クロッカスの球根を買いに行った時、もちろんユリの球根も、
売り場で見ました。私、ユリの花がとっても好きなんです。けれど、
それの球根は大きくて、ごつごつしていて、それに単価も高くって
(一つや二つではなく、ある程度の数の球根を植えたかったので)
ちょっと手が出ないなあと、思っていました。
ユリの球根で思い出すのは、ほるぷ出版から出ているこの絵本です。
エミリー マイケル・ビダード文 バーバラ・クーニー絵 掛川恭子訳
表紙に描かれている青いコートを着た女の子は、エミリーではなく、
このお話の語り手の「わたし」です。詩人のエミリー・ディキンソンが
妹とともに住んでいる向かいの家に越してきたのです。
エミリーは近所で評判の「なぞのひと」。20年近くも家の外に出たことが
ないらしいのです。
「わたし」の家は3人家族。ピアノが上手なお母さんに、花の手入れが好きな
お父さん。エミリーがお母さんに宛てた手紙(ピアノで奏でる曲を聞かせに
来てくださいという主旨)の中に入っていた花が「ブルーベル」であることも、
それがとても、もろい花だということもお父さんは知っていました。
お母さんが、花をもっていっていいわ、と言ってくれたので、ブルーベルは
少女のものになりました。
「わたし」はお父さんと一緒に、サンルームで花に水遣りをしながら、
エミリーのことを色々尋ねます。興味しんしん‥。
「詩ってなあに?」の問いに対して、お父さんはこんなふうに答えます。
「ママがピアノをひいているのをきいていてごらん。
おなじ曲を、なんどもなんども練習しているうちに、
あるとき、ふしぎなことがおこって、その曲がいきもの
のように呼吸しはじめる。きいている人はぞくぞくっと
する。口ではうまく説明できない、ふしぎななぞだ。
それとおなじことをことばがするとき、それを詩と
いうんだよ」
お母さんが、エミリーの家にピアノを弾きに行く前の日、「わたし」は、
エミリーの家が正面に見える窓辺に、ユリの球根を一列に並べます。
元の家から木の箱に入れて持ってきた大切な球根です。少女は、かさかさで、
死んでいるように見える球根も、なかに命がひそんでいるから
春になったらぐんぐん大きくなるのだと、お父さんが話してくれたことを
ふしぎななぞだと思っています。
世の中とかかわろうとしない、人と触れ合うことを拒む、エミリーのような
人間がいることも、また少女にとっては「ふしぎななぞ」です。
ふしぎななぞが世の中にはたくさんある。
少女は、謎は謎のままとして肯定します。そしてブルーベルを貰ったように、
自分からもエミリーへ贈ることができるものをさがします。
エミリーと同じような、真っ白い服の両ポケットから少女が差し出した
ユリの球根。描かれている少女とエミリーは、こわいほどに無表情ですが、
しんとした佇まいの中から静かな喜びが、時間とともに染み出てくるのが
わかります。
やがて春になりー。
「わたし」はお父さんに手伝ってもらいながら、ユリの球根を
自分の部屋の下に植えます。高い生垣のむこうにある庭で、きっとエミリーが
球根をうめているにちがいないと、その姿を思い浮かべながら。
こうして最後までお話をたどっていくと、エミリー・ディキンソンという
孤高の詩人が実在の女性であったなら、彼女にユリの球根を贈った多感な少女も
またほんとうに居たように、私には思えてなりません。
でも、だいじなことは、どこまでが本当で、どこからが作ったお話かではなく、
どれくらいお話の中に入り込み、お話の世界に浸り、そこから感じ得たものを
胸の中の自分の場所に、しっかりと残しておく、ということだと思います。