佐藤初女さんという方と、ご存知ですか?
青森で「森のイスキア」を主宰されている方です。
「森のイスキア」には、学校や会社、家庭の中で、心が傷ついた人達が多く訪れ、初女さん自らが心を込めて作る手料理で、元気を取り戻して帰っていくという所です。
自殺を考えていた人が、初女さんの握る「おむすび」を食べて、自殺を思いとどまったという話があるくらい。
私は、偶然読んでた田口ランディのエッセイの中で、初女さんの事、「森のイスキア」の事を知り、すごい衝撃を受けました
だって、おむすびで人に命を救ったなんて、どんなおむすびだったの???と、それだけで衝撃。
初女さんの生き方、「森のイスキア」の事はとても興味深く、自分自身もFOODをと身を置いているものとして、心が震える感動を覚えるとともに、反省する事もいっぱい
初女さんについて知りたい!、そう思っていた時に、たまたま『いまを生きる言葉「森のイスキア」より』に出会い、ますます初女さんに魅了されてます
初女さんは、どんな時でも「頂く」という言葉を使うそう。
決して、「食べる」とは言わない。
なぜなら、食材は「命」であって、私達人間は、その「命」を糧にして生きているから。
だから「食べる」のではなく、「頂く」のである、と。
お料理をする際にも、その素材が、一番生きるようにお料理してあげること。
ただモノとして作っていると、食事は味わうものではなく、「空腹を満たす」ものになってしまうから。
食材の命が、調理する事によって、もう一度生かされたときに、初めておいしいものができるし、その命そのものを頂く事によって、人間は元気になります。
だから、調理をする段階でも、気を配ること。
野菜も、魚も肉も、みんな「生きてる」モノだから、優しく、やさしく扱う。
野菜は力任せにザクザク切るのではなく、野菜が苦しくないように、そっと切る。
皮むき器で皮を剥くと、痛そうだから、包丁でそっと剥いてあげる。
ご飯をお茶碗によそう時も、お米が息ができるように、そっとよそう。(命を救うおむすびも然り)
そして、お料理を作るときは、慌しくふるまわないように心がけることが大切。常に意識を集中させて、食材の命と心を通わせるように。それが食材に対しても、食べて頂く方達に対しても礼儀であるし、そうでないと、人の心に響くものは、作れない、と。
そして、出来上がったお食事を頂く時に、一番心がけるのは、素材を造った人(や神様)、調理をする人に感謝をする心。その感謝の気持ちを感じることが、次に他人に何かをしてあげたい、と自然に思う気持ちに繋がると。
初女さんが当たり前にされている事は、どれも最近忘れがちの事ばかり
深く、ふかく、反省です・・・。
ガンガン皮むき器で野菜の皮を剥いていたのですが、初女さんの事を知ってからは
「あぁ~、ジャガイモさん、ごめんね。痛いでしょう・・・」と、思うようになりました。(急いでいると、ついつい皮むき器を使ってしまいます。駄目な私)
「豊食」「美食」の時代になると、また、コンビニやレトルトなんかが主流な時代になると、こういう気持ちって、忘れ去られていくんだろうか・・・、と考えると、なんだか怖くなりました。
人間って、どこまでも、おこがましいな、と。
初女さんの全てを真似する事はできなくても、こういう気持ちは、忘れずにいたいし、忘れてはならない事だと、強く思いました。
そして、初女さんの言葉で、一番心に残ったのが、「おいしいモノを頂くのではなく、おいしく頂くことが大事」という言葉。
「おいしいモノを食べたい!」というのは、人間の自然な欲求なんだと思います。
だけど、それをエスカレートに追求すると、心がどんどん離れていっちゃう。
せっかくの食卓も、不平不満でいっぱいになっちゃうし、それって本末転倒だと思う。
どんなモノでも、「おいしく頂く」。
自戒の意味も込めて、大切に心に留めたい、言葉でした
青森で「森のイスキア」を主宰されている方です。
「森のイスキア」には、学校や会社、家庭の中で、心が傷ついた人達が多く訪れ、初女さん自らが心を込めて作る手料理で、元気を取り戻して帰っていくという所です。
自殺を考えていた人が、初女さんの握る「おむすび」を食べて、自殺を思いとどまったという話があるくらい。
私は、偶然読んでた田口ランディのエッセイの中で、初女さんの事、「森のイスキア」の事を知り、すごい衝撃を受けました
だって、おむすびで人に命を救ったなんて、どんなおむすびだったの???と、それだけで衝撃。
初女さんの生き方、「森のイスキア」の事はとても興味深く、自分自身もFOODをと身を置いているものとして、心が震える感動を覚えるとともに、反省する事もいっぱい
初女さんについて知りたい!、そう思っていた時に、たまたま『いまを生きる言葉「森のイスキア」より』に出会い、ますます初女さんに魅了されてます
初女さんは、どんな時でも「頂く」という言葉を使うそう。
決して、「食べる」とは言わない。
なぜなら、食材は「命」であって、私達人間は、その「命」を糧にして生きているから。
だから「食べる」のではなく、「頂く」のである、と。
お料理をする際にも、その素材が、一番生きるようにお料理してあげること。
ただモノとして作っていると、食事は味わうものではなく、「空腹を満たす」ものになってしまうから。
食材の命が、調理する事によって、もう一度生かされたときに、初めておいしいものができるし、その命そのものを頂く事によって、人間は元気になります。
だから、調理をする段階でも、気を配ること。
野菜も、魚も肉も、みんな「生きてる」モノだから、優しく、やさしく扱う。
野菜は力任せにザクザク切るのではなく、野菜が苦しくないように、そっと切る。
皮むき器で皮を剥くと、痛そうだから、包丁でそっと剥いてあげる。
ご飯をお茶碗によそう時も、お米が息ができるように、そっとよそう。(命を救うおむすびも然り)
そして、お料理を作るときは、慌しくふるまわないように心がけることが大切。常に意識を集中させて、食材の命と心を通わせるように。それが食材に対しても、食べて頂く方達に対しても礼儀であるし、そうでないと、人の心に響くものは、作れない、と。
そして、出来上がったお食事を頂く時に、一番心がけるのは、素材を造った人(や神様)、調理をする人に感謝をする心。その感謝の気持ちを感じることが、次に他人に何かをしてあげたい、と自然に思う気持ちに繋がると。
初女さんが当たり前にされている事は、どれも最近忘れがちの事ばかり
深く、ふかく、反省です・・・。
ガンガン皮むき器で野菜の皮を剥いていたのですが、初女さんの事を知ってからは
「あぁ~、ジャガイモさん、ごめんね。痛いでしょう・・・」と、思うようになりました。(急いでいると、ついつい皮むき器を使ってしまいます。駄目な私)
「豊食」「美食」の時代になると、また、コンビニやレトルトなんかが主流な時代になると、こういう気持ちって、忘れ去られていくんだろうか・・・、と考えると、なんだか怖くなりました。
人間って、どこまでも、おこがましいな、と。
初女さんの全てを真似する事はできなくても、こういう気持ちは、忘れずにいたいし、忘れてはならない事だと、強く思いました。
そして、初女さんの言葉で、一番心に残ったのが、「おいしいモノを頂くのではなく、おいしく頂くことが大事」という言葉。
「おいしいモノを食べたい!」というのは、人間の自然な欲求なんだと思います。
だけど、それをエスカレートに追求すると、心がどんどん離れていっちゃう。
せっかくの食卓も、不平不満でいっぱいになっちゃうし、それって本末転倒だと思う。
どんなモノでも、「おいしく頂く」。
自戒の意味も込めて、大切に心に留めたい、言葉でした
そう思うことは、全然悪い事ではないと思うんだけど(自己弁護?!)、その気持ちが強いばかりに、せっかくのお食事の場を台無しにするのは、残念なことだなぁ、と思います。
自戒の意味も込めて、「おいしく頂く」は、大切にしたい言葉です
スタイリッシュで、お洒落だし、さっと火が通るので効率もよいし
要は、心がけだよね。
私は、一応お金を頂いて、お料理をお出ししているので、どうしても「仕上がり」を重視します。
時には、よりキレイに見せるために、食材に無駄が出ることもあるけど、それも割り切ってました。
だけど、初女さんの言葉に触れて、もっと大切なモノ(食材を愛しむ心とか)に、改めて気づかされました。たぶん、「食」に携わる仕事をするのであれば、
一番忘れてはいけないこと。
私の拙いお料理でよければ、いつでも食べにきて~!
大歓迎です
お写真で拝見する限り、初女さんは、本当に普通のおばあさんだけど、すごく凛とした、でも温かい生き方をされてる方だなぁ、と本を読んで感じました
みやさんは、お子様がいらっしゃるから、ぜひ時間がある時に、読んでみたらいいと思うよ。
頭の片隅に留めておくだけでも、何かが違うかも。
「森のイスキア」、一度訪れてみたいです!
初女さんにも、ぜひご健在のうちに、お会いしてみたいわ~
いつも、私が思っていたことでした。
leafちゃんのお料理、とってもおいしいから、また食べたいなっって。
だから、よけいにドキッとしました。
いつも、感謝の気持ちを忘れたらダメってことだよね~~
最近、皮むくのじゃなくて鍋の具材とかもそれでやっちゃってるよ、アタシ…。(あの、薄く、クルクルってなるとこがお気に入りでさ…)
leafちゃんのつくってくれるものは、いつもいつもびっくりする程美味しいよ~!
アタシが自殺を考えていたら間違いなく踏みとどまるね、うん。(軽い意味合いで書いてるつもりはないんだけど、えっらい軽い文章ですまん~)