりCDを手に入れてみたりした。往年のヒット曲を聴くと、日本の懐メロと似たところ異質なところ、いろいろ出て来て興味深い。戦前から戦中にかけて。植民地支配という現実の中で、どのような音楽上の通いあいがあったのだろう。

 歌手の個性としては、”韓国における演歌興隆期の歌い手”という位置付けとはやや感触が違う。むしろ、同じ時期の日本の歌謡曲の歌い手たちによく似た、音楽学校で教えるベルカントっぽい”正しい発声法”を遵守した品の良い歌い手であり、歪めた発声や濃厚なコブシ回しなどには、とりあえず縁がない。
 スッと背筋を伸ばして口を大きく開け、朗々と正しい旋律を歌い上げる。折り目正しい紳士という印象である。(と書いた途端、検索した文章の中に”結構、金や女に貪欲な人だった”なんて記述を見つけ、笑えて来たのだが。

 ここで、年明けに読んだ輪島祐介氏の「作られた”日本の心”神話」などという本を思い出していた。韓国にも「演歌は民族の心であり、ずっと昔からこの土地に息ずき、民衆に愛されて来た音楽である」なんて歴史の捏造は行なわれているのだろうか。韓国演歌の歌い手たちが、あのハガネのコブシをゴリゴリと廻しながらトロットを歌うようになったのは、いつ頃、どんなきっかけからなのだろう?
 などと考え出したら日本と韓国とがネガポジネガポジと入れ子になってチカチカし始め、何がなにやら分からなくなってきたのだが。



チムサァチョイの十字架

2011-02-10 02:17:57 | アジア
 ”New Bigining”by Jade Kwan

 いけね、これ、去年のクリスマスに取り上げるつもりのCDだったんだが忘れてしまったと頭をかきつつ、まったく時期外れの今頃、引っ張り出した次第である。

 クリスチャンの中国国民、なおかつ根っからの香港っ子という自らの足元にあるものをじっと見据えつつ、聖夜、喧騒の香港の通りに降り注ぐ神の祝福の美しさを清冽な余情を込めて歌ったアルバム、”Shine”を発表し、私のような俗人をもシンとした気分にさせてくれたジェイド・クヮンである。あれはきれいな音楽だったよなあ。
 昨年の年末にも彼女は、このアルバム”New Bigining”を世に問い、クリスマス気分を盛り上げてくれるはずだったのに、何に気を取られていたのか忘れたが私は、せっかく買い込んでいたこのアルバムを聴きもせずに歳を越してしまった。
 それでもまあしょうがない、今日あたりを”旧”のクリスマスってことにしようよ、などと言いつつ、どんどん聴いてしまう。

 今回もまた”聖夜”からみのアルバムであることは、中ジャケに載せられた写真が雪まみれであることからも明らかだ。深夜、雪明りの荒野に一人、アップライト・ピアノだけをお供にジェイド・クヮンは立っている。
 しかし、前作よりも彼女の歌が線が細く、思いつめた表情になってしまったのが気がかりではある。前作では彼女は暖かい部屋のソファに座ってさまざまな思い出にふけりながら聖夜を祝っていたはずなんだが、今回の彼女はキリストの舐めた苦しみを我が身にも、とでも言うように裸足で雪の降り積む荒野に立っている。そりゃ、そこがスタジオであり彼女に降りかかっているのが発泡スチロールや白色のスプレーによる積雪ではあるにせよ。

 音楽も同じノリであり、先のアルバムで微笑みながら祝福を与えていた周囲人々への思いが、今回は、「どうかこの人たちに幸せを」と、イエス・キリストにすがりつかんばかりの勢いである。
 収められた各曲のメロディラインも、いつものように美しいスロー・バラード中心のものなのであるが、今回は心を絞り上げるような痛切な想いの吐露の趣きが濃く、ある種、痛々しさを伴う感もある。
 いや、それは私の勘ぐり過ぎで、彼女の表現の個性がそのようなものである、だけのことかも知れないんだけど。
 その一方で、それはジェイド・クヮンという感受性の強い娘の意識を通って表に出て来た時代の貌、なんて気もしているんだけどね。




ナメンヨルチャ最終便

2011-01-11 02:22:55 | アジア

 ”涙のギター”by 김수희(kim suhui)

 今日の韓国演歌界に”重鎮”として鎮座ましますキム・スヒ女史のデビュー当時のアルバムが再発されたと聞き、さっそく買いに走った私は、別にスヒ女史のファンではなかった。 むしろ、ゴージャスなフルバンドをバックに、周囲を威圧するような迫力で歌いまくる大スターの彼女はやや苦手というのが正直なところで、再発盤には野次馬的興味しかなかったのだ。

 そのアルバム、ジャケ写真はデビュー当時の彼女の写真が使われているのだが、誰かの葬式に行って来たかとからかいたくなるような白黒の地味すぎる衣装で、暗い表情でガットギターを抱える姿もうら寂しい印象である。これは中身のほうもさぞや貧相なトロット演歌の世界が展開されているのではないか、それは逆に面白いんではなかろうか、などと言ったタグイの興味である。
 そして首尾よくCDを手に入れ、聴いてみたのだが。不明を恥じる、とはまさにこのこと。このアルバム、大傑作だったのだ。

 収められているのは「木浦の涙」や「太田ブルース」といった、日本の演歌ファンだって知っているような韓国演歌のスタンダードばかり。そいつを若き日のキム・スヒは、ギター一本、時にさらにベースかもう一本のギターが加わるというきわめてシンプルな伴奏に乗って、実に新人歌手らしい、純な情熱を込めて歌い上げているのだ。
 今日の、ファンキーなアレンジのトロット演歌ばかり聴いている身にはきわめて新鮮な、ナマの生命が脈打つ歌との出逢いだった。

 そして、ジャケの地味さにも得心が行った。彼女が新人歌手だった頃といえば、韓国の実権を軍をバックにしたパク・チョンヒ大統領が握り、まだまだ自由のない時代だったのではないか。なにかといえば戒厳令などがしかれていたのではなかったか。このアルバムに流れるきりりと締まったストイックな叙情を、そんな時代の産物だ、あの時代はある意味良かった、などと言い出す気は毛頭ないにしても。ここには今日の韓国大衆音楽が忘れてしまったものがある。月並みなフレーズで申し訳ない。

 このアルバムは、そんな時間を過ごしていた韓国からの一本の伝言でもある、と言えるだろう。そいつを受け取って我々は。流れ過ぎた30年の歳月を前に、どのような答えが出来るのだろうか。

 デビュー当時のキム・ソヒの映像はないかとYou-tubeを探したんだけど、やはりそんなものはないので、とりあえず私の好きなキム・ヒョンシクの作った歌を彼女が歌っているものなど、貼っておきます。




アデリアちゃんと聖夜祭

2010-12-24 02:43:17 | アジア
 ”Lebih Dari Semua”by Adelia Lukmana

 え~相変わりもせずインドネシアのキリスト教徒御用達ポップス、”ロハニ”を偏愛している当方でありまして、クリスマスなんてえものに時期があたろうものなら、それはもうロハニの話をせずにはいられるものではない。そこでもちい出しましたるは、ロハニの世界でもひときわアイドル色濃い存在、僕らの可愛いアデリア・ルクマナちゃんの3枚目のアルバム、最新作であります。

 もう、音を聴く前にこのビジュアルがたまりませんね。作を重ねるごとに可愛くなって行くというかアイドルとしての型が出来て行く感じです。歌詞カードなんか、ミニ写真集の趣をかもし出しておりまして、ファンとしてはそれはありがたい。
 音の方はと言いますと、より繊細さを増したアレンジで、透き通るように美しいスロー・バラードを切々と歌い上げる、というパターンはさらに洗練され、さながらクリスタルの輝きを見るようであります。

 ただ、キリストの愛、いかに偉大なるか、なんてことを歌うのがロハニ歌手の使命なんじゃないの?キャピキャピとアイドルなんかやっていていいの?というのが毎度の疑問でもありまして。このあたりが、どうも分からない。
 彼女が歌っているのはなんなんだろうと。普通に聴いていると、”たまらなく逢いたいけれど逢えない恋する男”を想いながら深夜、お星様を見上げながら歌うバラード、として聴くほうが自然な気がするんですね、これらの歌。クリスチャンにとってキリストは偉大だろうけど、恋人ではないわけでしょ?

 まあね、宗教歌にかこつけてアイドルやっちゃっているのが実態なんだろうし、関係ない私があれこれ言う必要はまったくないんですが。
 ただ、この”切々たる思い”がどこを向いているのか、聴いていて不思議になる時がないでもないのですよね。歌う側の、そして聴く側の想いって、どんな形でどこを向いているのかって。




 上がこのアルバムの収録曲なんですが、どうも画面がそっけない。アデリアちゃんの動く姿をみたいじゃないか。そこで、彼女のライブ映像をここに付け足します。こちらもご覧くださいまし。




ソウル、夜の最前線

2010-12-23 02:15:41 | アジア

 ”Rainbow”by Moon Bora(문보라)

 ムーン・ボラ。韓国の新人トロット歌手である。多分年齢はハタチくらい。深夜、You-Tubeをさすらっていて、この子のプロモーションビデオに初対面した時の感じは今も忘れない。
 多分ソウルの・・・日本で言えば新宿副都心なんかに相当するのであろう街角。激しい雨が街路灯に照らされた路面に休みなく降っている。道路際に止められた高級そうな乗用車。ダルそうにワイパーが動いて、助手席で一人、所在無げに座っているムーン・ボラがいる。
 彼女自身が演じている歌の主人公は、別にそこにデートに来ているわけではない。かの国ではどのようなシステムが流行りか知らないが、彼女はこれからどこぞのホテルに売春に出かけるのである。それが証拠に、車の中の彼女はまるで幸せそうではないし、それより何より映像に被る彼女自身の歌が、それが明るみに出せない性の世界の物語である事を強烈に主張していた。休みなく雨は振り続いている。

 彼女の”売り”かと思える、ドスドスと性急に打ち込まれるディスコなりズムと、それに乗ってコブシの効いたロリ声で歌い上げられるド歌謡曲、もう臆面もない古臭い歌謡曲のメロディ。打ち込まれるリズムの身もフタもないまでのカラッカラに乾いた索漠たる感触と、歌われる民衆の手垢でベトベトとなっている旋律の湿度99パーセントのウエットさ。その強力なミスマッチ具合に、表面上は快進撃を続けているかに見える現代韓国の民衆が、心の底に抱える屈託を見た、そう思った。
 退屈な地方都市の生活に飽いてきらびやかな大都会にフラリと出かけ、遊興資金に事欠いて闇の世界にフラリと堕ちて行く少女の心の中で、焼け付きそうになっている焦燥。そんなものが渦巻いているのがこのアルバムであり、その焦燥はそのまま韓国民衆すべてのものだ。

 ミニのドレスにスケート靴を履いて笑顔を浮かべているのはキム・ヨナを気取っているのだろうか。その他、高級キャバレーのホステスに扮してみたりAKB48もどきの制服をまとってみたり。結構豪華なジャケの歌詞カードはミニ写真集仕立てになっていて、ボラはそんなコスプレを演じているが、発散しているのは終止、性の匂いである。この辺、徹底していてむしろ気持ちが良い。
 全体に、どちらかといえばアイドル歌手的な発声法なのに、曲調が歌謡曲からド演歌に近付くにつれ、やはり演歌歌手らしいコブシ全開となるのが面白く、また、跳ねる感じのリズム処理された演歌では東南アジアの、いわゆる福建ポップス的な味をかもし出すのも興味深かった。

 聴く者の胸引きちぎる都会派お下劣ポップス。とでも言っておこうか。支持する。私、このアルバムを聴いてムーン・ボラのファンになりました。全曲、ディスコなりズムと臭いド歌謡曲、の組み合わせのアップテンポ曲だったら、今年のベスト1に選んでいたところだ。




ジャカルタにおけるホワイトクリスマス問題

2010-12-14 01:53:11 | アジア

 ”Puji Syukur”by Lisa A.Riyanto

 さて、時節柄と申しましょうか、「ロハニってのはね、まあインドネシア語のゴスペルみたいなもので」なんてアバウトな説明もしておられなくなる一枚の登場であります。インドネシア・ポップス・ファンには、その可憐な歌声でお馴染みのかたもおられるのではないかと思う Lisa A.Riyanto嬢、ロハニ歌手としても活動するようになっていたんですな。

 これは、そんな Lisa嬢が2008年に世に問うたロハニのアルバムなんだけど、これがもうクリスマス気分横溢なのです。まさに飾り付けられたクリスマスツリーの輝きなんかを連想させる分厚く華麗なオーケストレーションに乗って、今にも消え去らんとしつつ、でも健気にも持ちこたえ歌い続ける、みたいないたいけな Lisa嬢の歌声が、そんな彼女に実に似合いの清楚なメロディを歌い上げて行きます。

 歌詞カードを見ると各曲に数字が振ってあるけど、これは”賛美歌何番”みたいな番号なのかなあ?だとしても不自然ではない、心洗われるようねメロディばかり。
 それにしても、ここに横溢している”ホワイトクリスマス気分”はどう理解したらよいものでしょう?いやなに、一応ロハニって、インドネシアのクリスチャンたちが日常的に聴いて楽しむ音楽のようなんだけど、この盤に収められている音は北国のクリスマスにあまりにも似合い過ぎている。日本の今頃の商店街で流しても何も不自然はないんだから。

 聴いていると映像が浮かんでくるんですね。
 ジャカルタ市内に勤めるサラリーマンのスギアントさん。彼は、混み合う夕方の通勤バスから降り、予約していたケーキを受け取るために街の通りを歩いていた。彼は呟く。思いつめた表情で。
 「病院に入ったきりだった娘が今日、クリスマスのこの日に特別に先生の許可が出て家に帰ってくることが出来た。でも、私は知っている。愛する娘がきわめて治癒の難しい××病だということを。このクリスマスが、彼女が生きて迎えられる最後のクリスマスになるかも知れないのだ」
 そこでスギアントさんは空から降ってくるものに、その時気が付く。
 「雪だ」
 周囲の人たちもすぐにその異変に気が付き、ジャカルタの街に突然降り始めた大振りなボタン雪を唖然として見上げるのだった。
 スギアントさんは思った。
 「神様は、こんな南国に住む私たちにホワイトクリスマスをプレゼントしてくれるのだ。これはきっと、どんなことでも起こりうる、希望を捨てるなとの神様からのメッセージに違いない。そうだ、心を強く持とう」と。

 とかね、そんな話がすぐに思いついてしまうんだ、このアルバムを聴いていると。バカいってんじゃねーよ、赤道直下のインドネシアで、雪なんか降らねーし。
 いや、でもほんとにね。明らかに南国の響きのあるインドネシア語で、切々と”暖炉の廻りに家族が揃い、クリスマスを祝う喜び”みたいな世界を歌い上げられると、どうして良いのか分からなくなる。この音楽の中では確かに、ジャカルタに雪が降っているんだから。

 You-Tubeにはこのアルバムからの音は上がっていなかったので、他のアルバムからの音を貼っておきます。まあ、こんな感じの音ではあるんで、よろしいかと。