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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

台湾にエロあり秘宝

2012-07-08 22:19:44 | アジア

”敗犬美魔女”by 丁國琳

 今日の台湾の歌謡ポップス、ならびに巨乳界をリードする期待の新人、ティン・クオリン女史の本年度作品であります。それにしてもすごいタイトルで。いや、意味は分からないんですがね、なんとなく字面を見ただけでもサドマゾ入り乱れている感じで、セックスシンボルたる丁女史のヤバいキャラぶりがジワと伝わってくるような気がします。

 どうやらこのアルバム、”中東っぽさ”がキイワードとなっているらしくて、冒頭のタイトルナンバーは、クールに打ち込まれるリズムに乗り、エキゾティックな歌謡メロディが歌い上げられ、それに絡むイスラミックな旋律とへんちくりんな掛け声、そのインチキくささと微妙に漂う淫猥な雰囲気、たまりませんねえ、大衆音楽の真実度、相当に高いです。
 それ以外にも、収められているゲストの男性歌手とのデュエットによる演歌にシタールが絡んでみたり、結構清楚な仕上がりの台湾らしいフォーク歌謡なんかもあるんですが、それのバックに響くサックスがアラビアっぽい旋律を吹き鳴らして妙なことになっていたりする。

 そもそもアラビアっぽいコンセプトとは言っても、彼女の巨乳キャラを活かすコンセプトをこのアルバムにおいてはそのように設定したというだけで、それほどアラビアっぽい曲が揃っているわけでもないのです。エキゾティックな装飾を剥ぎ取ってしまえば、結構台湾ポップスの王道をゆく内容であったりするのです。
 彼女のヴォーカル自体も、落ち着いて聴けば意外に清楚な響きがあり、巨乳を売りにする表向きのキャラとはまた別の素顔が潜んでいるのでは、なんて憶測も生まれてこようというものです。
 さらに、清楚っぽい素地に巨乳という彼女、実はその年齢、アラフォーくらいは行っている、という噂もあるんでして、ますます謎は深まる。いや、そのへんの怪しげな陰影も含めて芸能世界の面白さなんであって、ますます彼女に惹かれて行かざるをえない。

 アルバムを覆う、コンセプトの見かけよりは意外にあっさり味のサウンド作りは、早朝、醒めかけの夢の中で遭遇した束の間の儚い性夢の幻にも似て、ますます微妙に悩ましい面影を形成する。
 こんなことをグダグダ言いながら聴いているうちに、気が付けばすっかり美魔女のトリコとなっている、という筋書きであります。




ロハニと少女

2012-06-29 04:33:05 | アジア

 ”Kubr'ikan syukurku”by Nikita

 ロハニという音楽に惹かれてしまっている心情というもの、どう表現すれば人に理解してもらえるのか、こいつがどうにもわからないのだ。何度も文章にしようと試みてはいるが、その心情を的確に表現出来ているとは到底思えない。

 おおかたは回教国として認知されているのであろうインドネシアの、キリスト教徒たちの音楽。南の風にさらされ、インドネシア風にデフォルメされた賛美歌の世界。
 その多くはヨーロッパ白人の快感原則によって構成され、四角四面に上下する清き旋律。そいつが、本来不似合いなインドネシア語の巻き舌で発音されてしまうことの不自然、そこから生まれるスリリングな美学。

 さらにその底には遠い昔、その音楽と、その根となる宗教を、あの南の島国に運びきた南欧の国の面影がある。時の向こうで伝説として漂白されてしまい、もはや気配しか残っていない古き国の情熱の忘れ形見。
 どのみち、屈折した心根の発露としての音楽の愛好であり、退廃もいいところなのだ、歌い手は敬虔なる祈りを込めて歌っているのであろうものを。そもそもこちらはキリスト教の信者でも、もちろんないのである。

 以前、この場で、”ラブ・エターナル”なる素敵なアルバムを取り上げたことのある若きロハ二の歌い手、ニキータ嬢の、2004年度作品。
 まだこの頃の彼女は、ほんとに少女の面影そのままの初々しさをたたえた歌い手であり、今日の歌声と比べれば生硬と感じる部分などもある。が、その部分がむしろ、いたいけな少女の一途な祈りと聴く者に感じさせる切実さを醸し出しており、ますます切ない。

 ジャケ写真の初々しい横顔の清冽な美しさに、なんかロリコン魂を掻き立てられてしまいかける我が身がまことにもって面目ない、と南十字星に向かって首を垂れる日々である。(あっと、冒頭に掲げた画像は、ここで語られているアルバムのジャケではありません。それの画像がネット上に見つからなかったので、彼女の他のアルバムのものを流用しました。ご容赦)




田園行きの失われた道

2012-06-28 01:52:32 | アジア

 ”Plai Koy Kong Kwam Hug”by Tai Orrathai

 よく”タイの演歌”などと紹介される、かの国の大衆歌謡、”ルークトゥン”の女王格、ターイ・オラタイの今年度作である。モーラム集などリリースした後の新作で、一区切りつけたのちの一歩、みたいな感じなんだろうか。

 オラタイというと私は、彼女の背景に近代的(近未来的?)な高層ビル街が蜃気楼のように浮かんでいるジャケ写真や、そんな街の通りで憂いに沈むおしゃれな彼女を捉えたジャケ写真などが印象にあるので、彼女のクールな歌いっぷりとも関連付けて、そんな、洗練された都会への憧憬イメージとセットで彼女を見ていた。
 今回のこれは、それとはずいぶんニュアンスが違う。緑豊かな野原に民族衣装をつけて身を置く彼女である。手には花一輪を持ち。野の花である。なにやらゆかしすみれ草、なんて句もあった。

 これは何事ならんと聴いてみると。3曲目のなんか民話風(?)の一曲に、すっかりやられちゃったのであった。
 この、ちょっぴり甘酸っぱい懐かしさと、ちょっぴりのうら寂しさにゆらゆら揺れる曲調はなんなのだろう。アジア人どうしの共有意識、なんてものを勝手に持ち出して酔ってしまいたくなるのだが、この曲は”誰か故郷を思わざる”だよなあ。故郷の思い出の街角に響いていた、子供の頃の遊び歌の面影が、影絵のように仄かに息付いている、このメロディ。

 「僕の恋人、東京へ行っちっち」なんて歌もついでに思い出したなあ。若者たちが田舎の昔ながらの共同体を後にして、あてない夢に引きずられるまま高度成長経済へひた走る大都会を目指した昭和30年代の日本には、そんな都会志向の憧れの歌と、その背後で静かに、確実に崩壊して行く農村の姿を歌った田園調歌謡があった。
 かってオラタイのアルバムを飾っていたそびえ立つビル群もまた、同じような夢を歌っていたのだろうか。

 ともかくその3曲目のイメージ決定のまま、その後に控える曲も、帰れない、失われた田園の日々を切なく歌っている。というか、私にはもう、そのようにしか聴こえない。まあ、ジャケだって上に述べたようなものなのだから、このアルバムのテーマ、そのようなものだと想定しても、あながち間違いではないだろうと、すでに決定させてもらっているのだが。

 表現者としてのオラタイのクールな都会志向のイメージ作りが、歌手としてのキャリアの一区切りの後に、遥か後にしてきた田園への道を辿る方向に転換して行く。
 この姿勢と、タイの民衆が今日、丸ごと対峙しているある心象とは、多分、無意識に呼応しあっているのだろう。そして、その”帰り道”はおそらく、もうすでに失われてしまっている幻の田舎道である、という現実などは、この盤を覆う淡い悲しみのトーンからも明らかである。



香港ミュージカルコメディ60’

2012-06-20 03:07:22 | アジア

 ”寄塵之歌”by 寄塵

 一聴、うわあ昔の香港に、こんなにとぼけてイカした奴がいたのかよと思わずのけぞる。実在を信じるより、ワールドミュージック・ファンに一杯食わせてやろうと今日、マニアな誰かがでっち上げた音源であると言ってくれたほうが納得しやすいというものだ。
 かって香港で活躍したコメディアン兼シンガーが、60年代にリリースしたアルバムとのこと。そのダミ声と飄逸な歌いっぷりから、どうしたって我が国のエノケンなどを連想してしまうのだが。

 収められている音源も、おそらくは彼の出演映画の一場面からピックアップされたものなのだろう。歌の間に挟まるかまびすしい広東語のセリフと、デュエットのお相手の女性歌手の甲高く気取った歌いぶりなどから想像するのだが。
 ともかく彼の、その”洋楽志向”ぶりに感動すらしてしまう。このアルバムで広東語の歌詞を付けられて歌い上げられるのは、”日曜はダメよ”や”南太平洋”や”スピーディー・ゴンザレス”といった欧米のポピュラー音楽のカバーばかりなのだから。おっと、”バッテンボー”(この意味がわかる人は、年齢が知れるぞ)も入っていたな。

 その選曲の妙には、なんだかニヤリとせざるを得ないのだ。もちろん共感のあまり、ね。
 香港で封切られた欧米の映画から拾ったネタではあるのだろうが、香港の庶民相手に、コテコテのギャグ満載のミュージカルコメディなど撮っていたのだろうコメディアン寄塵の、外国の文化に寄せる憧れ、遠い目線など、思えば切ない限りなのだ。彼は何を愛し、どんな生涯を送ったのだろう。

 ところで寄塵、”スピーディ・ゴンザレス”における、ルンバのビートでC-Am-F-Gと進行する、まあロックンロールでは定番の、”ヤーヤヤヤヤヤヤヤヤー♪”ってコーラス、進行が理解できていないようで、小節を食いまくりなのが笑えるぞ。センスはあっても音楽の基礎教養はなかった人のようで、なんだかそれも愛せる気分だ。録音が他にもあるなら、聴いてみたいものだなあ。



ジナちゃん、夜に咲く

2012-06-15 00:59:08 | アジア

”Bloom”by G.NA

 かの国の次代のセクシー・ヒロインと期待を集めているとの、韓国の歌手、G.NAちゃんの先日出たばかりのアルバムであります。
 セクシー方面とは言っても、派手に爆発するセックス爆弾型ではなく、どこか線の細い影のあるタイプのようです。写真なんかも、うつ向きがちなミステリアスな表情を捉えたモノトーンが多い。このアルバムには小写真集が付いてるんですが、ほとんど笑い顔ってありません。
 でも、この種の秘めたる性の気配の陰翳こそ本来のアジア人好みって気もします。まあ、この先に続くエロ談義は別の機会に、ということで。
 そういやG.NA嬢、デビュー目前で解散の憂き目にあったアイドルグループのメンバーだったこともあり、”呪われた五人”の一人、なんて言われた過去もあったようで。無事にソロデビューも叶い、人気者となった今日では、それも笑い話ではありますが。

 で、今回のアルバムでありますが、余計な音のないキリっと締まった、なんといいますか小股の切れ上がったファンク・サウンドを聴かせてくれ、気持ちが良いですな。彼女のキャラを生かしたあくまでクール、汗臭さのないダンス・サウンドがかっこ良いです。いや、たわいのないアイドルポップと言えばそれまでなんですが、それなりの抑制の効いたモノクロっぽい黒の美学は捨てたものではないって気がします。
 また、これは冒頭の曲、”Green Light”なんかに顕著なんですが、いわゆる K-Popとして我が国の市場に売り込まれている、いくつものガール・グループたちの楽曲にも共通するようなメロディラインの癖が、ここでも見受けられるのが面白いです。
 なんかねえ、韓国の若い女の子達のおしゃべりをリズムに乗せ、メロディを付けると、あのようなものに自然になってしまうんではないか、なんて思えて来るんだが。この辺、最新流行の裏面に息付くフォークロアって感じで。

 それにしても、これは海賊盤対策でもあるんでしょうけど、東アジアポップス世界のCDジャケの懲りようって凄いものです。このジャケ、ブック型のケースとしてあるんだけれど、シャッター風に蛇腹を引き上げるとG.NA嬢の姿の見える”表紙”部分があり、中央に先に触れた小写真集があり、最後のページに、”飛び出す絵本”方式で、開くとCDがこちらの目の前に飛び出してくる小細工といい、もう、手のひらの中の遊園地か、と。
 ともかく細工を重ねた結果、このジャケは大きさも重さもハードカバーの単行本くらいのものがあります。堂々たるものだ。でもって肝心の中身は、たかが6曲入りのミニアルバムでしかない。
 この矛盾というか無意味、逆に私は惚れましたね。この大仰なバカバカしさ。楽しいじゃありませんか。まあ、聴きなれる頃には邪魔でしょうがなくなっているのかもしれないが。
 



WAXと呼ばれる女

2012-06-13 15:42:15 | アジア

 ”07(女は愛を食べて)”by Wax

 それにしても、”WAX”って芸名はどういうものだろう?なんでも歌手のマネージャー氏が日本に来た際、なにやら街頭の広告看板にこの文字が書かれているのを見、かっこいいからと、そのまま芸名にしてしまったらしいが、そういう思いつきだけの行動もいかがなものか。これがロックバンドかなんかの名前ならまあいいかも知れないが、”バラード・クィーン”と異名をとる、楚々たる女性歌手なんだからなあ。

 という訳で、現地韓国では、”女性の感性を鷲掴みにする”とか言われ、むしろ女性たちからの支持の方が多いのかもしれないバラード歌い、”WAX”女史の、2008年度作品、”07”であります。7枚目のアルバムだからと、このタイトル。どうもこの韓国音楽界のセンス、どうなんでしょうな。まあ、こうしなければならない、それなりの事情が、もしかしたらあるのかもしれないが。

 聴いてみると、お得意のバラード各曲も、その合間に置かれたアップテンポの曲も、どちらもいく分か淡い音作りの丁寧なアレンジで統一されていて、疲れなくていい。楽曲のメロディラインも、仄かなメランコリィを含んで穏やかに流れてゆく。
 またWax女史の歌い方も、韓国のこの種の歌い手に多い絶唱形とも微妙に違い、どこかスッと力を抜いた、自分に向かって語りかけるみたいなさりげなさがある。このへんの淡さ、押し付けがましさのなさみたいなものが、韓国の女性たちの共感を呼んでいるのかな、などと想像してみる。

 もうひとつ、これは私個人の感想でしかありえないんだが、Wax女史の歌声、聴きようによっては大久保佳代子に似てるようにも聴こえるんだよね。ほら、光浦なんかとオアシズってコンビを組んでる女芸人。そんなのと比べたらファンの女性に叱られるかもなあ。でも、私には似て聴こえてしまったんだから、しょうがないじゃないか。
 そして私は、そんなところにも彼女という存在の気の置けなさを感じ取って、親近感を覚えているんだから。まあこのへんは私の勝手な妄想でしかないなあ。

 それにしても。もう一度言うが、この芸名はなんとかならなかったものか。彼女について知りたいことがあって検索とかかけても、バイク好きな兄ちゃんたちの、車に使うワックス談義とか、そんなものばかりズラズラ出て来てしまったりで、気勢を削がれることおびただしい。うんざりして私、調べるのやめちゃったりしてね。

 ちなみに私が知りたかったこととは、このアルバムの8曲目に収められている、”ありがちなキムさん”なる不思議なタイトルの歌について、である。聴いてみても、特にコミックソングのようでもない。どんな歌詞内容なのだろう?何か気になるんだけどね。




ムキムキマンマンス横行す

2012-06-06 05:07:13 | アジア

 ”2012”by 무키무키만만수(ムキムキマンマンス)

 なんなんだこいつらは、と。バンド名は日本の、あのムキムキマンと関係があるのだろうか。ジャケのアルファベット表記を見ると、韓国でも発音はそのまま「ムキムキマンマンス」のようだが。
 ネットの世界をあれこれさ迷っていたら出会ってしまった音楽なのだけれど、これはもう呆れるしかないだろう。まさかと思ったけど、先日、ついに世に出てしまった彼女らのCD。商品として市場に出たのが信じられない気分だ。

 韓国の女性デュオ、というか一応楽器を演奏しているんでガールズバンドと呼んでやろうか。一人は生ギター、もう一人は、これは韓国の民族楽器なんだろうか、平置きの太鼓にシンバル一枚を組み合わせたものを奇声を上げながら叩きまくる。そんな二人の作り出す音楽がなんともユニークなのだ。

 歌われるメロディは子供遊び歌のようでもあり、御詠歌のようでもあり。それらがグニャグニャと繋がりつつ、得体のしれない固まりを形成する。
 そんなメロディを時に脱力気味の裏声で、時にヒステリックな金切り声で、二人は気ままに歌いついで行く。素っ頓狂なパーカッションと、単調なリズムを繰り出すギターを奏でながら。
 どんな歌詞内容を歌っているのか知りたいものだけど、とりあえず手に入ったタイトルの日本語訳でも書き写してみようか。
 「アンドロメダ」「2008年石串洞」「頭の大きさ」「闘争とダイエット」
 なんのこっちゃい。

 とかなんとか文句を言いつつ、いつか奇態なるこの音楽盤をつい何度も聴き返してしまっている自分に、人は気付くのである。まこと、このギザギザな世界のどこかの最先端に彼女らは今、立っている。のだろう。



女王の一枚、その他の一枚

2012-05-31 04:43:20 | アジア

 ”Elegy Nouveau”by Yang Pa

 そんなわけで。”韓国のロックな女の子たち”なるテーマが気になり出して、しばらく前からあれこれ盤をあたってみたりしているのだが、なに、そんなジャンルやら傾向やらが存在していると確信できる実態をつかんでいるでもなし、「こうだったら面白いだろな」なんて空想をしているだけである。

 たとえばこのYang Pa(ヤンパと発音するんだろうか?)などは、韓国において”女の子がロックする道”を切り開いたパイオニアのひとり、なんて話を聞いたことがある。最近も、若手のミュージシャンを”舎弟”のノリで引き連れて”姐御”の貫禄十分でレコーディングした新譜を発表したみたいだが、まあ、それも恐れ多いんで当方は、ジャケ写真の出来の良い昨年出たこの盤でも聴いておきたい。
 と、CDを回してみたんだけど、戸惑う部分も少なくなかった私なのでありました。歌は確かにうまいんだろうけど、どうも彼女、何をやりたいのかわからない。

 彼女の場合、ロックというか「韓国歌謡にR&B要素を持ち込んだ人」との評価もあるわけなんだけど、日本でそんなポジションの人といったら、もうドロドロに黒っぽい歌唱で盤一枚塗りつぶすことになる。私も実は、そんな世界を期待していた。が、この盤に限って言えば、なのかもしれなけど、どうもいろいろな要素を入れ込みすぎているんじゃないのか。
 曲により、軽いポップスっぽくなったり、突然タンゴ調が出てきたり、落ち着かないし、ゴージャスに盛り上がるバッキングにも馴染めない。それに乗せられてか時にスムーズに響きすぎる彼女の歌声も、何か屈託なさすぎて、こちらの心に引っかって来ない感じだ。

 この盤において一押しらしい2曲目の「痛い」とか、5曲目「友人」みたいに本来の粘っこい黒さの歌声が堪能できるバラードものには聴かされてしまうのであって、この傾向のものを満載してくればきっと好きな盤になっていたであろうはずなのに、残念な気がする。(”痛い”を下に貼っておくんで、お試しを。こういう曲を歌ってくれればいいのに)
 まあ、実力派がキャリアを重ねてくると、いろいろ脱線してみたくなるって事なんだろうか。

 ここで先日、紹介したレディ・ジェーン嬢のことなど思うと、右も左もわからない駆け出しの歌手が、追い込まれた末にふと自覚もなしに歌ってしまった傑作、なんてドサクサ主義のロマンに私の興味はやっぱりむいているんだなあ、などと改めて思うのでありました。




レディ・ジェーンのニッキ味ファンク

2012-05-30 00:03:05 | アジア

 ”Jane,Another Jane”by Lady Jane

 とりあえず、儒教の風吹く東アジアは韓国に人として生を受けながら、レディジェーンなんて芸名をつけられてしまったら、そりゃ「人生、まっとうに生きるべし」なんて考えの人々には、まともに取り合ってもらえない立場となるのは仕方のないところだ。ましてや、その名で初めて世に問うたのが、陰気ビート歌謡の香り馥郁たるディスコナンバーであるならば。
 もともとは清潔そうな男女デュオのユニットを組み、おしゃれなシティポップスを歌っていた彼女がソロ歌手として独立するにあたって、どのような事情があってレディジェーンを名乗り、慣れないディスコ路線を取るようになったのかよくわからないが、まあ、事務所の人が、そのほうが儲かりそうと考えたんじゃないでしょうか。

 韓国名物と言っていいんだろうが、”ミニアルバム”なるCDの形態があり、今回のこのアルバムもその形をとっている。7曲入りではあるが、そのうち3曲は一曲目から3曲目までのカラオケであり、実質4曲入り。
 こんな形態の”アルバム”が韓国においては頻繁に出されているのだが、正規の、つまり十何曲かが収められているアルバムのように歌手その世界を堪能するにはもちろん十分ではなく、前菜を味わっただけで食卓を追われたような、なんとも中途半端な気分である。
 とはいえ、いくら待ってもフルアルバムを一向にリリースせず、ミニアルバムばかりをポツポツと出し続ける歌手もかの国では少なくはなく、興味をそそられる歌手については、それらを気が向かないながらも買わざるを得なかったりする。いや、このようなアルバム形態が普通に存在する現実をまず受け入れてみる、それもまた、韓国の大衆音楽理解への道なのかもしれないなどとも思えてきたりする。

 さて、今回のこのアルバムは、問題のファンキー・チューン、”Janie”の他は、レディ・ジェーンが改名前に歌っていたようなソフトなシティ・ポップスの形態をとっており、なんともバラバラの印象だ。しかも、ソフト路線の曲のひとつはレディジェーンご本人の作詞作曲だったりし、彼女の本音としてはどちらをやりたかったんだろうな、などと勘ぐらざるを得ない。いや、やっぱりオシャレ路線がやりたかったんだろうな。今回は、無理やりなイメージチェンジを”大人の事情”で受け入れねばならなかったが。
 と、今後の展開が気になるレディジェーンなのだが、私は今回のディスコ路線、結構気に入ってるんで、このまま行ってしまえばいいのにな、などと密かに期待している。だってこのディスコ路線の”Janie”なる曲、なかなかいい塩梅な俗っぽさを放ち、見事大衆歌謡の裏街道に弾けまくっているのである。

 バックダンサーなど従え、派手なリズムで華やかに始まる”Janie”だが、その裏には伝統的な韓国演歌のうらぶれ気分がジットリ染み付いている。いくらアレンジで盛り上げてもどこかB級じみてくる、いくら洗えども拭えない貧乏くささが歌の核のあたりにでんと腰を下ろし、全てを台無しにしてしまう。
 この間合いが良い味を出している、と私は感じるのである。この駄菓子屋っぽい臭気漂う感触こそ、東アジア・ファンクの明日を占う指標の一つだ、みたいに思えてならないのである。まあ、訳のわかんないこと言ってるけど、分かって下さる方もおられるかも、と願い、記す。がんばれ、レディジェーン。



夜汽車よ台北へ

2012-05-28 01:54:38 | アジア

 ”離家出走”by 丁噹

 彼女の顔、どこかで見たことがあるんだよなあ、とか毎度思うんだけど、スピードのエリコちゃんとAKB48の高橋みなみと、最近見ないけど巨乳グラビアアイドルの根本はるみ、この三者を結ぶ線のどこかにいるんだよなあ。
 という訳で、台湾のロック・クィーン、ディンダン嬢の2007年作品であります。

 曲目を見ると、「離家出走」とか「自由」なんてタイトルが並んでるんで、これはオザキな乗りのメッセージソングでぶっ飛ばしてくるのかな、いつものディストーションかかったギターが、ンガッガッガッガッとハードなリズムを刻んでさ、とか心構えをしていたんだが(なにしろCDのパッケージには”屈強系女声新萌主”なんて書いてあるしなあ)流れ出したのは結構メロウなスローバラードだったのでした。ストリングスをバックに、自分の心に言い聞かす感じの抑制の効いたバラードを静かに歌いだす彼女に、意表を突かれたてしまった。

 へえ、そういう趣向なのかと聴いて行けば、次の曲もまた次の曲もバラードもの。結局、アップテンポのロックは2曲のみ、あとラップなんか入るミディアム・テンポのものがあるほかはすべてバラード、という意外な方向で勝負のスロー・ミュージック盤だったのであります。

 これがどういう意図なのかは知らないけれど、でも、いろいろの発見のある盤とも言えましょう。まず、ノリノリのロック姐ちゃんと思っていた彼女が、こんなに内省的な表現もまた持っていたのか、と。
 こんな具合にバラードものを歌う際、例えば同じアジアの韓国歌姫勢なら沸き上がる情感に任せて、持ち前の強靭な喉を震わせ、行くところまで行ってしまうのが常だけど、我が台湾のディンダンはむしろ抑制を効かせて聴く者を自分の世界に引き込んでしまう度量のある人だったんだ、と。

 (なんて私の言い方も、実はおかしいんだけれどね。だってこれは彼女のデビューアルバムなんだから。道理で彼女のいつもの凛とした歌いぶりに、より清新な響きがあると思った・・・そう、もともと彼女はこうだった。それから変化していった。ただ、聴く順番がこれが後回しになっていた、というあくまで私の都合。まあ、お許しを)

 ともかく。いつも忙しくしている人とじっくり話し合う機会を持てたみたいな、これからも時々引っ張り出して聴くことになりそうな一枚だった。また、アジア・ポップスの世界でこのところ気になる、”全曲バラードもの”の一つと捉えてみるのも面白いとも思えるのであります。