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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

隠されたボレロ

2011-12-05 23:12:11 | アジア

 ”A Twist Of Faith”by Faith Cuneta

 風邪気味の夜。寒風の中立ち止まり、夢に想うは。カリフォルニアではなくて陽光あふれるマニラ湾とフィリピン・ポップス。この盤は、ほぼタガログ語で歌われており、濃厚な土地の香気が漂います。歌手は、新人ですが、かの国の大物歌手、シャロン・クネータの親戚筋にあたる人だそうな。
 そのせいかどうか知りませんが、なかなかに気品あふれる歌いぶりで、情感あふれる美しいバラード集となっております。ストリングスの幻想的な響きに、マニラ湾の夕暮れをひととき、幻視しつつ杯を重ねてみれば、止めどもないものとなるのでしょう。

 毎度、インドネシアのロハニを語る際に、アジアの大衆歌の深部に沈み込み、その根の部分に張り付いて濃いめの情感をジワと発生させているラテンの血、なんてことを言っている私であります。かって、世界のあちこちを植民地支配し、その血を土地々々に滴らせていったヨーロッパはラテンの国々の幻想の花々は、ここフィリピンでも濃厚に香っている、とでも申せましょうか。
 そこにうかがえるラテンの色は、現地ヨーロッパまで遡って比べてみれば、すっかりアジアの土になじみきっているので、ヨーロッパの人々は自らの子孫とはとても認めない性質のものかも知れませんが。

 この盤に収められているしっとりとしたバラードたちは、音楽の形態としてはソウル・ミュージックの大きな影響下にある、アメリカの現代ポップスに近いものと言えるのでしょうが、次々と表れる切々たるバラードの波は、私には偽装されて、米国マナーのポップスが猖獗を極める今日に、密かによみがえったボレロ集に聴こえます。
 楚々として、絶えることなくうち寄せる情感の波は、古き恋歌のアジア的転生の証かとも思えてくるのであります。




ロハニの季節

2011-12-01 02:25:58 | アジア

 ”Romantic Worship”ny jacqlien Celosse

 というわけで。うかうかしていたら、とうとう12月になってしまいました。弱ったものですなあ。私のような年齢になりますと、歳月の経過の先に待っているものにろくなものはない。新しいこと、素晴らしいことなど何もなく、ただただ世界は衰退して行き、愛したものは次々に喪われて、2度と還ってこない。もう、散々ですわ。 毎年、思うんですよ、12月が来たら、もうそのまま新しい年など来ずにず~~~っと年末のままでいればいいものを、なんてね。
 などとぼやいているうちにも、街はクリスマス体制にまっしぐらだ。こうなったらヤケでこちらも、年末はずっとクリスマス絡みの音楽に関する話を書き続けてみようかな、なんて思ったりするが、三日で飽きてしまうかもな。

 まあとりあえず、ということでインドネシアのキリスト教徒御用達のジーザス系ポップス、ロハニであります。
 私はロハニの魅力というもの、北の国はヨーロッパの雪深き教会などで歌われるべきイエスを讃える歌が、なぜか赤道直下の遠いアジアの国で歌われてしまっているアンバランスのスリル、というふうに捉えています。厳格な北の民族の信仰の証しが、奔放な南の情熱で歌い上げられてしまう不思議。ゲルマン民族の美意識で描かれた四角四面の旋律の上で、パワフルなインドネシア語のアクセントが跳ねる。そして、遠い過去に南の島を通り過ぎていったポルトガルの残していった、ラテンの血の騒ぎの遠い面影がよぎる。

 この盤の主人公、ジャクリーン嬢も、いろいろな異要素を内に秘めた人で、嬉しい限りです。
 まず、ソロ歌手時代の藤本美貴はこれをコンプレックスとしていたそうですが、若い女性らしからぬぶっとい声の誘惑。しかもジャクリーンは、ほかにも結構クセのある歌い方をする人で、語尾が舌足らずに終わったり、声をかすれさせつつ裏声を交える、このへんなんか、日本にやってきて演歌歌手になることを勧めたくなったりします。

 こうなってくると、こちらも勝手に想像を進めてしまうのですが、彼女はおそらく若き日、家庭の事情なんかで非行少女と化し、ツッパリ張っていたことがある。が、たまたま出会ったキリスト教の神父に諭され、更生することとなる。イエスの教えのおかげで人の道を外さずに済んだ。
 その事への感謝を歌うために彼女はロハニの歌い手となった・・・いや、知りませんよ。そんなこと、実際にありはしなかったでしょう。ただ、彼女の歌を聴いているとそんな空想が湧いてくる、というだけの話であります。

 こんなことばかり言っていると、そのうち叱られるかも知れんなあ、ご本人たちに。



ソウルの水脈、演歌の血脈

2011-11-28 22:49:17 | アジア

 ”Beautiful Life”by Zion

 パラレルワールドもののSFめくが、もし別の偶然が積み重なっていたら、この歌手はこの路線を行っていなかったのでは、なんて空想してみるときがある。
 新人歌手というのかどうか微妙な存在の韓国の歌手、Zion嬢の、ヒット曲”スーパーマン”を含む今年出たミニアルバム、”ビューティフル・ライフ”は、ピンクを基調にした、カラフルでリカちゃんチックなデザインのジャケに収められ、男たちばかりでなく若い女の子たちの共感も呼びたいのかな、とも想像させられる作りである。

 音の方は小股の切れ上がったZionのパワフルな歌声が炸裂した小気味よい仕上がりになっている。ミニアルバムゆえ全7曲ながら、R&B調のバラードばかりが並べられ、歌手としてのアピールのしどころもきっちり計算済みといったところだ。
 ところが。彼女はいかにも”ブラックミュージック好き”的なフェイクを織り交ぜながら熱唱を繰り広げているのだが、その底にあんまり”黒っぽい”という感触もないみたいな感じも受けるのである。

 では何があるのか、と言えば、それは演歌なのではないか。
 ワタクシ感じるのだが、Zion嬢のソウルフルなシャウトの芯の部分には、ド演歌の魂が横たわっている。彼女は濃厚な演歌魂のDNAを抱えてこの世に生を受けており、本来、ド演歌の歌い手として名をなすべき人だったのではないか。それもかなり男前な。日本だったら大漁旗をバックに「男の~船出はよ~♪」とか男歌を歌い上げていたんではないか。

 まあ、私にはそう聞こえる、というだけの話、なんの証拠も提示は出来ないのだが。が、そう思いつつ彼女の歌を聴くと、演歌と二重映しになったソウルミュージックという、なんともアンバランスなバランスの上に成立しているZionの歌世界、なんともワールドミュージック的な輝きを楽しめる一枚としてスキモノ諸氏には推薦申し上げたい気分なのである。

 ところで、先に新人と言えるのかどうかなどと書いたが。Zionは実は3年前にフルアルバムをリリースしているのである。で、今回のこのミニアルバムには、新曲の”スーパーマン”ほか一曲に、3年前に出たアルバムからピックアップした5曲を加えた、半端というか手抜きとも言える代物なのである。私のようにデビューアルバムを持っている者にはシングル盤としての価値しかない。(つまり、デビュー・アルバムはそれほどまでに売れなかったと解釈していいのだろう)

 妙な視点からではあるがZionのファンである私としては、今度出る(出ると期待する)2ndアルバムこそ、きっちり手のかかったものであることを期待するばかりである。




イ・スンヒへの遥かな道

2011-10-26 04:30:05 | アジア


 というわけで。ここで我々がまず問題にしなければならないのは、Lee Seung Hui嬢のムネが本物かどうか、ということであろう。
 変形ジャケを開くと、歌詞カードが簡単な写真集になっていて、そこに写っている彼女のムネは非常に立派なのである。たまんねえぜ、なのである。けど、なんか坂本冬実に似たその地味目の顔立ちとなんかそぐわない気もするのである。ほんとにこんなにあるのかなあ、彼女。
 それにしてもレコード会社、こんな写真を載せるのなら、表ジャケにド~ンと乗せれば売り上げも上がろうものを。いや、マジで。それが大衆音楽の真実ってものでしょうが。

 なんて話を続けていても仕方がないので音楽の話をするが。韓国の新人トロット歌手、イ・スンヒ(Lee Seung Hui)嬢の昨年リリースされたデビュー盤であります。これがいいんだ、なかなか。
 まず彼女自身がデビュー盤とはいえ、すでによく訓練された演歌歌手として出来上がっており、錆びた声と揺るぎのないコブシ回しで颯爽とすべての曲をぶった切るように歌い飛ばしている。いっそ爽快である。
 伴奏陣も楽しませてくれる。アップテンポの曲は昨今のトロットでは当たり前のディスコ的展開を見せるのだが、それに絡む昔ながらの演歌ノリのうねりを見せるホーンセクションがリズム上の矛盾から、東欧のジプシーバンドみたいな屈折フレーズを吹かざるを得ない局面に追い込まれたりするあたり、妙にファンキーでよろしいですな、偶然の産物とはいえ。

 特筆すべきは2曲ほど含まれるスローもので、これらは本来はベタな演歌としてそれこそトロット、ズンタカタッタと地を引きずるように演奏され歌われるものだろう。それがここでは、ライト感覚のロックっぽいアレンジがなされ、不思議な開放感というか空間の広がりが入り込んできているのだ。陽の光溢れる潮風演歌、みたいなね。このサウンドだけでもアルバム一枚費やして追いかけてみて欲しい気がするが、そういうことには興味ないだろうな、トロット界。

 それにしても、ネット上に彼女の資料が何もないっての、何とかしてくれないものか。検索かけても、韓国名物、行けども行けどもの同姓同名地獄で、同姓同名、あるいは似たような名前の女優やら先輩歌手やらスポーツ選手の記事に、単なる似た名前の素人のフェイスブックが入り乱れ、ついには、「我が友、イ・スンヒ」なんてややこしい名前のバンドまで登場してきて、その関係ない情報の海にまぎれてついに彼女、Lee Seung Huiに関しては何も分からないままだ。
 韓国じゃ、同姓同名問題に関してどう考えているんだろうか。デビューに際して「この名前、もう先輩歌手にも女優にもいるし、人間国宝も二人いるから別の芸名使おうよ」なんて提案があってもよさそうなものなんだが。

 さらに。しがないトロット歌手とはいえ、芸能界デビューしたんだから、ホームページくらい作ってやるがいいじゃないか、事務所も。ブログやらせるとかさあ。韓国はネット大国と聞いたけどなあ。
 というわけで。案の定、You-tubeにも彼女、Lee Seung Huiの映像は見つからないのでした。もう、しょうがないからほかの歌手のものを貼っておきます。まあ、トロット界のとてつもないノリだけ分かっていただければと思います。ケンチャナヨ。

 というか、この子たち(↓)のアルバムなんかちょっと聴いてみたい気がするんだけど。トロットの世界にもアイドルがいるんだね。今のところチーム名も分からないけど。



雨の夜、ミャンマーに憧れて

2011-10-22 04:17:44 | アジア

 えーい、もうしょうがないから適当な画像を貼ってしまおうか、なんてヤケクソで考えてしまったところである。

 いやね、ここにミャンマーの歌手、ソーサーダトゥンの”ボータヤンテードン”と発音するらしいタイトルのアルバムがあるんだけど、この一曲目がなかなか良い感じなんです。
 アルバムのジャケは仏教寺院群をバックに歌手自身が敬虔な表情で合掌する、いかにもな仏教歌のアルバムのそれであって。ところが、これの一曲目に収められているのは、仏教歌でありながらまるでクリスマス・ソングみたいな、不思議に西欧っぽい明るさもある不思議な手触りとなっている。何でこんな歌が出来たのか、その背景を知りたく思うんだが。

 だからこれの歌われている画像を自分のブログに張って、みんなに聴いてもらえたらいいよなあ、とか考えたんだけど、ついにYou-tubeでそいつを見つけられなかったってことです、要するに。残念だなあ。まあ、ミャンマー文字は発音も何もさっぱり分からないし、ハナから
 いや、最初から画像が貼られていなければ話にならないわけですがね。

 そんな次第で、しょうがないから似たような曲を貼っておきます。といいたいところだが、似た曲さえ見つからなかったんで、ソーサーダトゥンの普通のステージ映像を。いい加減な話だが、お許しください。それにしても不思議の宝庫だわ、ミャンマーの音楽。




福音の道、その他の道

2011-10-16 00:41:03 | アジア

 ”小さな手の祈り”by オ・ウン

 もう昨日の晩の出来事、になってしまうが、ゴスペラーズの連中が土曜の夕方の音楽番組に出て、グループ名に即したというのか、昔ながらのアメリカ黒人のゴスペル風の、おそらく彼らの新曲なんだろうね、それを歌っていた。それがいかにもそれらしい出来上がりだったんで、なにやらムズ痒い気分に襲われて思わず缶ビールをグビグビやってしまったんだが。
 でもまあ、さすがにゴスペラーズの連中だって、ゴスペル音楽には惹かれているんだろうけど、宗教的には信者ってわけでもなし、キリスト教の布教まで本気でする気もなかろう、その歌の歌詞は神の愛とかイエスは偉大なりとかにはなっていなかった。肝心の部分は友情とか人生とかに置き換えられていた。

 その辺の事情は聴いてる人もなんとなく分かっているんだろう。皆が了解の上で演じられる欺瞞、というのか。こいつもなんか、独特のムズ痒さを感じさせる風景だ。
 関係ないけど、西條秀樹が「YMCA」を新曲として出した時、その経緯を知らないクリスチャンの人は驚いただろうなあ。「この男、頼みもしないのに我々の組織の宣伝を突然、あんなにむきになってやり始めた。何か裏に意図があるのだろうか?」なんてね。

 日本よりはキリスト教の普及率も高く、有名歌手が本気でキリスト教歌を歌うのも珍しくはない韓国だったら、ゴスペラーズのあの曲はマジで神の愛を説く歌などになっていたのだろうか。以前、この場で取り上げた韓国のライト感覚のキリスト教歌など、どうも現地では特にクリスチャンではない人々までも、”癒しの歌”とか”慰めの歌”なんて感覚で聴いているような気配があり、この辺の空気感というのも、どういうものだろうかとあれこれ想像してみるのだが。

 さて、今回取り上げるのは、半分は”新人ゴスペル歌手”という煽り文句が気になり、もう半分はジャケを見て、「あ、結構可愛い」とますます気になった、それゆえに買い求めた、韓国の新人歌手、オ・ウンちゃんのデビュー盤であります。
 モロ賛美歌、というのは終わり近くのギター一本をバックの一曲だけ、それ以外の曲は、まさに癒し系の清らかなポップス、として聴いてしまうことも十分可能なものばかりだ。黒人音楽志向のある韓国の女性歌手によく見られるぶっといハスキーボイスを張り上げる方向ではなく、ナチュラルな声質を響かせつつ、さりげなく黒人っぽさを香らせる、そんな歌い方が爽やかで好感が持てる。

 宗教心なんかまるでないくせに宗教音楽好きな私としては、このナチュラルなゴスペル心を生かしつつ、もっと賛美歌っぽい曲もガンガン歌って欲しいと思う、もう遠慮なく。とか言ってる私の立場ってなんなんだ?と首傾げつつ、我が魂は荒れ野を流離う。







あの頃のプリシラ

2011-10-03 04:16:48 | アジア

 ”反叛”by 陳慧嫻(Priscilla Chan)

 香港のアイドル歌手として先頭集団を走っていたプリシラ・チャンの、1985年度盤、「反叛」のCD化されたものが手に入った。
 ”輝いていたあの頃の香港”のものなら、どの盤であろうと宝物なのであって。どんどんこんな風にCD化して、容易に手に入るようにしておいて欲しいが、現地にそのような発想があるかどうか。

 こうして今、聴いてみると、それぞれの曲があの頃の香港の一枚ごとのスナップ写真みたいだ。もはや”瀟洒”と呼びたい演奏に乗って、甘さを含んだプリシラの素直な歌声が九龍湾の空に上って行く。

 あの頃の、つまり”中国本土への返還”を目前にした香港は、確かに世界の最先端にあった。南華の風変わりな方言であるはずの広東語は世界の流行を先取ったサウンドに乗り東アジアを駆け巡った。
 それもまた、一幅の夢となり。イギリス領香港、借り物の時間は終わりを告げ、今、情け容赦のない現実は人々の日々に降り注ぐ。

 こうして今、聴いてみると、それぞれの曲があの頃の香港のピクニックの記念写真みたいだ。彼らの夢想がどのくらい遠くにまで行き着けたのか、の。




夏の終わりのハングル・フォーク

2011-09-17 01:49:02 | アジア

 ”私たちの人生”by ヘバラギ

 韓国に”ヘバラギ”という男性二人組のフォークグループがありまして、これが70年代、いや80年代くらいからなのかな、活動を続けていて韓国の音楽ファンに根強い人気を誇り、長く愛されている、ということらしい。まあ、わが国にもフォークギター抱えて切ない歌を聴かせる男性二人組というのはいくつもいますが、あんな感じなんでしょうな。
 どちらかというと私にはあんまり関心を持てないジャンルなんで、彼らのことは外角低めに見送ってきたんですが、手元に一枚、ヘバラギ名義のCDがある。あ、ヘバラギってのは”ひまわり”という意味なんだそうです。

 で、何でそれだけ持っているかというと、いつもは男性二人組の彼ら、そのアルバムだけはゲスト(?)に女性歌手二人をゲストに迎え4人編成でいろいろ凝ったコーラスなど聴かせていて、しかも女性歌手の一人は、ここでもすでにソロ・アルバムの話題を取り上げたことのある韓国のジャニス(韓国にはジャニスが何人もいる。韓国の女性歌手の3人に1人くらいは韓国のジャニスなのではあるまいか)とその名も高いハン・ヨンエであることが気になったからだった。
 で、手に入れて聴いてみるとこれが大当たりで、すっかり愛聴盤になってしまった。ことに、夏の終わりのこんな時期には、ふと聴きたくなる、夏の終わりにふと吹き抜ける走りの秋風、みたいな涼やかな(今年は、まだクソ暑い残暑の中であり、その気にはならないが)一枚である。

 どんなアルバムかというと。毎度のことで申し訳ないが、このアルバムに関しては検索をかけてもまるで情報が引っかかってこないので、はっきりしたことがまるで言えない。なんと韓国音楽の専門店のカタログでも、このアルバムはヘバラギのディスコグラフィから外れていたりするのである。現地韓国では問題にされていない盤?メンバー違い等で別格扱いなのか?
 よく分からないが、資料が無いときは勝手に想像で話を進めてしまうのが私の主義なんでそうさせてもらう。

 で、このアルバムなのだが、いつものヘバラギの作品と違い、収められているのがオリジナル曲ではなく、韓国の人々の間で折々の心に残る歌となっている懐メロなどを歌ってみせた企画盤なのではないか。
 と想像するのは、3曲目に収められている”夢見る白馬江”の存在ゆえである。この曲、大昔に朝鮮半島で戦われた”白村江の戦い”などに関係のある歌らしい。史実絡みのご当地ソング、みたいな曲と解釈していいんだろうか。演歌歌手なんかが良く取り上げる、というかモロにド演歌である。そんなものをアルバムに収めるフォークグループというのも珍しいが、ヘバラギはそれをジャズっぽいアレンジとコーラスワークで演歌の泥臭さをうまく抜き去っている。そいつを抜かれた懐メロ演歌は透明感を持つ叙情歌に生まれ変わり、時の流れを静かに振り返っている。

 同じパターンは、これも古くから韓国で歌われているホームソング、あるいは民謡のタグイではないか、9曲目の”故郷の春”でも使われている。もともとは相当に泥臭い歌のようだが、ここでもアレンジによって透明感を獲得、結果として韓国人で無い私にもかかわらず、聴くたびに非常な懐かしさを覚えるナンバーと化した。
 そのような手触りの曲がほとんどのアルバムであり、これはヘバラギが女性歌手二人をゲストに迎えて表現の幅を広げておいて、韓国大衆音楽史の一局面を振り返ってみようとした実験作なのではないか。”私たちの人生”というタイトルが沁みる。

 この盤、韓国の人々にはどのように聴こえるのか、訊いてみたいなあ。なんだか韓国大衆の胸中に吹き過ぎている季節の風の中の思い出のひとコマひとコマが、彩色し直されて壁にかけ直された、そんな風にも思えてくるのだ。



ミリアのココナツ・タイム

2011-09-06 03:30:54 | アジア

 ”Nat Myria Benedetti”by Nat Myria

 言わずと知れたタイのお洒落なポップス歌手、ナット・ミリア女史であります。別に私なんかがあーだこーだと言う必要もないような人でありますが。
 タイの音楽というと、モーラムやルークトゥンなど、泥臭いものばかりを長いこと聴いてきたので、今頃になってこういう洗練されたポップス関係を初聴きし、「あ。こういうものもあったんだ」とか慌てている事もたびたびある私であります。

 彼女は良いですなあ。まず、くどくない。常に風が吹いている感じであります、その歌の中に。で、西欧風ポップスの歌い手なんだが、その内にアジア人特有の琴線を揺らすというのか、微妙な間合いにかかわる繊細さを持っている。だから泥臭いものばかりを聴いてきた耳でも一発でなじむことが出来たのでしょう。

 これは最近再発された彼女の1996年のデビュー盤なんだそうです。やはりデビュー盤というもの、素朴な手触りがあって好感が持てるものですね。このアルバムは、50~60年代くらいのアメリカン・ポップスをテーマにしているみたいで、その種のオールディーズの今日的展開+タイ情緒のひそかに漂うメロディの取り合わせが心地良い。これが彼女の出発点なんでしょうな。

 こうして聴いてみると彼女、あんまりR&B色が濃くない方が向いているみたいですがね。なんていっても、いまさらどうにもならんが。

 
 下が試聴です。時々You-tubeいはこうして”貼り付け無用”ってのがあるけど、なんでかなあ?
 ↓
 

ちむちゃあちょいに月は昇れど

2011-09-02 02:35:38 | アジア

 ”Love Addict”by Prudence Liew

 もう何度も繰り返している話題で申し訳ないのだが、99年間の租借期間を終え、イギリスから北京政府に”返還”される前の数年間の香港ポップスが大好きで、もう愛聴を通り越して淫する、というレベルで聴いていたものだった。
 その時期の香港の人々の胸中に吹きすさび、あるいはわだかまっていた不安に揺れる終末観やら焼け付くような焦燥感やら。いまだになんと呼んでいようか分からぬが、それら感情をそのままパックしたかのような当時の香港ポップスの放つ、”ただ事でなさ”に猛烈に惹かれていた。

 いや、その気持ちは今でも変わらず、当時の盤を取り出して聴くこともあれば、買い損なった”あの頃”の盤が再発になればソッコーで買いに走る。
 そこまで入れ込んだ香港ポップスだが、”返還”後は、まさに憑き物が落ちるように私は追いかけるのをやめてしまった。なんだか・・・
 これもどう言葉で説明すればよいのか途方にくれてしまうのだが、ともかく返還前の香港ポップスにあった”なにものか”が、返還なって五星紅旗が翻るようになった香港の街から届けられる音からは失われてしまった、私にはそう感じられている。すべての盤から、気の抜けた炭酸飲料を飲むような気分しか受け取ることが出来ないのだ。

 そんな私としては、昔熱中して聴いていた香港の歌手が久しぶりに出す新譜、などというものは、なんとも落ち着かない気分にさせられるもので、よい出来でなかったらどうしよう、幻滅はしたくない、とは思うものの、良い作品である可能性はかなり低そうな気がする。
 とはいえ、出ればまだマシなのであって、実は返還前にヒイキしていた歌手のほとんどは、事実上引退状態にあるようなのだが。まあ、世情の変化ばかりではない、それ以前に”返還”は少なからぬ歳月の向こうの話だ。沈黙の理由が年齢にあるケースもあるのだろう。

 と、前置きが長過ぎたが、これは、そんな気になる昔馴染みの香港の歌手の”新譜”である。
 ”あの頃”の香港の夜をあやしく彩った、かなりヤバい性愛の歌い手だったプルーデンス・ラウのバリバリの新譜である。歌の世界ばかりではなくプライベートでも、まさにただ事ではない奔放な生き方を貫いた彼女は、”返還”を超えて、どう変わったか。
 結論から言ってしまえば、彼女は何も変わっていない。それは音を聴くまでもなく、内ジャケに仕込まれた、ポルノまがいの雰囲気をかもし出す数葉の写真を見ればおおよその見当はつく。彼女は、プルーデンスは攻めてるぞ、まだまだ時代に攻め入っているぞ。

 聴こえて来る音の印象は、一見、おとなしいものだ。アコースティック感覚の強い少人数のバンドを後ろに従え彼女が歌うのは、落ち着いた雰囲気のバラードばかり。が、その隙間の多い音の向こうに昔ながらの香港の秘密めいた闇が香る。そう信じ込ませてしまう、プルーデンスの歌声の妖しさなのだ。
 この盤にはいくつかの不思議がある。なぜ、ここに来てオリジナル曲なしのカバー集など出したのか。しかも、歌われている曲のほとんどは香港や台湾の男性歌手のヒット曲なのであって。この性別の逆転はなぜ行われたのか。

 収められた各曲の曲ごとの区切りはあまり明確でない。一曲終わった余韻のまだ残る空気の中で、次の曲のイントロが奏でられる。そしてプルーデンスはけだるく、次のストーリーを物語り始める。目覚めることのない夢見のように、歌は続いて行く。