聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

推古朝の国史編纂は隋への説明と欽明天皇の系譜強調のため:笹川尚紀「推古朝の修史にかんする基礎的考察」

2021年12月06日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子の事績とされるものの多くは誇張されており、疑われてきたものが多いのですが、その代表の一つが「天皇記」などの編纂です。『日本書紀』推古28年(620)の「是歳条」では、

是歳、皇太子・嶋大臣と議して、天皇記及び国記・臣連伴造国造百八十部并びに公民等の本記を録す。

とあります。この記事を検討したのが、

笹川尚紀『日本初期成立史攷』「第一章 推古朝の修史にかんする基礎的考察」
(塙書房、2016年)

です。

 この第一章の冒頭の「はじめに」は、「推古天皇の時代、厩戸皇子・蘇我馬子によって修史がおこなわれた」という文で始まっています。「~と記されている」でなく、「おこなわれた」なのですから、驚かされます。史実として扱っているのです。

 また、『日本書紀』皇極天皇四年(645)六月己酉条には、

蘇我臣蝦夷等、誅せらるるに臨み、悉く天皇記・国記・珍寶を焼く。船史尺、即ち疾く焼かるる所の国記を取り、中大兄に献じ奉る。

にあると述べています。すべて史実と見ているようです。

 笹川氏は、「前者が是歳条におかれたのは、『日本書紀』の編纂者が、それらをまとめあげるのにはある程度の期間が必要であるとする点を考慮に入れた結果となろう」と述べていますが、問題は、前者の記事は、10月に欽明天皇の
檜隈陵の上に砂礫を葺き、各氏族に土の山の上に大柱を立てさせた際、倭漢氏の坂上直の柱がとりわけ太くて高かったため、世間では「大柱の直」と呼んだという記事の後に来ていることです。

 この陵は、推古20年(612)に、蘇我稲目の娘である堅塩媛を合喪して盛大な儀礼をおこなった陵であり、いわば堅塩媛を欽明天皇の皇后とみなして、天皇と蘇我氏の関係深さを強調して蘇我氏の権力を誇示する場となっていました。

 それと関連する記事の後に、先の記事が来ているのですから、年が不明であったか、年は分かるものの月が不明であった伝承を、それと関係深い記事の後に「是の歳」として付したものと考えるのが自然ではないでしょうか。だからこそ、厩戸皇子と蘇我馬子大臣が議して編纂したという記述がしっくり来るわけです。

 もう一つ重要なのは、馬子を「嶋大臣」と呼んでいることです(笹川氏は、「島」としていますが、ここでは「嶋」の字にしておきます)。馬子を「嶋大臣」と記すのは、この箇所と、推古34年(626)に馬子が没したという記事中で、馬子は飛鳥川のかたわらに邸を建て、池を掘って中に「小嶋」を作ったため、世間では「嶋大臣」と呼んだという箇所だけです。

 池に小島を作って話題になった年は不明ですが、推古朝の早い時期であれば、記録される可能性もありますので、権勢が強まった推古朝半ばすぎあたりのように思われます。となると、「天皇記」その他の編纂も、推古20年に欽明陵に堅塩媛を改葬し、蘇我氏の伝統を強調したこととも連動していそうに思われます。

 笹川氏は、こうした点には触れず、「帝紀」「旧辞」などの編纂との関係を問題にし、先行説を検討していきます(論文半ばでこの問題をとりあげます)。そして、「臣連伴造國造百八十部并びに公民等の本記」という部分については、その前の「国記」に対する注記と見る説を疑いますが、「天皇記」については、皇統譜を中心とする「帝紀」と同類の書であったと見て良いだろうとします。

 ここで笹川氏がとりあげるのが、「西琳寺縁起」です。この縁起の天平15年(743)12月晦の日記によると、大山上の文首阿志高(あしこ)が親族をひきいて、欽明天皇のために己卯9月7日に西琳寺と阿弥陀仏像を造立したとあります。この「己卯」は「西琳寺縁起」では欽明20年(559)としていますが、笹川氏は、冠位から見て、干支を一巡繰り下げた推古27年(620)と見ます。

 そこで着目するのが、上で記した檜隈陵の記事です。この檜隈陵は、現在の山古墳と合致する可能性が高いとし、『書紀集解』によれば、大和の平尚重が明和8年(1771)のひでりの際、土地の人が池を掘るために梅山古墳の範囲内の池田という廃渠を掘ったところ、深さ数十尺のところから大きさ10囲、長さ3尺の「大柱」が出てきた由。

 「囲」というのは大人が両手でかかえられる太さのことですので、150cmほどとすると、10囲は大げさとしても、直径3~4mくらいの太い木柱が建てられた可能性はありますね。

 推古28年(620)は、欽明天皇が死去して50年になる年であり、和田萃氏は、それを記念して大柱を立てる儀礼がおこなわれたと推測し、笹川氏も賛成します。そこで笹川氏は、推古朝の修史は欽明天皇の50年忌と密接に関係していると推測します。

 そして、もう一つの要因としてあげるのが、中国におもむいた使いがなされる質問です。白雉5年(654)に高向玄理らの遣唐使は長安に到着し、髙宗に謁見しますが、役人が「日本国の地理及び国初の神の名」を尋ね、使は問われるままに答えたしており、石母田正氏は、こうしたことが契機となって神代史が形成されたのではないかと推測しています。

 笹川氏も賛同し、外交が盛んであった推古朝では、天皇記は、対外関係を強く意識して作成されたととしつつ、国内の要因として、欽明天皇50年忌をあげます。この際、欽明天皇の父方・母方の系譜に手が加えられ、皇統を一つにする作業が推進されたと推測するのです。

 そして、天皇記が焼けたとして、その修史の成果は何らかの形で伝えられ、『日本書紀』編纂の素材となったのではないか、とします。また、661年に中の大兄が百済王子の豊璋に織冠を授け、多臣の女性をめあわせているのは、九州の豪族を軍事活用するために、そうした九州と関係深い多臣の女性を選んだのであって、同祖同族関係を把握するためには、何かの記録に基づいたいたであろうとし、推古朝の「臣連伴造國造百八十部并びに公民等の本記」に基づく可能性もあるとします。

 最後の部分は推測ですが、蘇我稲目の娘を3人もめとり、その子たちが次々に天皇となった6世紀後半から7世紀初頭の時期において、国史の編纂がなされるとしたら、欽明天皇と蘇我氏の関係が強調されるのは当然であり、また隋との国交がきっかけの一つとなった可能性は確かに強いですね。
この記事についてブログを書く
« 斑鳩宮跡は現存最古の宮の遺... | トップ | 【重要】聖徳太子に関する最... »

論文・研究書紹介」カテゴリの最新記事