文化財巡りシリーズの続きです。竿根田原の側の空港進入路にある「旧盛山村跡の御嶽」を見た後に、旧盛山村の人達が使ってた井戸を見ます。古地図も残っていて、この周りには他の井戸跡も見える範囲にあるし、番屋だった場所もなんとなくわかります。ただしこの辺りの景色は新空港へのアクセス道路建設のために数年後にはガラッと様変わりします。別に今のままでも問題ないのになぁ。
ちなみに盛山村と言うのは明和の大津波の後に人口の減った石垣島に人を増やそうと言う事で他の島々から移住させられた内の一つで、竹富島から最初に冨埼に移住させられその後、新空港の辺りに移動した人達の村です。こっちに来てからも3回だったか移動してます。当時のこの辺りはマラリアが蔓延るジャングルだったようで、年々村人は数を減らしていったようです。
盛山村が移動した幾つかの場所をバス車内からみて次に移動したのは「千人墓」。ここもやはり明和の大津波が関わっていて、この場所(海抜約26m)の下あたり(海抜22m位)に津波で犠牲になった方の遺体が沢山上がったと言う事で、この辺りの洞窟内に収めたと言う事です。 ただ戦時中に旧日本軍がその遺骨を全部出してどこかに運び、壕として使っていたと言う事で、その遺骨が爆撃もあったと言う事で何処にあるのかが全く分からなくなっているとの事です。 この辺りは洞窟だらけですから、その内のどこかに収められているのか、爆撃で埋もれてしまっているのか・・・。
謎の石垣の塔の上で立つ、おば様方(格好良い!)。 実際の高さはこんな感じ↓。
この石垣の塔「ビッチュムリ」は何の為に作られたか良くわかっていません。ただ上まで登るとカラ岳が見えてたと言う事で、火番岡(ヒバンムリィ、盛の字を使う時はムル、で合ってる?)に使ってたと言うのが有力な説です。 ビッチュとは「積む」と言う意味で漢字表記もあるそうです。川平のビッチュル石と同じ意味だそうですが、あれは積んでると言うより持ち上げて回してるけど、漢字表記は同じだと言う事で???です。波照間にもあるけど、あっちは隕石と言う話だし、文化財課でまたジックリ聞いてみないと駄目だな。
と言う事で今回の文化財巡りは明和の大津波に絡めて新空港や空港のアクセス道路に関わる問題などを副題として組んだようです。こう言うのがあると裏メニュー的で面白いですね。地元の方や内地の方も興味がわいた方は、教育委員会・文化財課のサイトを気にしてると前もって情報が分かりますよ。
追記
これが実際に上から見た眺めです。管制塔は分かるんですが、真ん中にある低い山がカラ岳だとすると、高い方がタキヤマかヌスクムル(ムル→森の事)になるんです。ですがそれだと直ぐ隣のタキヤマより高い、カタフタヤマが見えないとおかしい事になりますが、さらに左に視線をずらすともう於茂登岳になってしまいます。 答えを出すには地図とコンパスを持って、現地で見比べるしかないですね(笑)。