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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

エチオピア演歌を待ちながら

2006-06-22 01:49:44 | アフリカ


 エチオピア音楽に関しては、結局、甲斐のない期待をさせられてしまったのかなあと、妙なむずがゆさを覚える私である。というか、これはエチオピア音楽界にしてみれば勝手なインネンをつけられる、といった性質の不満であり、責任はあちらにはない。私にも多分、ないと思うのだが。

 あれはもう20年も前の話になろうか。エチオピアにも(当然)面白い音楽があるようだ、なんて情報が断片的にもたらされ始めた頃。私はそこに記された現地情報に好きものの血を大いに騒がされたものだった。いわく。

 「エチオピアの空港に降り立つと、日本人はかなりの驚きを感じるであろう。あちこちから聞こえてくる音楽が、まるで日本の演歌の如くであるからだ。何かの間違いと思いつつタクシーに乗ると、空港からホテルに至る道のりで、カーラジオから聞こえて来るのはエチオピア語の、どう聞いても日本の演歌。それどころではない、現地のカセット・ショップでは、エチオピア版の三波春夫や村田英雄の作品に出会うという、さらなる驚異が用意されているのだ」

 そんな文章だった。
 これは面白そうではないか。アジアから中東を経てきたアフリカに至る、広大なイスラム圏のコブシ音楽ベルト(?)を思えば、そのような音楽がエチオピアの地に存在すること、何も不思議ではない。

 おお。早く聴きたい。どれほどそれは日本の演歌に似ているのか。どの部分が似ていないのか。などと言っているうちにも、エチオピアの隣国、スーダンに存在する、あの河内音頭に極似した音楽が、ヨーロッパのワールドミュージック関係のレーベルから紹介される。おいおい、これはますます気になるじゃないか。

 と気ばかり焦れども、音の実物が入ってこない。ちょっと現地に行って聴いてみるというにはアフリカの地はあまりに遠し。だがまあ、それほど興味深い音楽であるならば当然、わが国にも大々的に紹介される日は来るに違いない。のんびり待とうと私決めた。というか、そうするしかなかったのであるが。

 が。月日は流れども、エチオピア演歌のわが国への紹介はなされず。つい最近になってから、エチオピア音楽の黄金時代のレコーディングがシリーズ化され紹介されているのだが、そしてそれは十分に興味深い音楽ではあるのだが、それは冒頭に紹介した音楽ライター氏によるエチオピア音楽紹介文にあった、”日本の演歌そっくり”の物件ではない。演歌に似ていると言える部分もないとはいえない音楽ではあるのだが、三波春夫ではない。村田英雄でもない。

 あの文章は何だったのかなあ。知り合いの輸入レコード店主に尋ねても、この件に関しては私といい勝負の知識量の彼であり、「なんだったんでしょうね?そんな音楽がエチオピアのどこかにまだ未紹介であるのかなあ」などと首をかしげるばかり。

 お立会い。この”演歌の国、エチオピア”に関する情報をお持ちではありませんか?お持ちでしたらご教示願えれば幸いです。しかし、いるのかなあ、ほんとに。エチオピアの三波春夫。村田英雄。あの記事を書いたライターのでっち上げだったら怒るぜしかし。20年越しで無駄な期待をさせられたんだからなあ。

 (画像は、昭和初期から高知県で”土佐名物”として売られていると言う”エチオピア饅頭”のパッケージ。銘々の理由は、寡聞にして知らない)




エチオピア・ジャズ一本勝負

2006-06-17 03:39:04 | アフリカ


 エチオピア音楽に魅せられたアメリカ人ミュージシャンによるジャズのビッグバンド、、”イーザー・オーケストラ”が2004年、現地エチオピアはアジスアベバの音楽祭に乗り込み、”本場”の人々を相手にエチオピア音楽を演奏し、一本勝負を挑んだ記録が、この2枚組のCDである。しかも、憧れの現地のミュージシャンとの競演まであり、の。

 しかし、無茶するなあと思う。私などが青春時代、ロックの世界はブルース・ブームで、「黒人でないものにブルース表現は可能か?」なんて議論があちこちでなされていたものだ。
 まあ、あの時代はともかく、何でもかんでも真実求めて角突き合わせて口論していた時代でもあったんだけど。

 それが、今度はどう考えたってブルースより馴染みの薄いエチオピア音楽が相手であり、音楽そのものにも文化総体にも、そりゃ好きな道、かなりの研究はしたんだろうけど、それにしたって遠い世界へのチャレンジではないか。

 なんて事で頭から?マークを出しているのは私くらいのものですかね。この作品についてこの方向であれこれ言っている者はいないみたいだし、CDに付いていたオーケストラのリーダー氏のエチオピア日記を読むにつけても、CDのあちこちで聞かれる客席の歓声を聴くにつけても、オーケストラの音楽はエチオピアの人々に何も問題なく歓迎されているようだ。もはや時代は、上のような私の懸念なんかすっ飛ばして次のステージに行ってしまっているのか。

 独特の演歌表現(?)が何かと話題になるエチオピア音楽だが、CD2枚目のアタマで聞ける、どう考えたって日本の民謡調演歌にしか聞こえない曲には、なんとも不思議な気分にさせられる。
 アラブ=イスラム文化を仲介とした、アジア=中東=アフリカ演歌コブシベルト地帯の存在を思えば、かの地に演歌的表現があろうと不思議ではないのだが、その一方の先端はなぜ、エチオピアという地で、ここまで日本音楽と微妙な相似形を描く事となったのか。

 その演歌魂がアフリカ的リズムの躍動を伴い、あくまでもえげつなく跳梁する様、壮絶である。また、”アメリカのジャズ中央シーン”を遠く離れたアジスアベバで、自分ではそうとは知らぬ間にジャズの最前衛にその存在を突き抜けさせていたエチオピアのサックス・ヒーロー、ゲタチュウ・メクリヤの登場など、聞く場所いっぱいの一巻。

 けど、ほんとのところ、どうなんだろうなあ?オーケストラの奏でる”エチオピア音楽”に、現地の、本場の人たちは本当に違和感は感じなかったのかなあ?




ズールー・ギター・ダンス!

2006-05-22 02:32:17 | アフリカ


 ZULU GUITAR DANSE:MASKANDA FROM SOUTH AFRICA

 初対面の”マスカンダ”なるギター中心のダンス・ミュージック。シンプルでワイルドなノリが身上らしい、なかなかに血の騒ぎを覚える音楽であります。

 南アフリカのズールー人の音楽だそうですが、ふとニュー・ロストシティ・ランブラーズなんて、アメリカの古い民謡を演奏するまるで関係のないグループを連想してしまったのは、売り物のズールー・ギターの、なんだか几帳面とも言いたいくらいのきっちり決まったプレイのせいです。

 フィンガー・ピッキングされるアコースティック・ギターが紡ぎ出すリズム・パターンは、音楽全体の素朴なグルーブからすると意外なくらい精緻な構成で、まるで教科書通りの演奏を聞かせるランブラーズのギターなど、ふと思い出してしまった次第。

 音楽の形としては、アフリカの大衆音楽の古層をなすハイライフ・ミュージックの流れを汲むものといえましょう。あの、背中をヒリヒリと炒り立てるような(妙な表現だが、ほかに言いかたを知らない、許して欲しい)ビート感覚が生きている。

 が、本場(?)西アフリカの、例えばガーナ辺りのハイライフ・バンドの、トロリと甘くレイジーな感触ではなく、ヒリヒリと舌に触る唐辛子系の硬派な乗りであり、塩辛声のボーカルの味わいと言い、これはこの音楽がハイライフから枝分れしてまだ日が浅い、若い音楽の証拠なんでしょう。

 それにしても、何度聞き返しても、やっぱり妙にきっちりしたギターで、普段はギター弾き語りのみでやっているんじゃないかなんて想像もしてしまう。それだけで十分、ダンス・ミュージックとして成り立つものなあ。
 でも、それに絡むベースギター(あ、ここでは唯一の電気楽器だ)の非常にファンキーなプレイなど聞くと、やっぱりこれもコミのサウンドなんだろうなあ、などとも思ってしまう。

 初対面で、このくらい”???”をアタマいっぱいにしている間が一番楽しいのかも知れませんね、ワールドミュージック探訪は。




アフリカの石琴

2006-05-02 03:05:04 | アフリカ

 「カビイェ族のアンサンブルと石琴(フランス盤CD・オコラ)」

 えーと、”石琴”で検索をかけても、サヌカイトとかいう古代日本の楽器のようなそうでもないようなものの記事しか出てこないなあ。そいつじゃないほう、アフリカの石琴の話をしたいんで、演奏中の写真の一つも欲しいところなんだが。

 もう20年位前になってしまうのか、中村とうよう氏が主宰された「アフリカ音楽を聴く会」でレコードを聴き、これは一本取られたなと思わされたのがリソフォン、石琴だった。
 地面に共鳴用の穴を掘り、その周りに大小の石を並べる。そいつを両手に握った、やはり石ころで叩きまくると言う”楽器”である。言ってみれば地球そのものを楽器にしてしまうのであって、その発想の豪快さに感心したのだった。

 レコードのジャケ写真の演奏風景を見せられた時には、完全にパーカッション的な展開を想像したのだけれど、意外にも豊富なメロディも聞かせてくれた。
 ガチガチとリズムを叩き出すばかりではなく、右手に握った石と左手に握った石が、それぞれ、まるでピアノの右手と左手の関係のごとく、カラフルなメロディを対応させる形で音楽を織り成している。素晴らしいものだった。

 それにしても。探してみたアフリカの石琴ではなく、日本のサヌカイトの記事や映像ばかり検索に引っかかった、その八つ当たりで言うのではないが、アフリカの石琴があんなにもダイナミックに生命のリズムを刻んで見せた、というかそもそもいまだ現役の楽器であると言うのに、わが国の石琴、なんだかパワーないじゃないか。

 神秘の楽器サヌカイトのなんのといわくありげな触れ込みで、もっともらしい顔した演奏者が現れて、”チ~ン”とか音を立てると、聴衆一同、まるで全員、悟りでも開きにかかったかのような様子でそれに聞き入る、なんて図を見ると、なんだかなあ、と。
 古代においてそのような演奏が成されていたとする根拠、別にないんでしょ?なんか、胡散臭いよなあ。

 そんな訳で、あの日聞かせてもらったアフリカの石琴を思い切り聞けるアルバムでもないものかと探しているんだけど、上に掲げたCDのように、石琴の演奏「も」聴けるものしか今のところ見つかっていなくて、残念です。

 ところで、この楽器の来日ライブとかいったら、どうなるんだろうね?日本の地面じゃ音が違う、なんていって。かといって、アフリカから地面を運んで来るわけにも行かないよねえ、それは。




コンゴ・ルンバの夜明け

2006-03-14 05:27:27 | アフリカ

 ”ORIGINALITE by FRANCO & TPOK JAZZ ”

 故・フランコこと、フランシス・ルアンボ・マキアディ Francois Luambo Makiadi と言えば、コンゴリーズ・ルンバ、日本で言うところのリンガラ音楽の開祖の一人というか巨匠、リンガラ音楽の厳父などとも呼ばれている。

 さらには、複雑にギター群やらコーラス、リズムやハーモニーが絡み合う、その音楽性のありようと”対位法”とを絡め、フランコをアフリカのバッハなどと呼ぶ人までいるようだが、そこまで行くと悪乗りのような気もする。

 これは、彼が率いるT.P.O.K.ジャズが、地元コンゴのローカルレーベルに残した初期作品復刻集。デビュー曲から50年代終わりごろまでの音源の再発との事。

 巨匠の最初期の仕事に接することが出来る訳だが、その音楽の表情はと言えば、きっちりとした構成美を誇る、完成期の彼とくらべ、なかなか人懐こいものを持っていると言えるのではあるまいか。

 まだアフリカ音楽の独自色も確立されていない時代である。アフロ・キューバン音楽やカリプソなどの影響も生のまま残るそれらは、ゆったりのんびりした下町の人気者的な気の置けない楽しさを伝えるものである。

 つい、「なんだよなんだよ、フランコの旦那、昔は結構話の分かるおにーさんだったんじゃねーか」などといいつつ、一緒に酒でも飲みに行ってしまいたくなるのだが、そうは行くものか。

 その演奏の間に差し挟まれるフランコのギター・ソロの鋭さ、完成度の高さは、今日の耳で聞いてもやはり凄い。だれかけていた背筋も思わず伸びようかと言うもので、デビュー当時からフランコはフランコだったんだなと舌を巻かずにはおれないのだった。




フジ・ミュージックが聴きたい!

2006-03-05 04:01:02 | アフリカ

 アインデ・バリスターが日本に来た際、無理やり買わされたというファックス機は、その後、どうしたのだろう。活躍する事はあったのだろうか、などとふと思う事がある。混迷の地と聞くナイジェリアに住むバリスターと今後、来日コンサートに向けて連絡を密に取らねばならないと想像した日本側スタッフが、バリスターにあちらではまるで一般的ではないファックス機材を連絡用に買わせた、なんて逸話を読んだことがあるのだ。

 ナイジェリアのイスラム系ポップスである”フジ・ミュージック”の歌手であるアインデ・バリスターが来日したのは、いつの事だったろう。彼のCDがわが国で始めて発売になった90年代初めの事だったのだろうが。来日の用件は、アルバムの発売に伴い、日本におけるコンサートを行なう、その下調べのためだったと記憶しているが、それで正しいかどうか。(そしてその日本におけるコンサートは実現しなかったのであるが)

 フジ・ミュージックは、ボーカリストのイスラム色濃い深くコブシのかかった歌声を中心に、基本的にはコーラスとパーカッションのみによる非常に重くファンキーなダンス・ミュージックである。コーラスとパーカッションのみとはいえ、20人を越える”バンド”のメンバーにより編み上げられたサウンド構成は精緻きわまるもので、その複合リズムに身をゆだねているだけで血の沸騰する思いがする。

 音楽に対するまともな感性があるかないかをチェックする素材としてもフジ・ミュージックは使用可能なのではないか。どのように音楽の知識を詰め込んでいようと、フジ・ミュージックを「土人が太鼓を叩いて歌っているだけじゃないか」などと受け取るようでは問題外である、という形で。また、感性の摩滅している人がそんな感想を漏らしそうな趣のある音楽であるのだ、フジは。

 バリスターの音楽に接したのは80年代、同じナイジェリアのジュジュ・ミュージックのスター、サニー・アデが国際的な成功を収め、その人気に便乗する形でわが国の輸入レコード店にもほんの一時的にナイジェリアの歌手たちのさまざまなレコードが溢れた際の事だった。なにやら薄汚れたジャケのレコード群から立ち昇っていた妖気を思い出せば、今も胸が躍る。
 夢のような時間!ナイジェリアの音楽を聴こうにも音盤を手に入れる手立てもない今日、あれは本当にあった出来事なのかと不思議にさえ思えてくるのだが。

 その後、バリスターの、というかフジ・ミュージックに関しては、台頭する若手のフジ・ミュージックの歌手たちとの競合やら「現地の海賊版カセットで聴けるライブの音はものすごい迫力だ」などなど、途切れ途切れの情報だけが入ってくるだけの時期を過ごし、今ではそんな情報さえ接するのは稀になってしまった。が、いまだにフジ・ミュージックへの憧憬は我が心を去らないし、同じ感情を有するのは私一人ではない。それほどまでに魅惑的な音楽なのだ、フジ・ミュージックは。

 なんとかならないか、関係業者の方々!もう一度、ナイジェリアの音楽がわが国でも聴けるようにしてくれないものか。むなしく放置されているのかもしれない彼のファックスをフル稼働させてやってくれまいか。その価値は十分ある音楽なのだ、フジ・ミュージックは。大儲けにつながるかどうかは、そりゃまた別の話ではあるのだが。


 
 

スーダンのラップを聴いて考えたこと

2005-12-27 02:52:03 | アフリカ

 ”CEASEFIRE” by Emmanuel Jal & Abdel Gadir Salim

 エジプトの南とでも国の位置関係を紹介すればいいのか、スーダンの撥ね返り系ラッパー、エマヌエル・ジャルが、かの国の伝統音楽系ベテラン・ミュージシャン、アブドゥル・カディル・サリムの作り上げた民族色濃厚なサウンドに乗ってラップした一枚。

 どれほどの裾野があるやら、レベルはどうやら?スーダンのラップ界の事情は分からないが、まあ、こういうものは最初の一枚は結構面白くなります。これまでの経験から言うとね。大きく外したものはそもそもこちらが聞けるような場に出てこないだけかもしれませんがね、もちろん。しかしラップというもの、どうも出ウケの一発芸みたいなところはありますまいか?まあ、よく知らない世界をあれこれ論ずるのはやめておくが。

 この一枚も期待にたがわず面白い出来になりました。そもそもスーダンという国が、国内にアラブ・アフリカとブラック・アフリカを抱え込んだ、なかなか興味深い国である訳で、カディル・サリムの、かの国のなんだか底なし沼みたいに得体の知れず奥深い(こちらに知識がないだけなのだが)民族色を豊かに表現したサウンドに乗って、どちらかと言えば無気力系のけだるいジャルのラップがノタノタと繰り出されてゆく様、まるでこのような音楽がスーダンには古くから存在しているのでは?と、ごく素直に信じ込まされてしまう自然な出来上がりとなっている。
 雄大なアフリカの大地やら、そこを流れるナイルの源流あたりで牛を追って生きる人々の息使いなどが悠然たるタイム感覚で描き出されて来る感じなのだ。

 こいつはなかなか傑作ではあるまいかフムフム、などと聞いていた私なのだが、さて、このような音楽が我が国において存在しうる可能性は?となると、ほとんどゼロに近いだろう。日本の伝統的な音の今日的展開って奴。

 その種の試みは、何となく成功しやすく思われるのであろう沖縄辺りを中心に数多く成されてきているわけだが、「1と1を足したのだから2になる筈なのである」みたいな無理やり納得系(?)の結果しか出ていないように思える。少なくとも私は、こいつはカッコ良いや!とシンプルに乗せられた音楽って出会ったためしがないぞ。ミュージシャンだって、この方面の成功にすっきり喜べた経験って、実はないんじゃないですかね?

 たとえば「日本人たる自分に目覚めた」ベテラン・ロッカー氏が自分のステージに、フンドシ一丁で鉢巻締めた和太鼓叩きのオニーサンを引っ張り出して、彼のたたき出す祭りのリズムとロックのサウンドとの強引な混合とか行ってしまう。で、「ああ良かった良かった、いやあ、日本人の俺の血が求めていたのは、こんなサウンドだったんだよ、いやあコンサート大成功、みんなありがとう」とか何とか言って握手して廻るんだけど、彼の心の底に一掻き、「これ、なん違くないか?ほんとに俺のやりたい事か?」みたいな違和感って、残る筈なんだ、そうならなかったら表現者としての感受性ゼロと言わざるを得ないだろう。

 いやそもそも「日本人なんだから日本的なものをやろう」なんて発想自体がすでに不自然であるのであって。その時点で負け戦は決定済みなのであって。ではどうすればいいのかって?分かりませんよ、そんなこと。解答は、あと30年くらい待ってくれるか。






ハルナ・イショラのいた日々

2005-11-29 04:48:20 | アフリカ

 それまで興味は惹かれていたがどこから食いついていいやら情報も少なく、また、気になる音楽があっても、その盤をどうやって手に入れたらいいのかも見当が付かずだったアフリカのポップスが、どうにか手の届く位置にまで近付いたのは、やはりサニー・アデが西欧の大レーベルから、レゲのボブ・マリーに続く国際的スター(候補)として売り出された、あの頃からだったろう。
 情報も徐々に入ってくるようになったし、それまではまるで見かけることもなかったアフリカ関係の輸入盤も、それなりに入手が叶うようになっていったものだった。

 あちこちの輸入盤店にナイジェリア盤が溢れるなんて、今思えば夢のような事態も、瞬間最大風速的に起こったのだなあ。あんなことがまたあればなあ(遠い目)
 そして当時私はもちろん、大喜びでその波を追いかけていたのだった。あのままの勢いで「アフリカを聴く」事が普通の行為として日本の音楽ファンに定着してくれたら素晴らしかっただろうなあ。当然ながらそうは行かなかった訳であるが。

 あの頃。レコード店の店頭で偶然かかっていて、一発で気に入ってしまったアフリカのミュージシャン、など挙げて行ったらきりが無いが、その一人がハルナ・イショラだった。ボーカルとパーカッションのみの音楽。その時点で、それがナイジェリアのアパラと呼ばれる音楽であること、私もレコード店主も、まだ知ったばかりだった。知ったと言っても、その詳細は知らず。いや、今だってよく分かっていないのは同じことだが。

 ゴンゴンと響く低音親指ピアノとスクィーズ機能のあるトーキング・ドラムが中心になって織り成すリズムがなんともファンキーで、それに乗って悠然たる調子の野太いボーカルが鳴り渡る。イスラム文化の影響が覗える、といえばその通りなのだが、まるで日本の民謡みたいに聞える瞬間もなくは無い、そのこぶしを利かせたメロディには、不思議な懐かしさがあった。ナイジェリアの、この種の音楽の通例としてアナログ盤の片面が切れ目なしに演奏される延々たるメドレー形式なのだが、ハルナ・イショラの音楽の大河の流れの如き感触には似合いの間合いと感じられた。

 こいつは良いや!と、すっかり気に入ってしまい、その場で購入。その後もハルナ・イショラの盤は、見かけるたびに必ず買っていたものだ。どれを聴いても同じようなものという気もしたが、よく聞いてみると微妙な色合いの変化が一枚一枚にあった。
 ハルナ・イショラについて詳しい事を知りたかったのだが、ナイジェリア独立前からアパラの主要歌手として歌い続けてきた事くらいしか知りえなかったし、これに関してはいまだ、あまり変わることは無い。

 ともかくその年は、レコード収集に関してはアフリカアフリカ!ことにナイジェリア!で過ぎて行ったのだった。そしてそれは、その年の暮れも押し詰まった頃だったと記憶しているのだが。
 私は深夜のテレビの臨時ニュースで、ナイジェリアにおいて軍事クーデターが起こった事を知る。ナイジェリアの国内情勢がなにやら厳しいとは聞いていたが、詳しいことは知らず(こればっかりだな、今回・・・)ほほう、そこまで状況は差し迫っていたのかと、なんとなく「襟を正す」みたいな気分になったのだった。これは、音楽どころじゃないのかなあ。困ったな、と。

 私の記憶では、それと同時に知らせがもたらされたとなっているが、そんな筈はなく、あとから記憶の再構成がなされてしまっているのだろうが、まあ、同じ年末の出来事ではあったのだろう、私はハルナ・イショラの逝去の報を受け取るのだった。
 遠くの国の音楽に興味を持って追いかけたその年の暮れ、その国が政変に見舞われた事を知り、気に入っていたミュージシャンの死去の知らせを受け取る。
 なんというか、世界が、地球が、そして人類の歴史が、一個の生き物としてビリビリ共鳴しながら廻っている、その最前線に触れたみたいな気分になった。こう書いてみると実にオーバーな話だが。

 今、私の手元に、この数年中にリリースされたハルナ・イショラの回顧盤CDが2種ある。実を言えば、手に入れただけでまだ封さえ切らず、中身は聞いていない。ハルナ・イショラの盤は何枚も持っているから、ベスト盤的ものであろうそれらの内容は聴くまでもなく分かる。ゆえにわざわざ聴くまでも無い、というのが論理的なほうの”聴かない理由”である。論理的でないほうの理由は。そうだな、まだまだナイジェリア音楽に血を騒がせた頃の記憶を記念碑の中に封じ込められたくないから、その意思表示のために、とでも言おうか。いや、ほんとに論理もクソもない理由だな、これは。自分以外の誰にも理解不能だ。

 イショラの息子、ムシリウ・ハルナ・イショラもアパラ歌手として活躍中で、なかなか聞き応えのある盤を何枚もリリースしているとのことである。その盤、聴いてみたいものだなあと思うのだが、実現するのはいつの日やら。ナイジェリア盤をコンスタントに手に入れる方法なんてないものなあ、現地にでも行かなければ。ああ、ハルナ・イショラを知った日よりも、状況は後退しているのだなあと改めて思い知らされるのだ。つまんねーよー、こんな日々。




アフリカ最強の歌手、アインラ・オモウラ!

2005-11-20 04:29:00 | アフリカ


 我が最愛のアフリカ人歌手について。ナイジェリアのアパラなる音楽の歌い手、アルハジ・アインラ・オモウラ(Alhali Ayinla Omowura)である。

 アパラという音楽の説明がなかなか難しい、というか私にもよく分かっているとは言いがたいのだが、まあ、とりあえずはっきり言えるのはナイジェリアのイスラム系の文化内から生まれた音楽である、ということか。そもそもオモウラの名の冒頭に付いている”アルハジ”は、「メッカに巡礼の経験のあるイスラム教徒」を意味する尊称であると聞く。

 イスラム世界の日常において、コーランを独特の節回しで詠唱する声など聴かれたことがあるかと思うが、あの節回しと同じような調子で歌い上げられる、語り物と解釈すれば良いのか、アフリカ版の強力にリズミカルな浪曲といった代物である。バックを担当するのは、ナイジェリア音楽につきもののトーキング・ドラムと、他の地域のそれと比べて大分低く、ゴンゴンといった感じで鳴る親指ピアノを中心にしたパーカッションばかりの、コーラスも兼任するらしい20人にも及ぶ”バンド”である。

 ともかく凄まじい迫力のオモウラの歌声と音楽なのであって、冒頭、ストトンと挨拶代わり(?)のトーキングドラムの一叩きがあり、それとともにパーカッション群が複雑に交錯しあったまま強力なスピード感でなだれ込む。と同時に、イントロもなにもあったものではない、オモウラの、歌うというよりは吼えるという表現の方が似つかわしい、鋼の喉から飛び出す、強力にうねるコブシを伴ったボーカルがもう頭から爆発する。

 どうやら基本はコール&レスポンスの形を取る音楽のような気もするのだが、オモウラの歌声もバックのコーラスも、休むことなく吼え続ける。アナログLPの片面すべてを中断することなく一息に、そのままの勢いで歌いきってしまうパワーには恐れ入るしかない。LPの片面を一気にと書いたが、何曲かがメドレーになっている構成であり、その曲のチェンジの瞬間、バンドのリズムがズム!と切り替わる瞬間などは、何度聞いても血が騒ぐ思いする。
 これほどの力強い疾走感を持って迫る音楽といえば、坂田明などがいた頃の、一番強力だった山下洋輔トリオの演奏くらいしか比べようもないだろう。

 冒頭にも書いたが、アパラなる音楽の細かい定義が、もどかしい事ながら分からない。ナイジェリアには、これもマニアが少なくないフジ・ミュージックなど、アパラと同様の構造を持ったパーカッションとボーカル中心の音楽が数多くあるようであり、それらがそれぞれどのような定義によってジャンル分けされているのか、せめて知りたく思うのであるが。

 ちなみにオモウラは、そのキャリアの絶頂期にマネージャーとギャラに関して揉め、酒の席で殴り殺されるという、これも大衆音楽のヒーローにはある意味似つかわしい(?)壮絶な人生の終え方をしている。なんとも惜しい話で、せめて彼の残したレコーディングが残らず公にされることを期待したいが、それどころか、何枚もの傑作アルバムのCD再発さえまともに進んでいる気配はなく、これもなんとも口惜しい話ではある。




東京がキンシャサだった頃

2005-11-17 03:09:39 | アフリカ

 あれはどれほど昔の出来事じゃろう、あの頃の東京はまるでキンシャサじゃった。え?知らんのか?キンシャサとは、赤道直下アフリカの、当時ザイールと言ったな、今はコンゴという国の首都じゃ。
 そこは、ブラック・アフリカ全土を制覇したと言われるコンゴ式ルンバの本家本流であって、その辺りが好きな連中には、音楽の都とも聖地とも言われておった。当時、ナイジェリアのサニー・アデの国際的成功が呼び水となってアフリカの音楽に注目が集まっていて、中でも感性の尖った連中は、コンゴ式ルンバに注目しておった。

 この音楽を日本では、誰が言い出したのじゃろう、リンガラ・ミュージックといつの間にやら呼ぶようになっておった。これは、コンゴ式ルンバがコンゴのど真ん中を横切るザイール河流域で使われる共通語、リンガラ語で歌われることが多かったのが由来のようじゃのう。
 ともかくあの頃は、東京の辻辻からリンガラ・ミュージックが聞えてきておって、それは気持ちの良いものじゃった。初めの頃は日本の音楽ファンも「アフリカのレコードはどこへ行けば売っているのだろう?」などと戸惑っていたのじゃが、そのうち輸入盤店の努力や、日本にもアフリカ音楽に力を入れるレコード会社が現れてのう。またたく間にリンガラ・ミュージックは日本を席巻したのじゃった。

 まずは「王道」のフランコ&TPOKジャズなどをオズオズと聞いていた日本のリンガラ・ファンが、当時キンシャサでいっちゃんナウかった「ルンバ・ロック」に注目するのに、たいした時間はかからなかった。
 基本的にはアフリカに里帰りしたアフロ=キューバン・ミュージックがアフリカ的洗練を経て成立したリンガラ・ミュージックじゃったが、そこに、時代柄、当然ながらロック世代の感覚を持ち込んだ連中が現れていたのじゃ。その連中がやっていたのが、ルンバ・ロック。そのカッコ良さといったらのう!

 何より注目すべきは、ロックの感性とともに彼らは、リンガラ・ミュージックに彼ら部族の伝統音楽を、「あくまでも今日的でカッコ良いもの」という視点で取り入れて行ったことじゃ。それを象徴するのが民族楽器、たとえばロコレなるスリット・ドラムの使用じゃった。また、”そのシーズンの最新流行のリズム”として彼らがキンシャサの若者たちに提示したのは、彼らの出身部族の伝統リズムがヒントとなったものだったりもしたものじゃった。

 いやあ、今思い出しても血が逆流する思いがするわい。伝統と今日の交差とともに、ロックの感性を通してアフリカの”今”と我々の”今”が直結してリズムが脈打つ、そのオンタイム感覚が嬉しかった。おうおう、ワシも何を言っておるやら、分からなくなって来おったわい。
 その動きの中心にいたのがパパ・ウェンバなる男じゃった。不思議なカリスマ性を備えた男でのう。リンガラ・ミュージックがアフリカから飛び出し、ワールドミュージックの最前線に飛び出すにあたって、貴重な一枚看板と言えた。
 また、奴は音楽とともに独特のファッション哲学も持ち合わせておった。音楽だけでなく、キンシャサの若者たちのファッション・リーダーだったのじゃな。ともかく皆は、ウェンバの新譜が海を越えてやって来ると歓喜してそれを迎え、東京の町中の若者がお洒落なディドングリッフに身を固めて、キンシャサ風に髪を刈り上げてルンバのステップを踏んだものじゃった。

 ともかく尖った連中が多かったから、面白いエピソードも生まれたのう。現地キンシャサにも何度も足を運び、リンガラの日本普及に力を入れていた、×葉は×川にあった×ャッツ・×レイと言う店の・・・自分の名前を”ジゴ・スター”などとキンシャサ風に自称していたおったのう、その男が、日本のワールド・ミュージックのヌシとも言おうか、×村×うようなる、おっかない評論家に噛み付いた、などという事件もあった。あの男はその後、どうなったかのう。

 ワシも他人事ではなかった。実は当時、結婚しようとしていた女がおったのじゃが、その彼女を西×窪にあったレコード店、×ィア・ホァナの店主、I田氏に紹介したのじゃが、しばらく経ってから、同じくレコード店を営む友人から電話がかかってきた。「お前、新婚旅行にキンシャサに行くって本当か?」「いや、そんなことは考えてもいないよ。なぜ?」「だって、旅行社の”キンシャサ・音楽ツァー”の名簿の、I田がメンバー集めた場所に、お前とお前の婚約者の名前が入ってるぜ」「ええっ?」なんて事もあったなあ。
 その後、キンシャサで悪性の伝染病が発生し、キンシャサ入りそのものが不許可になってツァー自体が潰れたのじゃが、それがなければ行っておったかのう、キンシャサに新婚旅行に。いや、それでもかまわんのじゃが、知らぬうちにツァーのメンバーに入れられてはかなわん。
 まあ、人にそれほどの無茶をさせてしまう魔性がリンガラ・ミュージックにはあった、と考えてみてもいいじゃろう。

 あのような時代は、もう来ないのう。いやいや、まだまだ日本のリンガラ・ファンは絶滅してはいないのじゃろうが、あの当時のような、東京の町中で夜通しリンガラ・ミュージック特有のキラキラしたギターの音が絶え間なく聞えていた、そんな時代はもう来ないじゃろうな。あれは本当に奇跡のような日々だったのじゃ。


 現実をご記憶の方に・言うまでもないことですが、ファンの中にはそのような気分で暮らしている者もあった、と言う話であります。事実と違うとか正気のクレームは付けないように。

 (冒頭に添付したのは、オルター・ポップより発売中のパパ・ウェンバのベストアルバム、”ムワナ・モロカイ ~his first 20 years~”のジャケット写真)