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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

楼閣に向かって

2012-02-11 03:47:58 | アジア

 ”Me La Tinh Yeu”by Ha Vy

 そもそも歌手の名前、Ha Vyって、ぢう読むんだろうか。鈴を転がすような可憐な声でコロコロと歌っているけど、写真を見るとそれなりのキャリアではあるようだ。いや、ブリッ子とかそういう話ではなく、そのような声を出す伝統の中にいる歌い手ってことで。
 洗練されたサウンド、見事な歌唱、良く出来たアルバムと思う。
 中国音楽の影響を大きく受けたベトナムの大衆歌、田園の生活などを懐かしく歌い上げる”民歌”の好盤が、またアメリカのベトナム人コミュニティから生まれた。

 なんだかこうしてみるとベトナムの”故郷の歌”でありながら、むしろアメリカの方が本場みたいになってきて、おかしな逆転現象が起こっているのだが、つまりは失われゆく古きよきベトナムの田園生活を歌わせたら、故郷を追われるように後にしてきた根無し草の米国在住組に、むしろリアリティがあるってなものなのではないか。
 この盤も、ほぼすべてがしっとりとしたバラードであり、失われゆく、あるいは既に失われてしまった古き時代への哀切なる挽歌となっている。

 ところで、マイナー・キーで始まる曲の内いくつかに、サビの部分になるとそこだけメジャー・キイに転調する、という小細工が含まれていて興味深いのだが、これはもしかしてフランスの植民地時代あたりにヨーロッパから持ち込まれた技巧のひとつなんではないか、とも想像するのだが、どうなんだろうか。あんまりアジアの大衆歌謡に自然に存在するワザって感じじゃないんだが。

 私は7曲目から8曲目あたりが桃源郷に感ずる。この辺に行くと、ほんとに陶然とさせられるのであって。美しいハーモニーのカーテンをゆらゆらと揺らすストリングスに包まれて、軽いエコーを伴いつつ民族楽器が典雅なソロを取る。アルカイックナリズムをキープする打楽器群などなど。そして。繊細極まる美しいメロディが、そのはざまから歌い上げられる。
 私などは、いっそプログレ・ファンの友人にでも聴かせてみたい衝動に駆られるのだ。

 ジャケ写真。川辺でポーズを取る歌手の後方に、いかにも異文化を感じさせる五重塔が幻のように浮かび上がっている。ベトナムの民歌なるものの文化的バックグルンドを象徴させているようで、なにやら遥かな想いにさせてくれるのだった。

こちらで試聴出来ます。
 ↓
 

冬天的故事

2012-02-06 03:28:54 | アジア
 ”Winter story”by mandy chiang

 香港の美少女歌手、マンディ・チャンの2007年作。ちょっと古いが、香港語のタイトルは”冬天的故事”で、時期的には合っているので許して欲しい。
 アルバムの冒頭、なにやらせわしない調子のワルツが、まるで巨大な幻燈機が映し出したみたいに冬枯れの香港の街の夜空に浮かび上がった、ネオン輝く遊園地の幻を運んでくる。そんな、ホンワカとピンク色に染まった幻想が似合いのマンディ嬢である。

 息が半分、歌声にならず空気になって漏れていってしまうアイドル発声(日本では菊池桃子が典型例だったね)で、そんなシャボン玉みたいなカラフルな女の子の夢物語を歌うマンディ・チャンの夢物語を私が笑う気になれないのは、その幻想が香港で、自分の夢を掴むために日々働いている名もない香港の少女たちの夢の結晶であるから。
 半分、非現実の霞みのかかった宵の口の南華の街の大通りを、キャンディの味の美しいメロディが揺れながら行く。間奏にはギター曲にアレンジされたバッハのカンタータなどが援用されたりするのだった。

 ところで。いつも不思議に思うんだが、例えば沖縄の音楽は、まあ、南国の音楽という印象で、実際に暑そうな響きがあるんだが、それより南に位置する台湾の音楽は、そこまで南国っぽくはなかったりする。これが、さらに南に位置する香港となると、明らかに”冬”のイメージがその感性のうちに存在しているらしいのは、どうしたわけだ?
 沖縄の音楽を聴いていて「那覇の港に雪が降る」なんて風景は想像できないが、香港の音楽には冬のイメージの楽曲は、いくらでもあるのであって。

 それらを聴いていると、歓楽街チムチャアソイの通りが大雪に埋もれ、九龍島行きのフェリーボートが海面氷結のため運休になってしまった香港のホワイト・クリスマス、なんて情景が簡単に想像できる。そんなこと、あるはずはないんだけどね、現実には。東南アジアのとば口あたりに存在する街だ、香港は。
 けど、長年、香港ポップスに馴染んできた身には、分厚いコートや手袋を身に付けた香港の歌手の写真を見ても、何も不自然には感じず、彼ら彼女らが歌う木枯らしの街の情景に酔うのに何の努力もいらないのは事実なのだった。

 この、ありもしない冬景色の中に展開する香港式の冬の感傷を、私は愛さずにはいられない。それは、そんな虚構を設定せねば信じられない夢もあるということ。冬の日の街の片隅で起こった、小さな出来事。さあ、もう一度、酔いに行こうか。






からっ風の大地から

2012-02-03 04:02:52 | アジア

 ”NOW”by Kim Jung Mi

 韓国のジャニス、と異名を取った人、キム・ジョンミ73年度作のアルバム。私は何故かこの盤に縁が無くて、”名盤”との噂を聞くばかりでなかなか現物に出会えず、今回の再発でやっと手に入れることが出来たのだった。
 聴いてみると、その異名から想像していたハードなシャウトはこの盤においてはあまり目立つものではなく、むしろアルバムの後ろ盾である韓国の異形のロック・ヒーロー、シン・ジュンヒョンの独特の美学による、乾いた風吹くバラードの世界が広がっていたのだった。

 アルバムを再発したアメリカで付けられたライナーでは、キム・ジョンミをむしろ、韓国版フランソワーズ・アルディになぞらえていた。余りにも個性的なディレクターに育てられた才能ある女性歌手、というあたりに共通点を見出したのだろう。ほかの盤は知らず、この盤にかんしては、そちらの理解方法がむしろ自然か。
 この盤は、韓国ロック界の大立者、大韓サイケの創始者、と讃えられ、また異端視されるシン・ジュンヒョンの作った曲とアレンジ、独特の個性を持つギターのプレイで埋めつくされている。むしろシン・ジュンヒョンの魂がキム・ジョンミという優れた表現者の体を借りて歌いだしたかのようにも見える。

 そこに見えてくるジュンヒョン像は、奇矯な振る舞いの目立つ異端のロッカーの肖像ではなく、韓国大衆音楽の巨大な流れに連なる、蒼古の響きさえうちに秘めたメロディの描き手である。その余情がエレキギターのアンサンブルの狭間に溢れ出し、遠い時間の向こうで、韓国の大地をさすらった放浪詩人たちの孤独の呻きが響く。
 青空の下に佇むキム・ジョンミを捉えたジャケ写真は、まさにそのような大地の伝承を踏まえて立つ彼女の青春の血の高ぶりを伝えて、見事だ。
 若い日、誰もがこんな青空の下で、何事か、まだ名の付いていないものを見つける旅の夢を見たものだった。その回答は、まさにこの盤の中で風に吹かれている。



ファヨビとの夜

2012-01-18 05:06:08 | アジア

 ”5°”by Hwayobi

 韓国R&B歌謡の女王、パク・ファヨビの5thアルバム。2006年作。冷え込む夜にこんなものを聴きたくなるのは、寒さに対抗するために思い切り辛い韓国料理を食べるようなものだろうか。
 もっとも、ファヨビの歌は唐辛子味というよりは醤油味のような気がする。あるいは魚醤の類か。ハードに責め立てるよりは、どこか静かに水分多めに聴く者の心に染み込み、彼女の色の感傷に辺りを染め上げてしまう。

 そんな個性の彼女だからあんまり”洋楽”っぽい音楽を聴いているという感じはなく、心の中の歌謡曲のチャンネルでそのまま受け止める事ができる。アメリカの黒人音楽の要素と韓国の歌謡曲の要素の、なかなか巧妙な混淆を行なっているのだが。
 だが、最新の外国音楽の要素をいくら取り入れても、なんかアジア的湿り気の抜けないその個性に、妙に親しみを感じてしまったりする。

 顔が、漫才コンビ”オセロ”の”黒い方”にちょっと似ている彼女である。あるいは椿鬼奴。一度、相武紗季に似ている写真を見たことがあるのだが、あれは何かの間違いだったのだろう。
 デビュー・アルバムから、すごい才能とか言われてきたファヨビだが、「恋愛発覚”」とか騒がれた男とすぐに別れてしまったり、声帯の厄介な病気に罹り歌手生命を危ぶまれたり、うつ病から過食症状に至ってしまったり、プライベートでなんかついてない部分が常にあり、彼女に聞かれたら怒られるだろうが、そんなうまく行かない人生部分まで含めて、私は彼女のファンである。

 かっこよく決まりそうでいてそうは行かない、そんな彼女のソウルなバラード。そいつは、ほかの歌手よりずいぶんこちらの耳元に近付いて来て歌っているように聴こえる。
 不思議な距離感。不快ではなく、それならこちらも他の歌手を聴くときより余計に耳をそばだてて聴いてやろうじゃないか、なんて思ったりする。冬の夜。



コーズウェイ・ベイに風吹けば

2012-01-15 03:27:31 | アジア

 ”重奏”by 陳潔儀

 香港の溜め息、なんて言い方をすると違う方向に誤解されそうだ。いや、ピンク色のほうじゃないんですよ。憂愁に沈みながら華やぐチムサァチョイの通りななどにふと目をやり、ネオンサインと人いきれと群衆の中の孤独が染み付いた、その輝く闇にふと深い溜め息をつく。なんて時の、その瞬間みたいなアルバムだ、という話をしたいわけです。
 もうすっかり実力派ベテランシンガーのキット・チャンこと陳潔儀の、これが昨年リリースされた最新盤とのことで。いやあ、昨年手に入れてたら私、はずみで年間ベストのトップに持ってきたかもしれない。

 人気も安定しているはずの彼女の、この盤が自主制作だというんで「え?意外と売れてないのかしら?」なんて驚いてしまったんだけど、いやいや、これは彼女が徹頭徹尾、個人の趣味で染め上げたいアルバムだったから、思い切り自分勝手のできる体制で制作に臨みたかったんだろうなと、アルバムを聴いてみればいっぺんで納得ができる。
 これは彼女としては初のカバー・アルバムで、同じ香港の人気歌手たちの過去のヒット作をはじめとして、サイモン&ガーファンクルの曲までを取り上げています。つまりまあ、この辺りが彼女が個人的に愛好する曲たち、ということなんでしょう。

 どの曲も美しいメロディのスロー・バラードばかりで、陳潔儀はそれらを、あるいは切々と、あるいはしみじみと、どれも本当にいとおしむ様子で心を込めて歌い上げています。
 どの曲もシンプルなピアノ伴奏が基本で、それにコーラスやストリングスが遠くから絡む、そんな音作りなんで、香港の小さなクラブで深夜、陳潔儀が気ままに好きな歌を自分のペースで歌って行くのを、グラス片手に、心の底に静かに深い、”何か切ないもの”が降り積もるのを感じつつ聴いている、みたいな気分。

 彼女がこの時期、このようなアルバムを作ったのは、どのような心の動きからなんでしょう。同じような時期に出た同じ香港のプルーデンス・ラウによる、やはり香港や台湾の男性歌手たちのヒット曲をカバーしたアルバム、”Love Addict”などと、あるいはこれは一昨年の作品ですが、やはり香港のリリー・チャンによるテレサ・テンのカバー集などと並べてみると、どれも似たような手触りを感じないでもないのです。
 掌の中に握り締めている、ちっぽけなこの想い。今、打ち明けねば、明日には吹き寄せる風の中であっけなく消え失せてしまうかも知れない。そんな頼りなくも切実な思いを、愛する歌たちに託して、聴く者にそっと手渡そうとするかのような。

 この切実さはどこから来るのか。彼女らが時代の裏に見ているものは何なのか。今、この時代のこの時間に、次々にこのようなアルバムが生まれる香港というのは、”返還”後、なんとなく立ち位置がぼけてしまったのだけれど、意外にまだ世界の最先端にいるのかも知れない。などと思わされた一枚だったのでした。




マヤの台湾、演歌とブルース

2011-12-23 06:00:36 | アジア

 ”寄付”by 秀蘭瑪雅

 大昔、中国人がやってくる前から台湾に住んでいたという山地先住民族の血を引き、かって日本が台湾を植民地支配していた頃の置き土産である演歌を歌う。しかも、かの地では多くの場合、下働きの人たちの言葉である台湾語で。なおかつ、黒人のR&Bの影響を受けたブルージィな節回しという、妙な趣向付きで。
 もう・・・何枚、負のカードを集めれば気が済むんだ、と尋ねたくなるキャラ設定の秀蘭瑪雅の新譜であります。まあ彼女にしてみれば、普通に生きてきた結果、そうなってしまっただけなんだろうけど。

 いや、演歌をソウルっぽくブルースっぽく歌う、というのは、あえて彼女が選んだ道なんだろうな。それでも彼女の”黒っぽい”演歌は幅広く台湾の人々の支持を集めているようで、彼女の年齢を思えば意外なくらい多種のアルバムが市場には出回っているのだった。
 この最新アルバム、現地の言葉で言えば懐念的というのだろうか、どれもがゆったりとしたテンポのしみじみと懐かしい手触りの曲ばかりが収められている。黒っぽいフレージングは演歌のコブシとないまぜになり、メロディの間に染み馴染んでしまっている。

 この年の瀬に聴けば、台湾の地に足を下ろしたことのない身にもその溢れる感傷は胸に迫り、かの島の磯辺の岩間に打ち寄せる波の音にも心騒ぐ思いだ。行ったこともない台湾の地へ帰りつきたい、そんな矛盾した旅情が足元に寄せる。
 歌の中の「行ってしまったあなた」や「過ぎてしまった恋」は、つまりは全て「走り過ぎて行く時との戦い、それに決して勝つことのできない人間の定め」への嘆きなのだろう。
 冬の陽光は穏やかに煌めき、寄せては返す東シナ海の波はBluesを知らない。



明かりを灯す

2011-12-19 04:00:30 | アジア

 ”Bohemian”by Park Ki Young

 なにかしら”ライト”に関わる表現がある歌に妙に惹かれる癖がある。と言ってもなんのことだかわからないだろうなあ。
 たとえば、70年代のシンガー・ソングライターのマイケル・マーフィー、彼のデビュー・アルバムのラストに”Light of city”というソウルバラードっぽい曲が入っていて、この曲を、初めて聴いてからもう長の年月が流れたのに、いまだにふと作業中の鼻歌として口ずさんでいたりする。たとえがマイナー過ぎるか。

 50年代に人気のあった黒人コーラスグループのプラターズが歌った”ハーバーライト”って曲は、”潮風吹き抜ける国道沿いの古い飲み屋街にネオンが灯り始める日暮れ頃”などというイメージを喚起し、海辺の観光地育ちの私としては、切ないこと限りない気分になるのだが、これも例が古過ぎていけないなあ。
 あと、堺マチャアキが歌った”街の灯”の一節、「街のあかりチラチラ」って部分とか、中島みゆきの・・・あの歌はなんてタイトルなのかな、「ネオンライトでは燃やせない」って歌詞部分など、明かりに関する単語があるだけでも、その歌が心に残ってしまうんだから、我ながら妙な癖である。
 「暗闇の中に灯されたあかり」とか、「深夜に一人、明かりを掲げる」なんてイメージにこだわりがある・・・ような気がしているのだが。まあ、意味不明では同じことだが。

 バカ例としては。ジャズシンガーのビリー・ホリディの持ち歌に”トラベリング・ライト”がある。”身軽な旅”という邦題で知られている歌なのだが、私はこの”ライト”を”軽い”ではなく”明かり”の方のライトと勘違いし、明かりを灯しながらの旅、なんてイメージで一時、聴いていた。
 私としては、重たい闇に閉ざされた薄ら寒い北の街にまで、分かり合える魂を求めて旅する明かりを掲げた孤独な旅人の路は続く、なんて歌なのだと信じ込んで聴いていた。その街は、宮沢賢治が愛する妹を病で亡くし、悲しみのあまり「どこか遠くの街に行けば、妹は生きているのではないか」と思い込んでさすらったというカラフトの地あたりだろうか。
 そりゃ、英語のスペルもいい加減にしか覚えていない私がアホなのであるが、でも内容的には私のものでも正解なのではないかとか思っている(本気でアホだね)

 最近の”ライトもの”で気に入っているのが、韓国の女性シンガー・ソングライター、パク・キヨンが創唱した、”イエローライト”って歌である。
 ちょいジャジーな苦味あるメロディがかっこいいこの曲、何を歌っているか全く知らないのだが、気に入って繰り返し聞いているのだった。彼女が直情径行型ロックから、やや屈折表現も取り入れ、音楽の奥行を深めたと評価のあるアルバム、”ボヘミアン(2006)”所収。
 韓国で女性がロックを歌う道を切り開いた人である彼女の歌など、この冬は聴いてみるのもよろしいかと。それにしても黄色い明かりってなんだろうな。




サイゴンの川辺に

2011-12-15 00:29:36 | アジア

 ”Mau Thei Jian -Color of Time”by Ngoc Ha

 今どき、そんな大仰な歌い方をする奴はいねえよ、とか突っ込みつつ聴いていたのでした、はじめの頃は。ともかく歌手は、曲が盛り上がる部分に行くと「クラシックのお勉強もしましたから」みたいな歌唱法で思いっきりフォルテッシモに声を張り上げる。フルバンドによる伴奏もまた、それによく付き合って劇的に盛り上げる。一時代前の芸能の匂いなどいたします。

 どういうキャリアの人かわかりません、歌い手のNgoc Ha女史。若そうに見えるが、派手な顔立ちの厚めの化粧の巨乳の人。歌われるのは、おそらくは欧米のポップス曲にベトナム語歌詞を乗せたもの。あるいは、それっぽく作られたベトナム産のオリジナル楽曲なのかも知れません。ともかく”ロック以前”の雰囲気漂うポピュラー・ナンバーめいた、古めかしい美しさに満ちた曲。それらをNgoc女史は朗々と歌い上げて行く。
 要するに懐メロ企画の盤なのかなあと頷きかけた私でありましたが、そこで始まった、韓国のパンソリみたいなテンション高く声張り上げる伝統色濃厚な一曲。さらに続いて始まったのは、本場アルゼンチンのものと比べると、ずいぶん質実剛健な構造と感じられるタンゴであります。

 このへんで私は、少年時代に読んだベトナム戦争従軍記の類の一節に思い当たったのでありました。北からの解放軍勢力の攻勢に米軍の援助でやっと持ちこたえているサイゴン市。どぎついネオンサインを川面に映しまして、なにやら世紀末の雰囲気漂うキャバレーで夜毎の饗宴。そこで供応される音楽というのは、こんな取合せと記されていたのではなかったか。
 ベトナム風に誤読された欧米懐メロポップスと、なぜかベトナム人が好むというタンゴのメロディ。この盤は、そんな、ベトナム人がかって下駄履きで楽しんだエンタティメントとしての”洋食っぽいショー”のひとコマを再現したものなのではないか。

 どんな需要に応えてそのようなものが作られたものか分かりません。少なくとも、ベトナム本国ではもう、このような音楽は必要とされないんではないか。そんな時代ではないから。人々の欲望はもう、別のベクトル目指して走り出してしまったから。
 Ngoc Ha女史はアメリカ合衆国のベトナム人コミュニティに属する人のようですが、であるからこそ、演じてみた懐メロ・ステージ模様ではないのか。在米国コミュニティでは振り返るべき過去が、まだ生々しく口を広げているのでしょう、おそらく。
 そう受け取ると、なんとも罪深くも悲しい人間の業など滴らせた一枚に見えてくるのですねえ、この盤が。



ソウル暮色

2011-12-11 03:33:08 | アジア

 ”vanger”by Zia

 韓国の水晶宮殿系(?)女性歌手、Ziaの、新しいアルバムが届いた。なにやら誰かへの贈り物に使いたくなるような手の込んだジャケで、彼女にかけるレコード会社の期待の大きさも推察できよう。

 彼女に関しては、過敏な感性ゆえかカメラ恐怖症で、デビュー当時自らの姿を写されるのを好まず、CDのジャケ写真さえ、自分のかわりに女優を”出演”させてやり過ごしたなんて逸話があり、それは以前、この場で紹介した。
 それがかえってマスコミの好奇の視線を呼ぶこととなり、彼女が人前に出せないほどのひどい容貌の持ち主であるとか猟奇的と言ってよいレベルの話題にふくれあがり、デビュー当時のセンシティヴになっていた彼女の心をますます追い詰めた、なんて出来事。

 漫画家修行時代のつげ義春の、対人恐怖症ゆえに顔を隠したくて長髪にしていたら、それを珍しがられてますます周囲の注目の的となってしまったとか、同じくバンドマン生活を始めたばかりの谷啓が、ステージに上がるのが恥ずかしくてサングラスをかけて演奏をしていたら、それゆえにかえって目立ってしまったとか、そんなエピソードを思い出させる悲喜劇である。

 今回、このアルバムは発売直後、韓国の配信サイトでどこも一位を獲得したのだが、Ziaのカメラ恐怖ゆえにテレビ番組に出ることができず、プロモーション活動もままならない、なんて話を聞き、なんだよ、デビュー後4年も経つのに、まだそんなことを言っているのかと呆れた私である。You-Tubeなどで、ごく普通にステージを務める彼女の姿など見ていたので、もう大丈夫かと思っていたのだが、あれはまた別の話なんだろうか。

 というわけで新アルバムの中身の話になかなかならないのだが。特に言うこともない、いつものZia節というか、触れれば壊れそうな繊細な感性をうかがわせるガラス細工のような美しいバラード熱唱がぎっしり詰まった、期待通りの良作である。

 縦長のジャケを広げると、歌詞カードに挟まれる形で油彩の絵画が収められており、おそらくは夕暮れ近くのソウルの街角が描かれている。
 重く雲の垂れ篭める大都会の夕暮れ。点滅する車のテールランプ。雨に濡れてネオンサインを映し出す路上。満員の通勤バスが通り過ぎる。灯り始める市場の明かり。 どれも、胸ふさがれるような孤独が行き交う人々の心から大気の中にふと染み出す、そんな瞬間を捉えたみたいな絵ばかりで、まさにZiaの世界そのままだ。
 歌詞訳は無理なので、曲名の日本語訳をいくつか挙げておく。

 「誰が嘘をついたの」
 「これが私の歌」
 「愛を書きます」
 「別れた最初の日」
 「24時間」

 そしてジャケに、「子供の頃、空にかかる虹を見て心が広がる想いがしたものだが、今、時は過ぎ・・・」なんて詩が引用してある。高名な詩人の作なのだろうか。

 試聴です。
  ↓
 내가 이렇지

青空、風の中、ロッキン台湾

2011-12-09 03:58:44 | アジア

 ”未來的情人”by 丁噹 (Soul Mate Della)

 台湾ロック界の女王、くらいのことは言ってもいい立場になって来てるんじゃないかと思えるディンダン嬢の、この春出た新譜であります。
 彼女のCDって、いつも大型ケース入りで、その中にはカレンダーやら写真集仕立ての歌詞カードだのが封入されている豪華さで、レコード会社の力の入れようも想像がつく。歌詞カードを見れば、映画やドラマの主題歌やコマーシャルに使われた曲が何曲も収められており、いよいよほんとに大物になってきたんだなあと溜息ついてしまいますな。

 それはおくとしても、彼女のこのビジュアルがいいですねえ。いかにもロック姉ちゃん風なビッチな風体が。髪のウェーブのかかリ具合、髪の色の色合い、ファッションの感じ、なにもかも。
 いやあ、これで彼女の声が笑っちゃうくらい嗄れていたら、もうたまらんですね。そりゃ、絶対にいい子だ。青春時代、つまりは”あの時代”に我々は、こんなタイプの子と親密な関係になれたらといつも夢想して、あのロックの時代は過ぎていったのでした。
 そして聴いてみたアルバムには、そんな私のヨコシマな事情、ジャケ買いならぬスケベ買いとでもいうんでしょうかね、そんな思いをハッシと吹っ飛ばす、ロック魂が漲っていたのでした。

 パワフルかつハスキーな声でガツンと歌い通すバラードは、どうしてもフォーク調になってしまったこれまでの台湾ポップスの流れとは一味違う、凛、と向かい風に立ち向かう揺るがぬ感性が天高く屹立するがごとくの孤高の響きあり。
 ハードなギターのコードカッティングに導かれて始まるアップテンポのナンバーも、実にタフな疾走を味あわせてくれるものであって、実に気持ちがいい。
 ともかくどの曲も、ある意味恥ずかしくなるほど真っ直ぐで真っ当なロックを彼女は歌うのだった。

 その一方、この二人を比べるのも変だけれど、あの”台湾のアムロ”といわれたアメイなんかが漂わせていた、どす黒い闇に閉ざされた夜の街を疾走する妖しい心のときめき、みたいなものは感じさせない。
 そのへんの変化球は好まず、ド真ん中の速球が、”ソウルメイト”ディンダン嬢の真骨頂なのだろう。
 なんてところに注目しながら彼女を聞いていると、これから始まる人生への期待に頬を初めながらステージを見上げている台湾の女の子たちの憧れの受け止め手なのかもしれないなあ、なんて思えてきたのだった。