このブログの7月の記事(こちら)で【重要】として予告し、内容を簡単に述べてあった講演録が、学部論集の退職記念号に掲載されて刊行されました。
石井公成「聖徳太子は海東の菩薩天子たらんとしたか-「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通部分を手がかりとして-」
(『駒澤大学仏教学部論集』第52号、2021年10月)
です(PDFは、こちら)。
奥付は10月31日刊となっているものの、雑誌と抜刷ができあがって届いたのは8日であって、ひと月ほど遅れてます。コロナ禍その他の事情により、学内のリモート研究会での発表の形という形をとる結果となりましたが、コロナ感染が下火になったら最終講義代わりの公開講演をする予定になっており、その講演録という形で事前にほとんど書き、刊行日程の都合で発表前に印刷に回してあったため、「です、ます」の講演口調になっています。
内容は、ブログで予告しておいた通りであって、「憲法十七条」全体を支えているのは、大乗仏教の信者を「在家菩薩」と呼び、そうした「在家菩薩」が国王となった場合に人民になすべき教誡を説いている大乗戒経の曇無讖訳『優婆塞戒経』であり、「憲法十七条」は『勝鬘経義疏』と類似点が多いため、同一人物の作としか考えられず、その内容は遣隋使とも関連している、というものです。
学生の頃から「憲法十七条」を読んでいて不自然に思われたのは、第二条では、極悪の者は少ないので「教えれば従う」ものだとと述べておきながら、それに続けて「三宝に帰依しないでどうして曲がったこと(悪)を直すことができようか」と、矛盾した内容を述べていることでした。教えれば従うのであれば、儒教や仏教の道徳を説く内容にして教えれば良いだけのことなのに、「三宝に帰依しないで、どうして曲がったこと(悪)を直すことができようか」と強い調子で述べているのはなぜなのか。
今回、その箇所の典拠となっている『優婆塞戒経』の該当箇所を読んで、そのように書いてある理由が分かりました。古代の文章は典拠に基づいて書かれますので、典拠を明らかにしないと正しく読めないですね。
「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は、その『優婆塞戒経』のまさに同じ箇所を利用している点を初め、共通する要素が多いため、同一人物の作としか考えられません。しかも、「憲法十七条」は、『優婆塞戒経』が「在家菩薩」が国王になったら人民を教戒すべきだとして述べた徳目を説いており、菩薩国王の自覚を持っていたらしいため、「海西菩薩天子」の仲間である「海東菩薩天子」という自覚のもとにおこなわれた遣隋使と関連していたと考えられます。
「憲法十七条」第一条の「無忤」「和」「宗とする」などの語や三経義疏が、いかに隋唐以前の古くさい中国南朝仏教の影響を受けていたかも強調してあります。第二条の「極宗」の語も「無忤」と同様、六朝以前の中国古典には見えず、南朝仏教で用いられた言葉です。
ブログの予告では概要を述べただけでしたが、講演録では原文を示し、関連論文に触れつつ論じています。そのPDFを researchmapの私の「マイポータル」サイトの論文一覧のところ(こちら)に置き、また、このブログの「作者の関連講演」のコーナーからもリンクを貼っておきました。
ただ、印刷所が版下から作成したPDFはまだ届いていないため、とりあえず、抜き刷りをスキャンしてPDFにしたものをアップロードしてあります。正式なPDFが届き次第、読みやすいそちらの版に切り替えます(→16:50に正式版に切り替えました)。
結果としては、「憲法十七条」や『勝鬘経』講経や三経義疏を疑った津田左右吉説を否定したことになりましたが、講演末尾で述べているように、これらの事績の背景に最も迫っていたのは、太子礼賛派の学者たちではなく、津田であったため、改めて畏敬の念を強くした次第です。
私が学んだ早稲田の東洋哲学研究室では、開設者である津田が絶対視されており、ある先輩は、博士論文を提出する際、謝辞の部分で諸先生や諸先輩への感謝を記した後、「助手の石井公成君にもいろいろ教えてもらった」と書こうとしたものの、某先生が「石井君は津田先生のことを批判しているらしい」などと、まるで犯罪人であるかのように語っていたことを思い出してびびってしまい、石井君の名は記せなかった、と後に語ってくれました。
私は、このブログでも津田左右吉コーナーを設けてあることが示すように、津田の幅広い学風と常識にとらわれない学問姿勢を尊敬し、少しでも近づきたいと思っていろいろやって来たのであって、今回の津田説乗り越えは、学恩に対する恩返しのつもりです。
「憲法十七条」については、以後も発見があり、いろいろなことが分かってきました。一般向けの解説本と、学術的な校注本を出す予定になっていますので、今後はそちらに尽力していきます。
ただ、私は津田には及ばないものの、かなり多様な分野に手を出していて様々な仕事を抱えていますし、退職記念号に上記の聖徳太子講演と一緒に掲載された略歴・論文一覧(こちら)を改めて見直したら、聖徳太子関連論文は私の全論文の1割程度にすぎないですね。
あれこれやっている私にしか書けないだろうと思われるのは、毎月1度、トイビトのサイトでお気楽エッセイを連載している「仏教のヨコ道ウラ話」あたりか。ちなみに、今月の記事は、「乳の仏教学」です……(こちら)。