goo blog サービス終了のお知らせ 

ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

虚構峠のエロ演歌

2010-12-12 01:16:34 | アジア

 ”사랑이숑(愛がぴょん)”by 김양(Kim Yang)

 今日の韓国トロット演歌界におけるエロ路線の最先鋭、キム・ヤン嬢の新譜を紹介できる事を大いに喜びたい。
 なんたって結構いい女のキム・ヤンがラメラメのミニのドレスに身を包んだジャケ写真がもうエロであるし、その恰好でステージに登場し、ウッフンアッハンと溜息混じりに専属ダンサー引き連れて身振り流し目も悩ましく腰を振り振り歌い上げるは最新ヒット曲、”愛がぴょん”なのである。なんだよ、ピョンて?よく分かりませんが。

 この辺の理不尽が堂々と横行するのも大衆音楽の真実と言えましょうな。理不尽と言えば、なかなかの歌唱力でエロ歌を歌い上げてしまうヤン嬢であるが、その歌声の響きから伝わってくるのは、たとえば我が国のコウダクミみたいな、「私はエロです。もう根っからのエロ女です」ってメッセージ(?)では、実はない。
 ヤン嬢の場合、もともとは普通の歌好きのお姉ちゃんで、レコード会社の営業政策上、そのようなキャラを演じさせられているのがよくその歌声に耳を傾けると感じられ、その辺の無理やり感がまた、歌の孕むエロ度を上げているのである。

 この虚構性の強いエロ感覚がヤン嬢の歌の魅力と私は勝手に決めている。だからド演歌+ハードロックに韓国の村祭りが強引に乱入したみたいなアレンジの3曲目、「あっ熱い」みたいなハッタリ色の強い曲が面白い。7曲目のファンク化された民謡、「カンウォンドのアリラン」なんかもスリリングで、楽しめるのだ。
 しかしこの民謡の堂々たる節回し、ただものじゃないぞと思っていると、次に控えるのはなにかとディープ過ぎる韓国民歌、「恨五百年」なのである。いくらなんでも若い姉ちゃん歌手がこんなの歌うかあ、とのけぞるんだが、ヤン嬢はこの歌も真正面から歌いこなしてしまうのであって、ますますのけぞる。

 もしかしたら彼女、大変な才能なのかも知れない。これは今後を注目だなあ。まあ、そうでなくとも美人のヤン嬢であるから、初めから注目はする予定であるのだが。
 と盛り上ったところではじまってしまう英語曲3曲。なんだこりゃ?”エロ歌謡曲→ド演歌→ド民謡”と、どんどんディープに進行して来た曲の流れがここであさっての方へすっ飛んで行ってしまう。収められているのは”Killing Me Softly”とか、その辺の曲なんだけど。

 なにやってんだよ、と思いつつ聴いて行くのだが、それらの歌、ヤン嬢はかなり上手いんだよね。と言うか、先に述べた”無理やりエロ歌”である「愛がピョン」の逆で、ヤン嬢はそれらの歌を実に無理なく歌いこなしている。非常に安定した歌の世界。
 おそらくヤン嬢はもともとこういった”洋楽”が好きで歌手を志したんだろうなあ。けど、そんなの商売にならないってんで、無理やりトロット演歌歌手、無理やりにエロ歌路線。お情けで今回は三曲だけ歌わせてもらったけど。かわいそうになあ。

 と思いながら聴く”愛がピョン”は、やっぱり萌えるなあ。というのがこちらの事情だ。がんばれ、キム・ヤン!贔屓にしてるぞっ。



惚れたぜ、ユ・ジナ!

2010-12-08 03:30:25 | アジア
 ”SHOW SHOW SHOW”by 유지나 (ユ・ジナ)

 まあ、私くらいの達人になってくると、気になっていたCDが手に入るとそれだけで安心してしまい、「よし、これでかの国の音楽の主たる潮流、おおかた分かった!」と膝を打って買ったCDは聴きもせず枕元におき、そのまま大いびきで昼寝に入り、目が覚めればCDのことなど思い切り忘れている、なんてのは平気であることなのである。自慢にゃならんがね。
 そんな次第でせっかく買ったのに放ってあったCDを、ある日ふと気まぐれを起こして聴いてみて、それがあまりに傑作なんで、うわ、これを聴かずにいたのか、なんて蒼ざめることなども珍しくはないのである。これなどもその一枚といえましょう。あ、一枚っつーか2枚組ね。トロット演歌のアルバムに良くある、ノンストップ狂乱のメドレー形式。

 というわけで慌てているのである。このアルバムの主人公、ユ・ジナ女史がもの凄く私好みの歌い手である事実に今頃気がついてしまったんで。このアルバム、2008年盤じゃないか。ちゃんと聴いておけば、2年前の我が年間ベストに入れることが出来た。かねてよりの念願でもある「演歌のアルバムを自分の年間ベスト1として発表してみたい」の実現が可能だったのである。いまさら言っても仕方ないけどさ。

 この場では彼女のアルバム、すでに取り上げている。もともとが、韓国の伝統的民俗芸能であるパンソリの歌い手である彼女のキャリアを生かした、民謡色の強いトロット演歌集、”Minyou Party”を。あの時、何で気がつかなかったのか、といえば、そのような変則アルバムであったからであり、こうして直球勝負のド演歌アルバムを突きつけられてみると、歌手ユ・ジナの良さ、嫌でも分かろうとい言うものなんである。
 ともかく、あの絶唱調の発声が特徴的なパンソリで鍛えた彼女の、ハガネの喉が良い。いかに怒鳴り倒したってビクともしないのである、ユ・ジナの喉は。むしろその強力なハスキー・ボイスは活躍の場を得た喜びに打ち震え、ますます快調に天に向って屹立するのである。

 その、演歌のコブシに乗せて炸裂する、ドスコイど根性の姉御のキップの良さがカッコいいのだ、ユ・ジナ演歌は。しかもこれは韓国名物、盛り上がりさえすればそれで良し、のノンストップ演歌集。ただ演歌がもたらす快楽を求めて何もかも消費しつくすのだけが目的の刹那的2枚組企画なのである。
 伴奏陣も容赦はしない、フルバンドのホーンセクションがフルパワーで煽り立てて彼女のドスの効いたシャウトを盛り立てれば、何を今どきのチョッパー・ベースがドクドクと脈打ち、ハードロック仕様のエレキギターが炸裂する。念のために言っておけば、全曲、ドロドロの韓国演歌だ、歌われるのは。文明国のお洒落な市民の顔をして日々を送りたい人は、ボリュームなんて上げて聴けませんよ、近所の手前。

 それにしても、その環境で聞くユ・ジナの岩石のようなハスキーボイスは気持ちが良い。メドレー形式でたて続けに、これでもかと押し寄せてくる演歌の波にドンと腰を据えて微動だにせず乗って行くその貫禄は、只者ではない。惚れたぜ、ユ・ジナ!
 以上、ユ・ジナの歌声に惚れた身が一時の熱情に煽られ、推敲無しで一気に書き上げました上の文章、意味が通っていたらおなぐさみ、だ。それにしてもこの盤、年間ベスト1にしたかったなあ。今年やったらダメか?2年前の盤だものなあ。



ヒョリ姐さんのエロ革命

2010-11-29 00:23:42 | アジア


 ”STYLISH...”Lee Hyori

 今、日本で話題になっているような韓国のアイドルグループが何かのインタビューで、彼女の事を「ヒョリ姐さん」と呼んでいたのがなんか面白かったので、イ・ヒョリを取り上げる気になった。
 イ・ヒョリといえば韓国のポップス界のエロ化に大いなる功績のあった人である。そもそもは韓国のR&B系セクシー・アイドルグループの草分けと言うべき”ピンクル”のリーダー格として90年代のハングル男子の股間を大いに刺激した。そして2003年8月13日、満を持して発売されたのが彼女のソロ・デビューアルバム、”STYLISH...”である。

 このアルバムにおいてイ・ヒョリはグループ時代における”かわいらしさ”路線から逸脱、儒教国韓国においてタブー視されていた”エロ路線ダンスポップ”に完全と挑んだ。というか、もともと持っていた彼女の資質を全面公開してみせた、ということなんだろう。
 性愛経験に関する奔放な発言、露出の多い衣装とセクシーなダンス、いや、そもそもその茶髪だけでも、清楚なる黒髪が当たり前だった当時の韓国芸能界においては衝撃だったと聞く。当然反発も多かったが、”イ・ヒョリ・シンドローム”なんて言葉まで出来るくらいの大衆の支持が集まってしまった。もう止まらない。

 ピンクルにはボーカル部門補強のために加入させた”上手い歌”担当のメンバーがいたし、ソロになってからも激しい踊りゆえ息が切れるとかで、テレビ出演の際にはいわゆる”口パク”を多用し、それをたびたび非難されてもいる。
 もっとも私は彼女の歌、評価するけどね。彼女の歌声の、頼りなくフワフワしつつも妙にヌルッと濡れているようなところ、多湿多雨な東アジアの気候に準拠した微妙なセクシーさをひそやかに分泌している感じで、よろしいんではないか。

 その後も彼女はエロな話題各種を振りまき、エロいアルバムを連発し、慶賀の至りなのであるが、一つ何とかして欲しいのは写真集である。一冊出ているのだが、これが水着一つ披露していない地味な代物で、この辺、セクシー・アイドルとしては猛省していただきたいところだ。まあ、韓国では歌手がこの種のものを出すこと自体、珍しいんだけれど。



王様とブルース

2010-11-24 01:04:32 | アジア
 ”by His Majesty King Bhumibon Adulyadej”

 タイのプミポン国王が大変な音楽マニアでいらっしゃることをご存知の方は多いかと思うが。たとえば故・景山民夫の短編小説の中に、バンコクのジャズクラブに愛用のテナーサックスを抱えて乱入、恐れ入るクラブのハコバンをバックにバリバリとアドリブを吹きまくる若き日の国王の姿などが活写されていて、おい、本当かよと呆れてしまうのだが、あながち作り話ばかりではないようだ。
 国王だからと言って、タイの伝統音楽や宮廷音楽を追求していたり、あるいは我が国の皇室ご一家のように西洋のクラシック音楽をご愛好というのではなく、最愛の音楽がジャズ、というのが嬉しいじゃないか。

 その他、プミポン国王は庶民の好んで聴くポップスのタグイにも理解を示されており、国王作曲の歌謡曲、なんてのも何曲も存在している。それらをタイの有名歌手たちが歌った、大変に畏れ多いアルバムなども作られており、そこに収められた曲群の、プミポン国王らしいジャズっぽいフィーリング漂う親しみやすい曲調に、かたじけなさに涙こぼるる次第である。
 今回のこのアルバムもそんな”国王御作”のポップスを集めた作品。タイの民族楽器であるクルイと呼ばれる木管楽器、西欧のティン・ホイッスルに形も音色も良く似た小さな笛なのであるが、全編、それで国王のメロディを吹きまくった異色作である。で、これがなかなか良い感じの出来上がりなのであった。

 もう冒頭からジャズ、というよりディープなブルース・フィーリング漂うメロディが提示されるのだが、これが透明感溢れるクルイの響きで奏でられると独特の浮遊感のある出来上がりとなり、いかにも”国王陛下御作”っぽい浮世離れたファンタスティックな世界が出来上がり、これがなんとも心地良いのだった。
 さらにこうして爽やかな笛によって奏でられることによって、国王の紡いだメロディの奥底に通奏低音みたいに流れている、何処か遠くの世界へ向けた視線と聴こえる切ない憧れの感情の表出がグッと前に出てくる。遠くの世界と言うのは特定の場所ではなく、誰の心にもある、追っても届かない青春の日々の感傷のようなものなんだが。

 プミポン国王お得意のブルースっぽいメロディの内に潜む、そんな切ない感情を引き出してみせた、というあたりにこのアルバムの価値を認めたい。別にこれは国家機密じゃないだろうし、かまわないと思うんだけどさ。
 と言うわけで、これは意外に愛聴盤となっている国王陛下御作のメロディ集であったのだった。それにしてもプミポン国王の青春の日の夢ってなんだったんだろうね。




萌えよ信仰の光

2010-11-15 00:31:49 | アジア
 ”Melangkah Bersama-Mu”by Adelia Lukmana

 あれ、このアルバムをとっくに紹介したつもりでいたけど、まだだったんだな。何をやっているのかね、もう次のアルバムが出ちゃったじゃないか。
 ということで、アタフタととりいだしましたるは、毎度すみません、インドネシアのクリスチャンたちが愛聴している賛美歌系ポップス(?)のロハニ、その歌い手の中でも最高の萌え度を誇るアデリア・ルクマナちゃんの、2008年度盤であります。最新作のほうはクリスマスの時期でも選んで触れようと思いますんで。

 とかあれこれ言ってるけど、アデリアちゃんに関して日本語で書かれた文章を検索にかけて探すと私の書いた文章しか引っかかってこない。この音楽に入れ込んでいる日本人て、ほんとに私一人かもしれないぞ?なんか気恥ずかしい気もするが、えーい負けるものか、我がアイドル愛好癖にかけても。

 と言うわけで。イエス・キリストの尊い教えやその慈愛に関するありがたい物語を美しいメロディに乗せて歌っているロハニ音楽でありますが、その歌い手の中でも可愛い度で言うならぶっちぎりで1位なのが、このアデリアちゃんでありましょう。その可憐なルックスといい、たどたどしい儚げな歌い口といい、万国共通のアイドル歌手の要件をかなり高いレベルで満たしていると思うのですが、いかがなものでしょう?

 実際、事情を知らされなければこのCD、普通のアイドルのアルバムとしか思えないはずだ。内ジャケにはアデリアちゃんの愛らしいスナップ写真がいくつも載っているし、これが宗教ポップスなんて辛気くさいものだなんて誰も思わないよね。
 サウンドも今日風に洗練され、曲調はやや穏やかなものが続くけど、それはアデリアちゃんの個性に合わせてうららかなタッチに仕上げたのだと、誰もが納得するはずだ。ときおり歌詞に混じる「ヘイスス、クリンドゥ」なんて部分に気が付かない限りは。

 いや実際、主イエス礼賛はタテマエで、ほんとにアデリアちゃんはアイドルとしてインドネシアのクリスチャン社会の中で機能しちゃっているんじゃないですかね?そんな気がしてならないんだけど。いや、彼女に限らず、ロハニの人気には”表向きの信仰のための音楽=本音としての娯楽音楽”って二重構造が隠されているんじゃなんだろうか?

 なんて仮説をぶち上げてみたんだけど、あんまり興味のある人もいなさそうなのが無念であります。
 で。ほんとにさ、歌声といい内ジャケの写真といい、可愛過ぎだよね反則だよね、アデリアちゃんは。これで宗教ポップスだなんて言われてもさ。




ハ・スビン、逆襲の明日?

2010-11-09 01:50:16 | アジア

 ”THE PERSISTENCE OF MEMORY”by Ha SooBin

 韓国ネタが続きまして恐縮です。また、韓国事情通のかた、「何をいまさらそんなことで驚いているのだ」と私の情報遅れをお笑いでしょうが、フン、そんなのあなたがとっとと情報を広めないのが悪いのさ。まあ、勝手にやらせてもらうよ。
 と言うわけで。
 いやあ、さっき韓国ものの通販サイトを覗いていたら、ハ・スビンの新譜がド~ンと載っているんで驚いてしまって。いやもう、「発売されるという噂」なんてレベルの話じゃない、再デビュー盤はすでに出来上がっていて、もうクリック一発で買える運びになっているんだから。

 初めから状況の説明をします。ハ・スビンというのは1992年、”童話の世界からやって来たお姫様”をコンセプトにデビューした韓国のアイドル歌手です。ゆうこりんみたいにギャグにはしない、こちらは終止本気で、俗世離れたお嬢様歌手として売っていたようです。
 で、デビューアルバムに収められていた「ノノノノノノ」が大ヒットします。聞いてみると特に歌はうまくない、むしろ声量のないヘタレ声で音程ふらつきながら懸命に歌うのが健気で応援したくなるとか、そんな感じの支持を受けていたんじゃないかと思われるのですがね。
 その翌年、彼女は2ndアルバムを世に問うのですが、これが自らの作った歌あり、サウンドのクオリティも上げ、大人っぽい雰囲気を前面に出した、なかなかの傑作である。そんな事で彼女は、当時美少女歌手としてトップの人気を誇っていたカン・スジなんかと並び称されるようになる訳です。(「格が違う」とカン・スジのファンは怒ったようだ)

 ところが、どういう事情があったのか分からないが、このセカンドアルバムをリリースした2年後の95年にハ・スピンはテレビの歌謡番組に出演したのを最後に消息を絶ってしまう。そのまま芸能界から去ってしまったんですな。その理由は今だ謎のまま。
 こういう人には、いなくなってから何年も経つとしょうもない噂が必ずたちます。いわく、死んでしまったとか(これは、ハ・スビンのいかにも病弱そうなヒョロヒョロした体型には、ある意味似合いの噂で、妙にリアリティがあった)
 なかでも強力だったのが、「彼女は実は男であって、皆をうまく騙しおおせた女装者に過ぎない」というもの。こいつは引退後何年経ってもテレビのコント番組でネタにされたりして、相当根強く韓国社会に流布した、というかいまだにそう信じている人も少なくはないようだ。
 「美少女歌手として一時は一世を風靡した、そののち謎の引退劇を演じ姿を消した女性が、実は男だった」・・・なんか嫌な湿り気を内に秘めた、いかにも一般大衆好みの暗い願望を刺激する噂ではあります。

 彼女本人は姿を見せないまま、そんな噂ばかりが語られる。引退後、何年経っても閉じられることのないファン・サイト。そして何度も表れては消えるカムバックの噂。
 そんな風にして流れ過ぎた少なからぬ年月。いつしか彼女の名も一般ファンは忘れかけた、こんな頃になって、ハン・スビンが本当にカムバックすると言うんだから、これは驚く。 さっき韓国のサイト(の日本語訳)を見たら、17年ぶりのアルバム・リリースだそうです。もう、彼女のインタビュー記事なんかもいくつか見ることが出来て、さすがに男じゃなかったけど(いや、上手く化けてりゃ分かりませんがね)それはかっての美少女の容貌そのっまというわけにはゆきません、けど、楚々たる美女の面目は保ったままの「ハ・スビンの近影」ではありました。
 上に掲げたのが、その彼女の17年ぶりの再デビュー盤のジャケなんですが、芳しからぬ噂をぶち飛ばそう、とでもいいたげなポーズで写っております。やっぱり忸怩たるものがあったんだろうなあ。

 さて彼女、この17年の言われ放題の歳月に、どう落とし前をつけるんでしょうねえ。おっとその前に、引退の本当の理由やこれまで何をしていたのかとか、訊いてみたいことは多々あるんだが・・・そしてさらに気になる、このアルバムの中身。どんな音楽が入っているんだろうなあ。
 
 (まだ、再デビューアルバムの音はYou-Tubeに上がっていないんで、90年代、現役アイドルだった頃の彼女の歌を、下に貼っておきます)



トロット娘の激辛激走!

2010-11-07 01:13:33 | アジア
 ”ALBUM 05”by Jang Yoon-Jeong (장윤정)

 2008年の”ツイスト”がイカシていた韓国トロット演歌のプリンセス、チャン・ユンジョン嬢の新作であります。2年ぶりの新譜、満を持して登場、というところでしょうか。ジャケ写真などもなかなか可愛く決まっております。
 それにしてもこのところの韓国アイドルの我が国における持て囃されようはなんでしょうね?そんなものは私のようなスキモノの玩弄物として放っておいて欲しいんですがね。とはいえ、私なんかの趣味とは微妙にずれるあたりが受けているのも、なかなかにむず痒い気分のものであったりします。

 さて、チャンちゃんのこの新譜でありますが、冒頭の2曲あたり、”ツイスト”の好評を受けてあの辺のリズム演歌路線をさらに押し進めたのでありましょうか、フルバンドをバックに快調に乗りまくり、良い出来を示します。
 でもなんだかここまで洗練されてしまうと、それこそ”少女時代”なんかがちょっとうっかりして演歌寄りの曲を歌ってしまったと聴こえないでもない。この辺は微妙なところです。そういや内ジャケの写真、少女時代みたいな恰好してるのが何枚かある。その辺の差別化はどうなってるんだ?なんて余計なことで悩むのは、物好きな日本のファンくらいの者かも知れませんが。

 4曲目の”ストッキング”の歌い出しには驚いた。なんだか全盛期の松本伊代を思い出させる強力な鼻詰まり声で打ち込みバシバシのディスコ演歌を決めるんだもの。これには萌えた。でも、なんでこの曲だけ?風邪でも引いてたんだろうか?
 さて、5曲目あたりから演歌度・恥ずかし度が増して行きますな。もう少女時代はついて来ることは出来まい。正統派ド演歌の連発は、まあ新し味はないが安心して聴けはします。やっぱりこういうのを歌わせるとチャンちゃんは上手いですよ。6曲目、しみじみとした演歌バラードにマッコリ恋しい冬の夜です。8曲目、”言えません”は、東京ロマンチカの鶴岡雅義氏を思い出します、ラテン・ギターが切なく響き渡る臆面もないド歌謡曲。飲まずにいられるもんですか。

 9曲目、ポップス調に戻りまして、”気づいてちょうだい”は、リズム、コード進行、コーラスの入り具合など、AKB48の「涙のシーソーゲーム」かと思いましたが。でもあちらはこの種の曲に韓国琴とか入れないよね。この曲のボーカルも若干鼻詰まり気味で萌えます。これが新機軸なら大歓迎なんだが。
 次のフラメンコ調の”カサノバ”は、誰か他の人のヒット曲じゃなかったっけ?マイナー・キーのメロディが疾走する快調なディスコ演歌で、こいつも傑作と言えよう。
 と言うわけで、最新打ち込み演歌からオヤジ歌手とのデュエットでド演歌を営業臭フンプンたるノリで決めて見せたりの、相当にバラエティに富んだチャン・ちゃんの新作でありました。

 感想のまとめとかは、ないです。相手はトロットだもん、収拾つかないままに終わるのが作法だ。



台湾暮色

2010-11-03 02:33:57 | アジア

 ”純情青春夢”by 潘越雲

 台湾の台湾語ポップス界の大物女性歌手、潘越雲が1992年に出した”台湾の心を歌う”みたいな、いわゆる名盤と噂のアルバムである。なんか出回る量が少なかったらしく、私はこの盤を手に入れそこねてもどかしい想いをしていたのだが再プレスされたようで、今頃になって手に入れた次第。
 当時は中華圏のポップスの最先鋭の一人だったボビー・チェンが作った美しいメロディの中華フォークから始まる。中華フォーク・・・と呼びうる個性のメロディもサウンドも確実にかの地には存在すると思う。東アジア人の鋭敏過ぎる感受性に応えて発達してきた、生ギターの爪弾きが似合う、淡い味わいの歌謡世界・・・
 楚々たるメロディに導かれ、極彩色の中華美学が展開するのかと想像したのだが、歌い継がれて行くのは意外にも小味な裏町歌謡だった。

 薄ら寒い風の吹く淋しい小島の波止場。波立つ湾を漁船が横切る。結ばれる運命になかった人を乗せて出て行く連絡船。久しぶりに帰り着いた故郷で、港の灯りを見下ろしながら、もう還らない日々を想い咽び泣く女。楽しく弾けるのは、夜店の幻灯機に映し出されたカゲロウみたいに儚く美しく歌われる、子供の頃に馴染んだ遊び歌。そして月の夜、都市の片隅で果たされる、夢に見た再会。
 どの曲も、美しいメロディを持ってはいるのだが、”大曲”ではない。小味の、いかにも台湾の人々がカラオケで愛唱して来たのではないかと想像される、庶民が掌で愛しむにふさわしい、気のおけない裏町歌謡だ。ところどころでノスタルジックなタッチで静かに流れるアコーディオンが良い味を出している。

 盤のちょうど真ん中に不思議な味わいの曲が置かれている。生ギターがちょっとブリティッシュ・トラッド風の調べを奏で、潘越雲が静かなハミングでそれに合わす。歌詞カードを見ると、ちゃんと潘越雲が書き下ろした歌詞はあるのである。過ぎ行く歳月を孤独に耐えながら一人生きて行く身を船の碇に喩えた詩が。けれどもこんな風に、それは歌われねばならなかった・・・
 そうなんだね、台湾の歌、これも一つの”島唄”なんだ。大陸の方の中国とは明らかに文化の異なる島の生活と人々の喜怒哀楽。そいつが漁船の上げた魚の匂いと一緒に染み付いた、台湾の曲がりくねった古い路地。生まれ出る歌。
 聴き終えた今、なんだか台湾そのものが世界の果てに流れ着いた寄る辺ない船に思えて来たりもするのだった。



南洋中華仏前ポップス

2010-10-26 01:18:45 | アジア


 ”Voice of Peace and Purity”by Callie Chua

 マレー半島在留華人の、と言いますか、私が勝手に作った呼称を使えば、”南洋中華街ポップス”の歌い手でありますカリー・チュア(蔡可荔)が新譜を出しました。またも仏教歌集であります。
 もともとは彼女、中国民歌やら日本のナツメロ演歌やら洋物ポップスやらのゴタマゼ世界を中国人の好きなチャチャチャのリズムに乗せて陽気に弾ける、いかにも赤道近くの中華の屋台から流れて来るに似合いの王道B級ポップスを聴かせてくれるイカしたお姐さんだったんですが、この数年、すっかり宗教付いて、仏教歌といいますか、御仏の教えを褒め称えるための歌ばかりを歌うようになってしまっています。
 仏教歌、まあ概要としては、お経の文句にフォークロック調の美しいメロディをつけ、敬虔に歌い上げる、という感じなんですが。

 これの機能する世界の実際がどのようなものか分からないんですが、昔はよくソウルシンガーが人気の絶頂で引退を表明して「私は神に奉仕する道を選ぶ」とか宣言してゴスペルシンガーになってしまうとかありました、あんな感じなんですかね?
 ともかく、カリー・チュアは仏門歌手となってしまった。どうも中華世界にはジャンルとしての仏教歌というものが存在しているようで、彼女以外にも何人もの歌手が御仏の教えを歌ったアルバムを発表しています。その中にはディスコアレンジがなされた般若心経、などという私らの感覚で言えば言語道断な代物も含まれており、その世界の全体像、これまた想像を絶します。
 まあ、文化を異にするこちらとしては唖然として見ているしかないんですが、この音楽、もともと宗教そのものには興味がないくせに宗教歌には惹かれる変な感性を持っている私などにとっては、なかなかにおいしい代物でありまして、その過剰な線香臭さには目を瞑りつつ、「う~癒される・・・」などとウワゴトを。

 それにしてもカリー・チュア、ジャケ写真など見ますとますます本気、といったところで、これまでの仏教歌アルバムのジャケではまだまだ”クラブで歌っているお姉さんが地味目の化粧をしてしおらしく蓮の葉の間に佇んでいる、なんて意匠だったんですが、今度の彼女はそれどころではないぞ。
 芸能人らしいドレスはきっぱり脱ぎ捨てまして白一色の簡素なもの一枚を羽織り、髪は短くして後ろに束ね、化粧もますます地味になっています。顔の表情もいかにも信仰に生きる人のものとなり、こりゃ仏教歌を本気で歌っているのはもちろん、日常生活も完全に”信徒”のそれに移行してしまったのではないかと思わざるを得ません。
 音楽の方も、これまでのプロの歌手っぽい技巧は捨て去った感じで、ただ素直に御仏の教えを褒め称える気持ちだけが表れた、木綿の手触りとでも言いましょうか、質素な美しさが溢れるものとなりました。う~ん彼女、行くところまでいっちゃったかなあ・・・

 ああ、この音楽にどこまで付き合って行けるか、私にも分からない。と言うか、世俗のポップスを歌っていた頃のカリー・チュアが結構良い女だっただけに、なんかもったいないような痛々しいようなものを感じてしまうのですな。何がきっかけでこのような歌の世界に飛び込んでしまったのかしらないけどさ。なんて感想も、俗世の穢れた価値観に過ぎないんだろうなあ。
 それにしても。ラストで歌われている、これはカリー・チュアの父祖の地である福建の民歌なんですかね、彼女にとっては歌い馴染んだ曲なんではないでしょうか、”不老歌”って曲。この曲で彼女は、他の収録曲のようにストイックな表情ではなく、ホッコリと春の花がほころんだみたいな明るい歌唱を見せてくれ、何だかすっかり救われたみたいな気持ちになったものです。うん、この歌は普通に大好きだ。微笑を含んだ彼女の歌い口を聴いていると、彼女がそれで幸せならそれでいいじゃないか、なんて気持ちにもなって来たのでした。

 このアルバムの収録曲はまだ、You-tubeには上がってきていないので、下には以前のアルバムからの曲を貼ります。まあ、仏教歌とはこんな感じのもの、と分かっていただければ。この歌は中国民歌調ですが、全体としてはもっと洋楽フォークっぽいものも多いです。


香港暮色

2010-10-15 02:27:37 | アジア

 ”TEN TALES OF LOVE”by Liang Yurong

 もう何度もした話ですが、香港が99年間の租借期間を終えて、イギリス政府から北京政府に”返還”される前の何年間か、香港のポップスを夢中になって聴いていました。
 「”借り物の時間”はもうすぐ過ぎ去り、この夜の闇に浮ぶ宝石のような奇蹟の輝きに満ちた香港の街は、我々の都市は、その夢物語は、過酷な現実の前に消え去ってしまうだろう」・・・そんな香港市民の焦燥感が、香港から届けられる、ある種刹那的な響きのかの地独特のポップスの中で悶え踊っているように思え、連日、取り付かれたようにCDを廻したものです。
 まあ、お前の勝手な思い入れだろうと言われればそれまでですが、しかし、その時期の香港ポップスに一種独特の熱が宿っていたのも、確かな話なのです。

 そして返還の日は容赦なくやって来た。その頃になって中国人としての愛国心を強調した曲をリリース、なにをいまさらの人民服を着て歌ってみたり、なにかと北京政府におもねるような姿勢が目立ってきた香港ポップス界に私はなんだかガッカリしたといいますか、急に憑き物が落ちたように関心を失ってしまった。
 返還後も香港の歌手たちは生きて行かねばならない、そのための彼らなりの努力をする権利は彼らに当然あるんで、私が文句を言う筋合いじゃないんですがね、これも。でもそんな訳で私は”返還”後、香港のポップスにはまるで興味を失ったまま今日に至っている次第で。

 さて。これは”返還後”なんて言い方ももはや意味ないくらい時が過ぎてしまった香港で2003年に製作された、広東省曲芸家協会副主席とか国家一級演員なんて物々しい肩書きを持つ女性歌手の梁玉榮女史のアルバムであります。
 どうやら中国人民の魂の安らぎともなるべく作られた、ホームソング集とでもいうんですかね、そんな意図のうかがえる作りのアルバムです。弦楽四重奏やらアコースティック・ギターやらの響きを生かした安らぎに満ちたサウンドにのって、しみじみとした手触りの落ち着いた曲調のメロディばかりが歌われて行きます。
 梁玉榮女史の歌いぶりは、なにやらクラシック調にかしこまった、いかにも昔ながらの共産圏の政府お墨付きの歌手、といった感じで、ヤクザなノリの広東語ポップスに馴染んで来た私には異様に感じられる。いや、一般のポップスは昔ながらの作りでしょうけど、その一方でこんなアルバムも出るようになった、ということでしょう。

 ところで、中国人民の魂の故郷と言ったって、収められている曲の半分くらいは中島みゆきや五輪真弓の手になる日本産の曲なんですが。もう、2曲目がいきなり谷村新二の昴ですもん。その他、”リバー・オブ・バビロン”なんて欧米曲のカバーが出て来たり、この辺は昔ながらの香港のノリといえばそうなんですが、不思議な気はする。日本人が”日本の郷愁”なんてアルバムを作ったとすれば日本産のメロディばかり普通は並べるでしょうから。
 14曲目に日本製のド演歌が出てきたのは意外でした。独自の演歌まで発展させている台湾などと違って、お洒落な香港のシンガーは演歌なんて歌わないものと思っていたんで。

 そういえば香港ポップスを聴きながら不思議に思ってはいたのでした。「街に溢れるのがこんなにお洒落なポップスばかりなら、香港の大人たちは何を聴いているのだろう?」と。
 この”ホームソング”集には、それへの回答らしきものがあちこちに見つかり。なんといいましょうかそれは、かっては最先端のファッションに身を包み街を闊歩していた香港の遊び人諸氏が、洒落たスーツをそっと脱ぎ捨て、中国南部の都市にふさわしいランニング姿になって夕涼みをしているみたいな。
 あるいは、昔はどうしようもない不良で鳴らしていた友人が、いまは子煩悩な父親となって娘の運動会で撮影係を喜々として演じるのを見るような。それでよかったような、でもそれはちょっと淋しいような。そんな奇妙な物悲しさに溢れた一幕でもあるのでした。

 このアルバムの映像はYou-tubeにはありませんでした。まあ、なくてもいいでしょう。というかなんというか。