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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ピーター・スケラーンの”男性自身”

2006-09-06 04:22:20 | 60~70年代音楽


 ”Peter Skellern ”

 ピ-タ-・スケラ-ンという歌手がいる。もっと正確に言えば、主に70年代に活躍したイギリスのシンガ-・ソングライタ-。一般には単なるポップな歌手としか認識されていず、その存在、あまり重くは見られていない。(というか、まったく知られていないヒト、というべきかも知れないが)レコ-ドコレクタ-ズ誌の増刊として出された「英国ロックの深い森」なる書をひもといてみても、たった1ペ-ジを費やしての紹介文しか載っていない。

 まあ、知名度から言ってその程度で満足すべきなのかも、だが、納得できないのは、彼を語るにおいて最重要作品といえる「ホ-ルディング・マイ・オウン」について一言も言及されていない事だ。

 このアルバム、甘ったるいポップス歌手と思われがちな彼が、その「変化球ロッカ-」としての隠れた資質を全開させた隠れた名盤なのである。
 かってアナログ盤時代に「男性自身」なるタイトルで日本盤も出たこの作品、浜辺で、海水パンツを流された男が恥ずかしそうに股間を抑えるジャケットのイラストが暗示するとおりの、なんと珍しい「艶笑ロック」アルバムなのだ。

 「彼女はアスタ-であるものを失ってしまったのです。それはなにしろ若い女性にとっては大切なものでしたので、皆は大騒ぎ。それを奪ったのは彼女の家の運転手でしょうか、それとも庭番の男でしょうか?さまざまな男たちに疑いがかかりました。が、やがて彼女は思い出したのです。それを机の中に入れたまま忘れていた事を。これは、アスタ-で、あるものを無くしたと思い込んだ女の子の物語です」

 こんな、意味ありげな歌詞を持つ歌ばかりが、キンクスのマスウェル・ヒルビリ-ズや、初期のニルソンあたりを連想させるノスタルジックな、かつブラックユ-モアの雰囲気仄かに漂うサウンドを伴って歌い次がれてゆく。その、気取りすました人間社会に向けた皮肉な視線が実に痛快だ。

 このような洒落た、そして背後に「ロックの気骨」を濃厚に感じさせるアルバムを発表しているからこそ、スケラ-ンが、いくら「単なるポップ」なアルバムを連発しようと、私は彼を最後の一線で信ずる気になれるのだが・・・
 スケラ-ンのために、そしてまだ未発達の「ロックの下半身」のために(?)、「男性自身」の、詳細な日本語訳詞付きのCD化再発を強く望むものである。
 


VOXのギターが欲しかったんだ

2006-08-14 21:10:09 | 60~70年代音楽


 ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが使っていたVOX製のビワ型ギターが欲しかったのさ、シンプルにロック好きなガキだった中学から高校にかけて。
 初めて買ったレコードが、ストーンズの「黒く塗れ」のシングル盤だった。その後、”ニューロック”の嵐に洗われるまで、イギリスのビートバンドのファンとして過ごしたのだった、我が音楽ファンとしての幼年時代は。

 レコードコレクターズ誌の8月号がブライアンの特集だったので、同誌を久しぶりに買ってみたのだったが、やっぱり何を考えて生きていたのかもう一つ分からない男で、だから早死にし過ぎだってんだよ、ブライアン。ミック&キース路線で巨大ビジネスとしてのロックを邁進してしまったその後のストーンズなども思うにつけても。
 
 いや、ブライアンが生き残っていたからどうなるというものでは全然ないのだが。

 今回の特集などを読んでも、そもそもブライアンの肉声といったものもろくに残されていないと分かる。ともかく、「彼はそのとき、このように考えたのではないか」なんて推測ばかりではないか、書かれているのは。他人の記憶やら伝聞やらのフィルターをかけられた後のブライアン像。
 
 そもそも私が夢中になっていた現役時代も、曲を作っているいないの問題もあるんだろうが、ブライアンが何を考えているのか、よく分からなかったし、音楽的な主張というものも分かったような分からないような。そしてそれでも確かにストーンズには”ブライアンのいた頃の音”というのは存在している。そしてその音が、私にとっての”好きだった頃のストーンズの音”にそのまま重なる。
 
 シタールやらマリンバやらダルシマーやら不思議な楽器群を弾きこなし、モロッコの民俗音楽を”遺作”として残している事実を思えばストーンズのサイケ部門を担っていたかに見えるのだが、レココレ誌の”ベガーズ・バンケット”に関わる(そしてブライアンの、ストーンズからの解雇に関わる)記事にあたると、「ようやくストーンズが彼の志向する音楽性に戻ったにもかかわらずブライアンは」なんて書かれている。これをどう理解したらいいのか。

 どっちなんだ、ブライアン?お前はサイケでありたかったのか、デビュー当時のようにブルースを、アメリカの黒人音楽をやりたかったのか?自身のコメントが明確に残されていないだけじゃなく、今、こうして読んでみる”後世の評価”もまた、それぞれ矛盾しているようだ。

 と書いている私にしてからが、ブライアンのどこが好きだったのか、考えてみれば良く分からない。ブライアンが丸ごと自力で作った曲が残されているわけでもなし、彼の放っていた妖気のファンだったとでも言うしかない。ストーンズを夢中で聞いていた頃は、聞こえてくるギターのどれがブライアンのものかも知らなかったし、それどころか彼の得意としていたスライドギターの何たるかも分かっていなかった。

 それでも、ブライアンの突然の死をまるで契機とするかのように私はストーンズに興味を失っていったし、いや、ロックそのものの本流にも興味を失っていったのだった。そして結局、この件に関して確信を持っていえることは、ブライアンの使っていたVOX製のビワ型ギターが欲しかったなあ、あの頃。これだけだったりするのだった。




シド・バレットが亡くなったそうですね

2006-07-14 03:13:15 | 60~70年代音楽


 シド・バレット。現役で活動していた期間より”伝説”だった時間のほうが長かった人ですね。それがとうとう本当に伝説になってしまった。

 バレットやピンクフロイドの音楽にはあんまり縁のなかった私にとっての、例えばブライアン・ジョーンズみたいな存在なのかなあ。まあ、ブライアンに較べれば自己の作品も残してくれたし、忘れ去られもしなかったし、シドはいくらかマシな人でした、なんて比較も意味ないか。

 彼にしか見えなかった人生の深遠を覗き込み、それについて語ってくれた、そんな人というのが共通しているのではないかと。

 そのような人たちには”幸福な現世”とか、用意されていないんですね。一瞬の輝きを残して行ってしまう。帰ってこない。我々凡夫はただ、その後姿を見送るしかないんでしょうね。合掌。

 


”はっぴいえんど”のアンプ運びの頃

2006-05-20 02:40:11 | 60~70年代音楽


 当時、というか今でもあるんでしょうが、東京は新宿御苑の近くに御苑スタジオという音楽スタジオがあって、そこが、はっぴいえんど御用達の場所だった。音作りとかも、そこに籠もってやっていた。で、私達がバイトでやっていたのは、そのスタジオに行ってアンプ類を借りだし、車に積んでライブ会場に運び、ステ-ジに設営し、ライブが終わったらそいつを再び車に乗せ、御苑スタジオに返す、というのがメインの仕事だった。(時期的には、「風街ろまん」制作期とほぼ重なる?)まあ、ほかに細かい仕事もあったんだけど、いちばん情けないのは、大嫌いな岡林信康(注)のコンサ-トのビラ配りでしたね。まあ、それはこの場合、関係はない。

(注)私が通った高校というのが、「これから進学校に成り上がろう」との学校側の野望(その後、挫折)に沿って集められた、半端なエリ-ト意識の持ち主ばかりが通う、学生運動と反戦フォ-クの牙城とも言える所で、高校当時の私と言えば、以前書いたように、その真っ只中で落ちこぼれのロック少年を孤独にやっていたわけで、それは風当たりも強かった。当然、「学友諸君」の崇拝の対象だった岡林など、嫌悪の対象でしかなかったのであります。

 私はそのスタジオで、はっぴいえんどの新曲のリハ-サルに偶然立ち会った事がある。と言っても時間にしてほんの数分程度のものだったが。大滝詠一がスタジオとガラス1枚隔てた調整卓のある場所に座り、バンドのメンバ-というよりはディレクタ-然として、スタジオの中の3人にこまごまと指示を出していたのが印象的だった。もっとも、「大滝の曲は大滝が主導権を握る」という事だったのかもしれないが。ちなみにその「ウッドストック」調?の曲、「はっぴい」のどのアルバムにも収録されていない。没曲だったのかと思うと、もっと気を入れて聞いておけば良かったと反省したりする。

 こうして昔のことを思い出し思い出し書いていると、「あの頃、結構面白い場面に出くわしたり立ち会う機会があったのに、それに積極的にかかわりもしなかったし、きちんと記憶にとどめてもいない。惜しいことをしたなあ」と、ザンキの念に耐えない。馬鹿な私は、あの貴重な日々を「わ-いわ-い、まいにちおんがくだらけでうれしいな、わ-い!」と、浮かれ騒ぐだけで浪費してしまったのだ、振り返れば。

 数少ない「記憶にある決定的瞬間」は、例えば以下のようなものしかない。
 (はっぴいと岡林が開演前の会場で音合わせをしていたのだが、その過程でマイク&マイクスタンドが一式、足りないことが分かった。我々バイト軍団に「あれだけ取りに、もう一度スタジオに引き返すのかよ-」とウンザリ気分が走った。と、大滝詠一が岡林の抱えたフォ-クギタ-の前に置かれたマイクスタンドを掴み、「これ、いらないっスよね。これ、使いましょう」と言ったのであります。皆は、「ああ、そう言えばそうだよな、それはいらね-や、ああなるほど、それを使えばいいや、そうだそうだ」と頷いて一件は落着したのだが、「どうせ俺のギタ-は役に立ってね-よ」と怒った岡林はギタ-を投げ捨て、マイクを握って唄いだした。はっぴいえんどをバックに唄いだした頃の岡林は、初めはギタ-を抱えて歌っていたが、ある日を境にマイクのみを握って歌うようになる。そうなる瞬間を、私は目撃したのだ)
 ああ、くだらない。こんな事しか覚えていないのだ、私は。

 Y.Nさんが紹介しておられる、なぎら氏の「はっぴいは巧いバンドだった」証言と、M.Oさんのご覧になった、パッとしないはっぴい&岡林の図、必ずしも矛盾はしません。しばらく真近にいた者として証言しますが、そもそもはっぴいえんどのライブ、面白いものではありませんでした。(1曲だけ例外あり。後述)ましてや、必ずしも音楽的に近しいものがあるとは言えない岡林の、どれだけやる気を出していたか怪しいバッキング(なにしろ「これいらないっスよね」だ)ですから。

 今にして思えば彼等、「自分たちはレコ-ディング・バンドである」との自負に自縄自縛となっていたのではないか。ある程度のテクニックはありながら、それをライブでは、どう生かすか、そのすべを知らなかった。知らなくても構わないと信じていた。彼等はその結果、「ライブ」そのものを持て余し、客にどうアピ-ルすべきか分からなくなっていた様な気がする。彼等よりずっと不器用で、あれしか出来なかったのでは?と思える「初期のはちみつぱい」の演奏が、にもかかわらず妙な妖気を放っていたのとは対照的な姿だった。

 と、勝手なことを言えるのは、上で述べかけた「1曲の例外」があるから。それは、ライブに於ける「はいからはくち」という曲の存在である。当時の野音の客席には、何のスリクをやっているのか知らないが、ステ-ジの演奏とは無関係にその場に寝ころがり、自分一人のサイケデリック・ワ-ルドに入ってしまっているヒッピ-氏が、必ず何人かはいたものだが、はっぴいが「はいからはくち」を始めた途端、そんな連中が起き上がり、「イエイ!」とか喚いて踊りはじめた、なんて光景を私は一度ならず見ている。実際、妙に快調な「乗り」を、はっぴいえんどは、あの曲を演奏するときのみ、例外的に見せてくれたのだ。

 ご存じの通り「はいからはくち」は、軽佻浮薄な若者風俗を自虐的な戯画として描き出した曲である。つまり、「ロックン・ロ-ルだぜっ!」と盛り上げた後、「なんちゃって!」で済ますことの可能な曲なのである。そんな無責任性を内包する故にこの曲は、はっぴいのメンバ-を、「レコ-ディング・バンド」の自負から、つかのま解放し、彼等なりのどさくさ紛れのロック魂を炸裂させたのだ、と私は考える。また、その瞬間を何度も目撃しているからこそ、私はあえて断言するのである。「はっぴいえんどのステ-ジは、一曲の例外を除いて、面白いものではなかった」と。

 妙なこだわりを捨ててド-ンと行っちゃえば良かったのに、と言うのは今の時代の感性です。当時は、各自が自分のメンタリティを守るために、そんなこだわりに入り込んだりもせずにはいられない、トンチンカンな未踏の時代だったのだ、とでも言っておこうか。




1969年最後の酔っ払い

2006-05-06 01:44:30 | 60~70年代音楽


 「フーテンブルース」って知らねーかな。昔、何とか言う女優が歌ってたんだよ。

”な~んだ~ってどうだっていいじゃないか その日暮らしのフーテンに
 な~んで明日など あるものか~♪”

 ってんだけどね。昔って?だから60年代末期。モーニングブルースってのもあったよなあ。

”嫌だよモ~ニン 朝が来るまで タバコに巻かれて 
 お酒も醒めて寒いばかりさ
 退屈な 足を組みながら 恋なんて 
 軽いゲームのように 終わりにしたいのさ~♪”

 これも何とかって女優が歌ってたよなあ。ヒットしたのかって?しやしねーよ。いやまあ、どうだって良いんだけど、なんか歌いたい気分になってさ。勝手に歌え?いやだから、そこんところしか覚えちゃいねーのさ。

 あーあ・・・嫌だよモ~ニン♪・・・ってねえ。あれから35年も6年も経つんだよなあ。嫌だよモ~ニン♪ってねえ。うん。

 あと、あれだよな、フラワーズの「ラストチャンス」も聞かせろってんだよな。

”君の瞳を 見つめていると これが最後の
 ラストチャンス ラストチャンス♪”

 ってねえ。どうしたかねえ、麻生ルミは。



ゴールデンカップス論(夕闇の野音に消えたミッキー編)

2006-03-25 02:46:52 | 60~70年代音楽

 (前回、”ケネス伊東編”より続く)

 先日、Hさんのゴ-ルデンカップスに関する文章を読み返しながら思った。GSの時代の終焉と、それに続く野音・ニュ-ロックの時代を、ソ連の解体と新生ロシアの誕生に例えるならば、カップスはゴルバチョフだったんだなあ、と。

 カップスは、結局、Hさんが定義されるようにR&Bのバンドであり、あてがわれた「ダサいGS曲」を嫌々演じる際に最もスリリングなバンドだった。「ニュ-ロック前夜」に先頭を駆けていたバンドではあったが、ニュ-ロックのバンドそのものではなかった。
 そういった視点からカップスの曲を、今、聞きなおしてみると、いかにも重たいバンドの個性、といった感が否めない。重たいといってもヘヴィという意味ではなく、言葉は悪いが「鈍重」といったイメ-ジ。良く言えば「地道」か。70年代を生きるニュ-ロックのバンドは、もっと腰の軽さが必要だったのではないか?メンバ-中、最も「ニュ-ロックだった」のは、当然ルイズルイスだったのだが、彼がバンドの行く末に、どれほどの興味を持っていたのか、怪しいものだ。(ルイズルイスの心の中で「やる気」というものは、どのような形をしているのか、ご存じの方、ご教示ください)
 カップスにとってのニュ-ロックとは、結局「R&Bバンドの逸脱行為」以上のものには成り得ず、カップスが開いた扉からニュ-ロックの世界に入っていったのは、カップスではなく別のバンドたちであり、先頭を走っていたはずのカップスは「革命の日」に御用済みとなり、そして忘れ去られてゆく。この私にしてからが、60年代末期には、あんなに熱い思いで見上げていたカップスの事を、70年代が始まり、野音通いが始まると同時に、すっかり忘れ去っていた。

 N2FO氏の提示されたカップスのディスコグラフィ(1131)を見て、なにか物悲しい気分になるのは、カップスが71年当時発表したアルバムに、ザ・バンドを初めとするアメリカン・ロックのカバ-が収められていることだ。
 60年代末期の「ニュ-ロック前夜」には、「外国の最先鋭の曲」を見つけてきてレパ-トリ-に加える、それだけで栄光の「最先端のバンド」の座は十分、保証された。認知された。あの頃、「ウォ-キン・ブル-ス」や「モジョ・ウォ-キン」や「悪い星の元に」をレパ-トリ-に加えている、それだけでカップスは輝いてみえていた。(なにしろ「アンチェインド・メロディ」なんて曲さえ、先鋭的で恰好良く感じられた時代の話なのだ) が、71年には、もう、それでは済まなくなっていた筈だ。最先鋭のミュ-ジシャンの座は、それら外国の音楽を受け止めた後の、自分なりの回答を模索する者たちのものとなっていた。その連中の、大方の答えはトンチンカンなものだったのだが、それでも、時代の歯車は回ってしまっていたのだ。
 が、カップスは、相変わらず「この曲やるって凄いだろ!」をやっていたのだ。それは、その時代に外国曲のカヴァ-が成されなかった訳ではないが、「その時点のカップス」だからこそ、戦術的にそれはやらない方が良かった。彼らが時の流れに取り残された象徴として残されたアメリカン・ロックのレコ-ディング。
 それらの曲のレコ-ディングがなされた背景がどうなっているのか、事実関係は知らない。そもそも私はそのアルバムを聞いていないのだ。が、大方の想像は付く。

 以下2点に関して、考察中。
 1、この「答えを見つける」事と先に書いた「腰の軽さ」は大いに関係があると思うのだが。
 2、これも上に書いたが、彼らがなぜ、あてがわれたGS曲を嫌々演ずる際に、もっともスリリングだったのか?

 ここでいきなり、中断したままの野音話を再開するけれど、私は70年か71年に野音の客席で、ミッキ-吉野に出くわしたことがある。当時盛んだった
、昼過ぎに始まり、夕刻すぎまで続く、「ロックコンサ-ト」の途中だったのだが、我々がバンドチェンジ時に車座を作り、世間話に興じていたら、そこにひょっこりミッキ-が姿を現したのだ。
 やって来た方向から、彼が普通に入場料を払って、正門から入ってきたのは明らかだった。彼は地味な服装と髪形、「ミッキ-吉野である」という事実を考慮に入れなければ単なるデブ、そういうしかない姿で我々の前に姿を現した。ふと、会場をのぞいてみる気を起こした、程度のものだったのだろう。(楽屋を訪ねるのではなく、ダイレクトに客席にやって来た事実に注目)
 我々は口々に「あれ、どうしたの?」「久し振り」「また、やらないの?」などとミッキ-を囲み、まるで数年ぶりにあった同級生を前にしたような口振りで、彼を迎えた。(もちろん、我々はミッキ-の知り合いでも何でもなかった)が、彼は「うわあ、見つかっちゃったな」といったニュアンスの、照れくさそうな苦笑を浮かべ、何も語らず、夕闇の忍び寄る客席中央方向へ歩み去っていった。

 誰かが「またやらないの?」と訪ねたのを、はっきり覚えている。N2FO氏のクロニクルを見ると、ミッキ-の脱退は71年の5月となっているから、その頃の出来事か?いずれにしても、彼がカップスを離れてから、そう長い年月が流れていた訳ではないはずだ。にもかかわらず、我々はミッキ-に「本当に久し振りに会った人物」としての懐かしさをこめて声を掛けたのだ。そんな気分になったのだ、その時。

 ちなみに、ゴルバチョフたるカップスの次にエリツィンとして君臨したのは。結果論だが、そして解散後のメンバ-の活動すべてもコミで言うのだが、おそらく「はっぴいえんど」だったのであり、そしてそれは「日本のロック」にとって、あまり良い事ではなかったと、私は思う。詳細はいずれまた。





ゴールデンカップス論(ケネス伊東編)

2006-03-24 02:53:36 | 60~70年代音楽

 気まぐれですみませんが。
 以前、ある場所に”実力派グループサウンズ”として名高いゴールデンカップスに関して書き込んだ、2部に分かれる文章があるのです。そいつを思うところありましてここに再録します。本日は第1部、”ケネス伊東編”です。

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 1960年代の終わりに、日本の音楽界に忽然と巻き起こったGSブーム。あの異様な熱気をはらんだ季節を、音楽好きな、山ほど屈折を抱えた高校生として過ごしたのは、私にとって幸せだったのか、否だろうか?

 ここで、当時の音楽好き、ロック好きなオトコノコたちにとって、その中でも最もカッコ良かった、先頭を走っていた、と感じられていた、ゴールデンカップスについて書いてみたい。
 横浜の出身でメンバーのほぼ全員がハーフで、とか、何年デビュー、何年解散、ヒット曲には何が、といった資料面は出てこない。他の、もっとマメできちんとした人が、立派な資料をまとめておられるはずなので、そちらを検索願いたい。私は、私なりの切り口で彼らに付いての考察を行ってみるつもりだ。

 デビュ-直後のゴ-ルデン・カップスを、私はTVで見ている。1stアルバムのジャケで見られる、揃いの黒いベストと細いパンツの衣装で、一人一人「ハ-イ、僕は××だよ、趣味は××。よろしくね!」とか、いかにもアイドルな自己紹介をし、その後、「いとしのジザベル」を演奏、という段取りだった。と言っても、詳細は覚えていない。毎度申し訳ないが。しかしその半分は、最後に自己紹介をしたケネス伊東のせいだ。
 戸惑ったような作り笑顔を凍りつかせ、彼はこう言ったのだ。「ボクハケネス伊東デス。ボクノオトウサンハ、あめりか海軍ノ兵隊サンナンダヨ」たどたどしくそれだけ言って彼は、「こ、これで良かったのかな?」みたいな感じの不安そうな視線を宙にさまよわせた。「あ。こいつ、本当に日本語喋れないんだな」と、ちょっと私は驚き、お蔭で、他のメンバ-の「アイドル語り」がどんな具合だったか、忘れてしまったのだ。ルイズルイスあたりがこの事態にどう対処したのか、ぜひとも覚えておきたかったものではあるが。

 例の「天使はブル-スを歌う」に於けるメンバ-の証言を読むと、米兵相手にも本物の英語の歌を聞かせうるサブ・ボ-カリストとしてのケネスの存在が浮かび上がってくるのだが、ケネス自身はカップス内における自分を、どんな風にとらえていたのだろう?

 以前私は「ルイズルイスって黒いか?」などと疑問を呈してみたが、そもそもカップスって黒かったのか?今振り返ってみると彼等は、白人によって誤読された黒人音楽をさらに日本人の感覚で誤読、という二重の錯誤をした音楽をメインにやっていたバンドという気がする。その中央には醤油で黒く濁ったラ-メンの汁を指して「ブラックのフィ-リング」と言い切るデイヴ平尾がいるのだが、そんなデイブの仕切りの内側で、一人だけ白人的感覚による黒人音楽の誤読と言う、他メンバ-とは1ランク異なる錯誤に生き、一人で「裏カップス」をやっていたケネスがいる。もちろん、この「1ランク異なる」というのは、「私にはそう感じられる」というだけの話であり、彼がそうなった原因は、彼が生きていたのが英語文化支配がより強力なエリアだったから、とでも考えるしかないのだが。

 ケネスがボ-カルを取る曲で「裏カップス」は現れてくるのだが、バンド全体の個性が変化することはない。あくまでもケネス一人の裏カップス。表カップスの一部に窓の如きものが開き、裏カップスが顔を出す。演奏が終われば窓は閉じられ、幻想内幻想は消え去る。「表カップス」にケネスが落とす影は、ほとんど見当たらない。どうもケネス伊東という立場、何事かに対する「アリバイ作り」の気配がある。

 一方で「人気GS」なる日本的芸能を演じ、また一方で「本場アメリカから来た米兵にも通用する本格的R&Bバンド」なる神話を演じていたカップス。そんな彼等が内包する矛盾を、一人で地味に受け止めていたのがケネス伊東とは言えまいか。などと書くと、悲劇みたいな響きがあるが、ケネスって、何かというとバンドを抜け、また舞い戻りを繰り返して、いつの間にかハワイに帰ってしまった(行ってしまった、ではない。感じとしては)ヒトなんだよね。そして、やって来た「ニュ-ロックの時代」においては、「GS」も「R&Bバンド」も、時代後れのキイワ-ドでしかなくなってしまい、カップス自体も、時の流れに追い越されていってしまうのだが。

 カップスを聞いていると、エディ播が厚かましいギタ-・ソロ(ケネスに思い入れつつ聞いていると、そう聞こえてくる)を聞かせる際、ケネスがギタ-でバックアップ的フレ-ズをコチョコチョ奏でる局面が時々見受けられる。そんな時、私にはケネスが、初めてTVで見た時の、あの戸惑ったような顔つきで「ソレ、違ウヨ。コウダト思ウンダケドナア…」とぼやきながら、エディのアドリブに控えめな訂正の朱筆を加えている、みたいに聞こえてならないのだ。まあ、二重の錯誤、三重の錯誤って、勘違いという意味においては同じことなんだけどね。

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(次回、”第2部・夕闇の野音に消えたミッキー”に続く)




70年代に忘れ物

2006-01-30 05:40:22 | 60~70年代音楽

 ある通販レコード店の商品リストに、ちょっとしたミニコミが付録で付いているのですが、90年代のある時期、その場を借りて音楽評論まがいを連載させてもらっていました。
 その中から、95年6月発行分に掲載された私の文章を、まずはお読みください。

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 <ここに1冊の小冊子がありまして、表紙には「スモールタウン・トーク12&13号」とある。昔、あの「伝説のロック喫茶」ブラックホークで出していたものですね。

 ページを繰ると、当時の客たちが投票で選出した1978年のレコード・ベスト20が発表されてます。
 一位には「投票の50パーセントを集め」て、ザ・バンドの「ラスト・ワルツ」が鎮座ましましており・・・他に、Van MorrisonのWaveleghやSteeley Spanのlive atlast、R&L Thompsonのfirst light、それからNeil Youngのcomes a time、あたりがランクインしている、まあそんな時代だったわけですね。

 巻末の水上義憲氏の総括文に目をやりますと、「事実、『今年のレコードには面白いものがない』『なにかボルテージの高いレコードはないかな?』といった、現状に不満だらけの言葉ばかりを耳にした。そして、四月の”ラストワルツ”発売を期にもはや”諦め”の言葉となって」とか、「トラッドにはめぼしいものが見当たらなかったが」「この1~2年でその流れはすっかり途絶え」「ザ・バンドが解散したからと言って、聴かれなくなるほどの音楽じゃありません」等々、悲痛と言うか、深い喪失を感じさせる文章となっております。そういえば私も、78年当時は”いかに最近はレコードを買っていないか”を友人と自慢しあう”というヤケクソ状態にあったな。

 などと言っておりますうちに月日は流れまして・・・今日、我々は通販レコード店よりのリストなど眺めつつ、「あれが欲しいこれが欲しい、いやそれでは完全に予算オーバーだ」などとやっている訳ですが、それでは当時、水上氏が文章のうちに滲ませていた”喪失”はどこへ行ってしまったのか?克服されたのか?皆が忘れた振りをしているだけで、”それ”は失われたままなのか?それとも我々が78年以前(?)に”あった”と信じていたのものは、若気の至りの虚妄だったのか?いまどき、こんな事で頭を抱えるのは、私くらいのものですかね?>

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 ・・・以上です。「二年ほど前に書いたものの、こんな問いかけは無意味かなあ?と疑問を感じ、そのまま眠らせておいた文章だが、やはり皆に読んでもらいたくて公表する事にした」なる”ただし書き”があります。

 いまや、それなりの評価も定まったかと思える、いわゆる”70年代ロック”だけれど、我々がリアルタイムで体験したそれの、夢と挫折の実体はどのようなものだったのか、もう一度、検証し直してみませんか?そう同世代の人たちに問いかけるつもりで書いてみた文章でした。実際、なんだったのだろう、70年代前半のあの高揚と、後半の、あの失落感は?

 この文章の発表当時、”後聞き”で70年代ロックに魅せられたという、若い世代からの若干の反応はありましたが、期待した同世代の人々からの反応は皆無でした。
 だけど。と言うか、だからこそ、私はずっとこだわり続けようと思っています。